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『鉄鎖の解体者(レティアリウス)』  作者: 水前寺鯉太郎


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第十三話:盾の重心、鋼の言語

 第三試合。砂の上に巨躯を現したのは、帝都の重装剣闘士クラウスだった。

 (――推定全高、百九十センチ。装備は巨大な長方形の重盾スクトゥムと、肉厚な大剣グラディウス。全身を覆うのは、隙間なく組み合わされたロリカ・セグメンタタの板鎧)

 

 それは、第五話でハンたちを絶望の淵に叩き込んだ、あの黄金のレオニダスの戦術思想を最も忠実に体現した「帝国式重装歩兵」の完成形だった。

 対するマルクス・ガレノスもまた、同じ重盾と大剣を構え、砂の上に立つ。

 かつては没落貴族の誇りを胸に、この帝国式の型こそが唯一絶対の真理だと信じて疑わなかった男。

 

 「ガレノス家の三男か。落ちぶれたものだな」

 クラウスが盾の裏から、低く、重い声を発した。

 「誇り高き騎士の血筋が、地方の泥まみれの奴隷たちと群れて、何を企む。……帝都の正統な剣術の前に、その錆びた誇りごと叩き潰してやる」

 

 マルクスは、表情を変えなかった。

 かつての自分なら、その挑発に乗り、怒りとプライドを滾らせて正面からぶつかっていただろう。だが今の彼は、ハンの冷徹な「演算」を知っている。

 「誇りなど、砂の上では一文の価値もない。……今の俺が信じるのは、ただ一つ。『生き残るための計算』だけだ」

 マルクスは重盾を低く構え、重心を砂の底へと沈めた。


 審判の合図と共に、二頭の鉄獣が激突した。

 ズゥゥン! という、胃の底を揺さぶるような重低音が闘技場に響き渡る。重盾と重盾が正面からぶつかり合い、火花が散った。

 

 クラウスの膂力は圧倒的だった。

 「死ねぇ!」

 大剣が唸りを上げて振り下ろされる。マルクスは自らの盾の角度を傾け、その一撃を受け流そうとした。しかし、クラウスの斬撃は重く、鋭い。受け流しきれなかった衝撃が、マルクスの左腕の骨を軋ませる。

 

 (――強い。帝国式の型を、極限まで磨き上げている!)

 クラウスの攻めは、一分の隙もなかった。

 重盾でマルクスの視界を塞ぎ、死角から最短距離の突きを放つ。まさに、レオニダスへと繋がる「鉄壁の様式」。マルクスは防戦一方に追い込まれ、一歩、また一歩と砂を踏みしめながら後退を余儀なくされた。

 

 観客席からは、帝都の正統派剣闘士の圧倒的な力に、歓声と拍手が沸き起こる。

 「どうした、ガレノス! 逃げ回るのが地方の流儀か!」

 クラウスの大剣が、マルクスの肩鎧を浅く削り取った。鉄の破片が飛び散り、鮮血が舞う。


 (――焦るな。呼吸を整えろ。ハンの言葉を思い出せ)

 マルクスは、昨夜房の中でハンが語った言葉を、脳内で反芻していた。

 『クラウスの弱点は、その完璧な様式そのものだ。帝国式は、右手の剣を最も効率よく振るために、左足の踏み込みに重心の軸を置く。つまり、奴が右手の剣を大きく振りかぶった瞬間、左半身の防御は、数ミリ単位の重心移動に依存することになる』

 

 ハンは、かつてマルクス自身を倒したその「重心の崩し方」を、論理的な言葉に解体して彼に授けていたのだ。

 

 「これで終わりだ!」

 クラウスが勝利を確信し、大剣を大きく振りかぶった。

 その瞬間、マルクスは盾を正面上方に掲げた。

 (――来る。左足の踏み込みが、わずかに外側に流れる瞬間!)

 

 クラウスの大剣が、マルクスの重盾の頂点に激突した。

 凄まじい衝撃がマルクスの全身を駆け抜けるが、彼はそれを耐え抜いた。そして、衝撃の反動を利用するように、自らの右肩をクラウスの左盾の縁へと叩きつけたのだ。

 シールドバッシュ。

 だが、ただの体当たりではない。クラウスの左足が砂を踏みしめるベクトルを、横から強引に捻じ曲げる軌道。


 「なっ……!?」

 クラウスの巨躯が、一瞬だけ左に傾いた。

 完璧だったはずの帝国式の型が、その一瞬、砂の上の泥まみれの物理法則によって崩壊した。

 

 マルクスは、その空白の一秒を見逃さなかった。

 彼は右手に握った大剣を、下から上へと、斜めに斬り上げた。

 狙うのは、兜と胴鎧の隙間――喉元の、チェーンメイルが剥き出しになっている部分。

 

 「――うおおお!」

 マルクスの大剣が、鋼の隙間を深く裂いた。

 鮮血が噴き出し、クラウスの巨躯が、糸が切れた操り人形のように砂の上へと膝をついた。

 

 大剣が砂の上に転がり落ち、クラウスの巨躯が前のめりに倒れ込む。

 轟音。

 闘技場が、本日三度目の、信じがたい静寂に包まれた。

 

 マルクスは、肩で息をしながら、倒れたクラウスを見下ろした。

 自らの腕も血に染まり、息は絶え絶えだった。だが、彼の瞳には、かつての没落貴族の虚飾ではない、自らの意志で「泥の戦術」を掴み取った戦士の誇りが宿っていた。

 

 マルクスは剣を引き抜き、通路の暗がりに立つハンを見つめた。

 暗闇の中から、ハンが静かに頷いた。

 

 (記録:第三試合。マルクス対クラウス。勝者マルクス。……帝国式の型の解体に成功。言語化された戦術転移の有効性を実証)

 

 ハンの脳内で、また一つ勝利の関数が確定した。

 四連勝の可能性が、にわかに現実味を帯びてきたのだ。

 

 貴賓席のガイウス・プリムスは、もはや顔面を蒼白にさせ、ガタガタと震えていた。

 一方、その影に座る黄金の男レオニダスは、初めて椅子から身を乗り出し、砂の上のマルクス、そして通路の暗がりに立つハンへと、その黄金の面を向けていた。

 

 (――次は、セナの番だ。そして……俺たちの完全な演算が、あの黄金の牙城へと届く)

 

 ハンは、手首に巻いた鎖に触れた。

 冷たい鉄の環が、次の演算に向けて、静かに熱を帯び始めているのを感じていた。

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