第十七話:黄金の軌道、泥の血飛沫
「――ガァァッ!」
ライラとセナが、左右から同時にレオニダスの死角へと躍り出た。
これまでの連戦で培われた、完璧な呼吸。ライラの重い湾曲剣がレオニダスの盾の裏を狙い、セナの短剣が装甲の隙間を縫う。
(――いける。この挟撃なら、いかにレオニダスと言えど、盾の一枚では防ぎきれない!)
通路の奥でマルクスが拳を握りしめ、ハンの脳内でも勝利の確率が一時的に跳ね上がった。
レオニダスは動かなかった。
黄金の重盾を正面に構えたまま、その影から、抜き放たれた東洋刀の切っ先が閃く。
(――来る! 帝国最速の突き!)
ライラもセナも、その一撃を予測していた。彼女たちはハンの教え通り、突きの直線軌道から身を逸らすべく、あらかじめ重心を外側へと逃がしていた。
だが、それがレオニダスの仕掛けた「罠」だった。
「ふん……。私が、突きしか使えぬと思ったか」
黄金の面の奥で、冷徹な声が響いた。
最速の突き。その驚異的な速度のまま、レオニダスの手首が怪異的なスナップを利かせた。
直線の突きが、突如として横への「薙ぎ払い」へと軌道を変えたのだ。
東洋刀の美しい反りが、空気を切り裂き、物理法則を嘲笑うような速度で横一文字に薙がれる。
「なっ……!?」
回避運動をとっていたライラとセナは、自らその刃の軌道へと飛び込む形になった。
肉を断つ嫌な音が二度、連続して闘技場に響き渡る。
「ああっ!」
ライラの左肩から胸元にかけて、深い一文字の傷が刻まれた。
セナもまた、脇腹を真一文字に切り裂かれ、鮮血を撒き散らしながら砂の上へと転がり落ちた。
「ライラ! セナ!」
通路のマルクスが悲鳴を上げる。
砂の上が、二人の血で赤黒く染まっていく。ライラは呻きながらも何とか膝をつき、セナは激痛に顔を歪めながら、砂を握りしめて立ち上がろうとしていた。重傷だ。戦闘継続能力は、平時の三割以下まで低下している。
ハンは、立ち尽くしていた。
(――心拍数、急上昇。視覚野の情報処理遅延。……演算エラー。データにない挙動。最速の突きをフェイントに用いるという、変則的な応用力)
ハンの脳内で、これまで積み上げてきた勝利の方程式が、音を立てて崩壊していった。
レオニダスは、ただの「事前準備の秀才」ではなかった。彼は、砂の上のカオス(泥)をその場で吸収し、リアルタイムで自分の技術を最適化する、真の「天才」だったのだ。
「これが、お前たちの言う泥の戦術か」
レオニダスが、血に濡れた東洋刀の切っ先を砂に向けたまま、静かに歩を進める。黄金の甲冑には、傷一つついていない。
「小細工だ。私の前では、あらゆる策略がただの不格好な足掻きに成り下がる。……さて、次はお前だ、シム・ハン。記録係の命の重さを、その身で測らせてもらおう」
ハンは、手首に巻いた鎖を、血の気の引いた指先でギリリと引き絞った。
視界が狭まる。恐怖が、冷たい蛇のように背筋を這い上がってくる。
これまでの敵は、ハンの想定を超えなかった。だが、レオニダスはハンの想定を遥かに超えて、その先にある「絶望」を提示してきた。
(――落ち着け。思考を止めるな。パニックは死を招く。……ライラとセナの負傷。戦闘可能人員の一時的喪失。レオニダスの攻撃パターンの再構築が必要だ)
ハンの脳が、過熱しそうになりながらも、必死に新しい数式を組み始める。
「ハン……!」
倒れたライラが、血に染まった手を伸ばした。
「逃げ……なさい……! あいつは……化け物よ……!」
セナもまた、震える声でハンを呼ぶ。
ハンは、二人を見なかった。
今、彼らを見れば、ハンの演算は「感情」に押し流され、完全に停止してしまうからだ。
「逃げない。……コストの計算は、まだ終わっていない」
ハンの声は、自分でも驚くほど冷徹で、平熱だった。
(記録:レオニダスの攻撃特性。最速の突きからの変則的な薙ぎ払い。回避予測を逆手に取るフェイント。……損傷率、ライラ四十パーセント、セナ三十五パーセント。……だが、俺は、まだ無傷だ)
ハンは、千切れかけた鎖斧を、左手から右手へと持ち替えた。
そして、砂の上に落ちていた、セナの血に濡れた短剣を、左手で拾い上げた。
「武器を拾うか。無駄な抵抗を」
レオニダスが、一歩を踏み出した。
「無駄かどうかは、これからの演算が決める」
ハンの瞳の奥に、青白い炎が再び灯った。
今度は、冷静な計算ではない。自らの血と、仲間たちの血を燃料にした、狂気的なまでの「生存への意志」だった。
黄金の男、レオニダス。
帝国最強の嫡男に対し、泥まみれの記録係が、ついに自らの命をチップにした、最後の大博打に打って出る。
(記録:第十七夜。レオニダス、第二形態へ移行。味方戦力の壊滅的被害。……ここからが、真の『泥仕合』の始まりだ)
ハンの右手の鎖が、砂塵を巻き上げて唸りを上げた。
絶望の底から、ハンの反撃の演算が、今、始まった。




