第10章 204号室は空室です
風鈴が、鳴っていた。
ちりん、ちりん、と、扇風機の風に揺られて。軒先に吊るされた、江戸風鈴。金魚の絵が描かれた、ガラスの風鈴。夏祭りの夜店で、文乃が双子にひとつずつ買ってやったものだった。ひとつは、火事で割れた。もうひとつは、どこへ行ったのか、誰も知らない。
ちゃぶ台を、3人が囲んでいた。
文乃。鈴。そして、10歳の香織。
部屋の入り口に、33歳の香織と、佳奈が立ち尽くしていた。
「座りなよ」
10歳の香織が、言った。ちゃぶ台の、空いている場所を、顎でしゃくった。
「ここ、あなたの場所だよ」
そこには、もうひとつ、座布団が敷かれていた。水色の布地に、青い糸の刺繍。『かおり』。10歳の香織が座っている座布団と、まったく同じもの。
香織は、ゆっくりと、ちゃぶ台の前に座った。
佳奈は、壁際に立ったまま、動かなかった。動けなかったのかもしれない。両手を胸の前で握りしめ、息を殺して、その光景を見つめていた。
「……あなたは、誰」
香織は、10歳の自分に訊いた。
「わかってるくせに」
10歳の香織は、肩をすくめた。大人びた仕草だった。10歳の子どもがするには、少し大人びすぎた仕草。
「あの夜、階段の踊り場で、耳を塞いで泣いてた私。あなたが、ここに置いていった私」
10歳の香織は、ケーキのろうそくを、指でなぞった。
「あなたは、横浜で大人になった。山岸香織になって、新しいお父さんとお母さんに育ててもらって、学校に行って、友達を作って、会社に入った。でも、私は、ずっとここにいた」
「……」
「ろうそくに火をつけたことも、鈴にひどいことを言ったことも、耳を塞いだことも。全部、私が持ってた。あなたが忘れてるあいだ、23年間、ずっと、私がひとりで持ってた」
10歳の香織の声は、責めるようではなかった。ただ、事実を告げるように、淡々としていた。それが、かえって香織の胸を抉った。
「ねえ、見せてあげる」
10歳の香織は、ちゃぶ台の上のマッチ箱を手に取った。
「選び直したら、どうなるか」
10歳の香織は、マッチを擦った。1回で、火がついた。
ろうそくの1本に、火が灯った。
*
柔らかな光が、部屋を満たした。
その光の中に、映像が浮かび上がった。古い家庭用ビデオの映像のように、少し色が滲んで、少し揺れている。けれど、そこに映っている人々の笑顔は、どこまでも鮮明だった。
2003年8月10日。
サンライズ高輪の204号室。朝の光が、カーテン越しに差し込んでいる。文乃は、仕事を休んでいた。ちゃぶ台の上に、ケーキ。10本のろうそくに、火が灯っている。双子が、並んで座っている。赤いカーディガンと、青いカーディガン。
「せーの」
ふたりが、同時に、ろうそくを吹き消した。文乃が、拍手をしている。煙の匂いのない、ただ甘いだけの誕生日。
2006年4月。
中学校の入学式。桜の花びらが舞う校門の前。おそろいの紺のセーラー服を着た香織と鈴が、少し照れくさそうに並んでいる。文乃が、ふたりをまとめて抱きしめる。セーラー服の襟が、くしゃくしゃになる。鈴が笑い、香織が文句を言う。
2014年1月。
成人式。区民会館の前で、振袖姿のふたり。鈴は赤い振袖。香織は青い振袖。文乃が、ハンカチで目元を押さえている。そこに、横から、花束を抱えた女性が現れる。道子だった。文乃と道子が、何年ぶりかで向かい合う。道子が、花束を差し出す。文乃が、それを受け取って、姉に抱きつく。浩之が、少し離れたところで、カメラを構えている。
2020年6月。
結婚式場のチャペル。ステンドグラスから差し込む光の中を、ウエディングドレスの鈴が、ゆっくりと歩いていく。26歳。バージンロードの先で、鈴の手を、新郎に渡しているのは、香織だった。父親のいない花嫁を、姉が送り出している。鈴が、ベール越しに、香織にだけわかるように、えくぼを作って笑う。
2026年8月。
どこかのレストランの個室。文乃の58歳の誕生日。香織と鈴、33歳のふたりがケーキを挟んで座っている。鈴の膝には3歳くらいの女の子。母親とそっくりのおかっぱ頭。香織は、今まで見たことのない自分の笑い方を、そこに見た。
「お母さん、ろうそく、吹いて」
鈴が、言った。
「1本でいいわよ、もう恥ずかしい」
文乃が、笑った。目尻に皺を寄せて。右の頬に、えくぼを浮かべて。
笑い声。
笑い声。
笑い声。
*
光が、ゆっくりと薄れていった。
204号室の裸電球の光が、戻ってきた。ちゃぶ台の上で、1本のろうそくが、静かに燃えていた。
香織の頬を、涙が伝っていた。
いつから泣いていたのか、わからなかった。
「全部、本当になるよ」
10歳の香織が、言った。
「ここで、『選び直す』って言えば」
文乃は、ちゃぶ台の向こうで香織を見ていた。唇が動きかけたが、言葉は出なかった。娘が望めば生き返れる母親に、正しい答えなどあるのだろうか。香織には、母が自分と同じくらい答えを恐れているように見えた。
「おねえちゃん」
鈴が、香織の袖を引いた。
「一緒にいよう。今度は、ずっと」
香織は、鈴を見た。
そっくりな顔。右の頬のえくぼ。23年間、毎朝、鏡の中で見ていた顔の、もう半分。
ずっと、足りなかった半分。
「……選び直したら、何が、いなくなるの」
香織は、訊いた。
鈴は、黙った。目を伏せて、カーディガンの裾を指でいじった。
代わりに、10歳の香織が、答えた。
「山岸香織」
10歳の香織は、33歳の香織をまっすぐに見た。
「横浜で育った、あなた。道子おばさんの娘で、浩之おじさんの娘で、吹奏楽部でクラリネットを吹いて、ろうそくのないケーキを食べた、あなた。それから――」
10歳の香織は、部屋の壁際に、視線を移した。
佳奈が、自分の手を見つめていた。
その指先が、うっすらと、透けていた。
裸電球の光が、佳奈の指を透かしていた。
指の輪郭が、ぼんやりと滲んでいる。その向こうに、壁のクレヨンの絵が、薄く透けて見えた。まるで、薄いガラス細工の指のように。
「……あ」
佳奈は、自分の手を、裏返したり、表に返したりした。
「これ、そういうことか」
「佳奈!」
香織は、立ち上がりかけた。
「大丈夫。まだ、大丈夫」
佳奈は、透けかけた手を、ぎゅっと握りしめた。そして、笑ってみせた。いつもの、佳奈の笑顔で。少しだけ、引きつっていたけれど。
「香織、私を見て。消えていいなんて、一度も言ってないからね。私はここにいる。怖いし、腹も立つ。だから、私の顔を見たまま、決めて」
「何、言ってるの」
「だって、見たでしょ、今の」
佳奈は、ちゃぶ台の上の、燃えているろうそくを見た。
「お母さんがいて、妹がいて、ろうそくを毎年吹ける人生。妹の結婚式で、バージンロード歩いて。姪っ子まで、いて」
佳奈の声が、少しだけ震えた。
「……私だったら、選ぶもん」
「佳奈」
「私はたぶん、香織のこと、忘れるだけ。もう一回、忘れるだけだよ。慣れてる」
佳奈は、笑おうとした。けれど、その笑顔が、途中で崩れた。目に、涙がたまっていた。
「でもさ」
佳奈は、透けかけた手で、涙を拭った。
「もし、選ばないなら」
佳奈は、香織を、まっすぐに見た。
「私のためじゃなくて、香織のために、選ばないで」
香織は、佳奈を見つめた。
それから、ちゃぶ台の向こうの、文乃を見た。
文乃は、まだ、何も言っていなかった。この部屋に香織が入ってきてから、「おかえり」と言ったきり、ひとことも。
「……お母さん」
香織は、言った。
「どうして、何も、言わないの」
文乃は、ゆっくりと、口を開いた。
「言ってしまったら」
文乃の声は、静かだった。
「あなたは、私のために、選ぶでしょう」
「……」
「私が、選び直してほしいと言えば、あなたは選び直す。選び直さないでと言えば、選び直さない。あなたは、そういう子だった。小さいころから。自分が欲しいものより、私や鈴が欲しいものを、先に考える子だった」
文乃は、自分の手のひらを見つめた。
「あの夜、私は、職場で、時計ばかり見てた」
文乃は、話し始めた。
「早く帰りたい。ふたりの顔が見たい。明日の誕生日の準備をしなきゃ。いちごを買って、クラッカーを買って、ろうそくを買って。お店のママに頭を下げて、早退させてもらった。スーパーに寄って、坂を駆け上がって」
文乃の指が、かすかに震えた。
「階段を上がったら、煙が見えた。廊下に、あなたがうずくまってた。泣きながら、鈴が、鈴がって。沢田さんが、私の腕をつかんで、行くなって。でも、私は、振りほどいて、火の中に入った」
「……」
「火の中に飛び込んだとき、私は、選び直したいと思った。心の底から」
文乃は、顔を上げた。
「あの朝、仕事を休んでいれば。もっと、お金があれば。ふたりに、もっと広い部屋をあげられていれば。こんな、記録にも残らない、違法な部屋じゃなくて。窓の大きな、ちゃんとした部屋を。私が、もっとまともな男を選んでいれば。姉さんの言うことを聞いていれば。……数えきれないくらい、選び直したいと思った」
文乃の目から、涙がこぼれた。
「でもね、香織」
文乃は、香織の目を、まっすぐに見た。
「あの5年間を、なくしてしまいたいと思ったことは、一度もないの。だけど、火事の夜まで選びたいわけじゃない。鈴が死んでよかったなんて、そんなことは一生言えない」
香織は、息をのんだ。
「狭くて、違法で、記録にも残らない部屋だったけど」
文乃は、部屋を見回した。ちゃぶ台。ブラウン管のテレビ。壁のクレヨンの絵。柱の背比べの線。
「私たちは、ちゃんと、ここに住んでた。毎晩、3人でカレーを食べて。こたつで、3人でくっついて寝て。あなたたちが、廊下をばたばた走って、さわじいに叱られて。柱に、毎年、線を引いて。あなたたちが、少しずつ大きくなっていくのを、この目で見て」
文乃の声が、詰まった。
「あの5年間は、私の人生でいちばん幸せな5年間だった。いま、ここにいるあなたを消して取り戻すとしたら、それはもう、あのころの幸せとは違うものになってしまう」
文乃は、ちゃぶ台越しに、香織の手を取った。
「選び直さなかった人生も、あなたの人生よ」
文乃の手は、温かかった。
「道子姉さんに育ててもらって。浩之さんに肩車してもらって。ろうそくのないケーキを食べて。親友に出会って。仕事をして。ちゃんと、大きくなって。……私はね、あなたのその人生を、消したくない」
文乃は、香織の手を、強く握った。
「それが、私の、母親としての、たったひとつのわがまま」
香織は、声を上げて泣いた。
ちゃぶ台に突っ伏して。母の手を握ったまま。
*
どれくらい、そうしていただろう。
香織は、ゆっくりと顔を上げた。手の甲で、涙を拭った。
そして、10歳の自分に、向き直った。
「……ねえ」
「なに」
10歳の香織は、警戒するように、少しだけ身を引いた。
「23年間、ひとりで持っててくれて、ありがとう」
10歳の香織の表情が、揺れた。
大人びた仮面に、小さなひびが入ったように。
「ろうそくに、火をつけたのは、あなた」
香織は、静かに言った。
「マッチを擦ったことも、ひどいことを言ったことも、消せない。鈴が傷ついたことも。けれど、ひとつの言葉だけであなたの全部を裁くことは、誰にもできない。大人になった私にだって」
「……」
「まだ9歳だったんだよ。誕生日が来る前の夜だった」
香織は、10歳の自分の顔を、まっすぐに見た。
「お母さんに抱っこしてほしかった。鈴ばっかりじゃなくて、私を見てほしかった。そんな気持ちに気づいてもらえなくて、どこにも持っていけなかった。でも、だからって、あの言葉が鈴を傷つけなかったことにはならない」
10歳の香織の唇が、震えた。
「……でも、鈴が」
その声は、もう、大人びてはいなかった。ただの、10歳の女の子の声だった。泣くのを我慢している、女の子の声。
「うん」
香織は、うなずいた。
「だから、一緒に、謝ろう」
香織は、10歳の自分の手を、取った。
小さな手だった。冷たくて、湿っていて、震えていた。マッチを擦った手。鈴の肩を押した手。耳を塞いだ手。
ふたりで、手をつないだまま、鈴のほうへ向き直った。
「鈴」
鈴が、顔を上げた。
涙で、顔がぐしゃぐしゃになっていた。
香織は、深く息を吸った。23年分の息を。
「『いなくなればいいのに』って、あのとき、思った。ほんの一瞬、本当に思ってしまった」
香織の声が、震えた。
「でも、それが最後に鈴へ渡す言葉になるなんて、知らなかった。謝りたかった。ごめんね、鈴。ずっと待たせて、ごめんね」
鈴の目に、涙があふれた。
「大好きだよ、鈴」
香織は、言った。
「ずっと、ずっと、言いたかった」
鈴は、顔をくしゃくしゃにして、ちゃぶ台を回り込み、香織に飛びついた。
小さな体が、香織の胸に、ぶつかってきた。
「……知ってたよ」
鈴は、香織の胸に顔を埋めたまま、言った。
「おねえちゃんが、本気じゃないの、知ってたよ。だって、おねえちゃん、怒るといつも、反対のこと言うもん」
「……」
「わたしも、ごめんね」
鈴の声が、香織の胸の中で、くぐもった。
「ろうそく、倒しちゃって。おねえちゃんが帰ってきたら、一緒に吹こうと思ったの。だから、一回、全部消そうとしたの。それだけだったの。それだけだったのに」
香織は、鈴を、強く抱きしめた。
冷たかった体が、少しずつ、温かくなっていった。香織の体温が、鈴に移っていくように。あるいは、鈴の中に、23年ぶりに、血が通い始めたように。
気がつくと、10歳の香織の姿は、消えていた。
香織の手の中に、あの小さな手の温もりだけが、残っていた。握りしめると、それは、香織自身の手のひらの温度になって、ゆっくりと溶けていった。
香織は、鈴を抱いたまま、立ち上がった。
鈴の体を、そっと畳の上に下ろした。そして、文乃と鈴を、交互に見た。
「私は、選び直さない」
風鈴が、強く鳴った。
ちりん、ちりん、ちりん。扇風機の風ではなかった。どこからともなく吹き込んできた風が、部屋じゅうを駆け抜けた。
「この人生で、生きていく」
香織は、言った。一語一語を、確かめるように。
「お母さんと鈴を失った人生で。ろうそくのないケーキを食べて育った人生で。山岸香織として生きてきた、この人生で。……この人生が、私の人生だから」
壁際で、佳奈が、小さく声を上げた。
透けかけていた佳奈の指が、少しずつ、元の色を取り戻していった。爪の先の、剥げかけたネイルの色まで。
佳奈は、その場に、へたり込んだ。
「……ばか」
佳奈は、両手で顔を覆った。
「泣かせないでよ」
文乃が、ちゃぶ台を回り込み、香織の前に立った。
そして、香織を、抱きしめた。
初めて、母親として。
香織の頭を、自分の肩に引き寄せて。背中を、ゆっくりと撫でながら。10歳の娘を寝かしつけるときのように。
「大きくなったね、香織」
文乃の声が、香織の耳元で、震えた。
「……お母さん」
香織は、文乃の背中に腕を回した。エプロンの紐の結び目が、指に触れた。洗剤と、カレーと、ほんのかすかな香水の匂い。覚えていないはずの匂い。けれど、体が、覚えていた。
「道子姉さんに、伝えて」
文乃が、言った。
「ありがとうって。この子を、こんなに立派に育ててくれて、ありがとうって。それから、ごめんねって。あのとき、姉さんの言うことを聞かなくて、ごめんねって」
香織は、文乃の肩に顔を埋めたまま、うなずいた。
「ねえ」
鈴が、ふたりのあいだに、割り込んできた。
「最後に、お誕生日、しよう」
鈴は、ちゃぶ台の上のマッチ箱を手に取り、香織に差し出した。
香織は、それを受け取った。
手が、震えた。マッチ箱の、角の潰れた感触。擦り紙の、黒ずんだざらつき。23年前、踏み台の上で手にした、あのマッチ箱と、同じ重さ。
香織は、マッチを1本、取り出した。
擦った。
1回で、火がついた。
1本目のろうそくに、火を灯した。2本目。3本目。ピンク。水色。黄色。白。ひとつ、またひとつ。
10本のろうそくに、火が灯った。
小さな炎が10個、ちゃぶ台の上で、並んで揺れていた。その光が、4人の顔を、オレンジ色に照らしていた。
もう、怖くはなかった。
「……歌う?」
佳奈が、遠慮がちに訊いた。
「歌って」
香織が、言った。
佳奈は、立ち上がった。手拍子を始めた。
「ハッピーバースデー、トゥーユー……」
少し外れた音程だった。佳奈は、昔から歌が下手だった。それを、香織は覚えていた。カラオケで、いつも、ひとりだけ半音ずれていた。
「ハッピーバースデー、トゥーユー……」
文乃が、続いて歌い始めた。柔らかな、少しかすれた声。子守唄を歌い慣れた声。
鈴も、歌った。細く、澄んだ声で。
香織も、歌った。
4人の歌声が、狭い部屋に満ちた。
「ハッピーバースデー、ディア……」
歌が、そこで止まらなかった。
23年間、毎晩、名前のところで途切れていた歌が。
「香織と、鈴……」
佳奈が、ふたりの名前を、高らかに歌い上げた。
「ハッピーバースデー、トゥーユー……」
香織と鈴は、顔を見合わせた。
同じ顔。同じえくぼ。
「せーの」
鈴が、言った。
ふたりで、息を吸い込んだ。そして、同時に、吹いた。
10本の炎が、一度に、消えた。
暗闇。
細い煙が、10本、ゆらゆらと、天井へ昇っていった。
*
暗闇の中で、懐中電灯の明かりが灯った。
佳奈が、スマートフォンのライトをつけたのだった。白い光の輪が、奥の和室の、柱を照らした。
背比べの線。
『すず 9さい』『かおり 9さい』
その上に、まだ、何も書かれていない、白い木肌。
鈴が、ちゃぶ台の上から、短くなった鉛筆を取ってきた。それを、香織に差し出した。
「10さいの線、引いて」
香織は、鉛筆を受け取った。
鈴を、柱の前に立たせた。鈴は、背筋をぴんと伸ばし、かかとを柱につけた。少しでも高く測ってもらおうと、つま先立ちになりかけた。
「ずるしない」
香織が言うと、鈴は、えへへ、と笑って、かかとを下ろした。
香織は、鈴の頭のてっぺんに、鉛筆を当てた。柱に、横線を引いた。
その横に、書いた。
『すず 10さい』
9歳の線より、ほんの少しだけ、上だった。指1本分くらい。
それから、鈴が、鉛筆を受け取った。
「おねえちゃんも」
香織は、柱の前に立った。
鈴は、背伸びして、香織の頭の上に鉛筆を伸ばした。届かなかった。つま先立ちになっても、跳び上がっても、全然、届かなかった。
香織は、笑って、しゃがんだ。
鈴は、しゃがんだ香織の頭の上に、鉛筆を当てた。そして、柱に、線を引いた。しゃがんだ香織の、頭のてっぺんの高さに。
鈴の線より、少しだけ、上だった。
『かおり 33さい』
鈴は、たどたどしい字で、そう書いた。
「おねえちゃん、大きくなりすぎ」
「ごめん」
「ううん」
鈴は、首を横に振った。
「ちゃんと、大きくなってくれて、よかった」
鈴は、香織の手を握った。
「おねえちゃん。もう、ここには来ちゃだめだよ」
「……うん」
「でも、たまには、思い出してね」
「毎日、思い出す」
「毎日は、いいよ」
鈴は、笑った。右の頬に、えくぼを浮かべて。
「疲れちゃうから。おねえちゃん、真面目だから、毎日って言ったら、本当に毎日思い出しちゃうでしょ。だから、たまにでいいの。ろうそく見たときとか。カレー食べたときとか」
窓の外が、白み始めていた。
カーテンのない窓の向こうで、高輪の空が、夜の紺色から、淡い藤色へ、そして、薄い桃色へと、ゆっくりと色を変えていった。
文乃が、鈴の肩に、手を置いた。
「行こうか、鈴」
「うん」
鈴は、香織の手を、離した。
最後に、もう一度だけ、香織を振り返った。
「またね、おねえちゃん」
朝日が、部屋に差し込んだ。
最初の光が、窓の桟を越えて、畳の上を這い、ちゃぶ台を照らし、文乃と鈴の足元に届いた。
光の中で、ふたりの姿が、ゆっくりと溶けていった。
ちゃぶ台も。ブラウン管のテレビも。壁のクレヨンの絵も。2003年8月のカレンダーも。水色と赤の座布団も。金魚の風鈴も。
すべてが、朝の光の中に、溶けていった。
香織は、その光の中に、手を伸ばした。
何も、つかまなかった。
けれど、その手は、とても、温かかった。
少し、時間を戻す。
まだ空が薄暗い、夜明け前。203号室のベランダに、毛布にくるまった蓮と由佳が、並んで座っていた。
ふたりは一晩じゅう眠らず、写真を見返した。結婚式、新婚旅行、伊豆の温泉。蓮には、写真に写る自分の記憶がなかった。由佳がひとつずつ説明し、蓮は黙って聞いた。「楽しかった?」と訊くと、由佳は「楽しかった日もあった」と答えた。
それから、ベランダに出た。最後に、ふたりで朝日を見ようと、由佳が言ったのだ。
「蓮くん」
「ん」
「10年間、ありがとう」
「……やめろよ、そういうの」
蓮は、毛布の中で、由佳の手を握った。
「ちゃんと、言わせて」
由佳は、蓮の肩に頭をもたせかけた。
「あの雨の夜、私、悔しかった。蓮くんに振られて、その帰りに死んでしまって。あとから10年もらえて、嬉しかった。なのに今度は、あなたが選んだことの後始末で、私がまた消える。……ありがとうだけじゃ、済まないよね」
「……」
「桜は、見られなかったけど」
由佳は笑おうとしたが、喉の奥で息が詰まった。「消えたくない」と、小さく言った。その言葉に、蓮は返事ができなかった。由佳の手を握る力だけが強くなった。
「10回、一緒に、花火を見た。隅田川の。毎年、場所取り、蓮くんにやらせて。蓮くん、毎年、文句言いながら、朝から並んでくれた」
蓮の目から、涙がこぼれた。
「真理子さんと、ちゃんと話して。やり直せってことじゃない。向こうには向こうの人生がある。私にしたことを、次の誰かにも繰り返さないで」
由佳は、蓮の手を、強く握り返した。
「私の分まで幸せになれ、なんて言えない。私だって生きたかった。ただ、誰かがいなくなったことを、また忘れないで。それだけは約束して」
東の空が、白んできた。品川のビル群の向こうから、最初の光が、細い線になって、空を割った。
朝日が、昇った。
由佳は、眩しそうに目を細めた。
「きれい」
蓮が、由佳のほうを見た。
毛布だけが、そこにあった。
由佳の形に、まだ少しふくらんだまま。由佳の体温を、まだかすかに残したまま。
蓮は、毛布を抱きしめた。
声を上げずに、泣いた。朝日の中で、ひとりで。
*
203号室は、散らかっていた。
床に転がった空き缶。脱ぎ散らかした服。テーブルの上の、督促状の束。観葉植物も、結婚式の写真も、なかった。元の、何もない蓮の部屋だった。
蓮は、ベランダから戻り、その部屋の真ん中に、毛布を抱えたまま立ち尽くした。
毛布だけが、残っていた。淡いピンクの、由佳が選んだ毛布。
スマートフォンが、鳴った。
画面に、表示された名前。
『真理子』
蓮は、震える手で、電話に出た。
「もしもし、蓮? ごめんね、朝早く」
真理子の声だった。少し鼻にかかった、聞き慣れた声。
「残ってた荷物のことなんだけど。冬物のコート、まだそっちにあったよね。今週末にでも……あなた、大丈夫? 声、変だよ」
「……真理子」
「なに」
「ごめん」
蓮は、毛布を抱きしめたまま、言った。
「ずっと、ごめん。会社をクビになって、お前に当たって。酒ばっかり飲んで。お前が出ていくときも、何も言えなくて」
「……」
「ちゃんと、話がしたい」
蓮の声が、詰まった。
「一回だけでいいから」
長い沈黙が、あった。
電話の向こうで、真理子が、何かを考えている気配がした。
「……泣いてるの?」
「うん」
「……バカ」
真理子の声も、少しだけ、震えていた。
「……今日の夕方なら、駅前のファミレスに行ける。でも、話をするだけよ。やり直す約束じゃないからね」
*
宮本は、305号室のリビングのソファの上で、目を覚ました。
いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。体に、薄い毛布がかけられていた。
台所に、人の気配は、なかった。
味噌汁の匂いも、鼻歌も、なかった。
宮本は、身を起こし、部屋を見回した。本棚に、旅行のガイドブックはなかった。冷蔵庫の扉に、ふたりの写真はなかった。
仏壇に、礼子の遺影があった。
享年41。少し首をかしげて、微笑んでいる。
宮本は、テーブルに目を落とした。
湯呑みが、ひとつ、置かれていた。萩焼の湯呑み。礼子の湯呑み。
かすかに、まだ、湯気が立っていた。
宮本は、湯呑みを、両手で包んだ。
温かかった。いや、熱かった。猫舌の宮本には、まだ飲めないくらいに。礼子は、いつも、熱すぎるお茶を淹れた。冷める前に飲めばいいのよ、と言って。
「……ありがとう、礼子」
宮本は、湯呑みに口をつけた。
熱かった。舌が、ひりひりした。それでも、宮本は、飲んだ。冷める前に。
涙が、湯呑みの中に、ぽたりと落ちた。
それでも、宮本は、少しだけ、笑っていた。
*
202号室で、美緒は、ベッドの上で目を覚ました。
天井を見つめた。見慣れた、白い天井。カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
自分が、どこにいるのか、一瞬わからなかった。光。白い光。誰かの叫び声。香織さんの名前を呼びかけて、途中で途切れた、自分の声。
台所から、音が聞こえた。
とん、とん、とん、と、包丁がまな板を叩く音。
「美緒、起きた? 今日、バイト早番でしょ」
声がした。
美緒は、跳ね起きた。
布団を蹴飛ばし、裸足のまま、台所へ走った。
エプロン姿の女性が、フライパンで卵焼きを焼いていた。少し吊り気味の目。意志の強そうな唇。左の眉の端に、小さなほくろ。
岡崎紗希。26歳。
「何、その顔」
紗希は、菜箸を持ったまま、振り返った。
「幽霊でも見た?」
美緒は、紗希に抱きついた。
「ちょっと! 焦げる、焦げる!」
紗希が、フライパンを慌てて火から下ろした。美緒は、紗希の背中にしがみついたまま、離れなかった。
「……お姉ちゃん」
美緒の声が、震えた。
「ごめんね。ごめんね」
「何よ、急に」
「私、ずっと、お姉ちゃんがうらやましかった」
美緒は、紗希のエプロンの背中に、顔を押しつけた。
「一度も思わなかった、とは言えない。お姉ちゃんがいなければって、考えた夜もあった。でも、本当にいなくなってほしかったわけじゃない。思ったことまで、なかったことにしたくない」
紗希は、しばらく黙っていた。それから、フライパンを置き、振り返って、美緒の頭を撫でた。
「変な夢でも、見たんでしょ」
美緒は、泣き笑いで、うなずいた。
紗希の肩越しに、部屋の隅を見た。イーゼルは、なかった。キャンバスも、絵の具も。4年前に美大を諦めた、元の人生の部屋だった。
美緒は、紗希の顔を、じっと見つめた。
左の眉の端の、小さなほくろ。描くたびに消えていきそうで、怖かったほくろ。
「お姉ちゃん」
「なに」
「私、もう一回、美大、受けようと思う」
紗希が、目を見開いた。
「自分のお金で。バイト増やして、貯めて。何年かかっても」
紗希は、少し驚いた顔をして、それから、笑った。
「すぐに応援できるかは、わかんない。心配もする。けど、ちゃんと計画、聞かせてよ」
紗希は、焦げかけた卵焼きを、皿に移した。
「描いてよ、私の顔。美人に描いてね」
「ほくろも描く」
「それは描かなくていい」
ふたりは、顔を見合わせて、笑った。
301号室のダイニングテーブルの上に、督促状の束があった。
合皮のソファは、肘掛けの部分が剥げていた。テーブルの天板には、彫刻刀でつけた小さな傷。壁には、手書きの時間割表。
修は、よれたワイシャツ姿で、トーストをかじっていた。
修は昨夜のことを覚えていなかった。高層ビルの最上階で乾杯する、長い夢だけが残っている。テーブルの督促状は現実のままだ。給料も、住宅ローンも、妻へのひどい言葉も、朝日が昇ったからといって消えるわけではない。
奥の部屋のドアが開き、少年が出てきた。度の強い眼鏡。胸に、参考書を抱えている。
「お父さん、おはよう」
修は、トーストを持ったまま、少年を見た。
翔太だった。
自分の息子だった。12年間、毎日、この部屋で見てきた顔だった。
なぜか、修の目から、涙がこぼれた。
「え、お父さん、どうしたの」
翔太が、驚いて、参考書を取り落としそうになった。
「……わからん」
修は、トーストを皿に置き、手の甲で目元を拭った。
「なんでもない。目にゴミが入っただけだ」
修は、立ち上がり、翔太の肩をつかんで、引き寄せた。ぎこちなく、抱きしめた。翔太が、修の胸の中でもがいた。
「苦しいって」
「翔太」
修は、息子の頭を、乱暴に撫でた。
「ごめんな。お前の前で、お母さんのせいにした。俺が決めた仕事なのに」 修は一度息をのみ、続けた。「塾も、学校も、今度は3人で相談しよう。お前だけに我慢させるのは違うから」
「……え、なに、急に。お母さんに怒られるよ」
台所で、久美子が、その光景を見ていた。
両手で、口元を押さえていた。肩が、震えていた。声を、押し殺していた。
冷蔵庫の扉に、1枚の画用紙が、マグネットで留められていた。クレヨンの絵。ネクタイの男の人と、エプロンの女の人と、眼鏡の男の子。赤い太陽。
『おとうさん おしごと がんばって』
*
204号室のドアが開き、香織と佳奈が、廊下に出てきた。
朝の光が、廊下の窓から、斜めに差し込んでいた。
廊下には、もう、誰もいなかった。宮本も、礼子も、久美子も。夜のあいだ、廊下に並んで見届けていた人たちは、それぞれの朝へ帰っていったのだろう。
ただひとり、沢田だけが、廊下の端に立っていた。どてらを羽織ったまま。一晩じゅう、そこに立っていたのかもしれなかった。
「……終わったのかい」
「はい」
香織は、うなずいた。
沢田は、ゆっくりと、204号室の入り口に歩み寄った。中を、覗き込んだ。
空っぽの部屋だった。埃の積もった床。カーテンのない窓。そこから差し込む、まぶしい朝日。台所には、蛇口がひとつ。
沢田は、靴を脱いで、部屋に上がった。和室へ歩いていった。柱の前で、立ち止まった。
背比べの線。5歳から9歳まで、ふたつずつ並んだ線。その上には、あの火事の夜にはなかった2本が、確かに引かれている。
『すず 10さい』
『かおり 33さい』
沢田は、その線を見つめた。
皺だらけの指で、そっと、なぞった。
沢田の顔が、くしゃくしゃになった。
「……さわじいは、ずっと、ここにいたのに」
沢田は、柱に額を押し当てた。
「23年間、毎日、ここにいたのに。最後に、顔も、見せてくれなかったな」
「鈴が、言ってました」
香織は、沢田の背中に向かって、言った。
「さわじいのみかん、甘かったって」
沢田は、声を上げて、泣いた。
70歳の老人が、柱にすがりついて、子どものように。23年分の、悔いと、懐かしさと、愛おしさを、全部、吐き出すように。
香織は、その背中に、そっと手を置いた。
*
廊下に戻ると、佳奈が、壁にもたれて待っていた。
朝日の中で、佳奈は、自分の両手を見つめていた。裏返したり、表に返したり。指先は、もう、透けてはいなかった。
「香織」
佳奈が、顔を上げた。
「……あのさ」
「なに」
「高校の文化祭」
佳奈は、言った。
「演劇部の舞台。『銀河鉄道の夜』。香織、カムパネルラの役で、2幕目の台詞、丸ごと忘れたよね」
香織は、息をのんだ。
「ジョバンニに『僕たち、どこまでも一緒に行こうね』って言われて、香織、固まっちゃって。体育館が、しーんとなって。それで、私、客席から大声で叫んだ。『僕、わからない。けれど、誰だって、本当にいいことをしたら、いちばん幸せなんだね』って」
「……佳奈」
「そのあと、生活指導の山根に、めちゃくちゃ怒られた」
佳奈は、笑った。泣きながら。
「思い出した。全部」
佳奈は、壁から背中を離した。
「ファミレスも。メロンソーダ11杯も。沖縄旅行も。沖縄で、日焼け止め塗り忘れて、香織に笑われたのも。全部」
佳奈は、香織の前に立った。
「……おかえり、香織」
香織は、佳奈に抱きついた。
佳奈は、香織の背中を、ばんばんと叩いた。痛いほど。15年間、何度も、そうしてきたように。
「親友を、舐めないで」
佳奈が、香織の耳元で、言った。
香織は、佳奈の肩に顔を埋めたまま、何度も、何度も、うなずいた。
その日の昼、香織は、横浜の山岸家の玄関の前に立っていた。
門の脇の鉢植えが、秋の日差しの中で、つやつやと光っていた。ゼラニウムの赤。ペチュニアの紫。オリーブの銀色の葉。
居間では、道子が、仏壇の前に座っていた。
今朝、目を覚ましたとき、道子は、なぜか泣いていた。何の夢を見ていたのか、思い出せなかった。ただ、胸の奥に、温かいものと、寂しいものが、同じくらいの重さで、残っていた。
道子は、仏壇の下の引き出しを開けた。
中に、1枚の写真が、入っていた。
海辺の写真。麦わら帽子の香織と、赤いカーディガンの鈴が、手をつないで笑っている。お線香の箱の下に、23年前と同じように、しまわれていた。
道子は、その写真を手に取った。
玄関の、チャイムが鳴った。
*
道子が引き戸を開けると、香織が立っていた。
「……香織」
道子の唇から、その名前が、こぼれた。
ためらいもなく。迷いもなく。火事のあとからの約23年間、数えきれないほど呼び続けた名前として。
「ただいま、お母さん」
香織は、言った。
道子は、裸足のまま玄関のたたきに下り、香織を抱きしめた。小さな体で。精一杯の力で。
「ゆうべね」
道子は、香織の肩に顔を埋めたまま、言った。
「文乃の夢を見たの。笑ってた。昔みたいに、右のほっぺに、えくぼを作って。何も言わないで、ただ、笑ってたの」
「お母さんに、伝えてって」
香織は、道子の背中を、ゆっくりと撫でた。
「ありがとう、って。私を、こんなに立派に育ててくれて、ありがとうって。それから、ごめんねって。姉さんの言うことを聞かなくて、ごめんねって」
道子は、嗚咽を漏らした。
「……バカね」
道子は、泣きながら、笑った。
「謝るのは、私のほうなのに。あの子を許してあげられなかったのは、私のほうなのに」
居間の仏壇の前で、浩之の遺影が、穏やかに微笑んでいた。その前に、海辺の写真が、立てかけられていた。
*
数日後。
香織は、会社のデスクで、パソコンに向かっていた。
サンライズ高輪の、管理台帳。204号室の欄を、開いた。
『入居履歴:なし』
香織は、その文字を、しばらく見つめていた。
それから、カーソルを合わせた。ただ「なし」を消して済ませるわけにはいかない。鍵の記録も火災の報告も調べ直し、過去の管理会社へ照会したうえで、履歴欄に注記を加えた。
新しく、打ち込んだ。1文字ずつ、確かめるように。
『1998年4月〜2003年8月 白石文乃、白石香織、白石鈴が居住していたとの証言・記録あり。資料照合中』
背後で、気配がした。村井が、香織の肩越しに、画面を覗き込んでいた。
「……山岸、それ」
「訂正です」
香織は、振り返らずに言った。
「記録が、間違っていたので」
村井は、画面の文字を見つめた。空白を3つの名前で埋めたからといって、過去の責任まで消えるわけではない。だが、これから調べる人が、初めからそこに誰もいなかったと思わずに済む。
村井は、黙って、香織の肩を叩いた。
「ちゃんと、残しておけ」
村井は、それだけ言って、自分の席に戻っていった。
*
品川の太田設計事務所で、太田は、1枚の図面を香織に手渡した。
まだ新しい、トレーシングペーパーの図面だった。サンライズ高輪の、2階の平面図。201、202、203。そして、203と205のあいだに、ひとつの部屋が、きちんと描き込まれていた。窓も、台所も、和室も。
「サンライズ高輪の管理組合から、正式に依頼を受けた。遠藤さんという理事の方からだ」
太田は、図面の右下を指さした。
「204号室を今後どう扱うか、適法な用途と改修方法を検討するための図面だ。避難経路も、防火設備も、一から調査する。組合には、工事だけじゃなく、かつてこの部屋を隠してきた経緯の説明も求めたよ」
図面の右下の設計者欄に、朱肉の印が、押されていた。
『太田』
「28年ぶりに、判を押したよ」
「……ありがとうございます」
「礼を言うのは、こっちだ」
太田は、窓の外を見た。品川の高層ビル群が、秋の光の中に白く立ち並んでいた。
「私は焼け跡で泣いていた女の子を、ずっと忘れられなかった。判を押すのを拒んだ。それで正しいことをしたつもりだった。でも、子どもの靴が残る部屋のことを、役所にも伝えなかった。図面に責任を負うだけじゃ、そこで生きる人間を守れなかったんだな」
太田は、香織のほうを向いた。
そして、少しだけ、目を細めた。
「大きくなったな」
香織は、小さく笑った。
「みんな、そう言うんです」
*
11月の初めの、晴れた日の夕方。
サンライズ高輪のエントランスに、住民たちが集まっていた。
管理人室の横の壁に、小さな真鍮のプレートが取り付けられた。沢田が、自分でドリルを使って、取り付けたものだった。
『2003年8月9日 この建物で暮らした 白石文乃さん 白石鈴さんを偲んで』
久美子が、プレートの前に立った。
深く、頭を下げた。長い間、顔を上げなかった。
修と翔太が、その隣に立っていた。翔太は、何のことかよくわからないまま、母親の真似をして、ぺこりと頭を下げた。修は、妻の背中に、そっと手を添えていた。
宮本が、少し離れたところに立っていた。手に、萩焼の湯呑みを包んだ風呂敷を提げていた。
美緒と紗希が、並んで立っていた。
蓮と真理子が、少し距離を置いて、立っていた。ふたりのあいだの距離は、まだ、恋人のそれではなかった。けれど、他人のそれでもなかった。
105号室の小池トメが、杖をついて、沢田の隣にいた。
「あの声、聞こえなくなったわね」
トメは、2階を見上げて言った。
「寂しいって言ってた声。……やっと、会えたのね」
沢田は、黙ってうなずいた。
美緒が、1枚の絵を、プレートの横に立てかけた。
鉛筆画だった。画用紙に、柔らかな鉛筆の線で、ふたりの少女が描かれていた。おかっぱ頭の、ふたりの少女。ひとりは、赤いカーディガン。もうひとりは、青いカーディガン。色は、そこだけ、色鉛筆で塗られていた。ふたりは、手をつないで、笑っていた。右の頬に、同じえくぼを浮かべて。
「香織さんの話だけで描いたから」
美緒は、少し恥ずかしそうに言った。
「似てないかもしれないけど」
香織は、その絵を見つめた。
長いあいだ、見つめていた。
「……似てる」
香織は、言った。
「すごく」
*
その夜、香織と佳奈は、サンライズ高輪の前の坂道に立って、建物を見上げていた。
2階の窓が、並んでいた。
201、明るい。202、明るい。カーテン越しに、姉妹の笑い声が聞こえた気がした。203、明るい。
204――暗い。
カーテンのない窓に、向かいの街灯の光が、白く映り込んでいるだけだった。
「もう、明かりはつかないね」
佳奈が、言った。
「うん」
「寂しい?」
香織は、少し考えた。
「寂しい」
香織は、正直に答えた。
「でも、それでいい」
204の窓だけが暗い。その暗さを、今夜は誰かの不幸の予告だと思わなくて済む。香織は鞄の底にある鍵を確かめた。重さは変わらない。消えた人も、あの夜も、持ち歩けるものではない。それでも、名前を記録することならできる。
いつか忘れる日があってもいい。忘れたら、また思い出せばいい。そのために、写真を残し、名前を書き、今日の暮らしを続けるのだ。
香織は、隣に立つ佳奈の手を、そっと握った。佳奈は、何も言わずに、握り返した。
冷たい11月の風が、ふたりのあいだを吹き抜けていった。
*
1年後。2027年8月10日。
蝉の声が、降るように響いていた。
多摩の丘陵地にある霊園は、夏の日差しの中で、白く乾いていた。墓石の列のあいだを、陽炎がゆらゆらと揺れている。遠くの雑木林から、ひぐらしの声が、まだ昼間なのに、気の早い調子で聞こえていた。
新しい墓石が、ひとつあった。
灰色の御影石に、刻まれた文字。
『白石家之墓』
去年の秋、道子と香織がふたりで建てた墓だった。火葬のあと、道子が引き取って長く仏壇の奥に納めていた文乃と鈴の遺骨を、23年越しでようやく納めたのだった。
香織と道子が、墓前に花を供えた。白い百合と、黄色いひまわり。ひまわりは、鈴が好きだった花だと、沢田が教えてくれた。
佳奈が、白いケーキの箱を、両手で大事そうに抱えていた。
「本当に、ここで食べるの?」
佳奈が、半分呆れたように訊いた。
「食べる」
香織は、墓石に水をかけながら、言った。
「ふたりの誕生日だから」
香織は、佳奈からケーキの箱を受け取り、墓前の石段の上に置いた。蓋を開けた。
少し傾いたスポンジ。でこぼこの生クリーム。不揃いに並んだいちご。昨夜、香織が自分で焼いたケーキだった。生まれて初めて、焼いたケーキ。
真ん中に、チョコレートのプレート。白いチョコペンで、丸い字。
『かおり すず 34さい』
香織は、鞄から、ろうそくの箱を取り出した。カラフルな、細いろうそく。ピンク、水色、黄色、白。
1本ずつ、ケーキに立てていった。
10本。
「……34本じゃないの?」
道子が、首をかしげた。
「多すぎる」
香織は、笑った。
「それに、鈴が、『大きくなりすぎ』って怒るから」
道子と佳奈が、顔を見合わせて、笑った。
香織は、マッチ箱を取り出した。
1本、取り出す。擦り紙に、当てる。
擦った。
1回で、火がついた。
1本目のろうそくに、火を灯す。2本目。3本目。ひとつ、またひとつ。
10本のろうそくに、火が灯った。
夏の昼の光の中では、ろうそくの炎は、ほとんど見えなかった。ただ、ろうそくの芯の上の空気だけが、陽炎のように、かすかに揺らいでいた。
風が、吹いた。
霊園の木立を抜けて、墓石のあいだを渡ってきた、夏の風。
どこかで、風鈴の音が聞こえた気がした。
ちりん、と。
金魚の絵の、ガラスの風鈴の音が。
香織は、目を閉じた。
24年ぶりの、ろうそくだった。
香織は、息を吸い込んだ。胸いっぱいに。夏の匂い。百合の匂い。生クリームの甘い匂い。
そして、一息で、吹き消した。
10本の炎が、一度に消えた。
細い煙が、10本、青い空へ、まっすぐに昇っていった。
道子が、拍手をした。佳奈も、拍手をした。佳奈は、少し外れた音程で、ハッピーバースデーを歌い始めた。道子が、それに続いた。
香織は、目を開けて、空を見上げた。
煙は、もう、見えなくなっていた。ただ、どこまでも青い、8月の空が、広がっていた。
*
それから、また、何日かが過ぎた。
株式会社みなとハウジング管理、賃貸管理課。浜松町の雑居ビルの4階のオフィスは、今日も朝から電話が鳴りやまなかった。
香織のデスクの電話が、鳴った。
香織は、受話器を取った。
「はい、みなとハウジング管理、山岸です」
「あの、すみません」
若い女性の声だった。少し緊張した、けれど、明るい声。
「ネットで、サンライズ高輪の物件を見たんですけど。2階の、204号室って、空いてますか」
香織は、デスクの上の写真立てに、目をやった。
ペンが3本、机の縁と平行に並んでいる。その横に、木製の写真立てがひとつ。
海辺の写真だった。
大きな麦わら帽子の、幼い香織。赤いカーディガンの、鈴。ふたりが、手をつないで、眩しそうに笑っている。白く光る、夏の海を背にして。
そして、その後ろに。
若い女性が、立っていた。
写っていなかったはずの、母が。写真に入りたがらなかったはずの、文乃が。ふたりの娘の肩に、そっと両手を置いて、笑っていた。右の頬に、えくぼを浮かべて。
写真の裏には、子どもの字の下に、今は、もうひとつ、大人の字が書き足されていた。
香織の字だった。
『みんな いた』
香織は、微笑んだ。
「はい」
窓の外に、高輪の空が見えた。秋の気配を含んだ、高く澄んだ空だった。
香織は、受話器を握り直した。
そして、はっきりと、言った。
「204号室は、空室です」
*
内見の日の午後、香織は、若い女性を204号室へ案内した。
改修工事を終えたばかりの部屋は、新しい畳の匂いがした。窓には、新しいカーテンレール。台所には、新しいシステムキッチン。壁は、真っ白に塗り直されていた。
ただ、奥の和室の柱だけは、そのまま残されていた。
工事のとき、香織が、管理組合に頼んだのだ。この柱だけは、削らないでほしいと。遠藤久美子理事が、その場で、満場一致の議決をとってくれた。
女性は、柱の前で、立ち止まった。
「これ……背比べの跡ですか」
「はい」
香織は、うなずいた。
「昔、この部屋に住んでいた、双子の女の子のものです。消さずに、残してあります。もし、気になるようでしたら」
「いえ」
女性は、首を振った。そして、柱の線を、指でそっとなぞった。
『すず 10さい』
『かおり 33さい』
「素敵ですね」
女性は、微笑んだ。
「この部屋で、ちゃんと、誰かが大きくなったんですね」
香織は、少しのあいだ、何も言えなかった。
それから、ゆっくりと、うなずいた。
「はい」
窓から差し込む午後の光が、柱の上の鉛筆の線を、やわらかく照らしていた。
どこかで、風鈴が、ちりん、と鳴った気がした。
(了)
もし、人生を一度だけ選び直せるとしたら、あなたはどこへ戻りたいでしょうか。
あのとき別の言葉を選んでいたら。あの人を引き止めていたら。あの日、違う道を歩いていたら。誰にでも、そんな「もしも」がひとつくらいあるのではないかと思います。
けれど、今の自分は、正しかった選択だけでできているわけではありません。間違えた日も、誰かを傷つけた言葉も、戻れない別れも、そのすべてを抱えて今日まで歩いてきた。その時間まで消してしまったら、救われるのは本当に「自分」なのだろうか。そんな問いから、この物語は生まれました。
204号室は、人生をやり直すための部屋ではありません。失ったものの大きさを知り、それでも今ある人生を選び直すための部屋なのだと思います。
読み終えたあと、あなたのそばにいる誰かの顔が、ほんの少しだけ浮かんだなら、この物語を書いた意味があったと思います。




