第十一話:「黄金の真名」
フェリクスが演習場の影から姿を現したのは、ウェルス戦の熱気が冷めやらぬ深夜だった。
ハンは一人、月明かりの下で千切れた鎖を繋ぎ直していた。鉄の環を一つずつ、指先の感覚だけで繋いでいく。そこへ、砂を踏む静かな足音が近づいた。
「見事な戦いだったな、記録係」
フェリクスの声には、昼間の喧騒とは違う、真実を語る者の重みがあった。
「約束だ。ウェルスには勝った。黄金の男の正体と、その弱点を教えてもらおう」
ハンは手を止めず、顔も上げずに言った。
フェリクスは砂の上に腰を下ろし、自嘲気味な笑みを浮かべた。
「あの男の正体は……この帝国の現皇帝の嫡男だ。高貴なる血を引き、次代の玉座を約束された絶対者。名は、レオニダス」
ハンは鎖を握る手を止めた。
脳内の記録を検索する。かつて、国境の門番所で読んだ古い歴史書の一節。
「スパルタの誇り高き王と同じ名か。……皮肉だな。あちらは民のために三千の軍勢に立ち向かって死んだ英雄だ」
「ああ、名ばかりの英雄さ。今のレオニダスは、己の退屈を紛らわすために砂の上で人を殺す。皇帝は、己の息子を『無敵の象徴』に仕立て上げるため、黄金の鎧を着せてこのルドゥスに送り込んだ。周囲の剣闘士たちは、彼に勝つことを許されない。負ければ一族郎党、命はないからな。だが、奴が本当に恐ろしいのは、その血筋だけではない」
フェリクスの目が、夜の闇の中で鋭く光った。
「奴の戦い方は、帝国式の重盾と、東の国の湾曲刀を組み合わせた独自の様式だ。日本刀の原点とも呼ばれる、反りのある片刃の刀を獲物としている」
ハンは思考を巡らせた。
第七話で戦ったドゥサンの蕨手刀。あの美しい斬撃の軌道が、脳裏をよぎる。
「東の刀と、帝国の重盾か。……攻防一体の、極めて合理的な組み合わせだ」
「その通りだ。奴はまず、巨大な重盾で視界と間合いを遮断する。そして、盾の質量をそのままぶつけるシールドバッシュで、相手の体勢と呼吸を完全に止める。相手が硬直したその一瞬――盾の影から、東の刀による超高速の突きが放たれる。その突きの速度は、この帝国で一番速い」
フェリクスは砂の上に、一本の鋭い直線を引いた。
「盾で押し潰し、最速の突きで心臓を貫く。様式化された、絶対的な必殺の演算だ。奴はこれまで、その一撃だけで何百人という剣闘士を、傷一つ負わずに屠ってきた」
ハンは、フェリクスが引いた直線をじっと見つめた。
(――盾による物理的拘束、および視覚遮断。直後、最短距離を走る最速の刺突。回避行動のフレーム(時間)が存在しない、完成された殺害プログラム)
「弱点はあると言ったな」
「ある。……奴は、人生で一度も『想定外の逆境』を経験したことがない」
フェリクスは砂を握りつぶし、指の間から零れ落とした。
「周囲の奴隷たちは、彼を傷つけることを恐れ、最初から負けるために戦ってきた。だから彼は、自分の様式が完璧であり、自分が世界で最も強いと思い込んでいる。無敗の黄金。だがな、ハン。もし、その黄金のプライドに、想定外の『泥の戦術』で一筋でも傷をつけられたらどうなる?」
ハンは、フェリクスの言葉の真意を正確に理解した。
「……演算が、処理落ちする」
「そうだ。奴が今まで味わったことのない、泥沼のような泥仕合に引き摺り込む。様式を狂わせ、ルール無用の混沌を突きつける。それが、あの黄金を解体する唯一の方法だ」
ハンは立ち上がり、繋ぎ直した鎖斧を腰に差した。
(――対象、帝国の嫡男レオニダス。装備、重盾および東洋刀。特殊技能、帝国最速の突き。弱点、未経験の逆境に対する精神的脆弱性)
ハンの脳内で、新しい台帳の頁が音を立てて開いた。
恐怖はない。怒りもない。ただ、攻略すべき最高難度のデータがそこにある。それだけだった。
「礼を言う、フェリクス」
「礼には及ばん。俺はただ、面白い試合が見たいだけの老いぼれだ。……ウェルスを倒したお前のその泥まみれの手が、黄金の喉元に届く瞬間をな」
フェリクスは満足そうに笑い、闇の中へと消えていった。
翌朝、ルドゥスの房に重苦しい空気が漂っていた。
ライラ、セナ、マルクスが、それぞれの傷を確かめながらハンを待っていた。
「聞いたか、ハン」
マルクスが、包帯の巻かれた腕をさすりながら言った。
「最終試合の相手、黄金の男の正体だ。まさか、現皇帝の息子だとはな。……勝てば自由、負ければ死。だが、勝っても皇帝の怒りを買い、どのみち生きては出られないのではないか」
ライラの顔にも、これまでにない迷いがあった。
「相手のバックボーンが大きすぎるわ。あたしたちは、ただの奴隷なのよ」
ハンは三人の顔を、順番に見つめた。
ライラの迷い、セナの沈黙、マルクスの現実的な計算。それらすべてを肯定した上で、ハンは静かに言った。
「相手が高貴な血を引いていようが、黄金の鎧を着ていようが、砂の上では関係ない。斬れば血が出るし、呼吸を止めれば死ぬ。ただの、一体の生体サンプルだ」
ハンの言葉は、冷徹なまでに平熱だった。
「レオニダスの戦い方は、重盾によるシールドバッシュと、東の刀による帝国最速の突きだ。正面から受ければ、〇・五秒で心臓を貫かれる。だから、正面からは戦わない」
三人が、ハンの言葉に耳を傾ける。
「俺たちは、泥の中で戦う。奴がこれまで一度も足を踏み入れたことのない、美しくない、泥と錆と汗の世界だ。……俺が、その数式を組み上げる。お前たちは、俺の計算を信じて、己の役割を全遂しろ。死ぬ確率を、俺が極限まで下げてやる」
ハンの瞳には、微塵の揺らぎもなかった。
彼が今、台帳に記録しているのは、帝国の権力に対する畏怖ではない。
泥まみれの鎖と、鉄板の刃が、いかにして黄金の虚飾を解体するかという、絶対的な勝利の関数だった。




