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『鉄鎖の解体者(レティアリウス)』  作者: 水前寺鯉太郎


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第二十三話:解き放たれた算譜(プログラム)

闘技場を埋め尽くす五万人の静寂は、耳が痛くなるほどに重かった。

 砂の上には、黄金の甲冑を血で汚し、糸の切れた操り人形のように横たわる現皇帝の嫡男、レオニダス。そしてその傍らに、へし折れた大剣を杖代わりに、辛うじて立っている泥まみれの記録係、シム・ハン。

 (――心拍数、百八十。アドレナリンの分泌低下に伴う、急激な疲労と激痛。視界の狭窄。……限界突破。今、レオニダスが立ち上がれば、俺の生存確率は零だ)

 ハンの脳内台帳は、限界を超えた過負荷オーバーロードで真っ赤に焼き切れていた。立っていることすら奇跡。全身の骨が軋み、肉が悲鳴を上げている。

 「……勝った、のか?」

 砂の上に倒れていたライラが、血に染まった上体を起こし、信じられないものを見る目で呟いた。

 セナが脇腹を押さえながら、マルクスが袈裟斬りにされた肩を庇いながら、這うようにしてハンの元へと集まってくる。四人は泥と血にまみれ、お互いの体温だけを確かめ合うように、無言で肩を寄せ合った。

 パチ、パチ、パチ……。

 静寂を切り裂いたのは、貴賓席からの乾いた拍手だった。

 興行主ガイウス・プリムスが、顔面を蒼白にさせながらも、引きつった笑みを浮かべて立ち上がっていた。彼の背後には、抜き身の剣を持った数百人の近衛兵が、闘技場の全出口を封鎖している。

 「素晴らしい! 地方の奴隷が、まさか帝国の神を討ち取るとはな! 歴史に残る大興行だ!」

 ガイウスの声は震えていた。怒りと、恐怖と、計算外の事態に対する、冷徹な保身の笑み。

 「だが、シム・ハン。お前たちはやりすぎた。皇帝の嫡男を殺したのだ。……生きてこの砂の上を出られると、本気で思っているのか?」

 衛兵たちが、一斉に盾を叩き、包囲網を縮めてくる。

 ライラが湾曲剣を握り直し、マルクスが折れた大剣を構えた。絶体絶命。せっかく掴み取った勝利が、権力の暴力によって、今まさに無に帰そうとしていた。


 「――そこまでにしろ、ガイウス」

 重厚な声が、闘技場に響き渡った。

 通路の奥から現れたのは、白髪の老兵フェリクスだった。彼の手には、いつの間にか抜き放たれた太刀が握られており、彼の背後には、生き残った帝都の剣闘士たちが無言で立ち並んでいた。

 「フェリクス! 貴様、何の真似だ!」

 「約束を果たすだけだ。勝負は決した。五万人の観客がその目撃者だ。ここで勝者を殺せば、帝国のシステムそのものが瓦解するぞ、ガイウス」

 フェリクスが静かに太刀の切っ先をガイウスに向けた。

 「それに、皇帝の嫡男を殺された責任を追及されるのは、この興行を企画し、毒のぶどう酒を盛り、無敗の神に泥を塗らせた……お前自身だ」

 ガイウスの顔から、完全に血の気が引いた。

 フェリクスの言う通りだった。皇帝の怒りは、ハンのような奴隷ではなく、まず監督不行き届きの興行主へと向けられる。

 「……くっ、仕方のない奴隷どもめ」

 ガイウスは、震える手で懐から一枚の羊皮紙を取り出し、砂の上へと投げ捨てた。

 「契約に基づき、お前たちを奴隷の身分から解放する! 二度と私の前に姿を現すな!」


 重い鉄の門が、ギィィ、と音を立てて開いた。

 そこから差し込むのは、闘技場の残酷な人工光ではない。どこまでも続く、果てしない地平線を照らす、本物の夕日の光だった。

 ハンは、足を引きずりながら、門へと向かった。

 ライラがハンの左肩を、マルクスがハンの右肩を支え、セナがその背中を押す。四人は、傷つき、汚れきった姿のまま、ゆっくりと夕日の中へと歩を進めていく。

 門を抜ける寸前、ハンは一度だけ振り返り、演習場の暗がりに立つフェリクスを見た。

 フェリクスは砂の上に立ち、静かに太刀を鞘へと収めた。そして、小さく頷いた。

 (――達者でな、泥の記録係)

 その無言のメッセージを、ハンは確かに脳内の台帳に記録した。


 ルドゥスの外壁を離れ、街道を進む。

 乾いた風が、四人の頬を撫でていく。

 「……本当に、自由になったのね」

 ライラが、夕日を見上げながら、深く長い息を吐いた。

 「ああ。俺たちの演算は、ついに帝国という数式を突破したんだ」

 マルクスが、晴れやかな顔で笑う。セナもまた、ハンの泥まみれの手を握りしめ、静かに微笑んでいた。

 ハンは、手首に巻かれた千切れかけの鎖を、一本ずつ解いていった。

 鉄の環が、砂の上に落ち、静かに埋もれていく。

 (――鎖の破棄。戦闘状態の解除。生存者、四名。……損傷率、修復可能。感情指数、計測不能)

 ハンの脳内の台帳に、これまで書き込まれていた「生存のための数式」が、すべて消去されていく。

 そして、真っ白になった新しい頁に、ハンは一本の筆を走らせた。

 (記録:解放の日。シム・ハン、ライラ、セナ、マルクス。……俺たちは今、生きている。……演算、永続終了)

 ハンは、もう二度と振り返らなかった。

 泥まみれの記録係の手は、いまや武器を握るためではなく、隣にいる仲間たちの温もりを確かめるために、夕日の中で、静かに未来へと伸ばされていた。

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