それは、ひとつのあるしゅだん
春真が練習室でピアノを弾いていると、調度曲が終わるのに合わせて扉がノックされた。
「はい」
「練習熱心なのは良いけどな、そろそろ時間だぞ」
顔を見せた黄波戸の言葉に、春真はふと時計を見上げて既に21時を廻っていることに気づく。
「ありがとう。そっちこそ、今日はヒーローショーの打ち合わせはないの?」
「今日明日は他のメンバーの都合がつかなかったからな。その間に、課題の練習しとこうと思ったんだよ」
「文武両道?」
「ちょっと違わねぇか?」
口を動かしても、慣れた動作だから手は止まらない。
楽譜を鞄に入れて、ピアノを片付けると、春真は黄波戸を促した。
「そういえば、読んだか?」
「なにを?」
「紺谷が押し付けてった台本だよ」
岐路の途中で苦虫を噛み潰したように告げる黄波戸に、春真は微かに苦笑する。
「まだだよ。そういう黄波戸は、読んだみたいだね。お気に召さなかったの?」
てっきりすぐさま肯定の言葉が返ってくるとばかり思ったのに、黄波戸は断言せずに曖昧に唸った。
「黄波戸?」
「気に食わない。確かに、気に食わないところは多々あるんだけどよ」
あぁ! ったく、畜生! と苛立ったようにがりがりと髪をかいて、黄波戸は地球を蹴り飛ばす。
呆気にとられて瞬くと、その視線に気づいたらしい黄波戸が気まずそうに目を逸らした。
「出る気になったみたいだね」
「しょうがねぇだろ。ヒーローなんだよ!」
やけっぱちに叫んだ黄波戸に苦笑すると、黄波戸は小さくため息をつく。
「だけどな、あの台本のままやるのは御免だぞ。紅野、紺谷に修正案を突き付けるから協力しろ」
「取り敢えず、帰って読んでみるけど。そんなに嫌なシーンがあったの?」
「色仕掛け」
「え?」
「相手を騙すような色仕掛けに出る必要性は、これっぽっちもないだろ!」
全く状況のつかめない台詞と、その黄波戸の妙に真剣な表情がツボに入って、春真は何故だか笑えてしまった。
「笑うなよ!」
「ごめんごめん」
笑いを収めた春真は、少し先を歩く黄波戸の背中に、ふと気になったことを口にする。
「黄波戸はさ、相手を騙すのが嫌なの? それとも色仕掛けに出てるのが?」
「はぁ? 両方だろ。正々堂々正面切って闘うのが筋だ。お前は違うのかよ、紅野」
僅かに顔だけ振り向いた黄波戸に、春真は少しだけ考えた。
それから酷く穏やかに笑う。
「どっちでもいいかな」
「はぁ?」
「騙されたかったかもしれないしね」
キョトンとしてる黄波戸に肩を竦めて見せて、春真は足を止めた黄波戸を追い越した。




