第9章 会いたい人はいますか
暗闇の中で、香織と文乃は向かい合っていた。
月明かりが、ふたりのあいだの埃っぽい床に、四角い光の溜まりを作っていた。窓の外のベランダから、由佳の姿はもう消えていた。
「私の言葉で、この部屋が……」
香織の声は、自分のものとは思えないほど、細かった。
「あの夜」
文乃は、香織の前に膝をついたまま、静かに語り始めた。
「炎の中で、鈴は、あなたに謝りたいと思った。おねえちゃん、ごめんね、って。私は、火の中に飛び込みながら、選び直したいと思った。あの朝に戻りたい。仕事を休んでいれば。もっとお金があれば。この子たちに、もっと広い、ちゃんとした部屋をあげられていれば」
「……」
「そして、あなたは、『いなくなればいい』と言った」
文乃は、柱の背比べの線に目をやった。
「3つの気持ちが、混ざったの。謝りたい。選び直したい。いなくなればいい。あの夜、この部屋で、3つの気持ちが煙と一緒に混ざり合って、この部屋になった」
「この部屋に……」
「選び直したい人を招いて、その代わりに、誰かを、いなくならせる部屋」
香織は、自分の両手を見下ろした。マッチを擦った手。鈴の肩を押し戻した手。耳を塞いだ手。
「どうして、今になって」
「あなたが、帰ってきたから」
文乃は、少し寂しそうに微笑んだ。
「今年の春、あなたがこの建物の担当になって、初めて、あの2階の廊下を歩いた日。鈴が、目を覚ましたの。23年間、眠っていたのに。おねえちゃんの足音だって、すぐにわかったのね。あの子は、あなたの足音を、誰よりもよく知ってたから」
香織は、言葉を失った。
今年の春。小池トメの部屋に、声が戻ってきた季節。
「私のせいで、真理子さんも、翔太くんも、美緒さんも」
「違う」
文乃は、きっぱりと首を振った。
「扉を開けたのは鈴。でも、そこを通ると何を失うのか、あの人たちは知らなかった。選んだ、と言うだけでは足りないわ。取り返しのつかない結果を、人に知らせないまま差し出したんだから」
文乃は、立ち上がり、窓辺に歩み寄った。カーテンのない窓の向こうに、夜の高輪の街が広がっていた。マンションの窓明かり。坂を上っていくタクシーのヘッドライト。遠くに、品川の高層ビルの、赤い航空障害灯。
「人はね、誰かを消してでも、やり直したい瞬間を抱えて生きてる」
文乃の声は、静かだった。
「誰だってそう。私だって、そう。この部屋は、それを見せてしまうだけ。人の心の、いちばん奥にしまってある、いちばん見たくないものを」
「どうすれば、閉じられるんですか」
香織は、立ち上がった。
文乃は、しばらく、窓の外を見つめたまま、何も言わなかった。長い、長い沈黙だった。月が、雲に隠れ、部屋の中が、一段と暗くなった。
「あなたが、この部屋の中で、選び直さないと決めること」
文乃は、ようやく口を開いた。
「この部屋は、あなたの言葉から生まれた。だから、あなたが、この部屋の中で、選び直す機会を差し出されて、それでも選ばないと決めたら。そうすれば、この部屋で選ばれたものは、全部、元に戻る」
「全部……」
「消えた人は、帰ってくる」
文乃は、振り返った。
「そして、この部屋で生き返った人は、また」
文乃は、その先を、言葉にしなかった。飲み込むように、唇を閉じた。
「それから」
文乃は、香織をまっすぐに見た。
「鈴も、私も、いなくなる。今度こそ、本当に」
*
翌朝、管理人室のこたつを、4人が囲んでいた。
香織、佳奈、宮本、沢田。こたつの天板の上には、4つの湯呑みと、手つかずのみかんが盛られた籠が置かれていた。
香織が、昨夜のことを話し終えたところだった。
誰も、口を開かなかった。壁の時計の秒針の音だけが、狭い部屋に響いていた。
「……文乃さんらしいなあ」
沢田が、ようやく、ぽつりと言った。
「自分のことは、いつも最後だ。昔から、そうだった。双子に新しい服を買ってやって、自分は何年も同じコートを着てた」
「整理しましょう」
宮本が、ノートを開いた。その手が、わずかに震えていた。
「山岸さんが、部屋を閉じれば。高木真理子さん、岡崎紗希さん、遠藤翔太くん、岡崎美緒さんが、戻る」
「その代わり」
佳奈が、言葉を継いだ。
「由佳さんは、また、10年前の事故で亡くなったことになって。先生の奥さんも……」
「……ええ」
宮本は、ノートから目を上げなかった。
「礼子は、3年前に亡くなったことになる」
宮本は、こたつの上の湯呑みを見つめた。今朝、礼子が淹れてくれた茶だった。熱すぎて、まだ飲めずにいた。
「遠藤さんのご主人は、会社も財産も、すべて失う。高木さんは、仕事も家庭もない、元の人生に戻る」
「そして」
沢田が、香織を見た。
「香織ちゃんは、妹とお母さんを、もう一度、失う」
香織は、うつむいた。こたつ布団の下で、膝の上の手を握りしめた。
「香織が、閉じなかったら?」
佳奈が、訊いた。
「山岸さんの人生は、このまま、204号室に吸い込まれていく」
宮本は、静かに答えた。
「名前。記録。記憶。人間関係。住む場所。最後には――」
宮本は、言葉を切った。
その沈黙を破るように、香織のスマートフォンが鳴った。
画面に、表示された名前。
『お母さん』
香織は、慌てて電話に出た。
「もしもし、お母さん」
「……もしもし」
道子の声だった。けれど、どこか、戸惑ったような声。
「あの……どちら様でしょうか」
香織の顔から、血の気が引いた。
「お母さん、私。香織」
「かおり……さん?」
電話の向こうで、道子が、首をかしげている気配がした。
「ごめんなさい、この番号が、私の携帯に登録されてたものだから。『香織』って。お知り合いでしたかしら。町内会の方?」
「横浜の家で、一昨日、話したでしょう」
香織の声が、震えた。
「ちゃぶ台で。お父さんの遺影の前で。ろうそくのないケーキの話」
「……ろうそく」
沈黙。
電話の向こうで、道子が、何かを必死に思い出そうとしている気配がした。息遣いが、乱れていく。
「ごめんなさい……」
道子の声が、かすれた。
「どうしてかしら。涙が、出てくるの。止まらないの。あなた、誰なの。どうして、私、あなたの声を聞くと、こんなに」
電話が、切れた。
香織は、スマートフォンを耳に当てたまま、動けなかった。
「香織……」
佳奈が、香織の肩に手を置いた。
時間が、ない。
香織は、スマートフォンを握りしめた。
その夜、サンライズ高輪の1階の集会室に、明かりが灯った。
普段は、管理組合の総会か、年に一度の防災訓練の説明会くらいにしか使われない部屋だった。蛍光灯の白い光の下に、パイプ椅子が並べられている。壁には、色褪せた避難経路図と、ゴミの分別表が貼られていた。
臨時の住民集会。香織が、沢田に頼んで、関係する住民に声をかけてもらったのだった。
集まったのは、香織、佳奈、宮本、沢田。そして、蓮と由佳。久美子と修。礼子。
ほかの住民には、声をかけなかった。204号室に関わった人たちだけが、パイプ椅子に、ばらばらに腰を下ろしていた。
香織は、部屋の前に立った。
ホワイトボードの前。管理会社の担当者として、何度もここで、修繕計画や管理費の改定について説明してきた場所だった。けれど、今夜話すことは、そのどれとも違っていた。
「信じていただけないことは、わかっています」
香織は、言った。声が、少し震えた。
「でも、この建物で起きていることを、すべてお話しします」
「管理会社が住民を集めて、怪談話か」
修が、腕を組んで鼻を鳴らした。高級なスーツの袖口から、金色の時計が覗いていた。
「黙って聞いて」
久美子が、低い声で言った。修は、妻の顔を見て、少し驚いたように口をつぐんだ。
香織は、話し始めた。
204号室のこと。図面にない部屋。2003年8月9日の火事。白石文乃と、鈴。選び直しのこと。選び直すたびに、いちばん近くにいる人が消えること。真理子。紗希。翔太。美緒。そして、選び直しによって生まれた、もうひとつの現実のこと。由佳のこと。礼子のこと。
話が進むにつれて、集会室の空気が、少しずつ凍りついていった。
誰も、口を挟まなかった。修でさえ。
話し終えたとき、長い沈黙が落ちた。蛍光灯の、じいという低い唸りだけが、聞こえていた。
修が、立ち上がった。
「馬鹿馬鹿しい」
修の声は、怒りで震えていた。
「俺の会社が、その部屋のおかげだと? 13年だぞ。13年、寝ないで働いて、作った会社だ。田島と2人で、ワンルームの事務所から始めて。銀行に頭を下げて、取引先に頭を下げて。それが、幽霊の部屋のおかげだと?」
「あなたには、息子がいたのよ」
久美子が、座ったまま言った。
「翔太っていう、眼鏡の、優しい子が。塾をやめてもいいよって、自分から言えるような子が」
「やめろ!」
修の怒鳴り声が、集会室に響いた。
そのとき、蓮が、ゆっくりと口を開いた。
「……真理子」
全員が、蓮を見た。
蓮は、パイプ椅子に座ったまま、自分の膝を見つめていた。
「真理子って、名前。財布の中のメモの、M」
蓮の声は、ひどく静かだった。
「……俺、知ってる気がする。ずっと、胸の中にあった名前。夢の中で、呼びたくて、呼べなかった名前」
由佳の顔が、青ざめた。膝の上で、両手を固く握りしめていた。
「でも」
蓮は、顔を上げた。由佳のほうを見た。
「だからって、由佳を消すなんて、できない。由佳は、ここにいるんだ。10年、一緒にいたんだ。俺が覚えてなくても、由佳は覚えてる。それを、なかったことになんか」
「蓮くん……」
由佳が、かすれた声でつぶやいた。
そのとき、礼子が、静かに手を挙げた。
会議の場で、発言の許可を求めるように。控えめに、けれど、まっすぐに。
「山岸さん。ひとつだけ、教えてください」
「……はい」
「2階の、202号室にいたという、美緒さん」
礼子は、言葉を選ぶように、ゆっくりと言った。
「どんなお嬢さんでしたか」
「礼子」
宮本が、妻の腕に手を置いた。
「聞かせて」
礼子は、夫の手を、優しく、けれどきっぱりと、自分の腕から外した。
香織は、鞄から、大学ノートを取り出した。『消えた人の記録』。美緒のページを、開いた。
「美大生で、指に、いつも絵の具がついていました」
香織は、ノートを読み上げはしなかった。自分の言葉で、話した。
「消えたお姉さんを忘れないように、毎日1枚、お姉さんの顔を描いていました。描くたびに、顔が自分に似てきてしまうって、怖がっていました。ピンクの猫のマグでコーヒーをいれてくれて。それから」
香織の声が、詰まった。
「『私だけじゃなかった』って、泣きながら、笑う人でした」
礼子は、目を閉じた。
その言葉を、ひとつひとつ、胸の奥に刻み込むように。
「……くだらん」
修が、吐き捨てるように言った。
「こんな話に、付き合ってられるか」
修は、パイプ椅子を蹴り倒し、集会室を出ていった。ドアが、乱暴に閉まった。
「……私も、失礼します」
由佳が、立ち上がった。蓮の手が、由佳の手首をつかんだ。由佳は、その手を振りほどいた。振りほどいて、走るように、集会室を出ていった。
「由佳!」
蓮が、その後を追った。
集会室に、残された者たちは、誰も、口を開かなかった。倒れたパイプ椅子が、蛍光灯の光の下で、銀色に光っていた。
*
305号室のリビングで、宮本と礼子は、ダイニングテーブルを挟んで向かい合っていた。
テーブルの上に、湯呑みが2つ。どちらも、すっかり冷めていた。
時計は、午前0時を回っていた。
「ずっと、変だなと思ってたの」
礼子が、湯呑みの縁を、指でなぞりながら言った。
「この3週間くらい。あなた、私を見るたびに、泣きそうな顔をするから。朝ごはんのときも、ネクタイを直すときも。まるで、もう二度と会えない人を見るみたいな顔で」
「……すまない」
「謝らないで」
礼子は、微笑んだ。少し首をかしげて。写真を撮られるときの、あの角度で。
「3年前、私、死んでたのね」
宮本は、答えられなかった。
答えられないことが、答えだった。
「胃が重いって言った夜」
礼子は、遠い記憶を手繰り寄せるように、目を細めた。
「あなたは、ストレスだよって言った。漢方でも出そうかって。……それで、私は、検査に行かなかった。そうなのね、元の世界では」
「僕のせいだ」
宮本の声が、崩れた。
「医者のくせに。いちばん近くにいたくせに。毎日、他人の話は1時間も聞くくせに、君の話は、学会誌から顔も上げずに」
「違うわ」
礼子は、首を振った。
「私が、あなたの言葉に甘えたの。行きたくなかったのよ、病院。胃カメラが怖くて。あなたがストレスだって言ってくれて、ほっとしたの。ああ、行かなくていいんだって。だから、あなたのせいじゃない。半分は、私のせい」
「礼子……」
「ねえ、真一さん」
礼子は、テーブル越しに、宮本の手に自分の手を重ねた。
「この3週間、とても幸せだった」
宮本は、顔を上げた。
「あなたは覚えてないかもしれないけど、この世界の私は、手術のあと、あなたと箱根に行って、京都に行って、函館に行ったの。函館の夜景、あなた、寒い寒いって文句ばっかり言って。でも、私の手袋の片方を、ずっとポケットの中で握ってくれてた」
礼子は、くすりと笑った。
「死んだ人間が、こんなにおまけをもらえるなんて。神様って、案外、気前がいいのね」
「礼子」
「でもね」
礼子の目に、涙が浮かんだ。
「その幸せの分、22歳の女の子が、どこにもいないの。絵を描いて、泣いて、笑っていた子が。お姉さんの顔を、毎日描いていた子が。その子のこれからの何十年が、私の3週間のために、どこにもないの」
礼子は、宮本の手を、両手で包んだ。
「私を、返してあげて」
宮本は、礼子の手に、顔を埋めた。
声を殺して、泣いた。肩を震わせて。3年前、妻の葬儀で泣けなかった分まで。
礼子は、夫の頭を、そっと撫でた。
「あなたが精神科医で、よかった」
礼子は、ささやいた。
「私がいなくなっても、ちゃんと泣ける人だもの。泣き方を、知ってる人だもの」
301号室のリビングでは、段ボール箱の山の中で、修がウイスキーを瓶ごとあおっていた。
スコッチの18年もの。会社の上場祝いに、取引先から贈られたものだった。グラスに注ぐ手間さえ、惜しかった。喉を焼くような熱さが、胸の奥に落ちていく。それでも、何かを消すことはできなかった。
久美子が、修の向かいの段ボールに、腰を下ろした。
「お前は、俺から全部奪いたいのか」
修は、瓶をテーブルに叩きつけるように置いた。
「会社も、金も、この暮らしも。幽霊の話なんかを信じて」
「奪うんじゃない」
久美子は、静かに言った。
「返すのよ」
「何を」
久美子は、カーディガンのポケットから、1枚の紙を取り出した。
画用紙だった。四つ折りにされて、折り目がすり切れかけている。久美子は、それを広げて、修の前に置いた。
クレヨンの絵だった。
画用紙いっぱいに、3人の人間が描かれていた。ネクタイを締めた、背の高い男の人。エプロンをつけた、髪の長い女の人。そのあいだで、ふたりと手をつないでいる、眼鏡をかけた小さな男の子。3人とも、大きな口を開けて笑っている。空には、赤いクレヨンで塗りつぶされた太陽。
画用紙の下のほうに、つたない、鉛筆の字があった。
『おとうさん おしごと がんばって』
「……何だ、これは」
「翔太の部屋の」
久美子は、ワインセラーになった部屋のほうを見た。
「ワインセラーの裏に、落ちてたの。壁とラックの隙間に。たった1枚だけ、残ってたの。この部屋が書き換えられたときに、見落とされたんだと思う」
修は、絵を手に取った。
じっと、見つめた。
ネクタイの男の人。その顔は、クレヨンの線が何重にも重ねられて、少しいびつだった。眉毛が、ハの字に下がっている。困ったような、でも、笑っている顔。
幼稚園の父の日に、描いてくれたものだった――と、修は知らないはずだった。
「知らない」
修は、言った。
「こんな子、知らない」
声が、震えていた。
「知らないのに……」
修は、絵を見つめたまま、言葉を失った。
「なんで、こんなに」
修は、画用紙を、胸に押し当てた。
皺になるのも構わず、強く。高級なスーツの胸に、クレヨンの粉が、赤や青の色を移した。
修の肩が、震え始めた。
嗚咽が、喉の奥から漏れた。押し殺そうとしても、押し殺せなかった。会社を立ち上げた日も、上場の鐘を鳴らした日も、一度も流したことのない涙が、修の頬を伝って落ちた。
久美子は、黙って、その背中に手を置いた。
*
午前1時。2階の廊下に、由佳が立っていた。
204号室のドアの前に。手には、真鍮のマスターキーを握りしめていた。
集会室を飛び出して、どこをどう歩いたのか覚えていなかった。気がつくと、高輪の坂の上の小さな神社にいた。境内のベンチに座り、夜空を見上げて、何時間も過ごした。それから、ここへ戻ってきた。
足音がした。蓮が、階段を駆け上がってきた。息を切らして。ずっと、由佳を探して、高輪じゅうを走り回っていたのだ。
「由佳!」
「来ないで」
由佳は、振り返らずに言った。
「何するつもりだ」
「鍵をかけるの」
由佳は、マスターキーを、204号室の鍵穴に向けた。
「この部屋に、鍵をかけて、二度と開かないようにする。この鍵を、どこか遠くに捨てる。山岸さんが中に入れなければ、私は消えない」
「由佳……」
「ずるいよね」
由佳は、笑った。泣きながら。
「わかってる。真理子さんは、私が生きてる限り、どこにもいない。あの人の人生を、私が奪ってる。蓮くんの胸の中のぽっかり空いた穴も、私のせい。わかってるの」
由佳の手が、震えていた。鍵の先が、鍵穴の周りで、かちかちと金属の音を立てた。
「でも、私だって、生きたいの」
由佳の声が、裏返った。
「蓮くんと、桜を見たいの。目黒川の桜。この10年、一度も一緒に見たことないの。来年こそはって、約束したの。子どもの名前も、考えてたの。女の子なら……」
蓮は、由佳に駆け寄り、後ろから抱きしめた。
強く。由佳の手から、鍵が落ちそうになるほど。
「いいよ」
蓮は、由佳の耳元で言った。
「ずるくていい」
「蓮くん……」
「俺が選んだんだ」
蓮の声が、震えた。
「10年前の雨の夜。お前を追いかけるって。真理子のところへ行く代わりに、お前の車を追いかけるって。……覚えてないけど、わかるんだ。俺なら、そうする。お前が泣いて出ていったら、俺は、絶対に追いかける」
蓮は、由佳の肩に、額を押しつけた。
「だから、お前がずるいなら、俺も同じだ。ふたりでずるい」
由佳は、蓮の腕の中で、泣いた。
声を上げて。子どものように。
そのとき、204号室のドアが、内側から、少しだけ開いた。
隙間から、鈴が、ふたりを見上げていた。赤いカーディガン。おかっぱの髪。
「おじさん。お姉ちゃん」
鈴の声は、無邪気だった。
「会いたい人は、いる?」
その少し前。香織は、ひとりで204号室の中にいた。
集会のあと、佳奈を先に帰らせた。宮本と沢田にも、何も言わずに別れた。ひとりで、鈴と話がしたかった。誰にも聞かれずに。
明かりが、ついていた。
黄色い裸電球。ちゃぶ台。ブラウン管のテレビ。壁のクレヨンの絵。2003年8月のカレンダー。何度見ても、この部屋は、少しも変わらなかった。23年間、少しも。
ちゃぶ台の前に、鈴がいた。ひとりで。文乃の姿は、なかった。
「鈴。話があって、来たの」
「知ってる」
鈴は、顔を上げずに言った。ケーキのろうそくを、1本ずつ、指先でいじっていた。
「お部屋を、なくしにきたんでしょ」
「……」
「お母さんが、言ってた。おねえちゃんが、選び直さないって決めたら、わたしたち、いなくなるって」
鈴は、ピンクのろうそくを、ケーキから抜いた。そして、また、同じ場所に挿した。抜いて、また挿した。
香織は、ちゃぶ台の前に、膝をついた。『かおり』と刺繍された、水色の座布団の上に。
座った瞬間、体が、その座布団の形を覚えていることに気づいた。お尻の沈み方。膝の位置。ちゃぶ台の縁の高さ。23年前、毎晩、ここに座っていた体が。
「ねえ、おねえちゃん」
鈴が、ようやく顔を上げた。
「会いたい人は、いる?」
「……え」
「この部屋に入って、ずっとここにいるって決めたら、会いたい人と、ずっと一緒にいられるよ」
鈴の目が、裸電球の光を映して、きらきらと光っていた。
「お母さんと、わたしと。火事のない誕生日。毎年、ろうそくを吹けるの。10本でも、20本でも、30本でも。おねえちゃんが、吹きたいだけ」
鈴は、ちゃぶ台の上に身を乗り出した。
「おねえちゃんは、大人になって、楽しかった?」
香織は、答えられなかった。
楽しかったこともある。
父の肩車。氷川丸の煙突。給食のプリンを、友達と半分こした日。吹奏楽部の定期演奏会で、クラリネットのソロを吹ききった日。佳奈と、ファミレスで朝を迎えた日。初めての給料で、母にストールを買った日。
けれど、ずっと、何かが足りなかった。
ろうそくのないケーキ。理由のわからない、夜中の涙。年に何度か見る、炎の夢。街を歩いていて、ふと、知らないマンションの2階の窓を見上げてしまう癖。誰かを探すように。誰かが、そこで手を振っているのを、待つように。
自分の隣に、いつも、ひとり分の空白があった。
それが何なのか、33年間、わからなかった。
「わたしは、ずっと、待ってたよ」
鈴の声が、小さくなった。
「23年間、ここで。おねえちゃんが、帰ってくるの」
鈴の目から、涙がこぼれた。ぽろぽろと、ケーキの生クリームの上に落ちた。
「春になって、おねえちゃんの足音が聞こえたとき、うれしくて、うれしくて。でも、おねえちゃん、わたしのこと、全然覚えてなくて。廊下を通っても、こっちを見てもくれなくて」
鈴は、赤いカーディガンの袖で、涙を拭った。
「だから、いろんな人を呼んだの。選び直したい人を。そうしたら、おねえちゃんが、来てくれると思って。わたしのこと、見てくれると思って」
「鈴……」
「ごめんね。悪いことだって、わかってた。おじさんたちが笑うのを見て、これでよかったって思おうとした。でも、廊下でひとり泣いてる人を見た。あの人の名前、わたし、覚えてる」
鈴の声が、震えた。
「もう、ひとりぼっちは、いやだよ。だけど、ひとりぼっちが嫌だっていうだけで、ほかの人をひとりにしていいはず、なかった」
香織は、鈴を抱きしめそうになった。
腕が、勝手に動いた。ちゃぶ台の向こうの、小さな体に向かって。23年前、階段の踊り場で、耳を塞ぐ代わりに、そうすればよかった腕が。
その手が、止まった。
抱きしめたら、もう、離せない気がした。この温かい部屋から、二度と、出られない気がした。
香織は、伸ばしかけた手を、ゆっくりと、膝の上に戻した。
「……明日の夜、もう一度、来る」
香織は、言った。
「ちゃんと、答えを持って」
鈴は、香織を見上げた。涙に濡れた目で。
「約束?」
「約束」
鈴は、小指を立てた。
香織は、その小指に、自分の小指を絡めた。
冷たくて、小さい指だった。23年前と、同じ大きさの指。香織の小指の、半分ほどしかない。
「指切りげんまん」
鈴が、歌うように言った。
「うそついたら、はりせんぼん、のーます」
鈴は、指を離した。そして、笑った。右の頬に、えくぼを浮かべて。
*
翌日の夕方、香織は、会社のデスクを片付けていた。
書類をファイルに綴じ、未決の案件を引き継ぎのメモにまとめ、パソコンのデスクトップのアイコンを整理した。最後に、ペンを3本、机の縁と平行に並べた。
なぜ、そんなことをしているのか、自分でもよくわからなかった。ただ、今夜、何が起きても、明日の朝、誰かがこの机を見たときに、困らないようにしておきたかった。
佳奈が、紙コップを2つ持って、やってきた。
「はい、香織の分。ブラック、砂糖なし」
香織は、紙コップを受け取り、佳奈の顔を見た。
「……人生も甘くなし?」
「何それ。ダサい」
佳奈は、顔をしかめた。
香織は、笑った。声を出して。
佳奈は、自分の紙コップに、スティックシュガーを2本、ミルクをひとつ、どぼどぼと入れた。もう、隠そうとはしなかった。
「今夜、行くんでしょ」
佳奈が、マドラーでコーヒーをかき混ぜながら言った。
「うん」
「私も、行く」
「だめ」
香織は、首を振った。
「204号室で選び直すと、いちばん近くにいる人が消えるの。もし私が、迷ったら。もし、私が、選び直したら」
「だから、行くんだよ」
佳奈は、マドラーを止めた。
香織の目を、まっすぐに見た。
「香織が迷ったら、私は消えるかもしれない。嫌だよ、そんなの。私だって、まだ行きたい店も見たい芝居もある。だから一緒に行く。私を、簡単に手放していい命だと思わないで」
香織は、息をのんだ。
「香織は、自分のために決めるのが苦手でしょ。今夜は、私のためでも鈴ちゃんのためでもなく、香織が選んで。どちらを選んでも、私は怒るかもしれない。それでも、答えを聞きたい」
「佳奈……」
「親友を、舐めないで」
香織は、言葉を失った。
佳奈は、きょとんとしていた。
「……今、何て言った?」
香織が、訊いた。
佳奈は、自分の口元を、手で押さえた。
「……わかんない」
佳奈は、目を瞬かせた。
「勝手に、出てきた。口が、勝手に」
*
午前0時。
香織と佳奈は、サンライズ高輪の階段を、2階へと上がっていった。
廊下の蛍光灯が、ひとつ、じじ、と瞬いていた。
204号室のドアの前に、由佳が立っていた。手には、真鍮のマスターキーを握っていた。昨夜と、同じように。
「……来ると思った」
由佳は、ふたりを見て、静かに言った。
「由佳さん」
由佳は、手の中の鍵を見つめた。それを、握りしめた。指の関節が、白くなるほどに。
長い沈黙があった。
「ゆうべね」
由佳が、口を開いた。
「蓮くんが、寝言で呼んだの。『真理子、ごめん』って」
由佳は、笑った。泣きながら。
「10年一緒にいても、私の知らない10年が、あの人の中にあるのね。私が死んで、あの人が真理子さんと過ごした10年が。私には、絶対に入れない10年が」
由佳は、ゆっくりと、手のひらを開いた。
真鍮の鍵が、蛍光灯の光を受けて、鈍く光った。
「私、10年分の幸せ、もう、もらったから」
由佳は、マスターキーを、香織の手のひらに置いた。
鍵は、由佳の体温で、温かかった。
「最後の夜は、蓮くんと過ごしてもいい?」
香織は、うなずいた。言葉が、出なかった。
由佳は、深く頭を下げた。それから、203号室のドアを開け、中に入っていった。振り返らなかった。ドアが、静かに閉まった。
廊下の奥で、足音がした。
香織は、顔を上げた。
3階からの階段を、宮本と礼子が、手をつないで下りてきていた。301号室の久美子が、ひとりで、階段の手すりにもたれていた。管理人室から上がってきた沢田が、どてらを羽織って、廊下の端に立っていた。
誰も、何も言わなかった。
ただ、黙って、廊下に並んでいた。見届けるために。
香織は、マスターキーを、204号室の鍵穴に差し込んだ。
回った。
ドアを、開けた。
*
光が、あふれた。
ちゃぶ台の上に、誕生日ケーキがあった。これまで見たどのケーキよりも、きれいに飾られていた。生クリームは、なめらかに塗り直されている。いちごは、等間隔に並べ直されている。チョコレートのプレートに、白い丸い字。
『かおり すず 10さい』
扇風機が、首を振って回っていた。軒先の風鈴が、ちりん、と鳴った。2003年8月9日の夜。
けれど、煙の匂いは、しなかった。
台所から、文乃が出てきた。仕事帰りの紺のワンピースの上に、急いで着けたらしいエプロン。髪を、後ろでひとつにまとめていた。
文乃は、もう、香織を追い出そうとはしなかった。
ただ、すべてを受け入れたような、穏やかな笑顔で、香織を見つめていた。
「おかえり、香織」
ちゃぶ台の前で、鈴が、振り返った。
「おねえちゃん、遅いよ。ろうそく、まだ待ってたんだから」
そして。
鈴の隣に、もうひとりの少女が、座っていた。
青いカーディガン。おかっぱの髪。鈴と、まったく同じ顔。右の頬に、えくぼ。
10歳の、香織だった。
33歳の香織と、10歳の香織の目が、合った。
10歳の香織が、にっこりと笑った。
「選び直しに、きたんでしょ?」
香織の背後で、佳奈が、息をのむ音がした。
ドアが、静かに閉まった。




