それは、ぼうにもかからない
「マスター、お孫さんがいるんですか?」
「え、いるよ」
予想外の言葉に雪之丞が改めて確認するように尋ねると、マスターはあっさりと頷く。
「高校生でね。夏休みに、喫茶店の方をちょっと手伝いに来てくれてたんだけど」
「そうでしたか」
「うん。今度顔見せにきたら紹介するね」
紹介、の意味を測り兼ねて曖昧に頷くと、マスターがふふふと笑った。
「大丈夫、心配しないでよ。おかしな意味じゃなくてね」
「すみません」
「いえいえ。まぁ、ああいうお客さんの言葉は可愛い戯言だと思って流していいからね」
「はい」
「それから、」
不意に表情を引き締めて、マスターは声を潜める。
「無理強い、セクハラをするようなのはお客さんじゃないから。取るに足りない虫けらだと思って、掃き出して構わないからね」
にっこりと笑ったマスターの背後に怖ろしい気配を感じて、唐突に雪之丞の頭に浮かんだのは、仏の顔も三度まで、という言葉だった。
そういえばこの人は、あの社長の友人だったのだと思い至って、雪之丞は心中でこっそりと肩を竦める。
一体過去には何をしてきたのだろう。
ただ順風満帆に生活してきて、喫茶店兼バーの店長に落ち着いたとは思えなかった。
けれどその疑問を顔に出さずに、雪之丞も応えて笑う。
「解りました。大丈夫だと思いますが」
「雪ちゃん可愛いから、ちょっと心配なんだよね。常連さんはいいけど、新規のお客さんは人となりも解んないから」
「ありがとうございます。少し武道を齧っていたことがあるので、一応対応できると思います」
「そっか。良かった。まあ、困ったら僕とか他のスタッフに声かけてね」
「はい」
素直に頷いて、雪之丞は受け取ったウインナーの盛り合わせを持ってホールに向かった。
「ウインナー盛り合わせ、お待たせいたしました」
「追加良い?」
「はい、お願いします」
「フライドポテトと、モスコミュール、あと」
「えっとね。ジン・リッキーとモヒート」
「私は、サングリアを」
「かしこまりました」
良く飲むなぁと頭の隅でちらりと考えて、雪之丞は伝票を捲る。
フライドポテトの注文を厨房に伝えて、追加のドリンクをサーブしてから、ふと雪之丞は端の席で一人だけウーロン茶を飲んでいる老紳士と目が合った。
「すみませんね。みんな出来上がってしまっていて」
「いえ。楽しんでいただけているということは、このお店を気に入っていただけたということですから」
如才なく答えると、老紳士は穏やかに口元を緩める。
「私がもう少し若ければ」
「はい?」
きょとんとした雪之丞に、老紳士は微かに笑った。
「これでも昔はプレイボーイで通っていたんですよ。あの頃は連日のようにクラブやバーに通いましてね。気に入った女性に、”あちらの方からです”、とマスターにやってもらったものですよ」
「小説やドラマのようですね」
「ええ。実際思いますが、事実は小説よりも奇なり、だと思いますね」
その言葉に自分の状況を当てはめて、雪之丞は思わず小さく笑みを零す。
それをなんと受け取ったのか、老紳士は僅かに肩を竦めた。
「本当に、あと20歳若ければ、口説きたい所なんですが」
「実は、酔っていらっしゃいますね」
「えぇ。貴女の美しさに」
少しも気障に聞こえない口調でさらりと答えて、老紳士は引き際よろしく雪之丞への関心を手放す。
ほっとして雪之丞はカウンターへ踵を返した。
青柳との約束を果たすまでに、一体どれだけの人間の勘違いを否定できずにいくのだろうか。
「すみませーん」
「はい、お伺いします」
零れそうになるため息を飲み込んで、雪之丞は追加オーダーを告げる声に明るく答えた。




