第8章 火をつけたのは
ちゃぶ台の前で、鈴は正座していた。
膝の上に、小さな手をきちんと揃えて置いている。赤いカーディガンの袖口が、少しほつれていた。ケーキの上の10本のろうそくには、まだ火はついていなかった。白い蝋の柱が、裸電球の光を受けて、つやつやと光っていた。
「座って」
鈴は、ちゃぶ台の向かい側を指さした。
「おねえちゃんの場所、ちゃんと空けておいたんだよ」
ちゃぶ台の向かいに、小さな座布団が敷いてあった。薄い水色の布地に、青い糸で、名前が刺繍されている。
『かおり』
ぎこちない、手縫いの刺繍だった。ところどころ、糸が引きつれている。誰かが、慣れない手つきで、一針一針、縫ったのだ。
香織は、動けなかった。
背中を閉じたドアに押しつけたまま、香織は、その座布団を見つめていた。見たことがある、と思った。この座布団に、毎晩座っていた。宿題をするときも、ごはんを食べるときも、テレビを見るときも。隣には、赤い糸で『すず』と刺繍された座布団があった。
「……鈴」
自分の口から、その名前が出た。
呼びかけるように。23年ぶりに、呼び慣れた名前を呼ぶように。
「やっと、名前で呼んでくれた」
鈴は、うれしそうに笑った。
右の頬に、えくぼが浮かんだ。毎朝、鏡の中で見ている、自分のえくぼと同じ場所に。
「ねえ、誕生日やろう。あのとき、できなかったから」
鈴は、ちゃぶ台の上に身を乗り出した。
「お母さんも、もうすぐ帰ってくるよ。いちごも、クラッカーも、買ってきてくれるって。ねえ、おねえちゃん」
「鈴。あなたは、23年前に」
「知ってるよ」
鈴は、さらりと言った。
まるで、明日の天気の話でもするように。
「わたし、死んじゃったんでしょ。知ってる。ずっと前から、知ってる」
鈴は、ちゃぶ台の端に置いてあったマッチ箱を、手に取った。古い、徳用のマッチ箱。側面の擦り紙が、何度も使われて黒ずんでいる。
「ほんとは9歳だった。でも、あの夜のお誕生日を、まだ終わらせたくなかった。ここにいたら、ずっと10歳でいられるの。おねえちゃんも、もう大人にならなくていいんだよ」
鈴は、マッチ箱を両手で包むように持った。
「会社も行かなくていいし、怖い夢も見なくていい。誰かに嘘をつかれることもないし、名前が変わったりもしない。ずっと、お母さんと、わたしと、3人で。毎日、カレー食べて、テレビ見て、こたつで寝て」
鈴の声は、歌うようだった。
「ね、いいでしょ」
鈴は、マッチ箱を開けた。1本、取り出した。擦り紙に、マッチの先を当てた。
「鈴、やめなさい!」
襖が、勢いよく開いた。
文乃が、飛び込んできた。仕事帰りの、紺のワンピースの上に、急いで着けたようなエプロン。髪が乱れていた。文乃は、鈴の手から、マッチ箱をもぎ取った。マッチ棒が数本、畳の上に散らばった。
「お母さん、なんで!」
鈴が、叫んだ。
「せっかく、おねえちゃんが帰ってきたのに! やっと、帰ってきたのに!」
「この子は、帰ってきたんじゃない」
文乃の声は、震えていた。けれど、強かった。
「連れてこられたの。あなたが、連れてきたの」
鈴は、唇を噛んだ。それから、うつむいた。おかっぱの髪が、顔を隠した。小さな肩が、震えていた。
文乃は、香織のほうへ向き直った。そして、香織の腕をつかんだ。
その手は、驚くほど温かかった。死んだ人の手だとは、とても思えなかった。台所で湯を使ったばかりの、少し湿った、母親の手。
「よく聞いて」
文乃は、香織の目をまっすぐに見た。
「あなたが23年間かけて、あの夜の外側に作ってきた暮らしが、この部屋へ引き戻されている。名前も友達も、母親の記憶も。でも私にだって、何が消え、何が残るかはわからない。ここは私たちの知っている物理法則では動いていないから」
「……」
「全部戻ったら、あなたは、10歳の白石香織として、この部屋で、ずっと」
文乃は、その先を言わなかった。
「……ずっと」
香織が、繰り返した。
「外の世界から、山岸香織はいなくなる。最初から、いなかったことになる。道子姉さんの娘も、浩之さんの娘も、あの杉浦さんの親友も。最初から、どこにもいなかったことに」
香織は、文乃の顔を見つめた。
近くで見ると、文乃の顔は、思っていたよりも若かった。35歳。今の香織と、2つしか違わない。目尻に、笑い皺の跡がある。右の頬に、かすかなえくぼの窪みがある。
道子の言葉が、よみがえった。笑うと、右のほっぺにえくぼができて。
「……お母さん、なの」
香織の唇から、言葉がこぼれた。
文乃の目に、一瞬、涙が浮かんだ。
けれど、文乃はすぐにそれを振り払うように顔をそむけ、香織の腕を引いて、玄関のほうへ歩き出した。
「あなたのお母さんは、道子姉さんよ」
文乃は、振り返らずに言った。
「それで、いいの」
文乃は、ドアを開けた。サンライズ高輪の、薄暗い2階の廊下が見えた。文乃は、香織の背中を、その廊下へ押し出した。
「二度と、戻ってこないで」
文乃の声が、かすれた。
「お願いだから」
ドアが閉まる直前、部屋の奥から、鈴の泣き声が聞こえた。
「おねえちゃん、また行っちゃうの……」
ドアが、閉まった。
*
冷たかった。
頬に、硬くて冷たいものが当たっていた。コンクリートの床だった。香織は、ゆっくりと目を開けた。
薄暗い廊下の天井。蛍光灯の、白い光。
誰かが、香織の顔を覗き込んでいた。細いフレームの眼鏡。宮本だった。
「山岸さん! 大丈夫ですか」
「……先生」
香織は、身を起こそうとした。体じゅうの関節が、ぎしぎしと軋んだ。長いあいだ、冷たい床の上に横たわっていたのだろう。指先の感覚が、なかった。
「明け方、新聞を取りに下りてきたら、204の前で倒れているのを見つけて。いつから、ここに」
香織は、スマートフォンを取り出した。画面に表示された時刻。午前5時12分。
自分の部屋に帰った記憶があるのは、午前1時だった。品川の、自分のマンションの、自分の部屋に。
「私、自分の部屋に帰ったんです」
香織の声は、かすれていた。
「横浜から戻って、会社に寄って、佳奈と話して、品川のマンションに帰って。鍵を開けて、ドアを開けたら……ここだった」
宮本は、香織の顔を、じっと見つめた。
そして、真剣な顔で、うなずいた。
もう、それを妄想とは言わなかった。知覚の歪みとも、ストレスによる解離とも。宮本は、ただ黙って、自分のカーディガンを脱ぎ、香織の肩にかけた。
「上で、温かいものを飲みましょう。妻が、もうすぐ起きてきます」
305号室の書斎に、朝の光が差し込んでいた。
香織と、連絡を受けて駆けつけた佳奈と、宮本。3人が、小さな書斎に膝を突き合わせるようにして座っていた。礼子が、湯気の立つほうじ茶を3つ置き、何も訊かずに、静かに部屋を出ていった。ドアが閉まる直前、礼子は香織のほうを振り返り、少しだけ心配そうに微笑んだ。
「つまり、香織の人生が、204号室に吸い込まれてるってことですか」
佳奈が、ほうじ茶の湯呑みを握りしめながら言った。
「白石文乃さんの言葉を借りれば、そういうことになります」
宮本は、ノートを開いた。昨夜からの出来事を、香織から聞き取って、細かく書き留めてあった。
「名前。記録。記憶。人間関係。外堀から、少しずつ。最初は写真の中の少女。次に、名前の表記。社員証。パソコンのアカウント。杉浦さんの記憶。表札。そして、昨夜は、空間そのものが」
「止める方法は」
「わかりません」
宮本は、正直に答えた。
「ただ、ひとつ、気になることがあります」
宮本は、ノートのページをめくった。
「道子さんの話では、あなたは火事のあと『わたしが言ったから』と繰り返していた。そして204号室では、選び直すたびに、その人にとって近しい誰かが消える。距離で決まるのか、情で決まるのかはわかりません。私たちは結果から、規則らしいものを読み取っているだけです」
宮本は、顔を上げた。
「まるで、子どもの言葉のような規則だと、思いませんか」
「子どもの言葉……」
「子どもが自分を責めるとき、出来事は単純な因果に変わってしまうことがある。自分が望んだから、悪いことが起きた、と。私には、この部屋が、その思い込みを現実にしているようにも見える。ただ、それが答えだと断言するつもりはありません」
香織は、息をのんだ。
「あなたが、あの夜、何を言ったのか」
宮本は、香織をまっすぐに見た。
「それが、あの部屋の鍵なのかもしれない」
書斎の中に、沈黙が落ちた。窓の外で、雀が鳴いていた。
「思い出す覚悟は、ありますか」
宮本の声は、穏やかだった。
「催眠ではありません。そういうものは、偽の記憶を植えつける危険がある。安全な場所で、ゆっくりと、あなた自身の力で、記憶をたどる。私は、ただ質問をするだけです。つらくなったら、いつでもやめていい。私が、ずっと隣にいます」
佳奈が、香織の手を握った。
「私も、いる」
香織は、佳奈の手を見下ろした。少し荒れた指。人差し指の先の、硬いところ。
深く、息を吸った。
そして、うなずいた。
*
宮本は、書斎のカーテンを閉めた。
朝の光が遮られ、部屋は柔らかな薄暗がりに包まれた。香織は、書斎の隅にある古い革張りのソファに横たわった。佳奈が、ソファの横の床に座り、香織の手を握っている。
宮本は、ソファの傍らの椅子に腰掛け、静かな声で語りかけ始めた。
「目を閉じてください。ゆっくりと、息を吸って。吐いて」
香織は、目を閉じた。
「あなたは、10歳の誕生日を翌日に控えています。2003年8月9日の夏の夜。サンライズ高輪の2階の部屋にいます」
宮本の声が、遠くなっていく。
「何が見えますか」
「……ちゃぶ台」
香織の唇が、動いた。
「テレビ。アニメをやってる。扇風機が、首を振って回ってる。網戸の向こうで、蝉が鳴いてる。夜なのに」
「部屋の中に、誰かいますか」
「鈴」
香織の声が、少しだけ、幼くなった。
「鈴が、隣に座ってる。赤いカーディガン。暑いのに、着てるの。お母さんが編んでくれたやつだから。私も、青いの着てる」
「ほかには」
「……久美子お姉ちゃんが、出かけていった」
香織の眉間に、かすかな皺が寄った。
「30分で戻るって。テレビ見てなさいって。ろうそくは、絶対に触っちゃだめよって」
*
扇風機の音がしていた。
ブラウン管のテレビの中で、魔法少女が杖を振り回している。網戸の向こうから、夜になっても鳴きやまない蝉の声が、じいじいと聞こえていた。
10歳の香織は、青いカーディガンの袖をまくり上げ、ちゃぶ台に頬杖をついていた。
ちゃぶ台の上に、ケーキがあった。
夕方、母が仕事に出かける前に、ふたりと一緒に作ったケーキだった。スポンジは、近所のスーパーで買ってきた市販のもの。生クリームは、3人で代わる代わる泡立てた。いちごは、鈴が並べた。だから、間隔が不揃いだった。チョコレートのプレートには、母が白いチョコペンで、丸い字を書いた。
『かおり すず 10さい』
本当の誕生日は、明日だった。明日、母は仕事を休む。朝から、3人で過ごす。ろうそくを立てて、火をつけて、歌を歌って、ふたりで一緒に吹き消す。そういう約束だった。
「ねえ、ろうそく、立てようよ」
香織は、言った。
「お母さん帰ってからって、約束したじゃん」
鈴が、口を尖らせた。赤いカーディガンの裾を、指でいじっている。
「立てるだけ。立てるだけだから」
香織は、台所の戸棚から、ろうそくの箱を出してきた。カラフルな、細いろうそく。ピンク、水色、黄色、白。
ふたりで、ケーキに、1本ずつ立てていった。香織が5本。鈴が5本。生クリームに、ろうそくの根元が、すっと沈んでいく。
10本のろうそくが、きれいに並んだ。
香織は、それを眺めた。立てただけでは、何かが足りなかった。ろうそくは、火がついて初めて、ろうそくなのだ。
「……ちょっとだけ、つけてみない?」
「だめだよ」
鈴は、首を横に振った。
「久美子お姉ちゃんにも、言われたでしょ。お母さんにも」
「明日まで、待てないもん」
香織は、立ち上がった。
台所の、いちばん上の引き出し。母が、子どもの手の届かないところに、と言って隠しているマッチ箱。けれど、香織は知っていた。踏み台に乗れば、届くことを。
*
305号室の書斎で、ソファの上の香織の眉間に、深い皺が刻まれていた。
呼吸が、浅く、速くなっている。握られた手に、汗がにじんでいた。佳奈が、心配そうに宮本の顔を見上げた。
「大丈夫。続けられますか」
宮本の声が、遠くから聞こえた。
「……マッチ」
香織の唇が、震えた。
「私が、出したの」
佳奈が、息をのんだ。
10歳の香織は、踏み台の上で、引き出しからマッチ箱を取り出した。
慣れない手つきで、マッチを擦った。1本目は、しゅっと音を立てただけで、火がつかなかった。2本目は、軸が折れた。3本目で、ようやく、小さな炎が生まれた。
硫黄の匂いが、鼻をついた。
香織は、その小さな炎を、ろうそくの芯に近づけた。1本。ピンクのろうそくに、火が灯った。2本。水色。3本。黄色。
「おねえちゃん、やめてってば!」
鈴が、ちゃぶ台の上に身を乗り出した。ろうそくを吹き消そうとして、頬を膨らませた。
香織は、鈴の肩を押し戻した。
「なんで邪魔するの!」
自分でも、驚くほど大きな声が出た。
「鈴はいつもそう。いい子ぶって、お母さんの味方ばっかり!」
「おねえちゃんが悪いんじゃん!」
鈴も、叫び返した。
香織の胸の中で、何かが、ぷつりと切れた。
ずっと、溜め込んでいたものだった。言葉にできなかったもの。言葉にしてはいけないと、思っていたもの。
「保育園のときも、お母さんは、鈴ばっかり抱っこした」
香織の声が、震えた。
「熱出したときも、鈴ばっかり。鈴は体が弱いからって。鈴は甘えん坊だからって。私は、おねえちゃんだから我慢しなさいって。いつも、いつも、私は我慢して」
「そんなことない!」
「あるもん! ずっとあるもん!」
香織の目から、涙があふれた。
鈴の目からも、涙があふれた。
双子は、ちゃぶ台を挟んで、同じ顔で、同じように泣いていた。5本のろうそくの炎が、ふたりの涙を、オレンジ色に照らしていた。
香織は、立ち上がった。
そして、言った。
言ってはいけない言葉を。
「鈴なんか、いなくなればいいのに!」
鈴の顔が、くしゃりと歪んだ。
声が出ないまま、口だけが、何かを言おうとして、開いたり閉じたりした。
香織は、背を向けた。玄関へ走った。サンダルをつっかけ、ドアを開け、外へ飛び出した。ドアを、力いっぱい閉めた。
ばたん、という音が、廊下に響いた。
ちゃぶ台の上で、10本のろうそくのうち、5本が、燃えていた。
*
香織は、階段の踊り場に座り込んでいた。
膝を抱え、顔を膝に埋めて、泣いていた。コンクリートの床が、ショートパンツの下の太腿に冷たかった。蛍光灯に、蛾が1匹、ぱたぱたと体当たりを繰り返していた。
しばらくして、ドアの向こうから、かすかに、鈴の声が聞こえた。
「おねえちゃん……」
泣き声だった。
「ごめんね……」
香織は、両手で耳を塞いだ。
聞きたくなかった。謝られたら、許さなくてはならない。許したら、自分が悪かったことになる。まだ、怒っていたかった。まだ、被害者でいたかった。
耳を塞いだまま、どれくらい経っただろう。
焦げ臭い匂いがした。
香織は、顔を上げた。
204号室のドアの下の隙間から、細い、灰色の煙が、廊下に這い出してきていた。
*
「……っ!」
305号室の書斎で、香織はソファから跳ね起きた。
荒い呼吸。全身が、汗でびっしょりと濡れていた。目から、涙が止まらなかった。拭っても、拭っても、あとからあとからあふれてきた。
「私が……私がつけたの」
香織は、自分の両手を見下ろした。
33歳の手。けれど、その指先に、マッチを擦った感触が、生々しく残っていた。擦り紙のざらつき。硫黄の匂い。小さな炎の熱。
「ろうそく。私がつけて、それで、鈴をひとりにして、外に」
「山岸さん、落ち着いて。深呼吸を」
宮本の声が、聞こえた。けれど、香織の耳には、届かなかった。
「私が言ったの」
香織の声が、裏返った。
「『いなくなればいいのに』って。そうしたら、本当に、いなくなった。鈴が、いなくなった。お母さんも、いなくなった。私が言ったから。私が、言ったから」
わたしが言ったから。わたしが言ったから。
23年前、病院のベッドで、うなされながら繰り返した言葉。その言葉の意味を、33歳の香織は、ようやく知った。
佳奈が、香織を抱きしめた。
強く。痛いほど、強く。
香織は、その腕の中で、子どものように泣きじゃくった。声を上げて。肩を震わせて。23年分の、泣けなかった夜の分まで。
宮本は、静かにノートを閉じた。
『選び直すと、誰かがいなくなる』。
それは9歳の子どもが、火事の前に口にした言葉だった。何かを願ったら、そのとおりに誰かがいなくなった。もちろん、だから火が出たと証明されたわけではない。それでも香織は、23年間、その因果のない結び目で自分を縛り続けていた。
宮本は、眼鏡を外し、目頭を押さえた。
精神科医として、何百人もの心の傷を見てきた。けれど、ひとりの子どもの言葉が、これほどの重さで世界を歪めているのを見たのは、初めてだった。
昼過ぎ、香織は佳奈と一緒に、301号室を訪ねた。
リビングは、段ボール箱で埋め尽くされていた。引っ越しまで、あと5日。修は、会社に出ていた。久美子が、段ボールの山のあいだに、ぽつんと座っていた。
香織は、久美子の向かいに立った。佳奈は、その少し後ろに控えた。
「遠藤さん。あの夜、ろうそくに火をつけたのは、私なんです」
香織は、言った。声が、まだ少しかすれていた。
「思い出しました。宮本先生に手伝ってもらって。マッチを出したのも、火をつけたのも、私です。鈴は、止めようとした。私は、鈴にひどいことを言って、部屋を飛び出した」
久美子の表情が、こわばった。
「違うわ」
「え?」
「ろうそくに火をつけたのは、私よ」
久美子は、香織の目を見ずに言った。
「出かける前に。あの子たちが、どうしても、ろうそくに火がついたところを見たいって言うから。少しだけって。それで、消し忘れて、出ていった。急いでたから。修から電話が来て、浮かれてたから」
「そんなはず、ない」
香織は、首を振った。
「私は、覚えてるんです。マッチを擦った感触まで。1本目は火がつかなくて、2本目は折れて、3本目で」
「宮本先生の誘導で作られた記憶でしょう」
久美子は、冷たく言い放った。
「精神科医がそばにいて、そういう話を聞かされたら、誰だってそういう記憶を作るわ。私は、18歳だった。全部、覚えてる。あの夜のことは、一秒も忘れたことがない」
「……どうして、嘘を」
「嘘じゃない!」
久美子が、声を荒げた。
段ボールの山が、その声に震えたような気がした。けれど、久美子の目は、香織を見ていなかった。窓の外の、どこか遠いところを見ていた。
「遠藤さん」
佳奈が、一歩前に出た。
「もし、香織をかばうための嘘なら」
「かばう理由が、どこにあるの」
久美子は、佳奈を睨みつけた。
「私は、あの夜、あの子たちを置いていった女よ。かばうなんて、そんな資格、私にはない」
久美子は、ふたりに背を向けた。
その背中が、小刻みに震えていた。
「帰って」
久美子の声が、かすれた。
「……あなたは、何も悪くない。それで、いいじゃない」
*
サンライズ高輪からの帰り道、香織と佳奈は、高輪の坂をゆっくりと下っていた。
秋の午後の日差しが、街路樹の影を、歩道の上に長く伸ばしていた。坂の下の交差点で、信号が赤から青に変わった。
「どっちが本当なんだろう」
佳奈が、ぽつりと言った。
「わからない」
香織は、足元を見つめながら答えた。
「宮本先生も言ってた。思い出した記憶が、全部正しいとは限らないって。遠藤さんの記憶のほうが正しいのかもしれない。沢田さんの話も、母の話も、遠藤さんの話も、少しずつ違う。誰も嘘をついてないのに、少しずつ違う」
「香織」
「誰を信じればいいのか、わからない。自分の記憶が、いちばん信じられない」
佳奈が、立ち止まった。
香織も、つられて立ち止まった。
「じゃあ、私を信じて」
佳奈は、香織の正面に回り込んだ。
「……」
「私は、香織と出会った記憶がない。だから、香織の過去について、何も嘘をつけない。思い込みも、勘違いも、何もない。私が知ってるのは、今日、目の前で泣いてた香織だけ」
佳奈は、香織の両肩に手を置いた。
「その香織は、絶対に、妹がいなくなればいいなんて、本気で思う子じゃない。私には、それだけはわかる。今日の香織を見てたら、わかる」
香織は、佳奈を見つめた。
「……って、昨日親友になったばっかりの私が言っても、説得力ないか」
佳奈は、照れくさそうに笑った。
「ある」
香織は、小さく笑った。
「すごく、ある」
*
その夜、203号室のリビングで、由佳はひとり、窓の外を見ていた。
カーテンの隙間から、中庭越しに、隣の部屋の窓が見える。204号室。今夜も、黄色い明かりが灯っていた。
寝室のドアが開き、蓮が出てきた。パジャマ姿で、眠そうに目をこすっている。
「由佳、まだ起きてたのか」
「蓮くん」
由佳は、窓の外を見たまま言った。
「もし、私がいなくなったら、どうする?」
「何だよ、急に」
「答えて」
由佳の声は、静かだった。けれど、その静けさの中に、何か張り詰めたものがあった。
蓮は、少し考えた。それから、照れくさそうに、頭を掻いた。
「……もう一回、探しに行くよ」
蓮は、言った。
「どこにいても」
由佳の目から、涙がこぼれた。
蓮は、慌てて由佳に駆け寄り、後ろから抱きしめた。
「どうしたんだよ。泣くなよ。何かあったのか」
由佳は、答えなかった。蓮の腕の中で、ただ、泣いていた。
その肩越しに、由佳は、リビングのテーブルの上を見た。
テーブルの上に、鍵がひとつ、置かれていた。古い真鍮の鍵。管理人室の壁のキーボックスから、昼間、沢田が居眠りをしている隙に、こっそり持ち出してきたもの。
204号室の、マスターキーだった。
*
深夜。香織は、ひとりで204号室の前に立っていた。
手には、あの海辺の写真を握っていた。
もう一度だけ。自分の目で、確かめたかった。あの夜、本当は何があったのか。自分の記憶と、久美子の言葉。どちらが本当なのか。
ドアノブに、手をかけた。
鍵は、かかっていなかった。
ドアを開ける。真っ暗な、空っぽの部屋。月明かりだけが、カーテンのない窓から、青白く差し込んでいた。
香織は、懐中電灯をつけた。光の輪が、埃の積もった床を舐めるように進んでいく。ダイニングを抜け、奥の和室へ。
柱を、照らした。
背比べの線。『かおり 9さい』『すず 9さい』。ふたつの線が、ほとんど同じ高さに並んでいる。
その下に、何かがあった。
前に来たときには、なかったもの。小さな文字が、新しく浮かび上がっていた。鉛筆ではない。煤で書かれたような、黒く、かすれた字。
『10さい まだ』
香織は、柱に手を当てた。
その瞬間、部屋の空気が、変わった。
ひやりとした夜気が、急に、むっとした夏の熱気に入れ替わった。蝉の声が聞こえた。扇風機の、首を振る音。
懐中電灯の光の輪の中に、2003年8月9日の部屋が、浮かび上がった。
ちゃぶ台。ケーキ。5本の、燃えているろうそく。
10歳の鈴が、ひとりで、ちゃぶ台の前に座っていた。
香織は、それを見ていた。まるで、映画のスクリーンの外から見ているように。手を伸ばせば届きそうなのに、そこには、透明な、決して越えられない壁があった。
鈴は、泣いていた。
赤いカーディガンの袖で、涙を拭いながら、ケーキに顔を近づけた。燃えているろうそくを、ひとつ、またひとつ、吹き消そうとしていた。
ふう、と、ピンクのろうそくが消えた。
ふう、と、水色のろうそくが消えた。
「……鈴?」
香織は、つぶやいた。
鈴は、おねえちゃんが帰ってきたら、一緒に吹こうと思ったのだ。だから、一度、全部消そうとした。おねえちゃんが戻ってきたら、もう一度、ふたりで火をつけて、ふたりで吹き消せるように。
鈴が、最後のろうそくに、顔を近づけた。
そのとき、赤いカーディガンの、少しほつれた袖口が、炎に触れた。
毛糸に、火が移った。鈴は、驚いて腕を振った。ろうそくが、倒れた。ケーキの上から転がり落ち、ちゃぶ台にかけられたビニールのテーブルクロスの上に。
テーブルクロスに、火が走った。
「鈴! だめ!」
香織は、叫んだ。
声は、届かなかった。透明な壁の向こうで、炎は、あっという間に広がっていった。テーブルクロスから、畳へ。畳から、カーテンへ。
炎の中で、鈴が、玄関のほうを振り返った。
「おねえちゃん!」
香織は、手を伸ばした。
届かなかった。
光景が、ふっと消えた。
真っ暗な、空っぽの部屋。冷たい夜気。月明かり。
香織は、その場に、膝から崩れ落ちた。
火をつけたのは、私。
そして、消そうとしたのは――。
「それが、本当のことよ」
背後で、静かな声がした。
香織は、振り返った。暗闇の中に、文乃が立っていた。エプロン姿で。月明かりが、その輪郭を、青白く縁取っていた。
「あの子は、あなたが戻ってきたら一緒に吹こうと思って、一度、全部消そうとしたの」
「……」
「誰のせいでもない」
文乃は、香織の前にしゃがみこんだ。
「誰のせいでも、なかったのよ。あなたがろうそくをつけたのも、鈴が消そうとしたのも、久美子ちゃんが出かけたのも、私が夜の仕事に出ていたのも。全部が、少しずつ重なって、あの夜になった。誰かひとりのせいなんかじゃない」
文乃の目に、涙が光っていた。
「それなのに、あなたは、23年間、自分の言葉に縛られて」
文乃は、初めて、香織の頬に手を触れた。
温かかった。
「この部屋はね、あなたの言葉でできてるの」
文乃の声が、震えた。
「『いなくなればいいのに』。あの夜、あなたが残した、たったひとつの言葉で」
香織の目が、見開かれた。
窓の外。中庭越しに見える、203号室のベランダ。
そこに、由佳が立っていた。月明かりの中で、手に、何かを握りしめて。
古い、真鍮の鍵を。




