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204号室は空室です  作者: ぽむぽむ


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3/10

第3章 欲しいものは何ですか

どれくらいのあいだ、そうして立ち尽くしていたのだろう。

 香織がようやく振り返ったとき、襖の向こうは真っ暗だった。誰もいない。押し入れの中まで懐中電灯で照らしたが、湿った黴の匂いと、古い新聞紙が1枚、底に敷かれているだけだった。

 柱をもう一度照らす。背比べの線は、消えていなかった。

 香織はスマートフォンを取り出し、柱に向けてシャッターを切った。人工的なシャッター音が、空っぽの部屋に場違いなほど大きく響いた。画面を確かめる。写っている。鉛筆の線も、たどたどしいひらがなも。

 これは、記録だ。私の頭の中だけのものではない。

 香織はそう自分に言い聞かせ、部屋を出た。


*


「204の柱です。『かおり』と『すず』。5歳から9歳まで」

 翌朝、香織はスマートフォンの画面を、管理人室の小窓の前に突きつけた。

 沢田は老眼鏡をかけ、画面を覗き込んだ。長い沈黙があった。湯呑みから立ち上る湯気が、沢田の眼鏡のレンズをかすかに曇らせた。

「……前のリフォームのときの落書きだろう。内装業者の子どもが遊んでたとか」

「業者の子どもが、5年分の背比べをするんですか」

「山岸さん。かおりなんて名前、どこにでもあるよ」

「すず、は」

 沢田は、老眼鏡を外した。

 その目が赤かった。寝不足のせいではないと、香織にはわかった。

「年寄りをいじめないでくれ。柿、まだあるよ」

 沢田はそれだけ言って、小窓を閉めた。

 香織は、閉ざされたガラスに映る自分の顔を見つめた。

 沢田さんは知っている。知っていて、言えない何かがある。


*


 会社の資料室で、香織と佳奈はサンライズ高輪の建築確認申請の図面を広げていた。1998年竣工時の平面図。青焼きのコピーは端が黄ばみ、折り目のところで文字がかすれている。

「2階の平面図……201、202、203、205」

 佳奈が、指で部屋番号をなぞった。

「204がない」

「4は縁起が悪いから飛ばした、とか? よくあるじゃん、病院とかで」

「でも、3階は301から305まである。4階も5階も。2階だけ、4がない」

 香織は、図面の203と205のあいだを指でなぞった。そこには細かい斜線が引かれ、小さな文字が添えられていた。

『PS・機械室(立入不可)』

「パイプスペース。……これが、今の204?」

「機械室を、誰かが部屋にした。図面にない部屋」

「それって、違法建築じゃない」

 香織は図面の右下、設計者の欄に目を落とした。印鑑の横に、手書きの署名がある。

『設計担当 太田啓介』

「この人に会えば、何かわかるかも」

「香織。ねえ」

 佳奈が、図面から顔を上げた。

「怖くないの? 柱に自分の名前があったんだよ。普通、逃げるでしょ」

「……怖いよ」

 香織は、正直に答えた。

「でも、知らないまま暮らすほうが怖い」

「出た、現実主義者」

「真理子さんを覚えているのは、私と美緒さんだけなの。紗希さんも。記録からいなくなった人に代わって、せめて私たちが名前を言わなきゃ。でも、調べた結果、今ここで暮らしている誰かを傷つけるかもしれない。それも怖い」

 佳奈は、しばらく香織を見つめていた。それから、小さく息を吐いて、うなずいた。

「わかった。付き合う。親友だからね」


*


 同じころ、サンライズ高輪の301号室では、遠藤家の夕食が始まろうとしていた。

 3LDKの、このマンションではいちばん広い間取りだった。けれど、置かれた家具はどれもくたびれていた。合皮のソファは肘掛けの部分が剥げ、ダイニングテーブルの天板には子どもが彫刻刀でつけた小さな傷が残っている。

 食卓に、遠藤修がいた。45歳。生命保険会社の営業職。肩の落ちたよれたワイシャツの襟元を、ネクタイを外したまま開けている。テーブルの端には、未開封の督促状が束になって置かれていた。

 台所から、久美子がため息まじりに皿を運んできた。

「また減給?」

「歩合が取れないんだ。この景気で、保険なんか誰が買う」

「翔太の塾代、来月から上がるのよ。冬期講習も別料金」

 奥の部屋から、ひとり息子の翔太が顔を出した。12歳。小学6年生。度の強い眼鏡をかけ、胸に参考書を抱えている。

「お母さん、僕、塾やめてもいいよ。公立でいいし」

「何言ってるの。あなたは開成に行くの」

「無理させるなよ」

「無理させているのは、あなたの稼ぎでしょう!」 口に出した瞬間、久美子は息子が聞いていることに気づいた。だが、取り消す言葉が見つからなかった。

 修が、テーブルを叩いて立ち上がった。皿が跳ね、味噌汁の椀が傾いた。翔太が、びくりと肩をすくめた。

「……あのとき、田島さんの誘いに乗ってりゃよかったんだ」

「またその話」

「13年前だ。一緒に会社を作ろうって誘われた。田島は今や年商50億だ。俺はお前が妊娠していたから断った。……そう言えば、自分が間違えたことにしなくて済むからな」 最後の言葉は、修自身にも聞き慣れない声だった。

 久美子は、凍りついたように動きを止めた。

 翔太は何も言わず、静かに自分の部屋へ戻っていった。ドアの閉まる、小さな音がした。

 修はそれに気づかなかった。煙草の箱をつかんで、ベランダへ出ていった。


*


 10月の夜風は、もう冷たかった。

 修はベランダの手すりにもたれ、煙草に火をつけた。眼下に、品川方面の夜景が広がっている。高層ビルの窓明かり、首都高を流れるテールランプの赤い列。あの光の中のどこかで、田島は今夜も、自分の会社の役員たちと高い酒を飲んでいるのだろう。

 あのとき、選んでいれば。

 修は煙を吐き出した。13年間、何度その言葉を胸の中で繰り返してきたかわからない。妻のせいにしてきた。生まれてくる子どものせいにしてきた。けれど、本当は、自分に度胸がなかっただけだということも、心のどこかではわかっていた。

 ふと、斜め下に視線を落とした。

 2階の、ひとつの窓に、明かりが灯っていた。白熱電球の、黄色い光。

 窓辺に、少女が立っていた。赤いカーディガン。こちらを見上げている。

 少女が、手招きした。

「……なんだ」

 少女の口が、動いた。声は聞こえない。けれど、その言葉は、なぜかはっきりとわかった。

『欲しいものは、なに?』

 修の指から、煙草が落ちた。

 赤い火の粉が、夜の闇の中を、くるくると回りながら落ちていった。

 その日の午後、香織は105号室を訪ねた。

 204号室の声を最初に訴えたのは、105号室の小池トメだった。82歳。夫を亡くしてから、この部屋でひとりで暮らしている。今月4回目の電話を受けたとき、香織はいつものように、丁寧に、事務的に応対した。「確認いたします」と言って、確認しなかった。そのことが、今になって喉に刺さった小骨のように痛んだ。

 インターホンを押すと、しばらくして、ゆっくりとドアが開いた。

「あら、管理会社の。ようやく来てくれたのね」

 小池トメは、腰の曲がった小さな老婦人だった。藤色のカーディガンに、白い割烹着。部屋の中から、線香と煮物の匂いが流れてきた。

「すみません。何度もご連絡をいただいていたのに」

「いいのよ。どうせ年寄りの空耳だって思ってたんでしょう。みんなそう言うもの」

 トメは香織を部屋に上げ、ちゃぶ台の前に座布団を出した。仏壇には、温和そうな老人の写真が飾られている。

「主人がね、生きてるころから聞こえてたのよ。あの部屋の声」

 トメは、急須に湯を注ぎながら言った。

「生きてるころから……?」

「ずいぶん昔ね。20年以上前かしら。夜になると、上のほうから、子どもの数を数える声がするの。『いち、に、さん、し』って。それから、女の人の子守唄。カレーの匂いもした。主人は、どこかの家の音が配管を伝ってくるんだろうって言ってたけど」

「それが、また最近?」

「そう。今年の春ごろからよ。ぱったり止んでたのが、また聞こえるようになったの。それも、前よりはっきり」

 今年の春。香織がこの物件の担当になったのも、今年の春だった。

 偶然だ、と香織は思った。思おうとした。

「最近は、歌が聞こえるの。ハッピーバースデーの歌。夜中の2時とか3時に。それが、毎晩、途中で止まるのよ。『ハッピーバースデー、ディア』のところで。名前のところで、止まるの」

 トメは湯呑みを香織の前に置き、それから、じっと香織の顔を見つめた。

「あんた、どこかで会ったことがあるねえ」

「え?」

「いや、管理会社の人としてじゃなくて。もっと前。ずっと前」

 トメは目を細め、記憶の底を探るように首をかしげた。それから、あきらめたように笑った。

「だめね。歳をとると、昔のことほど霧がかかるの。でもね、管理会社さん。ひとつだけ言っておくわ」

「……はい」

「あの部屋の声はね、怖がらせようとしてるんじゃないと思うの。私には、寂しいって言ってるように聞こえる。ずっとずっと、誰かを待ってる声よ」

 トメは仏壇の夫の写真に目をやり、静かに手を合わせた。

「待つのはね、つらいのよ。待ってる相手が、もう来ないってわかってても」

 香織は、湯呑みを両手で包んだまま、何も言えなかった。

 帰り際、玄関で靴を履いていると、トメが後ろから声をかけた。

「ねえ。あんた、みかん好きだった?」

「え?」

「なんでもないの。なんだか、急にそんなこと聞きたくなって」

 トメは、少女のように小さく笑った。

 その夜、香織は残業を終えると、まっすぐサンライズ高輪へ向かった。

 自分でも、どうかしていると思った。けれど、204号室の明かりが灯るたびに、誰かの人生が書き換えられ、誰かが消える。それを知ってしまった以上、知らないふりをして眠ることはできなかった。

 2階の廊下に上がったとき、上の階から足音が聞こえた。

 遠藤修が、ふらふらと階段を下りてきた。部屋着のスウェットに、サンダル履き。目の焦点が合っていない。

「遠藤さん……ご主人ですよね。こんな時間に」

 修は、香織に目もくれなかった。まっすぐに204の前へ歩いていき、そこで立ち止まった。

 ドアが、内側から開いた。

「いらっしゃい」

 鈴だった。

「だめです、入らないで!」

 香織は駆け寄り、修の腕をつかんだ。修は、それを乱暴に振り払った。思いがけない力に、香織はよろめいて壁に肩をぶつけた。

「離せ。俺の人生だ」

「選び直したら、誰かが消えるんです! あなたのいちばん近くにいる人が!」

 修は、一瞬だけ振り返った。

 その目は、もう何も見ていなかった。香織の姿も、薄暗い廊下も、自分の背後にある3階の部屋で眠っている家族のことも。

「……俺のいちばん近くには、誰もいないよ」 そう言いながら修は、息子が今夜も枕元に置いた参考書の表紙を思い浮かべた。思い浮かべてしまったことが、いちばん腹立たしかった。

 修は、204に入った。ドアが閉まった。

 香織はドアに飛びつき、ノブを回した。回らない。マスターキーを差し込む。回らない。

「鈴! 開けて! 鈴!」

 拳でドアを叩いた。ドアの向こうから、鈴の声がした。楽しげな、歌うような声だった。

「香織ちゃんも、選び直したくなったら、おいでね」

 ドアの下の光が、消えた。


*


 翌朝、301号室には、朝日がまぶしく差し込んでいた。

 久美子は、寝室で目を覚ました。肌に触れるシーツの感触が、いつもと違った。なめらかで、ひんやりとしている。身を起こすと、自分が着ているのは、見たこともないシルクのパジャマだった。

 久美子は寝室のドアを開け、リビングに出た。

 足が止まった。

 部屋が、変わっていた。剥げかけた合皮のソファは消え、代わりにイタリア製らしい深いグレーの革張りのソファが置かれている。ダイニングテーブルは大理石の天板に替わり、壁には抽象画のアートフレームがかけられていた。床には、毛足の長いラグ。窓辺には、背の高い観葉植物。

 修が、ダイニングテーブルでエスプレッソを飲んでいた。仕立てのいいスーツ。手首には、文字盤の大きな高級時計が光っている。

「おはよう。今日、白金のモデルルームの内覧だからな。10時に車をよこす」

「……白金?」

「引っ越すって決めただろう。こんな古いマンション、もう俺たちには狭い。まあ、お前がここを離れたくないって言うから、ずるずる住んでたけどな」

 修は、新聞の経済面をめくった。そこに、修の顔写真が載っていた。『急成長ベンチャー、田島・遠藤両代表に聞く』。

 久美子は、リビングを見回した。

 何かが、足りなかった。

 何か、とても大切なものが。毎朝、この時間に、この部屋にあったはずのもの。

「翔太は?」

 修が、新聞から顔を上げた。

「誰だ、それ」

 久美子は、修を見つめた。冗談を言っている顔ではなかった。

「翔太よ。あなたの息子。今日、塾の模試の日でしょう」

「何の冗談だ。子どもは作らないって、ふたりで決めたじゃないか。会社が軌道に乗るまでって」

 久美子は、翔太の部屋へ走った。

 ドアを開ける。

 そこは、ワインセラーと書斎になっていた。壁一面に、温度管理されたガラス張りのワインラック。窓際に、重厚なマホガニーの書き物机。

 参考書の山も、ランドセルも、壁に貼った手書きの時間割表も、なかった。翔太が去年の夏休みに作った、ペットボトルのロケットも。久美子の誕生日に翔太が描いてくれた、似顔絵も。

「……翔太?」

 久美子は、部屋の中を見回した。

「翔太!」

 返事はなかった。ワインセラーの冷却装置が、低く唸る音だけが聞こえた。

「久美子、大丈夫か」

 背後から、修の声がした。気遣わしげな、優しい声だった。この13年間、久美子が一度も聞いたことのないような。

 久美子は、壁際にずるずると座り込んだ。


*


『301号室 契約者:遠藤修 同居人:遠藤久美子(妻) 計2名』

 会社のパソコンの画面を見つめ、香織は唇を噛んだ。昨日まで、そこには「計3名」と書かれていた。長男、遠藤翔太、12歳。その一行が、きれいに消えている。

「香織、顔色やばいよ」

 佳奈が、心配そうに覗き込んできた。

「遠藤さんのご主人が、204に入った。昨日の夜」

「え……」

「息子さんが消えた。たぶん」

「遠藤さんに息子さん? いたっけ」

 香織は、ゆっくりと佳奈の顔を見た。

 佳奈は、本当に知らない顔をしていた。去年の夏祭りで、翔太くんに金魚すくいのコツを教えていたのは、佳奈だったのに。

 佳奈も、もう覚えていない。

 香織は、自分の足元の床が、少しずつ傾いていくような感覚に襲われた。


*


 午後、応接室に来客があった。

 宮本だった。いつもの穏やかな表情は影をひそめ、ソファに浅く腰掛けたまま、膝の上で両手を固く組んでいる。

「お仕事中に、すみません。どうしても、お話ししておきたいことがありまして」

「先生、何か」

「昨日、私のクリニックの待合室に、少女がいたんです。赤いカーディガンの」

 香織は、身を乗り出した。

「受付のスタッフは、誰も見ていないと言う。防犯カメラにも映っていない。私は、幻覚だと判断しました。自分の脳がストレスで作り出した像だと。精神科医が幻覚を見るのは、笑い話にもなりませんが」

「……先生」

「その少女が、私にこう言ったんです。『奥さんに、会いたい?』と」

 宮本の組んだ手に、力がこもった。指の関節が白くなっていた。

「私の妻は、3年前に亡くなっています。胃がんでした。そのことは、マンションの誰にも話していない。管理人の沢田さんにさえ」

「……」

「それから、今朝のことです。エントランスで、遠藤さんのご主人とすれ違いました。見違えるような身なりでした。山岸さん、遠藤さんのお宅には、確か息子さんがいましたよね。眼鏡をかけた、よく挨拶をしてくれる男の子が」

 香織は、ゆっくりとうなずいた。

「今朝、沢田さんに訊いたら、遠藤さんのお宅は夫婦ふたりだと言う。……私の記憶では、いた。昨日まで、確かにいたんです。先週も、エレベーターで一緒になった。『先生、おはようございます』って」

 宮本は眼鏡を外し、目頭を押さえた。

「私は、精神科医として、自分の正気を疑わなければならない」

 その声は、患者に向けるものでも、同僚に向けるものでもなかった。ひとりの、途方に暮れた男の声だった。

 夕方、香織は301号室のドアの前に立っていた。

 インターホンに伸ばした指が、ためらって宙に止まった。何を言えばいいのか、わからなかった。息子さんは消えました、204号室のせいです、とでも言うのか。昨日、理事会として204には触らないでと言った人に。

 ドアが、内側から開いた。

 久美子が立っていた。昨日までの、隙のない化粧はなかった。巻いていた髪はほどけて乱れ、目は赤く腫れ上がっている。シルクのパジャマの上に、くたびれたカーディガンを羽織っていた。古いほうの、香織が初めて会った日に久美子が着ていた、キャメルのカーディガンだった。

「……あなたなら、わかるんでしょう」

「遠藤さん」

「翔太がいないの。夫も、両親も、ママ友も、塾の先生も、誰も覚えてない。母子手帳も、へその緒も、何もかもない。小学校に電話したら、そんな児童はいないって。でも、私は覚えてる」

 久美子は、自分の両腕を見下ろした。

「12年間、毎日抱きしめてきた重さを、この腕が覚えてる。生まれたときの3200グラムも、熱を出して夜中に抱いて歩いた重さも、去年、もう抱っこなんかしなくていいって言われた日の、あの重さも」

 久美子が、香織の腕をつかんだ。爪が、スーツの生地越しに食い込んだ。

「あの部屋なのよね。204号室なのよね」

「……はい」

「だから言ったのよ。触らないでって。あなたが調べ始めたから、あの部屋が起きたのよ!」

「起きた……?」

 久美子は、はっとして口をつぐんだ。

 香織は、その一瞬の表情の変化を見逃さなかった。

「遠藤さん。あなたはなぜ、翔太くんのことを覚えているんですか。ほかの人はみんな忘れているのに。あの子を……鈴を、見たことがあるんですか」

 久美子の唇が、震え始めた。

「……見たことがある」

「いつ」

 長い沈黙のあと、久美子は、ほとんど聞き取れないほどの声で答えた。

「23年前」


*


 久美子は、香織をリビングに招き入れた。

 見知らぬ豪華な家具に囲まれて、久美子は革張りのソファの隅で膝を抱えていた。まるで、他人の家に迷い込んだ子どものように。

「私は18歳だった」

 久美子は、ぽつりぽつりと話し始めた。

「この建物の、当時の302号室に、両親と住んでたの。高校3年生。大学受験の勉強に疲れてて、親に内緒で、小遣い稼ぎにベビーシッターをしてた」

「誰の」

「……2階の。図面にない部屋の」

 香織の呼吸が、止まった。

「お母さんは、夜の仕事をしてた。女手ひとつで。だから夜のあいだ、子どもたちを見ててほしいって。時給は安かったけど、勉強道具を持っていって、子どもたちが寝たあとに勉強していいって言ってくれたから」

「子どもたち……」

 久美子は顔を上げ、香織の顔をじっと見た。何かを確かめるように。何かを、探すように。

「あなた、本当に何も覚えてないの」

「何を、ですか」

 玄関のドアが開く音がした。

「久美子、白金の件、決めてきたぞ」

 修の、上機嫌な声だった。

 久美子は弾かれたように立ち上がり、香織の腕を引いて玄関へと押しやった。

「今日は帰って。夫の前では話せない」

「遠藤さん、教えてください。204号室には、誰が住んでいたんですか」

 久美子は、ドアを閉める直前、わずかな隙間から、小さく、しかしはっきりと言った。

「母親と、双子の女の子よ」

 ドアが閉まった。

 香織は、廊下に立ち尽くした。

 双子。

 スーツのポケットの中で、指先に、硬い紙の感触が触れた。あの日から、ずっと持ち歩いている写真。香織は、それを取り出した。

 海辺の写真。麦わら帽子の自分と、赤いカーディガンの鈴。手をつないで、笑っている。

 今まで、なぜ気づかなかったのだろう。

 鈴の顔と、幼い自分の顔。目の形も、鼻筋も、少し尖った顎も。そして、笑ったときに右の頬にできる、小さなえくぼも。

 まったく、同じだった。

 鏡の中で、33年間見てきた自分の顔の、もう半分が、そこにあった。

 廊下の窓から、ふと下を見た。2階の204号室の窓に、明かりが灯った。

 窓辺で、鈴が手を振っていた。

 ガラス越しに、声が聞こえるはずはなかった。けれど、香織の耳には、確かにその声が届いた。

「やっと気づいた? おねえちゃん」


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