第5章 2003年8月9日
ちゃぶ台の上に、手作りのケーキがあった。
スポンジは少し傾いていて、生クリームの塗り方もでこぼこだった。いちごが、不揃いな間隔で並んでいる。真ん中に、チョコレートのプレート。白いチョコペンで、丸い字が書かれていた。
『かおり すず 10さい』
小さな手が、マッチを擦る。1本目は、しゅっと音を立てただけで、火がつかなかった。2本目で、ようやく小さな炎が生まれた。
「明日まで待てないもん」
少女の声がした。
「お母さんが帰ってきてからって、言ったじゃん」
もうひとりの少女の声が、それに答えた。
ろうそくに、1本、2本と火が灯っていく。扇風機の風に、小さな炎がそろって揺れた。
それが、香織の見た夢だったのか、それとも、どこかに眠っていた記憶だったのか。目を覚ましたとき、香織にはもう、区別がつかなくなっていた。
*
東京都立中央図書館の新聞閲覧室は、平日の午前中、ほとんど人がいなかった。
広尾の有栖川宮記念公園の緑に囲まれた、静かな建物。窓の外で、カラスが1羽、銀杏の枝に止まってこちらを見ていた。
香織と佳奈は、マイクロフィルムのリーダーの前に並んで座っていた。佳奈は、美緒のことを覚えていなかった。けれど、香織が「お願い、一緒に来て」と言ったとき、何も訊かずに有給休暇を取ってくれた。
「2003年8月10日の朝刊……」
佳奈が、ハンドルを回してフィルムを送っていく。モノクロの紙面が、画面の上を流れていく。政治、経済、国際、スポーツ。その夏の、遠い出来事たち。
「あった。社会面」
佳奈が、ハンドルを止めた。
画面の隅に、小さな記事があった。見出しは2行。わずか20行足らずの、ありふれた火災の記事だった。
『港区高輪のマンションで火災 母子2人死亡』
佳奈が、小さな声で読み上げた。
「9日午後10時ごろ、港区高輪のマンション2階の一室から出火、約30平方メートルを焼いた。焼け跡から、この部屋に住む飲食店従業員、白石文乃さん、35歳と、次女の鈴さん、9歳が見つかり、搬送先の病院で死亡が確認された。長女、9歳は自力で逃げ出して軽傷。警視庁高輪署は、室内のろうそくの火が原因とみて調べている」
佳奈は、そこで言葉を切った。
「白石文乃……鈴……」
香織は、画面から目を離すことができなかった。
「……長女」
「名前、書いてないね。未成年だから」
香織の視線は、画面の中の4文字に釘付けになっていた。
『長女(9)』
ろうそく。誕生日の前の日。双子の、生き残ったほう。
あの部屋で、2003年8月で止まったカレンダー。8月9日の赤い丸。『かおりとすずのたんじょうび まえのひ』。
佳奈が、香織の手を握った。香織の手は、氷のように冷たかった。
「香織。違うかもしれない。同じ年の子なんて、いくらでもいる。高輪に住んでた9歳の女の子なんて、何十人もいたよ」
「……そうだね」
「お母さんに、聞こう。ちゃんと」
香織は、首を横に振った。
「その前に、聞かなきゃいけない人がいる」
香織は、マイクロフィルムの画面を、もう一度見つめた。小さな活字の向こうに、23年前の夏の夜が、黒い煙のように立ち上ってくる気がした。
「23年間、ずっと黙ってきた人」
*
その日の午後、香織はサンライズ高輪の管理人室を訪ねた。
いつものように小窓の前に立つのではなく、香織は、管理人室の横のドアをノックし、返事を待たずに開けた。
6畳ほどの狭い部屋だった。古いブラウン管のテレビ、小さな冷蔵庫、壁には地元の信用金庫のカレンダー。部屋の真ん中に、こたつが置かれていた。10月なのに、もう布団がかけてある。
沢田は、こたつに足を入れて新聞を読んでいた。香織の顔を見て、ゆっくりと新聞を置いた。
香織は何も言わず、こたつの上に、1枚の紙を置いた。図書館で複写してきた、新聞記事のコピーだった。
沢田は、老眼鏡をかけ直し、その記事に目を落とした。
長い沈黙があった。
壁の時計の秒針が、こつ、こつ、と時を刻む音だけが、狭い部屋に響いていた。沢田は、記事を読み終えても顔を上げなかった。同じ20行足らずの活字を、何度も、何度も、目でなぞっているようだった。
「……やっと、ここまで来ちゃったか」
沢田は、ようやく顔を上げた。そして、ため息とも笑いともつかない息を、長く吐き出した。
「教えてください。204号室のこと。白石文乃さんと、鈴ちゃんのこと」
沢田は、老眼鏡を外した。小さな窓から、外を見上げる。管理人室の窓からは、中庭越しに、2階の204号室の窓が見えた。
「座りなさい。こたつ、入って」
香織は、靴を脱いで畳に上がり、こたつに足を入れた。電源は入っていなかったが、布団の内側には、沢田の体温がこもっていた。
「この建物ができて、1年目の春だった」
沢田は、窓の外を見たまま話し始めた。
「文乃さんがね、もうすぐ5歳になる双子の手を引いて、ここに来たんだ。ボストンバッグひとつ提げてね。住むところがないって。旦那に逃げられて、借金だけ残されて、保証人もいない。不動産屋をいくつ回っても、どこも貸してくれないって」
沢田の目に、28年前の春の光が映っているようだった。
「双子の片方は、赤いカーディガンを着てた。もう片方は、青いカーディガン。ふたりとも、母親のスカートの陰に隠れて、俺のことを睨んでた。睨んでるくせに、目がまん丸で、かわいくてね」
「……」
「オーナーが機械室を勝手に部屋にしたのは知っていた。届けのない部屋だ。消防設備のことだって気になっていた。それでも俺が頼み込んだ。安く貸してやってくれって。帳簿に載せず、郵便は管理人室で預かる。住民票は文乃さんの実家のまま。あの人たちを助けたつもりで、俺は危ない部屋へ通してしまった」
「だから、入居履歴がない……」
「あの子たちは、この建物に存在しないことになってた」
沢田は、ゆっくりと香織に視線を戻した。
「それでも、幸せそうだったよ。双子がね、廊下をばたばた走って。俺のこと『さわじい』って呼んで。雨の日には、この管理人室に入り浸って、こたつで宿題やって。みかん剥いてやると、ふたりで取り合いして」
沢田は、笑おうとした。その顔が、途中で歪んだ。
「鈴ちゃんは甘えん坊で、いつも姉ちゃんの後ろにくっついてた。姉ちゃんはしっかり者で、妹の世話を焼いて。ランドセルの中身まで確かめてやってね。でもね、ときどき大喧嘩するんだ。姉ちゃんが『鈴なんか知らない』って泣きながら、ここに逃げてきて。こたつに潜って、出てこないの。しばらくすると、今度は鈴ちゃんが『おねえちゃん、ごめんね』って、ドアの前で泣くんだよ」
香織は、こたつ布団の下で、膝の上の手を握りしめた。
その光景が、なぜか見えた。こたつの中の暗がり。布団の隙間から漏れる、オレンジ色のヒーターの光。ドアの向こうの、小さなすすり泣き。
見えるはずのない光景が。
「2003年8月9日」
沢田の声が、低くなった。
「双子が10歳になる前の夜だった」
あの夜のことは、昨日のことのように覚えている、と沢田は言った。
23年前、沢田は47歳だった。妻とは早くに別れ、子どももいなかった。管理人室の奥の小部屋に寝泊まりし、昼も夜もこの建物の番をしていた。それが、自分の人生のすべてだと思っていた。
その夜、沢田はこたつで、野球中継を見ていた。巨人と阪神の試合だった。8回の裏、満塁のチャンスで、打者が三振に倒れた。沢田は舌打ちをして、ビールの缶を傾けた。
窓の外を、人影が横切った。
2階の廊下から、階段を駆け下りていく少女の姿が見えた。高校生の久美子だった。当時はまだ、302号室に両親と住んでいた。浮かれた顔で、携帯電話を耳に当て、何か笑いながら話している。エントランスを抜けて、夜の坂道へ消えていった。
「久美子ちゃんが出ていくのを、見たんだ」
沢田は、こたつの天板の木目を、指でなぞった。
「文乃さんが夜の仕事に出てるあいだ、双子を見てるはずの子が。どこへ行くんだって、思った。思ったのに、俺は声をかけなかった。野球の続きが、気になってね」
沢田の指が、止まった。
「それから、何十分か経ったころだ。焦げ臭い匂いがした」
沢田は顔を上げた。窓の外。中庭の向こう。2階の、あの部屋の換気口から、黒い煙が、細く、しかし確かに、夜空へ立ち上っていた。
「消火器を抱えて、階段を駆け上がった。そうしたら、廊下に姉ちゃんがうずくまってた。階段の踊り場のところに。青いカーディガンで、膝を抱えて。泣きながら、『鈴が、鈴が』って、それしか言わない」
香織は、息をするのを忘れていた。
「ドアを開けたら、もう火が天井まで回ってた。熱で、顔の皮膚が焼けるかと思った。消火器なんか、何の役にも立たなかった。中から、鈴ちゃんの声が聞こえた気がした。聞こえなかったのかもしれない。でも、俺は、聞こえた気がした」
沢田は、両手で顔を覆った。
「そこへ、文乃さんが帰ってきた。仕事を早退してきたんだ。明日の誕生日の準備をするからって。スーパーの袋を提げて。袋の中に、ろうそくと、クラッカーと、いちごのパックが入ってた」
「……」
「止めた。俺は止めたんだ。腕をつかんで、行くなって。消防車が来るまで待てって。それでも、文乃さんは、俺の手を振りほどいて、火の中に入っていった。鈴ちゃんを助けに」
沢田の肩が、震えた。こたつの天板に、ぽたり、ぽたりと、雫が落ちた。
「ふたりとも、出てこなかった」
香織の頬を、涙が一筋、流れた。
なぜ泣いているのか、わからなかった。悲しい話を聞いたからではなかった。胸の奥の、ずっと鍵をかけて閉ざしていた部屋のドアが、内側から、どんどんと叩かれているような感覚だった。
「オーナーは、全部なかったことにした」
沢田は、顔を覆っていた手を下ろした。目が真っ赤だった。
「オーナーは、事故のあとも部屋の存在を隠そうとした。違法な改装が表に出れば責任を問われる。警察には、空室に母子が一時的に寝泊まりしていたと説明した。報道にはマンション名が出なかった。焼け跡は改装され、帳簿も書き換えられた。俺は、それを見ていた。止めることも、証言することもしなかった」
沢田は、窓の外の204号室を見上げた。
「『204号室は、空室です』。それが、この建物の決まりになった。誰かに訊かれたら、そう答えろ。それが、俺の仕事になった」
「沢田さんも、それに従った」
「従ったよ」
沢田は、自嘲するように笑った。
「仕事を失うのが怖かった。行くところがなくなるのが怖かった。……だから、あの子たちの居場所まで、俺がなくした」
沢田は、香織を見た。まっすぐに。
「生き残った姉ちゃんを、親戚が引き取っていった。文乃さんのお姉さんだって人が、横浜から迎えに来て。あの子が、二度とここのことを思い出さずに済むならって、そう思ったんだ。この建物がなかったことになれば、あの子の地獄も、なかったことになるんじゃないかって」
弁解だ、と香織は思った。助けてくれた人をそんなふうに呼ぶのは残酷だとも思った。それでも、誰かの善意は、誰かの過失を帳消しにするのだろうか。柿を差し出す沢田の手と、記録の抹消を黙認した手は、同じ手だった。
「沢田さんがエントランスのプレートを磨いてるの、あれは」
「……ああ」
沢田は、ふっと笑った。
「あの子たち、毎朝、学校に行く前に、あのプレートに手を触れてから出ていったんだ。行ってきますって。それで、いつもぴかぴかにしておいたんだよ。指紋がつくから。……今は、ただの癖だ」
*
301号室のリビングに、夕焼けの光が満ちていた。
久美子は、窓際に立っていた。見知らぬ豪華な家具に囲まれて、彼女の後ろ姿だけが、ひどく場違いに見えた。香織は、その背中に向かい合っていた。
「沢田さん、話したのね」
久美子は、振り返らずに言った。
「あの夜、どこへ行ったんですか」
久美子は、目を閉じた。窓ガラスに、彼女の顔がうっすらと映り込んでいた。
「……彼氏に会いに。駅前のファミレス。30分だけって」
久美子の声は、平坦だった。何度も心の中で繰り返して、感情がすっかり擦り切れてしまった声。
「双子には、テレビを見てなさいって言った。ろうそくは絶対に触っちゃだめよって。冷蔵庫のケーキ、お母さんが帰ってくるまで我慢してねって。ふたりとも、はーいって、いい返事をした」
「その彼氏は」
「修よ。今の夫」
香織は、息をのんだ。
「大学生で、あの人に夢中だった。電話が来て、30分だけなら平気だと思った。双子は明日10歳になるし、しっかりしているからって。でも『しっかりしている』って、あの子たちが自分で言ったわけじゃない。私がそう決めたの」
久美子は、窓ガラスに額を押し当てた。
「戻ってきたら、消防車が来てた。坂の下まで、赤いランプがぐるぐる回ってた」
「……」
「私は、何も言えなかった。誰にも。警察にも、自分の親にも。双子を置いて出かけたことも、ベビーシッターをしてたことさえ。オーナーが全部なかったことにしてくれたから、私も、なかったことにした。夫にさえ、あの夜のことは話してない。私は逃げたの。この建物から出ていく勇気もないくせに」
「だから、理事になったんですか。204号室を見張るために」
「見張るため?」
久美子は、ようやく振り返った。その顔に、乾いた笑みが浮かんでいた。
「……違う。償いのつもりだった。毎日、あの部屋の前を通って、心の中で、ごめんなさいって言うの。23年間、毎日。結婚して、この建物の別の部屋を買ったのも、そのため。夫は、駅に近くて便利だからって思ってる」
久美子は、香織に一歩近づいた。
「でも、その罰が、翔太なのね」
「遠藤さん」
「私は、あの子たちから目を離した。だから、私の子どもが消えた。因果応報って、こういうことを言うのよ」
「違います。そんなのは」
「違わないわ」
久美子の目に、涙が浮かんでいた。けれど、それは決してこぼれ落ちなかった。23年間、泣くことさえ自分に許してこなかった人の目だった。
「あの部屋はね、覚えてるのよ。全部」
305号室では、宮本が、礼子の淹れたお茶を前にして座っていた。
手をつけていなかった。湯呑みから立ち上る湯気が、少しずつ細くなっていく。礼子は買い物に出かけていて、部屋には宮本と香織のふたりだけだった。
部屋の様子は、数日前とは違っていた。本棚の医学書のあいだに、旅行のガイドブックが何冊も挟まっている。箱根、京都、金沢、函館。冷蔵庫の扉には、ふたりで撮った写真がマグネットで留めてあった。紅葉の寺の前で、礼子が少し首をかしげて笑っている。その隣で、宮本が照れくさそうにピースをしていた。
「この写真の私を、私は知らないんです」
宮本は、冷蔵庫のほうを見ずに言った。
「妻と過ごせる時間が、こんなに苦しいとは思わなかった」
香織は、何も言えなかった。
「妻が笑うたびに、あの子の顔が浮かぶ。岡崎さんが、私の腕をつかんだ力が。あの小さな手の、必死な力が」
宮本は、自分の右腕を見下ろした。パジャマの袖をつかまれた、その場所を。
「私は患者に、過去に起きたことと、その人の責任を分けて考えようと伝えてきました。災害で家族を失った人にも、事故の遺族にも。けれど今は、自分だけが救われる現実を、どう扱えばいいのかわからない。正しい説明を持っていても、正しく選べるわけではないんですね」
「先生」
「せいなんですよ。人は、誰かのせいで、誰かを失う。そのせいを、どこにも置けないから、苦しむんです。私はそれを、自分の番になるまで、わかっていなかった」
「あの部屋を閉じる方法を探します」
香織は、静かに、しかしはっきりと言った。
「消えた人を、取り戻す方法を」
宮本は、ゆっくりと顔を上げた。
「その方法が見つかったら、妻はまた死ぬのでしょうか。私が願った、という事実まで、元に戻りますか」
香織は、答えられなかった。
部屋の中に、重い沈黙が落ちた。冷蔵庫のモーターが、低く唸り始めた。
「……すみません」
宮本は、目を伏せた。
「……すみません。あなたに決めさせようとした。私が引き受けるべき問いでした」
宮本は、冷めかけた湯呑みを両手で包んだ。
「協力します。私に何ができるかわかりませんが。あの部屋の少女について、わかることを整理しましょう。精神医学というのは、ときに幽霊より理屈っぽいものですから」
宮本は、そう言って、ほんの少しだけ笑った。それは、香織が初めて見る、宮本の弱々しい笑顔だった。
*
夜。香織は、2階の廊下で、204号室の前に立っていた。
隣の203号室から、楽しげな笑い声が漏れ聞こえてくる。蓮と由佳の声。テレビのバラエティ番組の音。食器の触れ合う音。幸せな家庭の、ありふれた夜の音。
203のドアが開き、由佳がゴミ袋を提げて出てきた。香織に気づき、柔らかく微笑んだ。
「山岸さん。遅くまでお疲れさまです」
「……由佳さん」
「最近、ここ、にぎやかですね」
由佳は、204号室のドアに目をやった。
その目が、ほんの一瞬だけ、怯えたように揺れた。それは、香織が初めて見る、由佳の笑顔以外の表情だった。
「夜中に、女の子の歌が聞こえるの。ハッピーバースデーの歌。いつも、名前のところで止まるのよ」
「由佳さん、あなたも、あの子を見たんですか」
由佳は答えなかった。唇に浮かんだ笑みだけが、最後まで消えなかった。香織には、それが秘密を隠すためなのか、何かを知られたうえで放っておいてほしいという頼みなのか、わからなかった。
「おやすみなさい」
由佳は、ゴミ置き場のほうへ去っていった。その背中が、廊下の角を曲がって見えなくなるまで、香織は見送った。
*
香織は、マスターキーで204号室のドアを開けた。
明かりがついていた。
ちゃぶ台。ブラウン管のテレビ。壁のクレヨンの絵。そして、2003年8月のカレンダー。8月9日の欄に、赤いサインペンで丸がつけてある。その下に、子どもの字。
『かおりとすずのたんじょうび まえのひ』
美緒が留守番電話で言っていたとおりだった。
台所の流しの前に、文乃が立っていた。香織に背を向けたまま。水道の蛇口から、細く水が流れていた。
「白石文乃さん」
香織は、その名前を、初めて口にした。
文乃は、ゆっくりと振り返った。
「あなたは、2003年8月9日に、この部屋で亡くなった」
「……そう。調べたのね」
文乃は、蛇口を閉めた。水の音が、止まった。
「どうして、ここにいるんですか。どうして、みんなの人生を書き換えるんですか」
「書き換えているのは、私じゃない」
「じゃあ、鈴が」
「鈴は、待っているだけ」
文乃の声は、静かだった。疲れ切った、母親の声だった。
「ずっと、ずっと、たったひとりを」
文乃は、香織に近づいた。手を伸ばしかけて、止めた。その指先が、香織の頬から数センチのところで、宙に浮いたまま震えていた。
「お願い。もうここに来ないで。この部屋に入ったら、あなたは帰れなくなる」
「どうして、私だけなんですか」
文乃は、何かを言いかけた。唇が、かすかに開いた。けれど、言葉は出てこなかった。文乃は、唇を強く噛んだ。
襖の奥から、歌声が聞こえてきた。
「ハッピーバースデー、トゥーユー……ハッピーバースデー、トゥーユー……」
鈴の声だった。細く、澄んだ、子どもの声。
「ハッピーバースデー、ディア……」
歌が、そこで止まった。
「行きなさい!」
文乃が、香織の肩を押した。強く。香織は廊下へよろめき出た。振り返ったときには、もうドアは閉まっていた。ドアの下の光が、ふっと消えた。
*
香織は、階段を駆け下りた。
管理人室のドアを叩く。何度も。沢田が、こたつから顔を上げた。もう寝ようとしていたのだろう。パジャマの上に、どてらを羽織っていた。
「沢田さん。最後に、ひとつだけ教えてください」
沢田は、黙ってこたつから出て、香織の前に立った。
「生き残った女の子の名前は、何ですか」
沢田は、答えなかった。
ただ、ゆっくりと、香織の顔を見つめた。額。眉。目。鼻。唇。顎。ひとつひとつを、確かめるように。まるで、23年分の時間を、その顔の上に重ね合わせているかのように。
沢田の目に、涙がたまっていった。
「さわじい、って、呼んでくれたね」
「……え」
沢田は、震える手を伸ばした。皺だらけの、節くれだった手だった。その手が、香織の頭の上に、そっと置かれた。小さな子どもにするように。
「香織ちゃん」
沢田の声が、かすれた。
「……大きくなったなあ」
香織の世界から、音が消えた。
閃光のように、何かが、頭の中を駆け抜けた。
赤いカーディガンと、青いカーディガン。薄暗い廊下を、ばたばたと走っていくふたりの少女。
管理人室のこたつ。オレンジ色のヒーターの光。皺のない、まだ黒い髪の沢田が、みかんを剥いて、半分ずつ手渡してくれる。
煙。熱。泣き叫ぶ、自分の声。
「鈴!」
香織は、その場に崩れ落ちた。
沢田の腕が、香織を受け止めた。その腕は、23年前と同じように、温かかった。




