第7章 はじめまして、親友
給湯室の小さな窓から、浜松町のビル群が見えた。
香織は、ステンレスの流し台にもたれて、スマートフォンの写真フォルダを必死にスクロールしていた。指先が、画面の上を滑り続ける。
香織の高校の卒業式。体育館の前の桜の木の下。佳奈が、香織の卒業証書の筒を勝手に掲げて笑っている。その隣の空間が、不自然に空いていた。誰かの肩に回されていたはずの佳奈の腕が、何もない空中に、中途半端な角度で浮いている。
ふたりで行った沖縄旅行。白い砂浜。日焼けして真っ赤になった佳奈が、ピースサインをしている。ひとりで。ふたり分のパラソルの下に、ひとりで。
去年の香織の誕生日。会社の近くのイタリアンレストラン。佳奈が、ろうそくのないケーキを前に、拍手をしている。ケーキのプレートには、『HAPPY BIRTHDAY』とだけ書かれていた。誰の誕生日なのか、写真からはわからなかった。
どの写真にも、佳奈はいた。けれど、香織はいなかった。佳奈の隣に、いつも香織がいたはずの場所だけが、まるで丁寧に切り抜かれたように、ぽっかりと空いていた。
私が消えたんじゃない。
香織は、スマートフォンを握りしめた。
佳奈の人生から、私と出会った過去が、消えた。
給湯室のドアが開いた。佳奈が、マグカップを手に入ってきた。香織に気づき、遠慮がちに会釈した。
「あ……山岸さん。昨日は、すみませんでした。私、何か失礼なことを言ったみたいで」
「ううん。私のほうこそ、ごめんなさい。急に変なこと言って」
佳奈は、ほっとしたように笑い、コーヒーメーカーにマグカップを置いた。ボタンを押す。豆を挽く音が、狭い給湯室に響いた。
「杉浦さん。コーヒー、ブラックですか」
「え?」
佳奈は振り返り、少し照れくさそうに笑った。
「いえ、私は砂糖2つとミルクで。甘党なんです。子どもっぽいって、よく言われるんですけど」
「……私の分は、ブラック、砂糖なし」
「はい?」
「人生も甘くなし」
香織は、自分の声が震えないように、注意深く言った。
「……って、いつも言ってたの。あなたが」
佳奈は、きょとんとして香織を見た。それから、ふっと吹き出した。
「なんですか、それ。ちょっと面白い」
香織も、笑おうとした。けれど、うまく笑えなかった。口角が、途中で引きつって止まった。
知らなかった。15年間、佳奈は、香織に合わせてブラックを飲んでいたのだ。砂糖2つとミルクが好きなのに。香織が、甘いものを入れないから。
知らなかった。何ひとつ。
*
午後、課長の村井が、パーティション越しに香織を手招きした。
「山岸、ちょっといいか」
会議室に入ると、村井は窓のブラインドを下ろし、気まずそうに咳払いをした。
「サンライズ高輪の担当、しばらく杉浦に替わってもらおうと思う」
「どうしてですか」
「住民から苦情が来てる。管理会社の女性が、夜中に空室をうろついてるって。理事の遠藤さんからじゃない。別の住民からだ。匿名だがな」
「……」
「それに、お前、最近顔色が悪いぞ。少し休め。有給、だいぶ溜まってるだろう」
村井は、香織の目を見なかった。窓のブラインドの隙間を、じっと見つめていた。
「204はいい、って言ったろう。最初に」
「課長は、何か知ってるんですか」
村井は、しばらく黙っていた。それから、深いため息をついた。
「前の課長から引き継いだだけだ」
村井は、ブラインドの羽根を1枚、指で押し下げた。
「2014年に、うちがサンライズ高輪の管理を受託したとき、前の課長に言われたんだ。『あの部屋は見なくていい。誰も入れるな。理由は訊くな』ってな。前の課長は、前の管理会社の担当者から、同じことを言われたそうだ。たぶん、その前も、その前も」
「伝言ゲームみたいに」
「そうだ。誰も理由を知らない。知らないまま、23年、引き継がれてきた。俺はそれ以上は知らん。知りたくもない」
村井は、香織のほうを向いた。その目に、意外なほど真剣な色があった。
「山岸。知らないままのほうがいいことも、世の中にはある。俺はそうやって、52年生きてきた」
「私は、知らないまま生きてきました。33年」
香織は、静かに答えた。
「もう、それはできないんです」
*
横浜、港南区。駅から緩やかな坂を15分ほど上った住宅街の一角に、山岸家はあった。
築40年を超える、古い木造の一軒家。玄関先には、母の道子が丹精込めて育てている鉢植えが、いくつも並んでいた。ゼラニウム、ペチュニア、小さなオリーブの木。秋の夕暮れの光の中で、どの葉もつやつやと光っていた。
香織は、門の前で立ち止まった。
深呼吸をする。1回。2回。それから、インターホンを押した。
しばらくして、玄関の引き戸が開いた。
山岸道子。62歳。小柄で、少し丸い背中。白髪の混じった髪を、後ろでゆるくまとめている。目元の優しい、香織が火事のあとから約23年間、母と呼んできた人。
「香織……」
道子は、香織の顔を見た。
そして、何も訊かなかった。何も言わなかった。ただ、すべてを悟ったように、ゆっくりと肩を落とした。
「……入りなさい」
居間の仏壇に、父の浩之の遺影があった。
穏やかな丸顔に、黒縁の眼鏡。市役所の福祉課に30年勤め、定年の2年前に、心筋梗塞で急逝した。香織が22歳の冬だった。葬儀には、市役所の同僚だけでなく、父が担当した生活保護の受給者や、障害のある人たちが、大勢弔問に来た。父が、そういう人だったことを、香織はそのとき初めて知った。
ちゃぶ台を挟んで、香織と道子は向かい合った。
香織は、鞄の中から、戸籍謄本を取り出した。ちゃぶ台の上に、そっと置いた。
道子は、それをじっと見つめた。手を伸ばしはしなかった。ただ、見つめていた。
「いつか、こういう日が来ると思ってた」
道子の声は、意外なほど落ち着いていた。
「お母さん。文乃って、誰」
「……私の、妹よ」
香織は、息をのんだ。
「8つ下の、自慢の妹だった」
道子は、仏壇のほうを見た。父の遺影ではなく、その奥の、何もない暗がりを。
「気が強くて、負けず嫌いで、笑うと、右のほっぺにえくぼができて。私と違って、華のある子だった。学校でも、町内でも、文乃ちゃん文乃ちゃんって、みんなに好かれてた」
香織は、無意識に、自分の右の頬に指を触れていた。
「……男を見る目だけが、なかった」
道子は、苦笑した。
「20歳を過ぎたころ、ろくでもない男に引っかかってね。定職もなくて、賭け事が好きで。私は結婚に反対した。両親も反対した。文乃は、家を出ていった。それきり、何年も音信不通。双子を産んだって聞いたのは、ずいぶん後になってからよ。人づてにね」
道子は、立ち上がった。仏壇の下の引き出しを開ける。
中は、空っぽだった。
「1枚だけ、写真を取っておいたの」
道子は、空の引き出しを見つめたまま言った。
「あの子たちが6歳の夏。一度だけ、文乃と仲直りしようとして、横浜の海に呼んだことがあるの。文乃の旦那が出ていって、文乃がひとりで双子を育ててるって聞いて。放っておけなくて。海水浴場で待ち合わせて、お弁当を作っていって。浩之さんが、カメラを持っていって」
道子の声が、かすかに震えた。
「香織と鈴が、手をつないで笑ってる写真。浩之さんが撮ったの。文乃は、写真に入りたがらなかった。私は痩せてから撮ってって、笑って。それが、私が見た、文乃の最後の笑顔」
「それ、アルバムに入ってた」
香織は、言った。
「お母さんが送ってくれた段ボールの、アルバムの最後のページに」
「入れてない」
道子は、きっぱりと言った。振り返り、香織をまっすぐに見た。
「あの写真だけは、23年間、この引き出しの奥にしまってあった。お線香の箱の下に。誰にも見せたことはない。浩之さんにも。アルバムに入れた覚えも、あなたに送った覚えも、ないの」
香織の背筋を、冷たいものが這い上がった。
「……先月からね、夢に文乃が出てくるの」
道子は、ちゃぶ台の前に戻り、ゆっくりと腰を下ろした。
「何も言わずに、ただ、私を見てるの。昔みたいに笑いもしないで。怒ってもいないで。ただ、じっと。それが何晩も続いて、なんだか胸騒ぎがして、引き出しを開けたら」
道子は、空っぽの引き出しを指さした。
「写真が、なくなってた」
*
道子が淹れたお茶が、ちゃぶ台の上で冷めていった。
窓の外は、すっかり暗くなっていた。どこかの家から、夕飯の支度をする音と、テレビの音が聞こえてくる。
「あの火事のあと、病院で、あなたに会ったの」
道子は、湯呑みを両手で包んだまま、話し続けた。
「港区の病院だった。警察から、文乃の身元のことで連絡があって。駆けつけたら、小児病棟のベッドに、あなたがいた。腕と足に包帯を巻いて。煤で真っ黒になった、青いカーディガンを、握りしめて。看護師さんが洗おうとしても、離さなかったって」
太田の言葉が、香織の耳の奥でよみがえった。夏なのに。煤で真っ黒になった、青いカーディガンを。
「あなたは、半年間、一言も口をきかなかった」
道子の目に、涙が浮かんだ。
「眠ると、うなされて、同じことを繰り返すの。『わたしが言ったから。わたしが言ったから』って。何度も、何度も。夜中に、汗びっしょりになって飛び起きて。泣いて、熱を出して」
「……何を、言ったの」
「わからない。聞いても、あなたは答えなかった。ただ泣いて、首を振って、また熱を出して」
道子は湯呑みを置き、香織の手を取った。小さくて、皺だらけで、温かい手。約23年間、熱を測り、髪を結び、帰宅の遅い日には何も訊かずに夕食を残しておいた手。その手は、香織が知らない記憶を隠してきた手でもあった。
「浩之さんと、決めたの。もう二度と怖い思いをさせたくなくて、新しいお話をあげようって。……本当のことを話す勇気がなかったのを、あなたのためだったと言い換えてきたのかもしれない」
道子の声が、詰まった。
「あなたは、横浜で生まれた山岸家の子。お父さんとお母さんの、ひとり娘。写真は全部しまって、文乃の話も、鈴の話も、一度もしなかった。浩之さんは、あなたを肩車して、山下公園に連れていった。氷川丸を見せた。あなた、10歳にしては大きかったから、浩之さん、腰を痛めてね。それでも、毎週末、肩車して」
香織の目から、涙があふれた。
氷川丸の煙突。赤と黒の、大きな煙突。手の届きそうなところに見えた、あの煙突。
「そうしたらね、あなたは、少しずつ、笑うようになったの」
道子は、香織の手を握りしめた。
「半年経って、1年経って。ある日、学校から帰ってきて、今日ね、って、話してくれたの。給食のプリンを、友達と半分こしたって。それを聞いて、浩之さんと私は、台所で抱き合って泣いた」
「……」
「毎年、8月10日になると、誕生日ケーキを焼いた。でも、ろうそくを立てると、あなたはひきつけを起こした。最初の年、ろうそくに火をつけた瞬間、あなたは悲鳴を上げて、その場で気を失ったの」
道子は、香織の顔を覗き込んだ。
「だから、うちのケーキには、ろうそくがなかったでしょう」
香織の目が、見開かれた。
「……ろうそくのない、誕生日ケーキ」
覚えている。
小学校の高学年のころ、友達の家の誕生会に呼ばれた。ろうそくを吹き消す友達を、みんなで拍手して囲んだ。羨ましかった。家に帰って、母に訊いた。どうしてうちのケーキには、ろうそくがないの。母は、少し困った顔で笑って、言った。
『香織は、特別だから』
特別だから。その言葉を、香織はずっと、何かのおまじないのように覚えていた。意味もわからないまま。
香織は、声を上げて泣いた。
子どものように。33年分の、意味のわからなかった涙を、いちどきに流すように。
「嘘をついて、ごめんなさい」 道子は目を伏せた。「守ったつもりだった。でも、あの子の名前まで、あなたから取り上げた」
道子は、香織の手を握ったまま、頭を下げた。
「でも、私は、あなたを本当の娘だと思って育てた。それだけは、嘘じゃない。浩之さんも、そう。最期の病院で、浩之さん、言ったのよ。香織が、うちに来てくれてよかったって」
香織は、道子の手を握り返した。
「知ってる」
涙で、声がかすれた。
「……知ってるよ、お母さん」
道子は、ちゃぶ台を回り込み、香織を抱きしめた。小さな体で、香織の頭を胸に抱え込んだ。33年前、病院のベッドで、言葉を失った少女を抱きしめたときと、同じように。
「行かないで」
道子が、香織の耳元でささやいた。
「あの建物に、もう行かないで。文乃は、あなたを連れていこうとしてる。鈴の寂しさに、文乃は勝てないのよ。あの子は昔から、鈴に甘かったから。鈴が泣くと、何でも言うことを聞いちゃう子だったから」
香織は、道子の肩越しに、仏壇の、空っぽの引き出しを見つめた。
あの写真は、自分で歩いて、香織のところへ来たのだ。母の夢枕に立った、もうひとりの母が、運んできたのかもしれない。何のために。連れていくためか。それとも、思い出させるためか。
香織には、まだ、わからなかった。
同じころ、サンライズ高輪の2階の廊下で、蓮が煙草を手に立っていた。
もう何年も吸っていなかったはずの煙草だった。由佳と付き合い始めたときに、やめた――ということに、なっている。けれど、今夜、コンビニで無意識にこの銘柄を指さしていた。昔、毎日吸っていた銘柄。誰かに「くさい」と文句を言われながら、ベランダで吸っていた銘柄。
その「誰か」の顔が、どうしても思い出せなかった。
階段から、若い女性が上がってきた。紺のスーツに、管理会社の社員証を首から下げている。
「夜分に失礼します。本日からサンライズ高輪を担当します、みなとハウジング管理の杉浦です。ご挨拶に伺いました」
「ああ、どうも。高木です」
蓮は、慌てて煙草を携帯灰皿に押しつけた。
「山岸さんは?」
「山岸は、しばらく別の業務に就くことになりまして」
「そうですか」
蓮は、少しのあいだ黙っていた。それから、意を決したように口を開いた。
「……あの、変なこと、聞いてもいいですか」
「はい」
「この部屋の、前の住人の記録に、高木真理子って名前、ありませんか」
佳奈は、手元のタブレットを操作した。203号室の入居者情報を表示する。
「真理子さん……? いえ、記録では、高木さんご夫妻が、ずっと」
「ですよね」
蓮は、自嘲するように笑った。
それから、ジーンズの尻ポケットから財布を取り出し、カード入れのいちばん奥から、1枚の紙切れを引き抜いた。小さく折りたたまれた、古いクリーニング店のレシートだった。感熱紙の印字はすっかり薄れて、ほとんど読めない。
蓮は、それを裏返して佳奈に見せた。
ボールペンで、女性の字が書かれていた。少し右上がりの、几帳面な字。
『ワイシャツ、金曜に取りに行ってね。M』
「これ、財布の奥に入ってたんです。今朝、見つけて」
蓮は、そのレシートを、壊れ物を扱うように指先でつまんでいた。
「由佳の字じゃない。由佳は、丸っこい字を書くんです。それに、由佳の頭文字はYだ。でも、この字を見た瞬間……泣きそうになったんです。駅のホームで、急に。わけもわからず」
「……」
「誰なんでしょうね、Mって」
佳奈は、何も答えられなかった。ただ、手元のメモ帳に、その1文字を書き留めた。
M。
*
管理人室で、佳奈は沢田と向かい合っていた。
引き継ぎの確認のためだった。設備の点検日程、ゴミ出しのルール、住民からの要望の一覧。沢田は、几帳面に作られたファイルを見せながら、ひとつひとつ丁寧に説明してくれた。
「204号室について、引き継ぎで何か伺うことはありますか」
佳奈が訊くと、沢田は、ファイルをめくる手を止めた。
「……杉浦さん」
「はい」
「山岸さんは、元気かい」
「山岸さん、ですか」
佳奈は、少し考えた。
「ほとんど、お話ししたことがなくて。昨日、初めてご挨拶したばかりなんです。なんだか、私のことを誰かと勘違いしてらしたみたいで」
沢田は、悲しげにうなずいた。
「あの子は、いい子だよ」
沢田は、こたつの上に置いてあった1冊のノートを手に取った。表紙に、黒いサインペンで書かれた文字。
『消えた人の記録』
「この建物で起きてることを、たったひとりで背負おうとしてる。昔から、そういう子だった。妹の分まで、何でも背負い込んで」
沢田は、そのノートを佳奈に差し出した。
「昨日、山岸さんが、ここに置いていった。忘れていったのか、置いていったのか、わからないけどね」
佳奈は、戸惑いながら、ノートを受け取った。
「……読んでやってくれないか」
*
夜のオフィスは、静まり返っていた。
フロアの照明は落とされ、非常口の緑の光だけが、ぼんやりと床を照らしている。佳奈は、自分のデスクのライトだけをつけて、ノートを開いた。
他人の日記を盗み読むような、後ろめたさがあった。けれど、沢田の目が、それを許していた。いや、頼んでいた。
1ページ目。
『高木真理子 36歳 203号室 蓮さんの元妻 段ボールを抱えていた 小柄で、人のよさそうな笑顔 「もう他人ですけど、それでも」と言った 優しい人』
佳奈は、メモ帳を開いた。夕方に書き留めた、1文字。
M。
佳奈の指が、ノートの上の「真理子」の文字の上で、止まった。
ページをめくる。紗希。翔太。美緒。ひとりひとりの名前の横に、その人の癖や、口ぐせや、最後に交わした言葉が、丁寧に、几帳面な字で書き込まれていた。
『岡崎美緒 22歳 202号室 美大生 指にいつも絵の具 ピンクの猫のマグでコーヒーをいれてくれた 「私だけじゃなかった」と、泣きながら笑った』
その「美緒」の2文字だけが、涙で滲んで、小さな青い花のように広がっていた。
佳奈は、最後のページを開いた。
新しいインクだった。昨日か、一昨日に書かれたものだろう。少し震えた字。
『杉浦佳奈 30歳 私の親友。消えてはいない。でも、私を忘れた』
佳奈は、息を止めた。
『コーヒーはブラックだと思ってたら、本当は甘党だった。でも、私に合わせて、15年間、ずっとブラックを飲んでいた。知らなかった。ごめん』
『高校の文化祭。演劇部の舞台で、私が2幕目の台詞を丸ごと忘れて立ち尽くしたとき、客席から大声で台詞を教えてくれた。全校生徒の前で。先生に怒られても、平気な顔をしていた』
『失恋した夜、ファミレスで朝まで付き合ってくれた。ドリンクバーのメロンソーダを、11杯飲んでいた』
『「親友を舐めないで」が口ぐせ』
『佳奈が覚えていなくても、私が覚えている。だから、佳奈は、ちゃんとここにいる』
佳奈は、ノートを閉じた。
両腕で、胸に抱えた。
「……なにこれ」
声が、震えていた。
ノートの表紙に、ぽたり、と、雫が落ちた。黒いサインペンの文字が、少しだけ滲んだ。
「なんで、私、泣いてんの」
覚えていなかった。何ひとつ。文化祭も、ファミレスも、メロンソーダも。
けれど、本当は甘党なのに、誰かに合わせてブラックを飲む。それは、確かに自分がやりそうなことだった。誰にも気づかれないように。気づかれたら、恥ずかしいから。
佳奈は、デスクの引き出しを開けた。奥のほうに、スティックシュガーの束が隠してあった。ブラックコーヒーの紙コップの横に、いつもこっそり置いてある束。いつから、隠すようになったのか。誰に、隠していたのか。
佳奈は、ノートを抱いたまま、しばらく動けなかった。
会社のビルの屋上は、夜風が強かった。
香織は、フェンスにもたれて、夜景を見ていた。横浜から戻って、まっすぐ家に帰る気になれず、気がつけば会社に戻っていた。警備員に会釈して、非常階段を上った。新人のころ、仕事で失敗するたびに、ここで泣いた。泣き終わるころには、いつも佳奈が缶コーヒーを2本持って、階段を上がってきた。
もう、誰も来ない。
浜松町の空に、東京タワーが赤く光っていた。その向こうに、高輪の方角の夜空が、ぼんやりと霞んでいる。
背後で、鉄の扉が軋む音がした。
香織は、振り返った。
佳奈が、立っていた。胸に、大学ノートを抱えて。
「杉浦さん……」
「これ、読みました」
佳奈は、ノートを差し出した。その目は、赤く腫れていた。
「勝手にすみません。沢田さんに、渡されて」
「……」
香織は、ノートを受け取らなかった。受け取る手が、動かなかった。
「正直、覚えてないです」
佳奈は、ノートを胸に抱え直した。
「山岸さんと出会ったことも、文化祭のことも、ファミレスのことも。何ひとつ。私の高校は静岡にあったことになってるし、卒業アルバムにも、山岸さんの名前はなかった。さっき、実家の母に電話して確かめました」
香織は、うつむいた。
わかっていた。わかっていたのに、改めて言葉にされると、胸の奥が、刃物で抉られたように痛んだ。
「でも」
佳奈が、一歩近づいた。
「このノートの字、嘘ついてる人の字じゃない」
香織は、顔を上げた。
「私、仕事柄、いろんな人の字を見てきました。契約書の署名とか、クレームの手紙とか。嘘をついてる人の字って、なんとなくわかるんです。整いすぎてるか、乱れすぎてるか。このノートの字は、どっちでもない。ただ、必死に、正確に書こうとしてる字だった」
佳奈は、香織の隣に立ち、フェンスに背中を預けた。
「それに、なんか、悔しいんですよ」
「……悔しい?」
「私が知らない私のことを、こんなに知ってる人がいるの。メロンソーダ11杯って。そんなの、私、自分でも数えたことない。15年分、損した気分」
香織は、思わず笑った。泣きながら、笑った。顔がぐしゃぐしゃになって、もう、自分が泣いているのか笑っているのか、わからなかった。
「だから、決めました」
佳奈は、フェンスから背中を離し、香織の正面に立った。
「覚えてないなら、もう一回、親友になればいい」
佳奈は、右手を差し出した。
「はじめまして。杉浦佳奈です。コーヒーは、本当は甘党です」
香織は、その手を見つめた。
ネイルの剥げかけた、少し荒れた指。書類をめくりすぎて、人差し指の先が硬くなっている。15年間、何度もつないだ手。何度も、香織の背中を叩いた手。
香織は、その手を握った。
「……はじめまして。山岸香織です」
それから、少しだけ迷って、付け加えた。
「たぶん、白石香織です」
「どっちでもいいですよ」
佳奈は、笑った。
「香織さんは、香織さん」
「さん、はいらない」
「じゃあ、香織」
ふたりは、手を握り合ったまま、夜風の中で笑い合った。東京タワーの赤い光が、ふたりの顔を、ほんのりと照らしていた。
*
301号室のリビングには、段ボール箱が積み上げられていた。
白金の新居への引っ越しの準備だった。業者が置いていった箱に、高級な食器や、美術品や、修のゴルフバッグが、次々と詰め込まれていく。修は、スマートフォンを耳に当て、引っ越し業者と打ち合わせをしていた。
「来週の土曜で。ええ、白金の物件に。午前中に搬出、午後に搬入で。ピアノはないです。……ええ、子どもはいないので」
久美子は、段ボール箱のひとつに、腰を下ろしていた。箱が、彼女の体重で少しへこんでいた。
修が、電話を切った。
「久美子、お前の荷物、まだ全然詰めてないじゃないか」
「私は、行かない」
「何を言ってるんだ」
「ここを離れたら、あの子が帰ってこられなくなる」
「あの子って誰だ!」
修が、声を荒げた。手にしていたスマートフォンを、ソファの上に投げつけた。
「お前、最近おかしいぞ。夜中に起きて、ワインセラーの前で泣いてる。いもしない子どもの名前を呼んで。医者に診てもらえ。宮本先生に頼んでやるから」
久美子は、ゆっくりと顔を上げた。
その目には、涙ではなく、静かな決意の光があった。修が、この13年間――この人生では――一度も見たことのない光。
「あなたも、昔は、優しかったのにね」
「……何の話だ」
「23年前。駅前のファミレスで、あなたは言ったのよ」
久美子は、遠くを見るような目をした。
「ドリンクバーのコーヒーを飲みながら。私の手を握って。『俺、子どもが好きなんだ。いつか、俺たちの子どもを』って。照れくさそうに。まだ大学生だったのに」
修は、言葉に詰まった。
「……23年前?」
「覚えてないのね」
久美子は、悲しげに微笑んだ。
「あの夜のこと、何も」
修は、何かを言い返そうとして、口を開いた。けれど、言葉は出てこなかった。こめかみの奥で、何かが、ちりちりと疼いた。ファミレスの窓際の席。窓の外を、消防車がサイレンを鳴らして走っていった。向かいの席の少女が、急に青ざめて、立ち上がった――。
修は、頭を振った。
何も、思い出せなかった。
*
香織は、佳奈と別れ、品川の自宅マンションへ帰ってきた。
夜道を歩きながら、香織は、久しぶりに足取りが軽いのを感じていた。佳奈が、もう一度、隣にいる。15年分の記憶はなくても、佳奈は佳奈だった。メロンソーダを11杯飲む、甘党の、親友を舐めないでと胸を張る、佳奈。
エレベーターで5階に上がり、廊下を歩く。自分の部屋の前で、立ち止まった。
表札を見る。
『白石』
「……」
香織は、瞬きをした。
表札の文字は、変わらなかった。何度瞬きをしても。白いプラスチックのプレートに、黒い明朝体で、『白石』。
香織は、鍵を差し込んだ。
回った。
ドアが、開いた。
*
香織は、玄関の電気のスイッチを押した。
黄色い光が、灯った。
蛍光灯の白ではない。白熱電球の、少し赤みがかった、温かな光。
香織は、目の前の光景を、すぐには理解できなかった。
ちゃぶ台があった。ブラウン管のテレビがあった。壁には、クレヨンで描かれた絵が、画鋲で留められていた。家族の絵。太陽の絵。チューリップの絵。そして、壁のカレンダー。
『2003年8月』
8月9日の欄に、赤い丸。
「……うそ」
香織は、後ずさった。背中が、閉じたドアにぶつかった。
振り返る。ドアノブをつかむ。回す。ドアを、開ける。
そこは、香織のマンションの廊下ではなかった。
薄暗い、古い廊下。等間隔に並ぶ、白茶けたドア。部屋番号のプレート。203。202。201。
サンライズ高輪の、2階の廊下だった。
香織は、ゆっくりと、室内を振り返った。
ちゃぶ台の前に、鈴が、正座していた。
ちゃぶ台の上には、手作りのケーキ。少し傾いたスポンジ。でこぼこの生クリーム。不揃いに並んだいちご。チョコレートのプレートに、白い文字。『かおり すず 10さい』。そして、10本のろうそく。
鈴が、顔を上げた。
右の頬に、えくぼが浮かんだ。
「おかえり、おねえちゃん」
香織の背後で、ドアが、静かに閉まった。




