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204号室は空室です  作者: ぽむぽむ


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第4章 あなたを返して

 深夜の洗面所で、香織は鏡を見つめていた。

 蛍光灯の白い光が、33歳の自分の顔を容赦なく照らしている。目の下の薄いくま。眉間に刻まれかけた縦皺。佳奈に「昔から眉間にしわ寄ってたんだね」と笑われた、その皺。

 鏡の横に、海辺の写真を立てかけた。

 幼い自分。幼い鈴。そして、33歳の自分。

 香織は、3つの顔を順番に見比べた。目の形。鼻筋。顎の線。笑ったときのえくぼ。写真の中のふたりの少女は、鏡に映すとそのまま重なり合いそうなほど、よく似ていた。そして、鏡の中の大人の自分は、そのどちらにも似ていた。

 双子なんていない。

 香織は、自分に言い聞かせた。私は山岸家の一人娘だ。横浜で生まれて、横浜で育った。父は市役所に勤めていて、母はパートで近所のスーパーのレジに立っていた。休日には、3人で山下公園を散歩した。父が肩車をしてくれて、氷川丸の煙突が、手の届きそうなところに見えた。

 そう覚えている。覚えているはずなのに。

 香織は目を閉じ、記憶の糸をたぐり寄せようとした。

 小学校の入学式。桜の花びらが舞う校庭で、母に手を引かれている。真新しいランドセルが、背中で重たく揺れている。母が、少し泣いている。

 その前は?

 入学式の前。幼稚園。保育園。3歳の誕生日。2歳のクリスマス。

 何もなかった。

 真っ白だった。雪に覆われた野原のように、足跡ひとつない、ただの白。

 香織は、目を開けた。

 いや、違う。入学式の記憶は、小学1年生のものではない。あれは――香織は、写真の中の自分を見た。6歳の夏。小学1年生の夏休み。その子は、もうランドセルを背負っていたはずだ。けれど、その子が横浜の小学校に通っていた記憶は、どこにもない。

 香織が覚えている入学式は、桜の季節の、どこかの小学校。母に手を引かれ、少し大きめの、真新しいランドセルを背負って。

 それは、4年生の春の転入ではなかったか。

 10歳より前の記憶が、どこにもない。

 洗面台の縁を握る指が、白くなっていた。

 スマートフォンが、短く震えた。母からではなかった。美緒からのメッセージだった。

『姉の顔、今日も描きました。まだ覚えてます。香織さんも、負けないで』

 香織は、その文字を何度も読み返した。負けないで。何に、とは書かれていなかった。けれど、香織にはわかった。忘れることに。消されることに。

『負けない』

 香織はそう返信し、洗面所の明かりを消した。


*


「双子……」

 翌朝、202号室で、美緒は筆を握ったまま動きを止めた。イーゼルの上には、新しい肖像画が描きかけになっている。香織と佳奈は、コンビニで買ってきたパンとコーヒーを、新聞紙を敷いた床の上に広げていた。

「確証はない。でも、写真の裏の字。柱の背比べ。遠藤さんの言葉。それに、鈴が私を『おねえちゃん』って呼んだ」

「でも、香織のお母さんは道子さんでしょ」

 佳奈が、クリームパンの袋を開けながら言った。

「高校のとき、何度も家に遊びに行ったし。卵焼き、甘いの、覚えてる。お父さんも、写真立ての前でいつも新聞読んでた」

「……母に聞くのが、怖いの」

 香織は、膝の上で手を握りしめた。

「電話したら、母は嘘をついた。生まれて初めて、母の嘘を聞いた。もう一度聞いて、またはぐらかされたら。それとも、本当のことを言われたら。どっちになっても、もう元には戻れない気がして」

 美緒は、筆を置いた。

「香織さん。私、聞かなかったことを後悔してます」

「……」

「お姉ちゃんに。なんで私ばっかり我慢しなきゃいけないのって、ちゃんと聞けばよかった。喧嘩しても、ちゃんと。お姉ちゃんが何を思ってたのか、私、一度も聞かなかった。聞いたら、自分が悪者になる気がして」

 美緒は、描きかけの肖像画を見上げた。絵の中の紗希は、今日はほんの少し、寂しそうに見えた。

「消えてからじゃ、聞けないんです」

 香織は、黙ってうなずいた。

 佳奈が、香織の背中をぽんと叩いた。

「とりあえず、その設計士の人に会ってみよう。私、アポ取った」

「いつの間に」

「昨日の夜。ネットで事務所調べて、メール送ったら、今朝返事来た。今日の昼、品川の事務所で会ってくれるって」

「……佳奈」

「親友を舐めないで」

 佳奈は、得意げに胸を張った。香織は、ほんの少しだけ笑った。この数日で、初めて笑った気がした。


*


 太田設計事務所は、品川駅の港南口から歩いて10分ほどの、古い雑居ビルの5階にあった。エレベーターはなく、香織と佳奈は狭い階段を上った。

 ドアを開けると、建築模型と図面の山が目に飛び込んできた。壁一面の棚に、白いスチレンボードで作られた住宅やビルの模型が、整然と並んでいる。製図台の上には、鉛筆で描かれた図面が何枚も重なっていた。

 所長の太田啓介は、55歳。白髪交じりの短髪に、鋭い目つき。ほこりっぽいグレーのカーディガンの袖口が、鉛筆の粉で黒ずんでいた。

「サンライズ高輪……」

 太田は、香織が差し出した図面のコピーを手に取り、しばらく黙って眺めた。

「28年ぶりに聞く名前だ」

「2階の、203と205のあいだの空間について伺いたいんです」

 太田は図面を机に置き、窓の外を見た。品川の高層ビル群が、秋の昼の光の中に白く立ち並んでいる。

「あそこはね、存在しない空間なんだ」

「図面には、パイプスペースって」

 佳奈が言った。

「表向きはね」

 太田は、苦い顔で笑った。

「構造計算の都合でできたデッドスペースだ。配管を通すにしては広すぎて、人が住むには狭すぎる。窓だって、本当は設計に入っていなかった。換気用の小さな開口部があっただけだ」

「でも、今は部屋になっています。窓もあります」

「……当時のオーナーが、竣工後に勝手に改装させた。違法にね。少しでも家賃収入を増やしたかったんだろう。バブルが弾けて、どこのオーナーも必死だった時代だ」

 太田は、机の引き出しを開けた。

「私は、改装後の図面への判を拒んだ。若造の意地だったよ。建築基準法に違反する部屋に、自分の名前を貸すわけにはいかないってね。結局、私はあの仕事から外された。おかげで、しばらく食うのに困った」

「その部屋に、誰かが住んでいたんですか」

「知らない……と言いたいところだが」

 太田は、引き出しの奥から、1枚の古いポラロイド写真を取り出した。四隅が丸く擦り切れ、色が褪せて赤茶けている。

 香織は、それを受け取った。

 焼け焦げた室内だった。壁も天井も煤で真っ黒に染まり、床には水浸しの瓦礫が散らばっている。窓ガラスは割れ、溶けたカーテンレールが、ぐにゃりと垂れ下がっていた。

「2003年の夏、あの建物で小さな火事があったと聞いて、見に行ったんだ。自分が拒んだ部屋が、どうなったのか。どうしても気になってね」

 太田の声が、わずかに低くなった。

「……焼けていたよ。オーナーは、ぼやだと言い張った。空き部屋の、ちょっとしたぼやだと。消防の調査が終わったあと、管理人に頼み込んで、こっそり中を見せてもらった」

「空き部屋……」

 佳奈が、小さくつぶやいた。

「空き部屋のはずがない」

 太田は、きっぱりと言った。

「焼け跡には、ちゃぶ台の脚が転がってた。焦げた鍋。溶けたプラスチックの食器。それから、子ども用の、小さな靴も。赤い靴と、青い靴が、片方ずつ」

 香織は、写真の一点に目を凝らした。煤で真っ黒になった柱。その表面に、かすかに、何本もの横線が見えた。鉛筆の線。焼け残った、背比べの跡。

「あの部屋は、存在しない部屋だったんだ」

 太田は、香織から写真を受け取り、それを見下ろした。

「存在しない部屋に住んでいた人間は、存在しない人間にされる。……それが、あの建物のやり方だった。いや、あの時代の、と言うべきかもしれない」

 太田は顔を上げ、そこで初めて、香織の顔をまっすぐに見た。

 その表情が、凍りついた。

「……君は」

「山岸です」

「いや……」

 太田は、何かを振り払うように首を振った。

「すまない。昔、あの焼け跡の前で泣いていた女の子に、少し似ていたものだから」

 事務所の中が、しんと静まり返った。製図台の上の時計の秒針が、やけに大きく聞こえた。

「その子は……」

 香織の声が、かすれた。

「その子は、どうなったんですか」

「わからない。親戚らしい女性が迎えに来て、どこかへ連れていった。それきりだ」

 太田は、写真を引き出しに戻した。

「青いカーディガンを着ていたよ。夏なのに。煤で真っ黒になった、青いカーディガンを、ずっと握りしめていた」

 305号室の宮本家のリビングは、几帳面に整えられていた。

 本棚には医学書が背の高さ順に並び、ソファの上のクッションは、角がきちんと揃えられている。けれど、その整然さには、どこか人の気配の欠けた冷たさがあった。3年前から、この部屋の時計は、ひとり分の時間しか刻んでいなかった。

 宮本真一は、仏壇の前に座っていた。

 遺影の中で、妻の礼子が微笑んでいる。享年41。肩までの髪をゆるく巻き、少し首をかしげて笑う癖。写真を撮られるのが苦手で、カメラを向けるといつもその角度になった。

 医者だった。毎日、他人の心の痛みを聞いていた。なのに、隣で眠る妻の体の痛みに、気づかなかった。

 3年前の2月の夜のことを、宮本は今でも一言一句違わずに思い出すことができた。

 夕食のあと、食器を洗いながら、礼子が言ったのだ。

「ねえ、最近、胃のあたりがずっと重いの」

 宮本は、ソファで学会誌を読んでいた。顔も上げずに答えた。

「ストレスだよ。年度末で忙しかっただろう。漢方でも出そうか」

「……そうよね。あなたが言うなら」

 礼子はそう言って、笑った。水道の音が、しばらく続いた。

 あのとき、顔を上げていれば。妻の顔色を見ていれば。いや、せめて、明日、内科に行っておいでと言っていれば。

 礼子が、立っていられないほどの痛みを訴えて救急車で運ばれたのは、それから4か月後のことだった。見つかった胃がんは、すでに腹膜に広がっていた。余命3か月と告げられ、実際には2か月半で、礼子は逝った。

 最後の日、礼子は病室のベッドの上で、宮本の手を握って言った。

「あなたのせいじゃないからね」

 精神科医が患者に言う言葉を、妻に言われた。宮本は、その言葉にうなずくことしかできなかった。うなずきながら、自分を一生許さないと決めた。

 宮本は、遺影に手を合わせた。

 そのとき、背後で、かたん、と小さな音がした。

 湯呑みがテーブルに置かれる音だった。

「真一さん、お茶、ここに置いとくね」

 宮本は、振り返った。

 誰もいなかった。

 リビングのテーブルの上に、湯呑みがひとつ、置かれていた。礼子が使っていた、萩焼の湯呑み。3年間、食器棚の奥にしまったまま、一度も出したことのない湯呑み。

 その湯呑みから、白い湯気が、静かに立ち上っていた。

「……礼子」

 宮本の声は、自分でも聞いたことのないほど、細く震えていた。


*


 夜の公園のベンチに、香織と美緒と宮本が並んで座っていた。

 佳奈は、会社に急な呼び出しがあって戻っていった。冷たい風が、色づき始めた銀杏の葉を、さらさらと鳴らしていた。

 宮本は、ひどく憔悴していた。いつもきちんと撫でつけられている髪が乱れ、眼鏡のレンズが曇っている。

「私は、自分の妄想を観察しているんです」

 宮本は、両手の指を組み合わせ、それをじっと見つめながら言った。

「妻の声。妻の淹れたお茶。科学的に考えれば、強い喪失体験による遷延性の悲嘆反応が、知覚の異常を引き起こしている。命日が近いわけでもない。ただ、この数日の出来事が引き金になって――」

「先生」

「わかっています。わかっているんです」

 宮本は、両手で顔を覆った。

「わかっているのに、あの湯呑みは、確かに温かかったんです。触ったら、火傷しそうなくらい。礼子は、いつも熱すぎるお茶を淹れた。猫舌の私のために、少し冷ましてから出せばいいのに、いつも熱々で。文句を言うと、冷める前に飲めばいいのよ、って」

 宮本の肩が、小さく震えた。

「行けば、会える。あの少女は、そう言った。会って、あの日に戻って、検査を受けろと言えば、妻は生きている。早期なら、手術で治った。5年生存率は9割を超える。私は医者だ。それがわかっている」

「でも、先生」

 美緒が、宮本の顔を覗き込んだ。

「選び直したら、先生のいちばん近くにいる人が、消えるんですよ」

「私のいちばん近く……」

 宮本は、顔を上げた。乾いた笑いが、唇の端から漏れた。

「妻はもういない。両親も亡くなった。兄弟もいない。子どもも、いない。礼子とのあいだに、子どもはできなかった。私のそばには、誰もいないんですよ、岡崎さん。誰も」

「遠藤さんのご主人も、同じことを言っていました」

 香織は、静かに言った。

「『俺のいちばん近くには、誰もいない』って。でも、消えたのは、息子さんでした」

 宮本が、香織を見た。

「人はたぶん、自分のいちばん近くにいる人が誰なのか、わかっていないんです。近すぎて、見えない。いなくなって初めて、そこにいたことに気づく」

 宮本は、何も言わなかった。

 銀杏の葉が1枚、彼の膝の上に落ちた。宮本はそれを、長いあいだ見つめていた。


*


 午前0時。

 204号室の窓に、明かりが灯った。

 305号室のドアが、静かに開いた。宮本が、パジャマ姿のまま廊下に出てきた。裸足だった。胸に、礼子の遺影を抱えていた。

 宮本は、エレベーターを使わずに階段を下りた。3階、2階。足の裏に、コンクリートの冷たさが伝わってくる。けれど、宮本はそれを感じていないようだった。

 202号室のドアが、勢いよく開いた。

「先生、だめです!」

 美緒が、部屋着のまま飛び出してきた。今夜、何かが起きる気がして、ずっと覗き穴の前で起きていたのだ。

「岡崎さん……寝ていなさい」

「香織さんに電話しました。すぐ来ます。だから、お願い、待って」

 美緒は、宮本の前に立ちはだかった。両手を広げて。小柄な体で、精一杯に。

 204号室のドアが、内側から開いた。

 中から、温かい光があふれ出した。そして、匂い。今夜はカレーではなかった。出汁の匂い。味噌汁の匂い。豆腐とわかめの、どこの家庭にもある、ありふれた夜の匂い。

「真一さん、おかえりなさい」

 声がした。

 宮本の目から、涙があふれた。

「……ただいま」

 宮本は、美緒の脇をすり抜けた。美緒の手が、宮本のパジャマの袖をつかみかけて、空を切った。宮本は、吸い込まれるように、204号室の光の中へ入っていった。

「先生!」

 美緒は、一瞬だけ迷った。香織の顔が、頭に浮かんだ。この人だけは、絶対に入れないで。あの女性の声も。

 それでも、美緒は宮本の後を追って、204の中へ飛び込んだ。

 ひとりで待つのは、もういやだった。

 そこは、宮本家のリビングだった。

 3年前の。

 壁のカレンダーは、2023年2月。ソファの上には、礼子が編みかけていた生成りのマフラー。テーブルの上には、宮本が当時読んでいた学会誌が、開いたまま伏せてある。テレビでは、夜のニュースが流れていた。キャスターが、明日の天気を告げている。関東地方は、晴れ。

 台所に、礼子が立っていた。

 エプロン姿で、鍋の味噌汁をかき混ぜている。宮本の気配に気づいて、振り返った。そして、少し首をかしげて、微笑んだ。写真を撮られるときの、あの角度で。

 宮本の膝が、崩れた。

 フローリングに両膝をつき、遺影を胸に抱いたまま、宮本は妻の姿を見上げた。声が出なかった。

 ちゃぶ台――いや、宮本家のダイニングテーブルの前に、少女が座っていた。赤いカーディガン。足をぶらぶらと揺らしている。

「どこから選び直す?」

 鈴の声は、無邪気だった。夕飯の献立を訊くような、何気ない声。

「……2023年、2月14日」

 宮本は、震える声で答えた。

「妻が、胃が重いと言った夜」

「先生、だめ!」

 美緒が、宮本の腕にしがみついた。

「誰かが消えるんです! 先生のいちばん近くにいる誰かが!」

 鈴が、美緒を見た。そして、少し困った顔をした。

「お姉ちゃん、どうして入ってきちゃったの」

「え?」

 奥の襖が開き、あの女性が現れた。白石文乃。その顔は、紙のように蒼白だった。

「出なさい! 今すぐ、この部屋から出なさい!」

 文乃は、美緒の手首をつかんで、玄関のほうへ引っ張った。美緒の体が、宮本から引き剥がされかけた。

 だが、そのとき。

「あの夜、妻に、すぐに病院へ行こうと言う」

 宮本の声が、部屋に響いた。

「明日の朝いちばんに、内視鏡を受けさせる。私が付き添う。何があっても」

「わかった」

 鈴が、うなずいた。

 部屋が、白い光に包まれた。

 味噌汁の匂いも、テレビの音も、礼子の微笑みも、すべてが真っ白な光の中に溶けていく。

「香織さ――」

 美緒の声が、光の中で、ふっと途切れた。


*


 香織が息を切らして階段を駆け上がってきたのは、その数分後だった。

 美緒からの電話を受けたのは、自宅で風呂から上がったところだった。髪も乾かさないままタクシーに飛び乗り、運転手を急かして高輪の坂を上った。

 204号室のドアが、半開きになっていた。

 中は、真っ暗だった。

「美緒さん! 先生!」

 香織は、部屋に飛び込んだ。懐中電灯を持ってくる余裕もなかった。スマートフォンのライトで、部屋を照らす。

 空っぽだった。埃。月明かり。カーテンのない窓。いつもの、何もない204号室。

 ダイニングにも、和室にも、押し入れの中にも、誰もいなかった。

 床の上に、何かが落ちていた。

 香織は、しゃがみこんでそれを拾い上げた。

 絵筆だった。毛先に、乾きかけた青い絵の具がこびりついている。美緒が、いつもジャケットの胸ポケットに差していた、使い込まれた1本。

 香織は、その筆を握りしめた。

 筆の柄に、まだ、かすかに人の手の温もりが残っていた。


*


 翌朝、香織は305号室のインターホンを押した。

 ドアを開けたのは、女性だった。

「はい。あら、管理会社の山岸さん。おはようございます」

 肩までの髪をゆるく巻き、少し首をかしげて微笑んでいる。エプロン姿。44歳。宮本礼子だった。

 生きていた。

 香織は、言葉を失った。遺影の中でしか見たことのない顔が、目の前で、生きた人間の血色をたたえて笑っている。目尻に、写真にはなかった細い皺がある。3年分の、生きた時間の皺。

「……宮本さんは」

「主人ですか? 真一さん、山岸さんよ」

 奥から、宮本が出てきた。顔色が、真っ青だった。けれど、妻の手前、必死で平静を装っているのがわかった。

「……山岸さん」

「どうしたの、ふたりとも怖い顔して。お茶、淹れてくるわね。山岸さんも上がって」

 礼子は、軽やかな足取りで台所へ去っていった。

 宮本は、香織に一歩近づき、震える声でささやいた。

「妻は、3年前に、早期の胃がんが見つかって、手術をして、元気になったことになっている。定期検診も、すべて異常なし。この3年間、ふたりで箱根にも、京都にも行ったことになっている。写真もある。私は……私は、そのどれも覚えていない」

「美緒さんは」

 香織の声は、氷のように冷たかった。自分でも、驚くほどに。

 宮本は、答えられなかった。

「美緒さんは、どこですか」

「202号室は……」

 宮本は、うつむいた。

「……空室だそうです」


*


 沢田が、202号室の鍵を開けた。

 香織は、中に入った。

 がらんとしていた。

 イーゼルも、キャンバスも、絵の具のチューブも、筆洗いの瓶も、なかった。壁という壁に立てかけてあった、紗希の肖像画も、1枚もなかった。テレピン油の匂いさえ、残っていなかった。そこにあるのは、白い壁と、ワックスで磨かれたフローリングと、窓から差し込む朝の光だけだった。

「……美緒さん」

「ここは、3年前から空室だよ。いい部屋なのに、なぜか借り手がつかなくてね」

 沢田は、不思議そうに首をかしげた。

 香織は、部屋の中央に立った。

 昨日の朝、ここで、美緒とパンを食べた。佳奈がクリームパンの袋を開け、美緒が描きかけの肖像画を見上げて言った。消えてからじゃ、聞けないんです。

 毎日1枚、お姉さんの顔を描いていた。忘れないように。消えた人を、消えたままにしないために。

 香織の目から、涙がこぼれた。

 拭おうとはしなかった。泣いているのは、自分ではない誰かのような気がした。ずっと昔に泣けなかった、誰か。

 今度は、私が描く番だ。

 香織は、ジャケットのポケットの中で、青い絵の具のついた筆を握りしめた。


*


「岡崎美緒? ……ごめん、わかんない。202って、空室だよね」

 会社で、佳奈は申し訳なさそうに首を振った。

「昨日、一緒にパン持っていったでしょ。クリームパン、佳奈が食べた」

「香織……少し休んだほうが」

 佳奈の目に浮かんでいるのは、心配だった。友人の正気を案じる、真っ当な心配。それが、香織にはいちばんこたえた。

 香織は首を振り、デスクの引き出しを開けた。未使用の大学ノートが1冊、入っていた。

 表紙に、黒いサインペンで書いた。

『消えた人の記録』

 1ページ目を開き、ボールペンを握る。

『高木真理子 36歳 203号室 蓮さんの元妻 段ボールを抱えていた 小柄で、人のよさそうな笑顔 「もう他人ですけど、それでも」と言った 優しい人』

『岡崎紗希 26歳 202号室 美緒さんの姉 グラフィックデザイナー 左の眉の端に小さなほくろ 妹の予備校の月謝を、内緒で半分出していた』

『遠藤翔太 12歳 301号室 度の強い眼鏡 いつも参考書を抱えていた 「お母さん、僕、塾やめてもいいよ」と言った子 去年の夏祭りで、佳奈に金魚すくいを教わっていた』

『岡崎美緒 22歳 202号室 美大生 指にいつも絵の具 ピンクの猫のマグでコーヒーをいれてくれた 「私だけじゃなかった」と、泣きながら笑った 「香織さん」と、確かめるように呼んだ』

 ペンを持つ手が、止まった。

 ノートの上に、ぽたりと、涙が落ちた。インクが滲み、「美緒」の2文字が、小さな青い花のように広がった。


*


 夜。香織は、サンライズ高輪の前の坂に立っていた。

 建物を見上げる。202の窓は、真っ暗だった。カーテンさえ、かかっていない。

 スマートフォンが震えた。留守番電話の通知だった。着信時刻、午前0時3分。昨夜、美緒が204に飛び込んだ、まさにその時刻。

 発信者の欄に、名前があった。

『岡崎美緒』

 香織は、息をのんだ。消えたはずの人からの着信。消えたはずの人の、名前。

 震える指で、再生ボタンを押した。

 ざあざあと、雨のようなノイズ。その奥から、美緒の声が聞こえてきた。

「香織さん、聞こえますか。今、204の中にいます。先生を止めに来たんだけど……わかったの。この部屋のこと」

 ノイズが、少し大きくなる。

「壁のカレンダー、2003年8月で止まってた。8月9日に、赤い丸がついてて、子どもの字で『かおりとすずのたんじょうび まえのひ』って……」

 美緒の声が、遠ざかっては近づく。

「それから、柱の、背比べの……香織さん、この部屋、火事で――」

 ぶつり、と、メッセージが途切れた。

『このメッセージを消去しますか』

 無機質な音声が、香織の耳に響いた。香織は、スマートフォンを胸に押し当てた。消去なんて、するものか。

 2階の、204号室の窓を見上げた。明かりはない。

 けれど、窓ガラスの内側に、何かがあった。

 小さな、子どもの手のひらの跡。

 まるで、内側から誰かがガラスに手を押し当てているかのように、白く曇って、浮かび上がっていた。



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