↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
204号室は空室です  作者: ぽむぽむ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/10

第2章 覚えているのは、わたしだけ

カーテンの隙間から差し込む朝日で、香織は目を覚ました。

 ソファの上だった。いつの間に眠ってしまったのか、記憶がない。首が痛かった。床には空になったビールの缶が転がり、乾いた泡の跡が白く地図のように広がっていた。

 手の中に、写真があった。

 眠っているあいだも握りしめていたのだろう。写真の角が少し折れていた。香織はそれを朝の光にかざし、もう一度見た。

 やはり、いた。

 麦わら帽子の自分の隣で、赤いカーディガンの少女が笑っている。昨夜204号室で見た鈴と、同じ顔。同じ髪型。同じ服。まるで、27年前の夏の海辺から、そのまま昨夜の部屋へ歩いてきたかのように。

 香織はスマートフォンを手に取り、母に電話をかけた。

「もしもし、香織? 朝早くにどうしたの」

 母の声は、いつもと変わらなかった。少し鼻にかかった、柔らかな声。

「お母さん、送ってくれたアルバムのことなんだけど。6歳のとき、横浜の海で撮った写真。私の隣に、女の子が写ってる」

 沈黙が落ちた。

 電話の向こうで、何かが止まったような沈黙だった。

「お母さん?」

「……近所の子よ。よく一緒に遊んでた」

「名前は」

「覚えてないわ、そんな昔のこと」

「裏に『かおりとすず』って書いてある。すずって誰?」

 また、沈黙。今度はさっきより長かった。

「香織。その写真、捨てなさい」

「どうして」

「……ごめんなさい、お父さんの法事のことで電話がかかってきたから。また今度ね」

 電話が切れた。

 香織は、黒くなった画面を見つめた。父の浩之が亡くなったのは、11年前の冬だった。法事の時期ではない。母は嘘をついた。母が自分に嘘をつくのを、香織は生まれて初めて聞いた気がした。


*


「かわいい。香織、昔から眉間にしわ寄ってたんだね」

 会社の休憩スペースで、佳奈は写真を手に取り、くすくすと笑った。

「隣の子、見える?」

「見えるよ。おかっぱの子。親戚?」

 香織は、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。見える。佳奈にも見える。少なくともこの写真は、自分の頭の中だけにあるものではない。

「この子、サンライズ高輪の204号室にいたの。昨日の夜。この写真と、同じ顔、同じ服で」

「……え、待って。この写真、何年前?」

「27年前」

「じゃあ今は30代でしょ、その子」

「10歳のままだった」

 佳奈は笑おうとして、笑えなかった。口元に浮かびかけた笑みが、途中で行き場をなくして固まった。

「香織が冗談言わない人なの、知ってるから困るんだけど」

「冗談だったら、よかったんだけど」

 佳奈は写真をそっとテーブルに置き、しばらく黙っていた。それから、香織の目をまっすぐに見て言った。

「わかった。とりあえず、信じる。信じた上で、一緒に調べる。それでいい?」

 香織は黙ってうなずいた。喉の奥が、少しだけ熱くなった。


*


 昼過ぎ、香織はひとりで204号室の前に立った。

 今日はマスターキーを使わず、ドアをノックした。3回。返事はない。もう3回。やはり返事はなかった。昼間の204号室は、ただの古い空き部屋の顔をしていた。

 202号室のドアが開いた。

 出てきたのは、若い女性だった。古着らしいだぼっとしたデニムのジャケット、肩までの黒髪を無造作にクリップでまとめている。指先に、青と黄色の絵の具の跡がこびりついていた。目の下に、濃いくまがある。

「……管理会社の人ですよね」

 女性は、香織をじっと見つめた。

「昨日の夜、204に入っていきましたよね」

「見てたんですか」

「覗き穴から。それで、ずっと待ってたんです。話せる人を」

 女性は廊下の左右を素早く見回すと、香織の腕をつかんだ。細い指なのに、驚くほど強い力だった。

「あなたも、覚えてるんですか。消えた人」


*


 202号室は、キャンバスとイーゼルに占拠されていた。

 1LDKのリビングの真ん中に、イーゼルが3台。床には新聞紙が敷かれ、油絵の具のチューブと筆洗いの瓶が散らばっている。テレピン油の匂いが、部屋じゅうに満ちていた。

 そして、壁という壁に、描きかけの肖像画が立てかけてあった。

 すべて、同じ女性の顔だった。

 20代の半ばくらい。少し吊り気味の目、意志の強そうな唇、左の眉の端に小さなほくろ。ある絵は笑っていて、ある絵は怒っていて、ある絵は眠っていた。

「姉です」

 岡崎美緒、22歳。美緒はそう名乗り、絵の1枚を指さした。

「岡崎紗希。26歳。グラフィックデザイナー。3週間前まで、ここで一緒に住んでました」

「3週間前……」

「ある朝起きたら、姉の部屋が物置になってたんです。服も、歯ブラシも、化粧品も、全部ない。スマホの写真も、ふたりで撮ったのが1枚も残ってない。静岡の実家に電話したら、母が『あなた、一人っ子でしょう』って」

 美緒は笑った。笑ったけれど、その笑い方は、泣くのを堪えるための形をしていた。

「友達も、姉の会社の人も、誰も知らない。区役所で住民票を取ったら、私ひとりだけ。私、頭がおかしくなったんだと思って、心療内科にも行きました。薬ももらいました。飲んでも、姉のことは忘れられなかった」

 美緒は、いちばん新しい1枚を手に取った。まだ絵の具が乾ききっていない。

「だから、描いてるんです。忘れないように。毎日1枚。でも、描くたびに、少しずつ顔が曖昧になっていく気がして。怖くて」

 香織は、その絵を見つめた。

 確かに、壁に立てかけられた古い絵と、いま美緒が手にしている新しい絵とでは、どこかが違っていた。眉の形が、少しだけ柔らかくなっている。目の吊り具合が、少しだけ緩んでいる。左の眉のほくろが、なくなっている。

「203の高木さんの奥さんのこと、どう思いますか」

 香織は、自分でも驚くほど静かな声で訊いた。

「由佳さん?」

 美緒は眉をひそめた。

「……知りません。あの人、3日前まではいなかった。元の奥さんは真理子さん。ゴミ出しのとき、よく挨拶してくれた。生ゴミの袋、カラスにやられないようにネットの奥に入れてくれたりして」

 香織の目が、見開かれた。

「覚えてるんですね。真理子さんを」

「覚えてます。あなたも?」

 香織は、ゆっくりとうなずいた。

 ふたりは、しばらく黙って顔を見合わせていた。

「……よかった」

 美緒が、泣き出しそうな顔で笑った。今度の笑顔は、さっきのとは違った。堪えていたものが、ほどけていく笑顔だった。

「私だけじゃなかった」

 美緒は、絵の具で汚れた手の甲で目元を拭うと、台所でインスタントのコーヒーを2杯いれた。マグカップのひとつには、ピンクの猫の絵が描かれていた。

「これ、お姉ちゃんのマグなんです。物置の奥に、これだけ残ってた。洗い物のかごの中に、逆さまに伏せてあったの。たぶん、見落とされたんだと思う」

「見落とされた……」

「誰にかはわからないけど」

 美緒は、猫のマグを両手で包んだ。

「姉はね、ずるい人だったんです。少なくとも、私はそう思ってた。勉強もできて、要領もよくて、親にもかわいがられて。私が欲しいものは、いつも先に姉が持ってた。服も、部屋も、父の褒め言葉も」

「……」

「でも、私が美大の予備校に通いたいって言ったとき、母に内緒で月謝の半分を出してくれたのも姉だった。結局、受験の年に父の会社が傾いて、どっちかしか学費を出せないってなったとき、私、姉に何も言わずに勝手に諦めたんです。姉が悪いわけじゃないのに、姉のせいにして」

 美緒は、壁の肖像画を見上げた。

「姉は、何度も謝ってきました。私は、一度も許さなかった。許さないことで、自分が被害者でいられたから」

 香織は、マグカップの中のコーヒーを見つめた。ふと、自分には兄弟がいないのだと思った。喧嘩をする相手も、許さずにいる相手も、謝ってくる相手も、いなかった。母と父と自分。3人きりの、静かで、穏やかで、少しだけ空白の多い家。

「山岸さんは、兄弟は?」

「いない。一人っ子」

「そうなんですね。……うらやましいって、昔は思ってました。今は、思わない」

 美緒は、猫のマグを置いた。

「いなくなってから気づくなんて、ほんとに馬鹿みたい。喧嘩する相手がいるって、ひとりじゃないってことだったんですね」

 その言葉は、香織の胸の奥の、どこか触れたことのない場所に、静かに落ちた。

 一人っ子。そう答えたとき、ほんのわずかに、舌の先に違和感があった。言い慣れた言葉のはずなのに、まるで他人の台詞を読み上げたような、ほんの一瞬の引っかかり。

 香織は、それを気のせいだと思うことにした。

「美緒さん。協力してくれる? 204号室のこと、一緒に調べたい」

「もちろんです。私、もう失うものないし」

 美緒は笑った。それから、少し真顔になって言った。

「香織さんって呼んでいいですか。なんか、山岸さんって呼ぶと、管理会社の人に話してる気がして」

「……いいよ」

「香織さん」

 美緒は、確かめるようにもう一度呼んだ。

「ひとりじゃないって、こういうことなんですね」

 管理人室の小窓の前で、沢田は心底困った顔をしていた。

「岡崎紗希さんという方、ご存じですよね。202に住んでいた」

「202は美緒ちゃんの一人暮らしだよ。入居したときから」

「沢田さん、お姉ちゃんにみかん、くれたじゃないですか。去年の冬。愛媛の親戚から箱で届いたって」

「美緒ちゃん……」

 沢田は、美緒の顔と香織の顔を交互に見た。その目には、嘘をついている人間特有の揺らぎがなかった。本当に、知らないのだ。

 沢田は覚えていない。真理子のことも、紗希のことも。香織はふと、自分の記憶が誰かの都合のよい嘘なら、と考えた。たった2人が覚えていることを、何百枚の書類が否定している。書類に勝てないのなら、せめて名前だけでも、口に出し続けるしかない。

 香織は、言葉を選びながら続けた。

「沢田さん、もうひとつだけ。204号室で、女の子を見たことはありませんか」

 沢田の顔色が、さっと変わった。

「……ないよ」

「赤いカーディガンの」

「ないって言ってるだろう!」

 初めて聞く、沢田の怒鳴り声だった。エントランスの空気が震え、美緒がびくりと肩をすくめた。

 沢田は我に返ったように目を伏せ、何も言わずに小窓の内側のカーテンを引いた。白いカーテンの向こうで、老人の影が、しばらく動かなかった。


*


 夕暮れの公園は、子どもたちの声で満ちていた。

 サンライズ高輪の向かいにある小さな児童公園のベンチに、香織と美緒、仕事を早めに切り上げて駆けつけた佳奈が並んで座っていた。その前に、宮本が缶コーヒーを手に立っている。香織が、ほとんど縋るような思いで声をかけたのだった。

「お話を伺う限り、医学的にはいくつかの説明が可能です」

 宮本は、言葉を慎重に選びながら言った。

「たとえば、感応性の妄想。強いストレス下にある人間同士が、同じ誤った記憶や信念を共有してしまう現象です。閉じた環境で、親しい関係にある者同士に起こりやすい」

「私と香織さんは、昨日初めて話したんですよ。それでも?」

「同じ建物で、同じ噂を聞いていれば、記憶の種は共有されます。種があれば、芽は出る」

「先生は、信じてないんですか」

 佳奈が訊いた。

「医者というのは、信じるか信じないかではなく、説明できるかできないかで考えるんです」

 宮本は缶コーヒーを一口飲んだ。それから、夕焼けに染まるサンライズ高輪のほうへ、ゆっくりと視線を向けた。

「ただ、ひとつだけ、説明できないことがある」

「何ですか」

「その写真の少女と、204号室の少女が同一人物だという点です。もしこれが、山岸さんと岡崎さんの共有する妄想なら、写真の中の少女は、杉浦さんには見えないはずだ」

「……見えてます、私」

 佳奈が、小さな声で言った。

「だから、困っているんです」

 宮本は苦笑した。その苦笑の奥に、ほんのわずかな怯えのようなものが見えたのを、香織は見逃さなかった。


*


 その夜、香織は11時過ぎまで会社に残っていた。

 サンライズ高輪の過去の修繕記録、管理組合の議事録、前の管理会社とのやりとり。手がかりになりそうなものを片っ端から洗い出したが、204号室に関する記述は、どこにもなかった。まるで、この建物の歴史そのものが、その部屋だけを避けて書かれているかのようだった。

 パソコンの電源を落とし、香織はひとりでエレベーターに乗った。

 扉が閉まる。階数表示が、5から4へ、4から3へと変わっていく。

 ふと、背後に気配を感じた。

 エレベーターの奥の壁は鏡張りになっている。そこに、疲れ切った自分の顔が映っていた。その足元に、赤いものが見えた。

 赤いカーディガン。

 香織は、ゆっくりと振り返った。

 鈴が、そこに立っていた。両手を後ろに組んで、香織を見上げている。

「こんばんは」

「……あなた、誰なの」

 自分の声が、ひどくかすれていた。

「鈴だよ。知ってるでしょ」

「どうして、私の写真に写ってるの」

「一緒に撮ったから」

「私は、あなたを知らない」

 鈴は、少し悲しそうに首をかしげた。その仕草が、なぜか胸に刺さった。

「そっか。まだ思い出さないんだ」

「真理子さんは、どこに行ったの。紗希さんは」

「いなくなったの。おじさんが選び直したから。選び直すとね、いちばん近くにいる人が、ひとり、いなくなるの」

「いなくなるって……死んだってこと?」

「ちがうよ」

 鈴は、首を横に振った。おかっぱの髪が、さらさらと揺れた。

「最初から、いなかったことになるの」

 香織は、言葉を失った。

「でもね、香織ちゃんは忘れないよ。わたしを見た人は、消える前のことを覚えていられるの。ずっとじゃないかもしれないけど。だから、名前を呼んであげて」

「……美緒さんも、あなたを見たの」

「うん。階段で。あのお姉ちゃん、泣いてたから」

 チン、と軽やかな音がして、エレベーターが1階に着いた。

 扉が開いた。香織は振り向いたが、鈴はいなかった。鏡には自分がひとり映っている。たった今、そこにいた子どもの重さも、息も、鏡の中には残されていなかった。

 振り返ると、鈴の姿はなかった。鏡張りの壁には、青ざめた香織の顔がひとつ、映っているだけだった。


*


 その夜、202号室で、美緒は香織からの電話を受けていた。

「選び直すと、いちばん近くにいる人が消える……」

 美緒は、香織の言葉をそのまま繰り返した。

「美緒さん。あなたのお姉さんが消える直前に、誰か204に入った人はいなかった? 紗希さんのいちばん近くにいた人で」

「お姉ちゃんのいちばん近く……」

 美緒は、部屋を見回した。姉の部屋だったはずの、今は物置になっている部屋。そして、自分の部屋。この1LDKで、ふたりは4年間暮らしてきた。姉のいちばん近くにいた人間。

「そんなの、私しか」

 言いかけて、美緒は止まった。

 自分の言葉の意味に、遅れて気がついた。

 美緒は電話を耳から離し、本棚に飛びついた。いちばん下の段、画集のあいだに挟まれた、布張りの日記帳を引き抜く。中学のころから、ほとんど毎日つけてきた日記だった。

 3週間前のページを、震える指でめくった。

 そこには、確かに自分の字で、自分の覚えていない文章が書かれていた。

『10月1日。お姉ちゃんとまた喧嘩した。お父さんはいつもお姉ちゃんの味方。4年前、私が美大を諦めたのも、お金がないからお姉ちゃんの専門学校のローンを優先したから。お姉ちゃんはずるい。お姉ちゃんさえいなければ』

 美緒の手が震えた。ページをめくる。

『夜、204の窓に明かりがついてた。女の子が手を振ってた。中に入ったら、聞かれた。どこから選び直す?って。だから答えた。4年前、美大を諦めなかった私になりたいって』

 日記帳が、床に落ちた。

 開いたページが、天井の蛍光灯を白く照り返した。

「……私だ」

 美緒の唇から、かすれた声がこぼれた。


*


 香織が202号室に駆けつけたとき、ドアは開け放たれていた。部屋に美緒の姿はなかった。床に、開いたままの日記帳が落ちていた。

 廊下に飛び出す。

 204号室の前で、美緒がドアを叩いていた。拳で、何度も、何度も。

「開けて! 開けてよ! お姉ちゃんを返して!」

「美緒さん!」

「私だったの。私が選んだの。私がお姉ちゃんを消したの!」

 美緒の膝が崩れた。香織は駆け寄り、倒れかかる美緒の体を抱きとめた。驚くほど軽かった。この3週間、ろくに食べていなかったのだろう。

「今の私、美大生なんです」

 香織の腕の中で、美緒はしゃくりあげながら言った。

「4年前、受かったことになってる。毎日絵が描ける。ずっと欲しかった人生。でもそれは、お姉ちゃんがいなかったからなんです。親がお金を出せる子どもが、ひとりしかいなかったから」

「……」

「お姉ちゃんの顔、もう思い出せないんです。描いても描いても、自分の顔になっていく」

 204号室のドアが、静かに開いた。

 立っていたのは、あの女性だった。エプロン姿。昨夜と同じ、深い影の差した顔。

「もう一度選び直しても、無駄よ」

「どうして!」

 美緒が叫んだ。

「選び直せるのは、ひとりの人生につき一度だけ。あなたは、もう選んだの」

「だったら、誰かが代わりに……」

 美緒は、ゆっくりと顔を上げた。そして、自分を抱きとめている香織の顔を見た。

 香織も、その意味を理解した。

 誰かが代わりに選び直せば。美緒がいちばん近くにいる誰かが――。

「やめなさい」

 女性の声が、廊下に響いた。彼女は美緒ではなく、香織だけを見ていた。

「この人だけは、絶対に入れないで」

 ドアが閉まった。


*


 泣き疲れて眠った美緒に、香織はそっと毛布をかけた。

 202号室のリビングは、テレピン油の匂いの中で静まり返っていた。イーゼルの上の描きかけの肖像画が、薄暗がりの中に浮かんでいた。香織はそれを見つめた。目元が、確かに美緒に似ていく。少しずつ、少しずつ、姉の顔が妹の顔に塗り替えられていく。

 誰かが選び直すたびに、誰かが消える。そして、誰も気づかない。消えた人を覚えているのは、あの子を見た人間だけ。

 香織は窓の外を見た。向かいのビルの窓ガラスに、この建物の2階が映り込んでいる。そこに、ぽつんとひとつ、黄色い明かりが灯っていた。

 204号室の明かりだった。


*


 午前1時。香織は、ひとりで204号室のドアの前に立っていた。

 マスターキーを差し込む。今夜は、鍵は素直に回った。

 ドアを開ける。暗い。誰もいない。家具も何もない。カーテンのない窓から、青白い月の光が床に四角く落ちているだけだった。さっき廊下から見えたはずの明かりは、どこにもなかった。

 香織は懐中電灯をつけ、ゆっくりと部屋を歩いた。

 あの女性は、なぜ私だけを入れようとしないのか。鈴は、なぜ私を知っているのか。

 ダイニングを抜け、奥の和室へ。昨夜、鈴が消えていった襖の向こう。畳は日に焼けて赤茶け、押し入れの襖は薄く黄ばんでいる。

 懐中電灯の光が、和室の柱を照らした。

 香織は、息を止めた。

 柱に、鉛筆で引かれた何本もの横線があった。背比べの跡だった。線の横に、子どもの字で名前と年齢が書き込まれている。

『すず 5さい』『かおり 5さい』

『すず 6さい』『かおり 6さい』

『すず 7さい』『かおり 7さい』

『すず 8さい』『かおり 8さい』

『すず 9さい』『かおり 9さい』

 線は、9歳で途切れていた。

 ふたつの線は、毎年ほとんど同じ高さに引かれていた。ときどき「すず」がほんの少し高く、ときどき「かおり」がほんの少し高い。

 香織は、震える指で、自分の名前に触れた。

「……かおり」

 鉛筆の跡は、指の腹にかすかな凹凸を伝えてきた。いちばん上の線。『かおり 9さい』。その高さは、33歳の香織の、ちょうど胸のあたりだった。この部屋で、誰かが、毎年この柱の前に「かおり」を立たせて、頭のてっぺんに鉛筆を当てたのだ。

 背後で、襖が音もなく開く気配がした。

「香織ちゃん、10さいの線、まだ引いてないね」

 鈴の声だった。

 香織は、振り返ることができなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。