第6章 わたしは誰
目を開けると、見慣れない天井があった。
木目の浮いた、低い天井。蛍光灯の紐の先に、小さな招き猫のマスコットがぶら下がっている。体の上に、重たい毛布がかけられていた。足元が温かい。こたつだった。
管理人室だ、と香織は気づいた。
こたつの向こうで、沢田が湯呑みに茶を注いでいた。急須を傾ける手つきが、ひどくゆっくりだった。香織が目を覚ましたことに気づいて、沢田は湯呑みを香織の前に置いた。湯気が、ゆらゆらと立ち上った。
「無理に思い出さなくていい」
沢田は、静かに言った。
「思い出さないほうが、幸せなこともある」
香織は、身を起こした。頭が重かった。こめかみの奥で、何かがずきずきと脈打っていた。
「……私は、山岸香織です」
香織は、言った。自分に言い聞かせるように。
「横浜で生まれて、父と母と3人で暮らしてきました」
「ああ。そうだね」
「小学校は横浜の本町小学校で、中学で吹奏楽部に入って、クラリネットを吹いてました。高校で佳奈と出会って、大学は都内の私立に行って、就職して、今の会社に」
「うん」
「全部、覚えてます。ちゃんと、覚えてる」
沢田は、何も言わずにうなずいた。
否定もせず、訂正もせず、ただ、うなずいた。その優しさが、香織には、何よりも残酷だった。
香織は湯呑みを両手で包んだ。指が震えて、茶の表面に細かい波紋が立った。
覚えている。でも、それは、10歳から後のことばかりだ。
本町小学校には、4年生の3学期から通った。転校生として。それは覚えている。教壇の前に立たされて、自己紹介をした。「山岸香織です」と言った。その名前を口にしたとき、舌の上で、何かがかすかに軋んだ。あのときの感覚を、香織は今、23年ぶりに思い出していた。
その前の3年半を、香織はどこで過ごしていたのか。
答えは、もう、目の前にあった。
*
翌朝、香織は港区役所の戸籍の窓口に並んだ。
自分の戸籍謄本を取るのは、生まれて初めてだった。パスポートの申請のときも、就職のときも、住民票で済んだ。母が、いつも「戸籍は本籍地が遠いから、取り寄せるのが面倒なのよ」と言っていた。本籍地が港区だということを、香織はこのとき初めて知った。
窓口の職員が、封筒に入った書類を差し出した。香織は、それを受け取った。手が震えて、紙がかさかさと鳴った。
待合のベンチに座り、封筒から書類を取り出す。
何枚かの紙が、ホチキスで留められていた。改製原戸籍。除籍謄本。見慣れない言葉が並んでいる。香織は、1枚ずつめくっていった。
そして、その記載を見つけた。
『香織 平成5年8月10日生』
『父 (空欄) 母 白石文乃』
『2004年3月12日 山岸浩之・道子の養子となる縁組届出』
香織は、紙を見つめたまま、動けなかった。
誕生日。8月10日。毎年、母がろうそくのないケーキを焼いてくれた日。双子の、誕生日。
母、白石文乃。
隣の除籍謄本には、もうひとつの名前があった。
『鈴 平成5年8月10日生 平成15年8月9日死亡』
同じ日に生まれ、10歳の誕生日を迎える前夜に死んだ、妹。
香織は、その2行を、何度も読み返した。読み返すたびに、活字が少しずつ滲んでいった。
隣のベンチで、幼い姉妹が、母親に絵本を読んでもらっていた。3歳くらいと、5歳くらい。姉のほうが、妹の手から絵本を取り上げようとして、母親にたしなめられている。妹が泣きべそをかき、姉はばつの悪そうな顔で、絵本を妹の膝に戻した。
香織は、その光景から、目をそらすことができなかった。
*
会社に着いたのは、昼前だった。
自分の席に向かう途中、入社2年目の後輩が、書類を抱えて声をかけてきた。
「白石さん、おはようございます。午後の内見、よろしくお願いします」
香織は、足を止めた。
「……今、何て?」
「え? 内見、よろしくお願いしますって」
「その前。私のこと、何て呼んだ?」
「山岸さん、ですけど……」
後輩は、きょとんとして香織を見ていた。からかっている様子はなかった。
香織は、自分の首から下げた社員証を見下ろした。顔写真の横に、名前が印字されている。
『白石香織』
香織は、瞬きをした。
『山岸香織』
見間違いだ。香織は、社員証を握りしめた。プラスチックのケースが、手のひらに食い込んだ。心臓の音が、うるさかった。
見間違い。疲れている。私は、疲れている。
デスクに座り、パソコンの電源を入れる。起動音がして、ログイン画面が現れた。ユーザー名の欄に、いつものように、自分のアカウント名が表示されている。
『shiraishi.kaori』
香織は、キーボードから手を離した。
もう一度、画面を見る。
『yamagishi.kaori』
香織は、両手を膝の上に置いた。その手が、小刻みに震えていた。隣の席の佳奈は、外回りに出ていて不在だった。オフィスのざわめきが、ガラス越しに聞こえる音のように、遠かった。
「名前の文字が、一瞬だけ、別の名前に見える。それが、何度も」
305号室の書斎で、宮本はノートにペンを走らせながら言った。
書斎は、リビングの喧騒から切り離された小さな部屋だった。壁一面の本棚に、医学書と心理学の専門書がぎっしりと詰まっている。窓際の机には、診療の記録らしいファイルが積み上げられていた。礼子は、リビングで洗濯物を畳んでいる。ときおり、鼻歌が聞こえてきた。
「はい」
「医学的には、強いストレス下での知覚の歪み、と説明できます。戸籍という強烈な事実を知った直後ですから。脳が、新しく得た情報を、視覚に重ね合わせてしまう」
「でも、先生は、信じていない。その説明を」
宮本は、ペンを置いた。
「……正直に言いましょう」
宮本は、リビングのほうへ視線を向けた。閉じたドアの向こうから、礼子の鼻歌が聞こえていた。昔のフォークソング。宮本と礼子が、学生時代に一緒に聴いていた歌だった。
「私は今、妻が生きている世界にいます。3年前に死んだはずの妻が、今朝、私のネクタイを直してくれた。曲がってるわよ、って。3年間、毎朝、自分で結んで、曲がったまま出勤していたネクタイを」
宮本は、自分の首元に手をやった。
「何が知覚の歪みで、何が現実か。私には、もう線が引けない」
「先生。私の記憶は、本物なんでしょうか」
香織は、膝の上で手を握りしめた。
「横浜の海。父の肩車。氷川丸の煙突。小学校の入学式の桜。全部、はっきり覚えてるんです。色も、匂いも、風の温度も」
「幼少期の記憶というのは、驚くほど、後から作られるものです」
宮本は、言葉を選びながら、ゆっくりと答えた。
「写真を見て、親から話を聞いて、それがいつの間にか、自分の体験になる。実験でも確かめられています。子どものころ、ショッピングモールで迷子になった、という作り話を何度か聞かせるだけで、被験者の何割かは、それを自分の記憶として、細部まで語り始める」
「……」
「強い心的外傷のあと、記憶の一部に空白が生じることはあります。ただ、失われた範囲も、思い出し方も人によって違う。204号室の出来事については、私にも説明できません。だからこそ、あなたの記憶を、初めから偽物と決めつけたくないんです」
「つまり、私の子ども時代は」
「山岸さん」
宮本は、香織の目を見た。
「記憶の由来が曖昧でも、そこで育った感情まで偽物にはなりません。氷川丸を見上げた日に、お父さんがあなたを肩車した。それが火事のあとに起きた出来事なら、なおさら、あなたが生きてきた証拠です」
香織は、黙り込んだ。
父の肩の上から見た、氷川丸の煙突。赤と黒の、大きな煙突。あのとき、自分は何歳だったのか。父の肩車にしては、ずいぶん高かった気がする。足が、父の胸のあたりまで届いていた気がする。
10歳を過ぎた娘を、それでも肩車してくれた父。
香織の胸に、熱いものがこみ上げた。
「ただ、気になることがあります」
宮本の声が、少し低くなった。
「何ですか」
「あなたの記憶が書き換わる速度です。最初は、写真の中の少女だけだった。それが、名前に及んだ。ログイン画面。社員証。……まるで、外側から、あなたの人生が、少しずつ巻き戻されているようだ」
「巻き戻される……」
「どこへ、なのかは、わかりませんが」
ふたりの視線が、自然と、床に落ちた。
この部屋の、ちょうど真下。2階の、204号室。
ドアの向こうで、礼子の鼻歌が、ふと止んだ。
*
203号室のダイニングテーブルには、由佳の手料理が並んでいた。
肉じゃが。ほうれん草のおひたし。かぼちゃの煮つけ。豆腐とわかめの味噌汁。どれも、少し甘めの味付けだった。蓮の好みに合わせて、由佳がこの10年で少しずつ調整してきた味――ということに、なっている。
蓮は、上機嫌でビールを飲んでいた。
「来月のプレゼン、通ったらチームリーダーだってさ。部長が、高木に任せたいって。由佳のおかげだよ」
「蓮くんが頑張ったんだよ」
「いや、お前が毎朝弁当作ってくれるからさ。昼飯代浮いた分、本買って勉強できたし」
蓮は笑い、肉じゃがのじゃがいもを箸で崩した。そして、ふと、箸を止めた。
「なあ、由佳。変なこと、聞いていいか」
「なに?」
「最近、夢を見るんだ」
蓮は、グラスを置いた。ビールの泡が、ゆっくりと消えていく。
「知らない女の人が、段ボール抱えて、この部屋から出ていく夢。小柄で、髪を後ろで束ねてて。俺、その人に、何か言わなきゃいけない気がするんだ。ごめんとか、待ってくれとか。でも、名前が出てこなくて。呼び止められなくて」
由佳の箸が、止まった。
「起きると、胸の真ん中が、ぽっかり空いてるんだよ」
蓮は、自分の胸に手を当てた。
「幸せなのにさ。仕事もうまくいって、お前がいて。何も足りないものなんかないのに。変だよな」
「……疲れてるんだよ」
由佳は、微笑んだ。
「最近、残業続きだったでしょう。おかわりは?」
「ああ、もらう」
由佳は、蓮の茶碗を受け取り、台所に立った。炊飯器の蓋を開ける。白い湯気が、由佳の顔を包んだ。
蓮に背を向けたまま、由佳は、唇を強く噛みしめた。血の味がした。
*
その夜、香織は、サンライズ高輪の前の公園のベンチにいた。
由佳から、メッセージが届いたのだ。『少しだけ、お話しできませんか。公園で待っています』。管理会社の担当者の連絡先は、住民全員に配られている。けれど、由佳が香織に個人的に連絡してきたのは、初めてだった。
由佳は、薄手のコートの前をかき合わせながら、香織の隣に座った。
「呼び出して、ごめんなさい。山岸さんにしか、話せないことがあって」
「……由佳さん」
「私ね、見たことがあるの。赤いカーディガンの、女の子」
香織は、由佳を見た。由佳は、まっすぐに前を向いていた。公園の街灯の光が、彼女の横顔を青白く照らしていた。
「蓮くんと結婚して、10年。そういうことに、なってる。でも、ときどき、夢を見るの。10年前の、11月の雨の夜」
「……」
「蓮くんに、別れようって言われた夜。蓮くんには、もうひとり、好きな人がいたの。真理子さんっていう、会社の同期の人。私はね、そのころ、蓮くんと3年付き合ってた。結婚するんだと思ってた。でも、蓮くんは、真理子さんを選んだ」
由佳は、自分の手のひらを見つめた。
「私は、泣きながら車を運転して、帰る途中だった。雨がひどくて、ワイパーが追いつかなかった。首都高の、カーブのところで、曲がりきれなくて」
由佳の指が、かすかに震えた。
「ガードレールの冷たさ、覚えてるの。フロントガラスが割れる音も。ハンドルに額をぶつけたときの、鈍い痛みも。それから、何もかもが静かになって、雨の音だけが聞こえた」
「由佳さん」
「夢じゃないのよね、あれ」
由佳は、ようやく香織のほうを向いた。その目は、乾いていた。泣き尽くした後の目だった。
「先週、廊下で、あの子に会ったの。あの子、私を見上げて、言ったのよ。『おじさんが選び直してくれたから、お姉ちゃんは生きてるんだよ』って」
香織は、言葉を失った。
「私、本当は、10年前に死んでるの。蓮くんが、あの夜、私を選び直してくれたから、ここにいる。別れ話をしないで、私と結婚する人生を選んでくれたから」
由佳は、香織の手を握った。冷たい手だった。けれど、その指には、必死な力がこもっていた。
「お願い。あの部屋を閉じないで」
「……」
「消えた人を取り戻すってことは、私が、また死ぬってことでしょう? あの雨の夜に、ひとりで、ガードレールにぶつかって」
由佳の声が、震えた。
「蓮くんと、今度こそ子どもを作ろうって、話してるの。来年の春には、目黒川に桜を見に行こうって。この10年、一度も一緒に桜を見たことがないの。蓮くん、仕事が忙しくて。だから、来年こそはって」
由佳は、香織の手を握ったまま、うつむいた。肩が、小刻みに震え始めた。
「私、消えたくない」
香織は、その震える背中に、そっと手を置いた。それしか、できなかった。
誰かの幸せは、誰かの不在の上に建っている。
真理子さんを取り戻せば、由佳さんが消える。翔太くんを取り戻せば、遠藤さんのご主人は、すべてを失う。美緒さんを取り戻せば、宮本先生の奥さんは、また死ぬ。
正しい答えなんて、どこにもなかった。
公園からマンションへ戻ると、301号室の前の廊下で、久美子が待っていた。
手すりにもたれ、腕を組んでいる。廊下の蛍光灯の光が、彼女の顔に濃い影を落としていた。化粧はしていなかった。翔太が消えてから、久美子は一度も化粧をしていないのかもしれなかった。
「由佳さんと、話してたわね」
「……はい」
「ベランダから見えたの」
久美子は、手すりから身を起こした。
「あの人に、情けをかけないで」
「遠藤さん」
「私は、翔太を取り戻したい。そのためなら、何でもする。あの人が消えようが、夫の会社がなくなろうが、構わない。あなたもそうでしょう」
久美子は、香織に一歩近づいた。
「あなたの妹が、あの部屋にいるのよ」
香織は、凍りついた。
「沢田さんから聞いたわ。昨日の夜、管理人室で倒れたって。それで、問い詰めたの。あなたが、あの夜の長女だって」
久美子の顔が、ゆがんだ。怒りでも、悲しみでもない、もっと複雑な何か。23年分の感情が、いちどきに表面に浮かび上がってきたような顔。
そして、久美子は、深く頭を下げた。
腰を直角に折り、顔を床に向けて。理事会で住民に頭を下げるときとは違う、もっと深く、もっと長いお辞儀だった。
「……ごめんなさい」
くぐもった声が、廊下の床に落ちた。
「23年間、ずっと言いたかった。あなたに。あの夜、私が家を出なければ。30分だけなんて言わなければ。あなたの妹も、お母さんも」
「やめてください」
「あなたには、私を責める権利がある」
「私には、何の記憶もないんです!」
香織の叫びが、廊下に響いた。
蛍光灯が、じじ、と瞬いた。どこかの部屋で、犬が吠えた。
「責めることも、許すこともできない。だって、覚えてないんだから。あなたの顔も、あの夜のことも、妹の声も、母の顔も。自分が誰なのかも、わからないんだから」
香織の声が、かすれた。
「謝られても、困るんです。受け取る場所が、私の中にないんです」
香織は、久美子の横をすり抜け、階段を駆け下りていった。
久美子は、頭を下げたまま、動かなかった。廊下の床に、ぽたり、と、何かが落ちた。23年間、一度も流れることのなかったものが。
*
品川の自宅マンションに帰り着いたのは、午後11時を過ぎていた。
香織は、自分の部屋のドアの前に立ち、鍵を差し込んだ。
回らなかった。
「……え」
もう一度、差し直す。右へ。左へ。鍵は、鍵穴の中でびくとも動かなかった。まるで、別の部屋の鍵を差し込んでいるかのように。
香織は、ドアの横の表札を見た。
『山岸』
ちゃんと、書いてある。自分の字で、自分の名字が。
香織は、深呼吸をした。手が震えていた。もう一度、ゆっくりと鍵を差し込む。
今度は、すんなりと回った。
かちゃり、と、聞き慣れた音がした。
香織は、ドアを開けたまま、しばらく動けなかった。開いたドアの向こうの暗がりが、自分の部屋のものなのかどうか、確信が持てなかった。
*
電気をつけると、いつもの部屋があった。
几帳面に整えられたリビング。ローテーブルの上の、空になった母からの段ボール。キッチンのシンクに伏せたマグカップ。何も変わっていない。
香織は、ほっと息を吐いた。
そして、本棚の上の写真立てに、目が留まった。
1つ、増えていた。
香織の本棚には、写真立てが2つ置いてある。父の浩之の、在りし日の笑顔。そして、高校の卒業式で、佳奈と並んで撮った1枚。そのあいだに、見覚えのない3つ目の写真立てが、まるで最初からそこにあったように、すまして立っていた。
香織は、近づいた。
古い写真だった。ちゃぶ台を囲む、3人。エプロン姿の文乃。赤いカーディガンの鈴。そして、青いカーディガンの少女。8歳くらい。ちゃぶ台の上には、カレーライスの皿が3つ。3人とも、スプーンを持って、カメラに向かって笑っている。
青いカーディガンの少女は、幼い香織だった。
香織は、写真立てを伏せた。
かたん、という乾いた音が、静まり返った部屋に響いた。
香織は、その場に座り込んだ。フローリングの床が冷たかった。膝を抱え、額を膝に押し当てた。
誰を信じればいいのか、わからない。
母も、沢田さんも、宮本先生も。私の記憶も。私の名前も。私の部屋も。何もかもが、足元から少しずつ、砂のように崩れていく。
でも、たったひとりだけ、絶対に変わらない人がいる。
香織は、スマートフォンを取り出した。連絡先の、いちばん上。『佳奈』。
発信ボタンを押そうとして、指が止まった。
時計は、午前2時を回っていた。佳奈は、明日も朝から内見の予定が入っている。
明日、話そう。佳奈なら、きっと、笑って聞いてくれる。香織、また眉間にしわ寄ってるよって。それで、コーヒーを買ってきてくれる。ブラック、砂糖なし、人生も甘くなし。
香織は、スマートフォンを胸に抱いて、床の上で目を閉じた。
*
翌朝、香織は、いつもより少し早く出社した。
目の下に、深いくまができていた。コンシーラーで隠そうとしたが、うまくいかなかった。結局、そのまま家を出た。
賃貸管理課のフロアに入ると、佳奈がいた。自分のデスクで、パソコンに向かっている。茶色の髪が、朝の光の中で柔らかく揺れていた。
香織は、ほんの少しだけ、表情を緩めた。
佳奈がいる。いつもの場所に、いつもの佳奈が。
「佳奈、おはよう。昨日、ちょっと話したいことがあって」
佳奈が、振り返った。
いつもの笑顔だった。
けれど、その目に、親しみの色がなかった。礼儀正しく、感じがよく、そして、どこまでも他人行儀な目。初めて会う相手に向ける、社会人としての、完璧な笑顔。
「あ、おはようございます」
佳奈は、椅子から立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
「はじめまして。今日から同じチームの杉浦です。よろしくお願いします、山岸さん」
香織の手から、鞄が落ちた。
床に、中身が散らばった。手帳。ペンケース。財布。そして、『消えた人の記録』と書かれた、大学ノート。
「……あの、大丈夫ですか?」
佳奈が、慌ててしゃがみ込み、散らばったものを拾い集めてくれた。その手つきは、親切だった。見知らぬ同僚に対する、ごく当たり前の親切だった。
香織は、佳奈の顔を見つめた。
高校の文化祭。演劇部の舞台で台詞を忘れて立ち尽くした香織に、客席から大声で台詞を教えてくれた佳奈。ふたりで行った沖縄旅行。白い砂浜で、日焼け止めを塗り忘れて真っ赤になった佳奈。失恋した夜、ファミレスのドリンクバーで、朝まで付き合ってくれた佳奈。
15年分の思い出が、目の前の佳奈の顔の上で、音もなく、崩れていった。
「……佳奈」
「はい?」
「私たち、高校の演劇部で、一緒だったでしょう」
佳奈は、困ったように笑った。
「え? 私、静岡の高校ですけど……」
香織の視界が、にじんだ。
フロアの窓の外、遠く、高輪の方角の空が、まるで夕焼けのように、一瞬だけ赤く光った気がした。




