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204号室は空室です  作者: ぽむぽむ


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第1章 明かりの灯る空室

暗闇の中で、何かが爆ぜる音がしている。

 ぱち、ぱち、と、湿った薪には似合わない乾いた音がした。オレンジ色の光の中で、誕生日ケーキの10本のろうそくが少しずつ短くなる。明日になれば10歳になる。その、まだ来ていない年齢を祝う火だった。蝋がチョコレートのプレートに落ち、ふたりの名前を、まず片方から覆っていった。

 小さな手が、別の小さな手を探して伸びる。指先が空を掻く。届かない。

「……いなくなればいいのに」

 誰の声だったのか、わからない。幼い少女の声だった。泣いているようにも、怒っているようにも聞こえた。

 煙が、すべてを覆いつくしていく。

 山岸香織は、そこで目を覚ます。

 いつもそうだった。物心ついたころから、年に何度か同じ夢を見る。夢の中の自分は何も見ていない。音と、光と、匂いだけがあって、最後に誰かの声がする。目覚めると枕が湿っていて、理由のわからない喪失感だけが胸の真ん中に残っている。

 33歳になった今でも、その夢は消えなかった。

 香織は枕元のスマートフォンを取った。午前5時48分。目覚ましまで12分ある。いつもなら、その12分で湯を沸かし、カーテンを開け、昨日の洗濯物を畳む。予定を守ることは彼女にとって、取り戻せないものを数えずに済む方法だった。今朝は、薬缶に水を入れたまま、しばらく火をつけられなかった。


*


 港区高輪の坂の中腹に、そのマンションは建っている。

 サンライズ高輪。築28年、5階建て。外壁のタイルは日に焼けて色が抜け、ところどころに補修の跡がまだらに浮かんでいる。最寄り駅から徒歩7分という立地のよさだけが取り柄の、どこにでもある古い集合住宅だった。ただ、エントランスに掲げられた真鍮のプレートだけが、誰かが毎朝磨いているかのように、妙に光っていた。

 2026年10月。香織がこの物件の担当になって、半年が過ぎようとしていた。

 株式会社みなとハウジング管理、賃貸管理課。浜松町の雑居ビルの4階にあるオフィスは、朝から電話が鳴りやまない。水漏れ、騒音、鍵の紛失、ゴミ出しのルール違反。管理会社の仕事とは、つまるところ、他人の暮らしの綻びを縫い合わせることだった。

 香織はデスクで書類を整理していた。髪は後ろできっちりとひとつにまとめ、付箋は色別に分け、ペンは3本、机の縁と平行に並べてある。同僚たちはそれを「山岸さんの結界」と呼んでいた。

「はい、香織の分」

 隣の席から、杉浦佳奈が紙コップを2つ持って椅子ごと滑り込んできた。高校の演劇部の2学年下の後輩で、いまは同じ課の同僚でもある。茶色に染めた髪が、朝の光のなかで柔らかく揺れた。

「ブラック、砂糖なし、人生も甘くなし」

「最後のいらない」

「いるでしょ。香織の人生、糖分ゼロだもん」

 香織は黙ってコーヒーを受け取り、一口飲んだ。佳奈は自分のカップにミルクを注ぎながら、声をひそめた。

「で、聞いた? サンライズ高輪の105のおばあちゃん、また電話してきたって」

「小池さん? 今月4回目」

「今度は何だと思う?」

「排水の音。上の階の足音。それか、204号室の話し声」

「正解。204」

 香織は手を止めずに、パソコンの管理画面を開いた。物件名を入力し、部屋番号を選ぶ。画面に表示された文字は、この半年で何度も見たものと寸分違わなかった。

『サンライズ高輪 204号室 状態:空室 入居履歴:なし』

「空室。弊社が管理を受託した2014年以降、入居の記録がありません。ただし、それ以前の記録まで空白だとは、まだ言い切れません」

「でもさ、夜中になると話し声がするんだって。女の人と、小さい女の子の」

「空室から声がするなら、原因は3つ。隣室の音の反響、不法侵入、それか小池さんの気のせい」

「4つ目は?」

「ない」

 佳奈はつまらなそうに唇を尖らせた。

「香織ってほんと、夢がないよね」

「夢は寝てるときに見るもの」

 言ってから、香織は今朝の夢のことを少しだけ思い出した。ろうそく。煙。誰かの声。彼女はそれを、コーヒーと一緒に喉の奥へ流し込んだ。

 課長の村井が、パーティションの上から顔を出した。52歳。薄くなった頭頂部を気にして、いつも少し前かがみで歩く男だった。

「山岸、今日サンライズ高輪に行けるか。203の高木さん、家賃3か月滞納だ。そろそろ督促状、手渡しで頼む」

「承知しました。ついでに204も見てきます」

「204?」

 村井の顔に、ほんの一瞬、何かがよぎった。

「……ああ、あそこはいい。見なくて」

「え?」

「いや……空室なんだから、見ても何もないだろう」

 村井はそれだけ言うと、そそくさと自分の席に戻っていった。香織はわずかに眉をひそめ、その背中を見送った。

 管理会社の課長が、管理物件の空室を見なくていいと言う。筋が通らない。香織が気になったのは、理由がないことではなく、理由を持っている人間だけが口を閉ざすことだった。


*


 サンライズ高輪の管理人室は、エントランスを入ってすぐ右手にある。小さな受付窓の奥で、管理人の沢田薫が湯呑みを片手に新聞を読んでいた。70歳。この建物が完成したときから、ずっとここに勤めているという。白くなった髪を短く刈り込み、日に焼けた首筋には深い皺が刻まれている。

「こんにちは。みなとハウジングの山岸です」

「ああ、山岸さん。今日もきちっとしてるねえ」

 沢田は老眼鏡を額に押し上げ、目尻に皺を寄せて笑った。この半年、香織はこの笑顔に何度も助けられてきた。住民同士のいざこざも、業者との行き違いも、沢田が間に入るとなぜか丸く収まった。

「沢田さん、小池さんから204号室の件で連絡がありまして。夜中に声がすると」

 新聞をめくる沢田の手が、一瞬だけ止まった。

「……小池さんもねえ、旦那さん亡くしてから寂しいんだよ。そうだ、山岸さん、柿食べるかい。田舎から送ってきてね」

「204の鍵、管理人室にありますよね」

「柿、甘いよ」

「沢田さん」

 沢田は新聞を畳み、しばらく黙って窓の外を見ていた。秋の午後の光が、エントランスの床のタイルに斜めの影を落としている。

「……この建物にはね、古い音がたくさん染み込んでるんだ。気にしてたらきりがない」

 沢田は柿の入ったビニール袋を窓口から押し出すように香織に手渡すと、小窓をぴしゃりと閉めた。

 香織は柿の袋を提げたまま、その場に立ち尽くした。袋の中で、橙色の実が3つ、重たく転がった。


*


 2階の廊下は、昼間でも薄暗い。

 201、202、203。部屋番号のプレートが並ぶドアの前を、香織はゆっくりと歩いた。そして、204。

 204のドアだけが、ほかの部屋よりわずかに色が濃かった。塗り直されたのだろう。他のドアが28年分の歳月を吸い込んで白茶けているのに、このドアだけが、まるで時間から取り残されたように濃い灰色をしている。表札の差し込み口は空白のままだった。

 香織はドアに耳を当てた。

 何も聞こえない。換気扇の音すらしない。完全な沈黙だった。空室なのだから当然だ、と香織は思う。思いながら、その沈黙がなぜか、誰かが息を殺している沈黙のように感じられた。

「何してるの」

 背後から声がして、香織は振り返った。

 遠藤久美子が、腕を組んで立っていた。41歳。きれいに巻いた髪、隙のない化粧、季節を先取りしたキャメルのカーディガン。このマンションの管理組合で理事を務める女性だった。

「管理組合理事の遠藤です。管理会社の方よね」

「みなとハウジングの山岸です。204号室について住民の方からご相談がありまして」

「小池さんでしょう。あの方の話はいいの。空室は空室。それ以上でも以下でもない」

「でも、念のため室内の確認を」

「やめて」

 鋭い声が廊下に響いた。久美子自身が、その声の大きさに驚いたように一瞬目を見開き、それからすぐに表情を取り繕った。

「……住民が不安になるの。管理会社が空室を調べ回ってるなんて噂が立ったら。資産価値にも関わるでしょう?」

「確認するだけです」

「理事会として、正式にお断りします。204には触らないで」

 久美子はそう言い残し、ヒールの音を響かせて階段を上っていった。

 香織は204のドアを見つめた。濃い灰色のドアは、何も答えなかった。


*


 203号室のインターホンを押す。返事がない。もう一度押す。

 しばらくして、ドアが細く開いた。チェーンの向こうから、高木蓮が顔を出した。37歳。伸び放題の無精ひげ、脂じみた髪。ドアの隙間から、酒と饐えた生活の匂いが流れ出てきた。

「高木さん、みなとハウジングの山岸です。家賃の件で」

「……ああ。払えないですよ。わかってるでしょう」

「督促状をお渡しします。今月末までに一部でもお支払いいただけない場合、保証会社から――」

「わかってますって」

 蓮がドアを閉めかけたとき、部屋の奥から、段ボール箱を抱えた女性が出てきた。小柄で、髪を後ろでひとつに束ねている。

「あ……すみません。私、元妻の真理子です。残ってた荷物、取りに来てて」

「あ、半年前の退去手続きのときに。担当しました、山岸です」

「覚えてます。あのときはお世話になりました」

 高木真理子は、段ボールを抱えたまま小さく頭を下げた。36歳。化粧気のない顔に、疲れと、それでも消えない人のよさが同居していた。

 蓮は何も言わずに奥へ引っ込んだ。真理子は靴を履きながら、ちらりと奥の部屋を振り返り、声をひそめた。

「……山岸さん。少しだけ、いいですか」

 並んで階段を下りながら、真理子はしばらく何も言わなかった。段ボールの角を握る指に、力がこもっているのがわかった。

「あの人、会社をクビになってから、ずっとああで」

 ようやく口を開いた真理子の声は、ひどく小さかった。

「私が出ていったのも、あの人のせいだけじゃないんですけど。私も、待てなかったから。もう少し待ってあげればよかったのかもしれないって、今でも思うんです」

 香織は何も言わなかった。言うべき言葉を、彼女は持っていなかった。管理会社の社員が、元夫婦のどちらかの肩を持つわけにはいかない。それに、誰かを慰める言葉というものを、香織はうまく扱えたためしがなかった。

「最近、変なこと言うんです。電話で。夜になると、隣の部屋に明かりがつくって。女の子が、窓から手を振るって」

 香織は足を止めた。

「隣って、204号室ですか」

「空き部屋ですよね? だから私、あの人、とうとう……って」

 真理子は言葉を詰まらせた。踊り場の小さな窓から差し込む光が、彼女の横顔を白く縁取っていた。

「その子がね、こう言うんだって。『選び直したい?』って」

「選び直す……?」

「離婚しなきゃよかったとか、そういう意味だと思うんです。会社を辞めなきゃよかったとか。もし、あの人が変なこと考えてたら……私、もう他人ですけど、それでも」

 真理子はそこで口を閉ざした。その先を言葉にしたら、本当になってしまうとでもいうように。

「わかりました。気にかけておきます」

「ありがとうございます」

 真理子は深く頭を下げ、段ボールを抱え直して、エントランスへの階段を下りていった。小柄な背中が、荷物の重さにわずかに傾いていた。

 香織はその背中を見送ってから、ふと2階の廊下を振り返った。

 204号室のドアの覗き穴が、こちらを見ていた。

 そう感じたのは、ほんの一瞬のことだった。覗き穴の小さなレンズの奥が、ほかの部屋のそれよりも、ずっと暗く見えた。まるで、その向こう側に誰かの瞳が貼りついているかのように。

 香織は首を振った。疲れている。それだけのことだ。


*


 その日の夕方、香織は会社の資料室にいた。

 窓のない8畳ほどの部屋に、スチール棚が壁一面に並んでいる。管理物件ごとに分類された段ボール箱が、天井近くまで積み上げられていた。埃と古い紙の匂いが鼻をつく。

「なんで残業してまで、空室の記録探してんの」

 脚立の上から段ボールを下ろしながら、佳奈が言った。

「2014年より前の記録。前の管理会社から引き継いだはずの書類」

「あるの?」

 香織は床に広げたファイルを、1冊ずつ確かめていった。サンライズ高輪、2階。201、入居者の履歴が7件。202、5件。203、4件。205、6件。

「……ない。201、202、203、205はある。204だけ、ファイル自体がない」

「入居者がいなかったから、ファイルを作らなかったとか」

「28年間、一度も? 都心の駅近物件で?」

 佳奈は脚立の上で動きを止めた。

「……それは、ちょっと怖いね」

 香織は、管理会社が切り替わったときの引き継ぎ書類の一覧に指を走らせた。部屋番号ごとに、入居状況と特記事項が手書きで記されている。2014年3月の日付。

『204号室 空室(特記事項:なし)』

 その「なし」の文字だけが、わずかに盛り上がって見えた。香織は指先でそこをなぞった。紙の表面がざらついている。

「……修正液」

「え?」

 香織は紙を蛍光灯にかざした。白い修正液の下に、もともと書かれていた文字の影が透けて見える。何文字かあったはずだ。けれど、何重にも塗り重ねられたその下の文字は、どれほど光の角度を変えても読み取れなかった。

 誰かが、何かを書いた。そして、誰かが、それを消した。

「香織?」

「なんでもない」

 香織はファイルを閉じた。なんでもないはずがなかった。けれど、なんでもないことにしておかなければ、自分の中の何かが、ほどけてしまいそうな気がした。


*


 午後11時40分。

 残業を終えた香織は、なぜか会社から自宅とは逆方向の電車に乗り、高輪の坂を上っていた。自分でも理由はうまく説明できなかった。ただ、修正液の下の見えない文字が、頭から離れなかった。

 坂の途中で立ち止まり、香織はサンライズ高輪を見上げた。

 夜の建物は、昼間よりも大きく見えた。2階の窓が、等間隔に並んでいる。

 201、暗い。

 202、明るい。カーテン越しに、誰かが動く影が見える。

 203、暗い。

 204――明るい。

 香織は息をのんだ。

 カーテン越しに、黄色い電球の光が滲んでいた。今どきのLED照明の白い光ではない。昔の、白熱電球の、少し赤みがかった温かな光だった。その光の中を、人影がひとつ、ゆっくりと横切った。

 空室のはずの部屋に、明かりがついていた。

 香織は瞬きした。明かりは消えない。管理台帳では2014年以降、入居履歴なし。電気とガスの契約も会社の控えには見当たらない。記録がないことと、誰も住んでいなかったことは、同じ意味だろうか。初めて、その当たり前を疑った。

 不法侵入。

 合理的な答えは、それしかなかった。香織はその答えに縋るようにして、エントランスへ向かった。


*


 足音を殺して、2階の廊下を進む。

 204のドアの前に立つと、ドアの下の隙間から、細い光の帯が廊下に漏れ出していた。そして、音が聞こえた。テレビの音。何かのアニメの主題歌のようだった。それから、子どもの笑い声。

 香織はバッグの中から、管理用のマスターキーを取り出した。手が震えていた。

 不法侵入なら、警察に通報する。でも、まず確認だ。確認しなければ何も始まらない。それが香織の流儀だった。思い込みで動かない。目で見て、手で触れて、記録に残す。そうやって彼女は、自分の世界を確かなものにしてきた。

 鍵穴に、マスターキーを差し込む。

 回った。

 ドアを引いた瞬間、温かい空気が香織の顔を撫でた。そして、カレーの匂い。

 6畳ほどのダイニングだった。真ん中にちゃぶ台があり、部屋の隅には今ではもう見かけなくなったブラウン管のテレビが置かれている。壁には、クレヨンで描かれた絵が何枚も画鋲で留めてあった。家族の絵。太陽の絵。チューリップの絵。天井から吊るされた裸電球が、そのすべてを琥珀色に染めていた。

 台所に立っていた女性が、ゆっくりと振り返った。

 30代の半ばだろうか。エプロン姿。優しい顔立ちなのに、どこか深い影が差している。その影は、照明のせいではなく、彼女の内側から滲み出しているように見えた。

 そして、ちゃぶ台の前に、少女がいた。

 10歳くらい。おかっぱ頭に、赤いカーディガン。鉛筆を握って、ノートに何かを書いている。宿題をしているようだった。

「……あの、管理会社の者です。こちら、空室のはずなんですが」

 香織の声は、自分でも驚くほど上ずっていた。

「空室?」

 女性は首をかしげた。

「私たち、ずっとここに住んでいますけど」

「ずっとって……いつから」

 少女が顔を上げた。

 まっすぐに、香織を見た。黒目がちの大きな瞳。そして、にっこりと笑った。笑うと、右の頬にえくぼができた。

「香織ちゃん、遅かったね」

 香織は凍りついた。

「……どうして、私の名前」

「知ってるよ。ずっと前から」

 その瞬間、女性の表情が一変した。少女とのあいだに割って入るように、香織の前に立ちはだかる。

「鈴、奥に行ってなさい」

「でも、香織ちゃんが――」

「行きなさい」

 少女――鈴と呼ばれたその子は、唇を尖らせ、しぶしぶ立ち上がった。奥の襖を開け、その向こうの暗がりへ消えていく。襖が閉まる直前、もう一度だけ振り返って、香織に小さく手を振った。

 女性が香織に詰め寄った。その声は低く、切実だった。

「出ていって。そして、二度とこの部屋に入らないで」

「どういう意味ですか。あなたたちは誰なんですか」

「お願い。あなたのためなの」

 女性の目には、怒りではなく、懇願の色があった。香織はその目に気圧され、半歩後ずさった。

 そのとき、視界の端に、壁のカレンダーが映った。

 風景写真のついた、銀行の名入りのカレンダー。そこに大きく印刷された年号と月。

『2003年8月』

「2003年……?」

 女性は香織の肩を両手で押し、玄関の外へ押し出した。その手は、驚くほど温かかった。

 ドアが閉まった。

 香織は廊下に立ち尽くしていた。

 心臓が、耳のすぐ後ろで鳴っていた。荒い呼吸が、静まり返った廊下にやけに大きく響く。今、自分は何を見たのか。ちゃぶ台。ブラウン管。2003年のカレンダー。自分の名前を呼んだ少女。

 ふと横を見ると、203号室のドアが開いていた。

 蓮が、裸足で廊下に立っていた。

 香織には気づいていない。昼間のどんよりとした目ではなく、何かに魅入られたような、焦点の合わない目で、204のドアだけを見つめている。

「高木さん……?」

 声をかけても、蓮は反応しなかった。

 204のドアが、内側から静かに開いた。わずかな隙間から、鈴の小さな顔が覗いた。

「おじさん、決めた?」

「……ああ」

 蓮の声は、ひどく穏やかだった。昼間の荒んだ声とは、まるで別人のように。

「どこから選び直す?」

 蓮は答えなかった。夢遊病者のような足取りで、204のドアへ吸い込まれていく。

「高木さん、待って!」

 香織は駆け寄った。だが、香織の指先が蓮の背中に届く寸前で、ドアが閉まった。ノブを回す。鍵がかかっている。マスターキーを差し込む。回らない。さっきは確かに回った鍵が、今はびくとも動かない。

「高木さん!」

 香織はドアを叩いた。拳が痛くなるほど叩いた。返事はなかった。テレビの音も、子どもの笑い声も、もう聞こえない。

 ドアの下の隙間から漏れていた光が、ふっと消えた。

 廊下が、闇に沈んだ。


*


 翌朝、香織は沢田を叩き起こすようにして、204号室の鍵を開けさせた。

「山岸さん、朝の7時だよ」

「お願いします。確認させてください」

 沢田は渋い顔でマスターキーを差し込んだ。鍵は、何の抵抗もなく回った。

 ドアが開く。

 何もなかった。

 フローリングの床は一面に埃をかぶり、窓にはカーテンすらかかっていない。台所には蛇口がひとつ、ぽつんと取り残されている。壁は真っ白で、画鋲の穴ひとつ見当たらなかった。ちゃぶ台も、ブラウン管のテレビも、クレヨンの絵も、カレンダーも、どこにもない。

 カレーの匂いもしなかった。そこにあるのは、長いあいだ閉め切られていた部屋に特有の、乾いた黴の匂いだけだった。

「……そんな」

「ほらね。空室だよ」

「昨日の夜、ここに人がいたんです。女の人と、女の子が。ちゃぶ台があって、テレビがあって、カレーの匂いがして」

「山岸さん、疲れてるんじゃないかい」

 香織は床にしゃがみこみ、埃を指でなぞった。指先が灰色に汚れた。床の上には、足跡ひとつなかった。昨夜、自分がここに立ったはずの場所にも。蓮が入っていったはずの玄関にも。

 沢田は窓辺に立ち、外を見ていた。

 その横顔が、ひどく悲しげだった。何かを懐かしむような、何かを悔やむような。香織はその表情を、どこかで見たことがあるような気がした。けれど、どこで見たのか思い出せなかった。

「沢田さん」

「なんだい」

「白石って名前に、心当たりはありませんか」

 なぜその名前が口をついて出たのか、香織にはわからなかった。昨夜の女性は名乗らなかった。部屋のどこにも表札はなかった。それなのに、その2文字は、ずっと前から舌の上にあったかのように、自然にこぼれ落ちた。

 沢田の肩が、わずかに揺れた。

「……さあ。歳でね、物覚えが悪くて」

 沢田は振り返らなかった。


*


 香織は意を決して、203号室のインターホンを押した。

 昨夜、蓮はあの部屋に入っていった。そして、出てこなかった。少なくとも、香織が見ている前では。無事を確かめなければならない。管理会社の社員として。いや、それ以上に、昨夜見たものが何だったのかを確かめるために。

 ドアが、勢いよく開いた。

「はい! あ、山岸さん。おはようございます」

 香織は言葉を失った。

 そこに立っていたのは、確かに高木蓮だった。けれど、昨日の蓮ではなかった。ひげはきれいに剃られ、髪は整えられ、糊のきいた白いワイシャツにネクタイを締めている。目には生気が満ち、頬にはうっすらと血色が差していた。

「……高木さん?」

「どうしました? あ、更新の書類ですか? 由佳、山岸さん来てくれたよ」

 奥から、エプロン姿の女性が出てきた。柔らかな栗色の髪を肩で揃え、穏やかな笑みを浮かべている。35歳くらいだろうか。

「山岸さん、いつもお世話になってます。よかったら、お茶でも」

 香織は、その女性の顔を見つめた。見覚えがなかった。まったく。

「……あの、失礼ですが」

「はい?」

「どちら様でしょうか」

 女性はきょとんとした。それから、蓮と顔を見合わせた。蓮が、声を上げて笑い出した。

「山岸さん、冗談きついなあ。妻の由佳ですよ。結婚して10年。入居のとき、一緒にご挨拶したじゃないですか」

「……奥様は、真理子さんでは」

「真理子?」

 蓮は由佳と顔を見合わせた。その表情には、ごまかしも、気まずさもなかった。ただ純粋な、困惑だけがあった。

「誰ですか、それ」

 香織の背筋を、冷たいものが走った。

「家賃の……滞納の件は」

「滞納? してませんよ。毎月27日に口座から引き落としです。確認してもらえばわかります」

 蓮の肩越しに、リビングが見えた。昨日まで空き缶と脱ぎ散らかした服で埋まっていた部屋が、きれいに片付いている。窓辺には観葉植物。テーブルには朝食の皿。そして壁には、額に入った結婚式の写真。白いタキシードの蓮と、ウエディングドレスの由佳。写真の隅に、金色の文字で日付が入っていた。2016年。

 昨日の部屋には、絶望があった。今朝の部屋には、磨かれた食卓と、誰かのために買った花があった。香織は、それを幸せと呼びかけて、言葉を飲み込んだ。誰かがいなくなった場所で、よその家庭の幸福を判定する権利などない。

 まるで最初から、そうであったかのように。


*


 会社に戻ると、香織はデスクにつくなり、猛烈な勢いでキーボードを叩いた。

『203号室 契約者:高木蓮 同居人:高木由佳(妻) 家賃滞納:なし』

 入居者情報の欄に、見覚えのない名前があった。由佳。妻。そして、昨日まで確かに赤く点灯していた滞納のフラグが、どこにもない。

 香織は退去関係の書類を収めたキャビネットを開けた。半年前、真理子の退去手続きをしたのは自分だ。転居先の住所も、鍵の返却の日付も、自分の字で書いた。あの書類が、ここにあるはずだった。

 なかった。

 ファイルとファイルのあいだに、隙間すらなかった。最初からそこには何も挟まれていなかったように、書類はぎっしりと隙間なく並んでいた。

「佳奈」

「ん?」

「半年前、203の奥さんの退去手続き、私がやったよね」

「203? 高木さんちの?」

 佳奈は不思議そうに首をかしげた。

「奥さん、出ていってないでしょ。由佳さん、すごくいい人じゃない。去年、町内の防災訓練で一緒に炊き出ししたよ。豚汁の」

「……一緒に?」

「香織もいたじゃん。由佳さんが味見してって言って、香織、熱いって舌やけどしてた」

 香織は言葉を失った。

 そんな記憶は、どこにもなかった。

 スマートフォンを取り出し、着信履歴をさかのぼる。昨日の夕方。真理子から一度、着信があった。蓮の様子を案じて、念のためにと番号を交換したのだ。『高木真理子』。確かに、その名前が履歴に残っている。

 香織は、その番号を押した。

『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』

 無機質なアナウンスが、耳の奥で繰り返された。


*


 夕方、香織はふたたびサンライズ高輪を訪れた。自分でも、なぜ来たのかわからなかった。ただ、確かめずにはいられなかった。

 エントランスの郵便受けの前で、ひとりの男が郵便物を仕分けていた。穏やかな顔立ちに、細いフレームの眼鏡。宮本真一、46歳。305号室の住人だった。

「顔色が悪いですね。管理会社の山岸さん、でしたか」

「……宮本さん。305の」

「ええ。職業柄、人の顔色を見るのが癖でしてね。精神科医なんです」

 香織は、その言葉に縋るように口を開いていた。

「先生。ありえない記憶を持っているのが、自分だけだったら。それは、自分がおかしいってことですか」

 宮本は手を止め、少し考えてから、ゆっくりと答えた。

「記憶というのはね、ハードディスクに保存されたデータとは違うんです。思い出すたびに、少しずつ書き換わる。疲れやストレスで、存在しない出来事を本物のように覚えてしまうことも、決して珍しくはありません」

「……そうですよね」

「ただね」

 宮本は郵便受けの扉を閉めた。金属の小さな音が、エントランスに響いた。

「全員が覚えていて、一人だけが覚えていないこともある。どちらがおかしいのかは、多数決では決まりません」

 宮本は軽く会釈して、エレベーターのほうへ去っていった。

 香織はその場に立ち尽くした。多数決では決まらない。その言葉は、慰めのようでもあり、新しい恐怖の扉のようでもあった。


*


 帰り際、香織は2階の廊下を通りかかった。

 204の前で、足が止まった。ドアの下の隙間に、光はない。

 背後で、くすくすと笑う声がした。

 振り返る。誰もいない。蛍光灯がひとつ、じじ、と小さく瞬いた。

 階段の踊り場に、赤いカーディガンの裾が、一瞬だけ見えた。そして、消えた。


*


 品川区の外れにある香織の部屋は、1LDKの賃貸マンションだった。几帳面に整えられた部屋の真ん中、ローテーブルの上に、宅配便の段ボールがひとつ置かれていた。横浜に住む母、山岸道子から届いたものだ。

 ガムテープの上に、母の丸い字のメモが貼ってある。

『実家の片付けで出てきたもの。いらなければ捨てて。母より』

 香織は缶ビールを開け、一口飲んだ。疲れが、喉の奥から全身に広がっていく。

 疲れているのだ。宮本先生の言うとおり。私は疲れている。だから、存在しない人を見た。存在した人を、存在しないと思い込んだ。真理子さんなんて、最初からいなかったのかもしれない。修正液の下には、何も書かれていなかったのかもしれない。そう考えれば、すべて辻褄が合う。辻褄が合わないのは、自分の頭だけだ。

 香織は段ボールを開けた。

 古い通知表。小学校のピアノの発表会のパンフレット。中学の吹奏楽部の集合写真。そして、表紙の角が擦り切れた、色あせたアルバム。

 アルバムを開く。幼い香織がいた。真新しいランドセルを背負って、緊張した顔で校門の前に立っている。七五三の着物を着て、千歳飴の袋を抱えている。ページをめくるたびに、少しずつ、香織は大きくなっていく。

 香織は、少しだけ表情を緩めた。ここに写っているのは、確かに自分の人生だった。誰にも書き換えられない、確かな記録。

 最後のページを開いた。

 海辺の写真だった。6歳くらいの香織が、大きな麦わら帽子をかぶって、眩しそうに笑っている。背景には、白く光る夏の海。

 覚えている。横浜の海だ。お父さんが撮ってくれた写真。

 香織は、写真をアルバムから剥がして手に取った。

 その手が、止まった。

 写真の中、幼い香織の隣に、もうひとりの少女が写っていた。香織と手をつないで、同じように笑っている。

 おかっぱ頭。赤いカーディガン。

 ――鈴。

「……え」

 手から缶ビールが滑り落ちた。床に転がり、泡がフローリングに広がっていく。香織はそれに気づかなかった。

 震える指で、写真を裏返した。

 鉛筆で書かれた、子どもの字があった。たどたどしい、ひらがなの字。

『かおりと すず 6さい』

 写真が、香織の指から滑り落ちた。

 静まり返った部屋のどこかで、少女の声がした。耳元で、ささやくように。

「香織ちゃん、思い出した?」


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