3「急な呼び出し」
新キャラのルカ君視点です。
帝都の朝は、石造りの回廊を冷たく白く照らしていた。吐く息が、わずかに曇る。
第三軍団長室の扉を叩いたとき、僕の指は情けないほど強張っていた。入隊して半年、新兵が軍団長に直接呼び出されるなど、前例があるのかどうかも知らない。
「入れ」
低く乾いた声に従って扉を開く。重厚な執務机の向こうで、ヴォルザック軍団長は書類の山に半ば埋もれていた。眼窩の下には、昨日今日では済まない種類の隈が刻まれている。
「ルカだな。座れ。……いや、座るな、時間が惜しい。立ったままで聞け」
「は、はいっ!」
「前線基地『ガルダ城』で、爆破事件が起きた。被害は高位魔術師が1名、重傷だ」
軍団長は机上の紙束から1枚を抜き、指先で叩いた。
「問題は侵入経路だ。城には多数の兵が詰めている。にもかかわらず、襲撃者は誰の目にも触れず内部に入り込み、犯行の後も消えた。行方は今なおわからん」
「……城の外へ逃げた、ということは」
「ない。事件直後から、城は出入り禁止にしている。誰も出ておらんはずだ」
つまり、犯人はまだ城の中にいる。
「人族のスパイが内部に潜んでいる、というのが現時点での見立てだ」
背筋を冷たいものが這った。軍団長は表情を変えないまま、封をした厚い概要書を僕に突き出した。
「現地調査に同行しろ。お前は鼻が利くと聞いている」
「ぼ、僕がですか!? しかし、僕は調査など」
「調査の本職は別にいる。お前は――」
軍団長の視線が、僕の背後に流れた。扉が控えめに開く音がする。
「遅れて申し訳ございません」
振り返ると、そこに立っていたのは、4日前に挨拶を交わしたばかりの黒髪の先輩だった。ただし、軍服ではない。くたびれた亜麻色のシャツに、薄手の外套。どう見ても休日の町歩きの装いだった。
シロ・アスター。軍団長直属の、第三軍団でただ一人の諜報員である。
「シロ、休暇中に呼び立てたのは詫びる。事情は道々ルカから――」
「ヴォルザック様。実は私も、お話ししたいことが……」
「悪いが、こちらが優先だ」
軍団長は、シロの言葉を最後まで聞かずに遮った。切迫した状況なのだから当然だろう。シロは一拍だけ黙り、「承知いたしました」と頭を下げた。その横顔には、不満も落胆もなかった。ただ、何かを言いかけた形に口が止まっているのが、少しだけ気になった。
「経緯を言っておく。第二皇子ルキウス殿下が、こう仰った。『相手が人族のスパイなら、こちらもスパイの専門家に当たらせるべきだ』と」
その名を聞いた瞬間、室内の空気がわずかに張りつめた。共存派を率いている冷酷な策略家。皇子の発言は、提案の形をした命令である。
「そこで、シロを調査員に指名する」
「人族の、スパイ……」
シロが小さく繰り返した。
「……ほう」
ごく短い呟きだった。しかし、あの感情の起伏をほとんど見せない先輩が、確かに興味を示した。軍団長の眉間の皺が、気のせいか1本増えた。
「……頼むから、余計なことはするなよ」
「ヴォルザック様のご都合を最優先いたします」
「その返事が一番信用ならんのだ」
軍団長は低く呟き、胃のあたりを押さえた。
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シロ・アスターが長期任務から帰還したのは、4日前の朝だった。
任務の内容を、僕は知らない。僕だけではない。第三軍団の誰も知らなかった。諜報活動は秘密保持が絶対である以上、その詳細は軍内でも共有されない。それは理屈としては理解できる。
「本日付で帰還いたしました、シロ・アスターです。新兵のルカ君、でしたね。お噂はかねがね」
朝の訓練場の隅で、その人は丁寧に頭を下げた。
第一印象は、頼りない、だった。
腕は細く、肩幅も狭い。角がないせいか、魔族の群れの中では異様に輪郭が薄く見える。声は穏やかで、礼儀は非の打ちどころがない。笑みもなければ、威圧もない。強いて言えば、天気の話をするように人と向き合う人だった。
軍団長直属の諜報員というから、もっと鋭い人物を想像していた。だが目の前にいるのは、風が吹けば飛んでいきそうな、物静かな青年だ。この人が本当に、第三軍団の諜報を一手に担っているのだろうか。
ただ、少しだけ引っかかる点はあった。
「……あの、先輩? 僕の顔に何かついてますか?」
「いえ。失礼いたしました。腰の剣が、少し右に傾いておりましたので」
「えっ」
慌てて確かめると、確かに剣帯がずれていた。礼を言いかけたが、シロはもう興味を失ったように、あらぬ方向を眺めている。
親切なのか、ただの癖なのか。よくわからない人だ、と思った。
「……以上です。何かご不明な点は?」
「い、いえ! ありません!」
「では、失礼いたします。ヴォルザック様にご報告がございますので」
背筋を伸ばして去っていく後ろ姿を見送りながら、僕は小さく首を傾げた。怖い人ではなさそうだ。ただ、どうにも掴みどころがない。
その日の昼、食堂で同期たちに囲まれた。
「見たか、あれが噂の『弱み握り』だぜ」
「やめろよ、聞こえるぞ」
「いやいや、考えてもみろよ。あいつが軍団長室に入ると、必ず軍団長がげっそりした姿で出てくるんだってよ。この前もそうだったじゃないか。足取りがおぼつかなくて、胃のあたりを押さえてたぞ」
「俺も見た。あれは脅された顔だ」
「つまり、シロはヴォルザック様の弱みを握ってる、ってことか」
「そうでもなきゃ説明がつかないだろ。ろくに軍服も着ない、階級もよくわからない、何をしてるのかも誰も知らない奴が、軍団長直属で好き放題に動けるなんて」
声を潜めた先輩兵が、スープの匙を置いた。
「それにな、第三軍団の諜報部門って、もともと少人数だったろ。その部下が、全員辞めてる」
「全員!?」
「全員だ。1人残らず。今じゃ第三軍の諜報員は、あのシロただ1人。責任者も、実働も、全部あいつ。そんな組織、まともに回るか?」
「誰も一緒に働きたがらなかった、ってことか……」
「あるいは、一緒に働けなかったか、だな」
誰かがそう言ったきり、食卓は静かになった。
秘密保持のために、軍内には詳しい情報が下りてこない。その空白に、不信感が埋まっていく。
僕は、冷めたスープを啜りながら思った。
あんな頼りなさそうな人の下で働いて、部下が全員辞めたという噂の二の舞になるのは御免だ。
軍団長の弱みを握っているという話が本当なら、なおさらだ。
――よし。あの人には、極力かかわらないようにしよう。
新兵の身で、軍団長直属の人と接点を持つ機会など、そうそうあるはずもない。僕はそう決めて、残りのスープを飲み干した。
その決意が、わずか4日後に砕け散ることを、このときの僕はまだ知らない。
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飛竜の背に吹きつける風は、帝都の冷え込みとは別種の、刃のような冷たさだった。
眼下を、荒涼とした山脈が流れていく。僕は風に煽られる概要書を、両手で押さえつけた。
「ええと、事件の概要をご説明します。爆破があったのはガルダ城の1階廊下。被害者は現場に居合わせた高位魔術師1名で、重傷です。侵入経路は不明、目撃者もなし」
「ふむ」
「それと、人族側に目立った軍事行動は確認されていないそうです。城の外から攻撃があったわけではない、ということですね」
シロは手綱の脇に腰を預け、遠い稜線を見つめていた。
「人族側に動きがない……」
「はい。ですから、やはり内部に潜入した少数のスパイが――あの、聞いてますか?」
「聞いております。ルカ君の声は大変通りがよいので」
「それ、褒めてます?」
「事実を述べております」
会話にならない。
僕は、風に紛れるように、小さく息を吐いた。
――弱みを握っているとか、部下が全員辞めたとか、あんな噂を聞いた後で、よりによって初の現地調査を、この人と。
この仕事は、本当にうまくいくのだろうか。
ただ、考え込んでいるときのシロが人の話を聞いていないわけではないことは、短いやり取りでも察しがついていた。
そのとき、風の向こうに石の城塞が見えてきた。
険しい岩山の肩に食い込むようにそびえる、灰色の巨大な城。魔皇国の領土の中で、最も人間界側へ突き出した地点。それがガルダ城だ。
その城を、薄い膜が覆っていた。
シャボン玉の表面のような、淡く虹色に揺らぐ半透明の膜。陽光を受けるたび、城全体が水中に沈んだ都市のように見える。
「先輩、あれは?」
「『ガルダ城』の名物、防御結界です」
シロは、膜に目を向けたまま淡々と答えた。
「ヴェローナ魔皇国の中で人間界側に突出したこの地が、難攻不落と呼ばれる所以でございます。あれがある限り、城は外からの攻撃を受け付けません」
「あれが……」
「内側から通る分には、何の抵抗もございませんが」
飛竜が降下を始める。
膜に触れた瞬間、肌を刺していた風が一瞬だけ止み、水に潜ったような静けさが降りた。次の瞬間には、もう城の石畳が足元に迫っていた。




