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『鉄鎖の解体者(レティアリウス)』  作者: 水前寺鯉太郎


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第十話:算譜(プログラム)の火花


 闘技場を埋め尽くした五万人の観衆の声は、もはや巨大な一つの生き物の咆哮のようだった。

 砂の上には、逃げ場のない陽光が降り注いでいる。ハンの視界の端では、貴賓席に座る興行主ガイウス・プリムスが、冷ややかな笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。

 対角線上に立つのは、帝都の剣闘士ウェルス。

 彼は二本の短剣を軽やかに回しながら、獲物を品定めするような目でハンを見ていた。

 「地方の『記録係』が、運良くここまで生き残ったと聞いたが……。その鎖、随分と不格好だな」

 ウェルスの声は、観客の歓声に掻き消されることなくハンの耳に届いた。

 ハンは答えなかった。ただ、鎖斧の重みを右手に感じ、砂の沈み込みを確認する。

 (――ウェルス。身長百七十五センチ、体重七十二キロ。双剣による近接連撃に特化したビルド。フェリクスの助言によれば、右が主、左が従。連撃の終わりに、左肩がわずかに下がる癖がある)

 審判が手を振り下ろした。

 その瞬間、世界から音が消え、ハンの脳内には無数の「数式」が走り始めた。


 速い。

 ウェルスの突進は、これまでの対戦相手とは次元が違った。

 一歩の踏み込みで三メートルの距離を詰め、二本の刃がハンの喉元と脇腹を同時に襲う。

 ハンは鎖を盾のようにたわませ、刃を弾いた。

 キィィン、という耳を刺す金属音が響く。

 (――攻撃頻度、一秒間に三・五回。回避に要するエネルギー消費、予測の範囲内)

 

 ウェルスの攻撃は、止まらない。

 右の剣がハンの視界を奪い、その影から左の剣が心臓を狙う。

 ハンは砂の上を転がり、間一髪でその一突きをかわした。

 「逃げ回るだけか? 記録係!」

 ウェルスが追撃を仕掛ける。双剣が交差し、ハンの頬をかすめて鮮血が飛ぶ。

 だが、ハンはその痛みを「損傷率二パーセント」として冷静に処理した。

 (――十、十一、十二……。連撃のパターンは三種類。いずれも右腕の振りが始動。フェリクスの言った通りだ。奴は右の膂力に依存している。左の剣は、右が作った隙を埋めるための『道具』に過ぎない)

 

 ハンは、あえて自分から距離を詰めた。

 鎖斧を大きく振りかぶり、ウェルスの頭上へと叩きつける。

 「遅い!」

 ウェルスは難なくそれを双剣で受け止め、十字に交差させてハンの斧を封じた。

 これこそが双剣使いの常套手段だ。相手の武器を拘束し、その至近距離から一方的な刺突を叩き込む。


 ウェルスの右手が、ハンの腹部を突き刺そうと動き出す。

 だが、その瞬間、ハンは斧の柄を自ら手放した。

 「何っ!?」

 武器を捨てるとは、戦士にとっての自殺行為だ。

 しかし、ハンの手にはまだ「鎖」が残っていた。

 

 柄から離れた鎖の先端が、ウェルスの右腕に蛇のように絡みつく。

 ハンは全体重をかけ、その鎖を引き絞った。

 「ぐっ……!?」

 ウェルスの右腕が強引に固定される。彼は反射的に左手の剣で鎖を断ち切ろうとした。

 (――今だ)

 フェリクスが指摘した「左の甘さ」。

 右腕を封じられたパニックの中で、ウェルスの左手の動きは、精密さを失ったただの「力任せの振り」に成り下がった。

 

 ハンは、絡みついた鎖を支点に、ウェルスの懐へと踏み込んだ。

 武器はない。だが、ハンの拳には、砂の上で鍛え上げられた泥まみれの「重さ」がある。

 

 ドッ、という鈍い音が闘技場に響いた。

 ハンの肘が、ウェルスの喉元を完璧に捉えた。

 気道が潰れ、ウェルスの視界が白濁する。二本の短剣が砂の上に落ち、カランと虚しい音を立てた。


 ハンは倒れ込んだウェルスの胸の上に乗り、砂の中に落ちていた斧を拾い上げた。

 喉を押さえて悶絶する帝都の技巧派に対し、ハンの瞳には憎しみも、歓喜もなかった。

 「……計算、終了だ」

 

 ハンが斧の刃を振り上げた瞬間、場内は静まり返った。

 地方の、しかも「記録係」を自称する無名の若者が、帝都の精鋭をわずか三分の演算で「解体」したのだ。

 

 ハンは、ウェルスの喉元に刃を押し当てたまま、貴賓席を仰ぎ見た。

 そこには、立ち上がって拳を震わせるガイウスと、その影で冷然と座り続ける黄金の甲冑――「黄金の男」の姿があった。

 黄金の面の下で、その男が初めてハンを「見た」ような気がした。

 ハンは刃を引いた。

 殺さなかった。

 「……殺すコストが、報酬に見合わない」

 ハンの乾いた独り言は、観客のどよめきに飲み込まれていった。

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