【加筆修正】第九十四章 毛利の答え
第九十四章 毛利の答え
安芸国、吉田郡山城。
毛利家の評定の場には、一通の書状が置かれていた。
差出人は、石山本願寺の顕如。
その書状を囲むように、毛利の重臣たちが座っている。
しかし、誰もすぐには口を開かなかった。
書かれている内容は、決して単純な援軍の要請ではなかったからだ。
「つまり、石山は我らに織田と戦えと申しておるのか?」
沈黙を破った一人の重臣に、別の男が首を振った。
「いや。書状には、そこまで明確には書かれておらぬ」
「ならば、何を求めておる?」
皆の視線が、再び書状へ集まった。
船、港、海路、米、硝石。
顕如が求めているのは、それらを織田によって閉ざされないことだった。
今すぐ兵を出してほしいとも、織田へ攻め込んでほしいとも書かれていない。
だが、その意味は誰にでも理解できた。
石山本願寺と織田が本格的な戦へ入れば、瀬戸内の海路は極めて重要になる。
兵糧を運ぶ船。
武具を運ぶ船。
各地の港を結ぶ商船。
それらを誰が押さえるかによって、戦の行方が変わる。
「……面倒なことになったな」
一人が、低く呟いた。
誰も否定しなかった。
毛利には、毛利の事情がある。
中国地方に広大な勢力を築いているとはいえ、そのすべてが完全に一枚岩というわけではない。
国人、領主、寺社、商人、そして水軍。
それぞれが独自の利害を持ち、毛利の支配を受けながらも、自らの立場を守っている。
海も同じだった。
毛利の旗を掲げたからといって、瀬戸内を行き交うすべての船が、同じ命令で動くわけではない。
「そもそも、織田はどこまで西へ来るつもりなのだ?」
新たな問いが投げかけられた。
しかし、誰も即答できなかった。
それこそが、今の毛利にとって最大の問題だった。
以前であれば、京も近江も、美濃も尾張も遠い国の出来事だった。
ところが、情勢は大きく変わった。
将軍は消え、室町幕府は終わった。
越前の朝倉は滅び、浅井も織田に屈した。
そして今、織田信長の娘が鷹司家の養女となり、帝へ嫁ごうとしている。
「信長は、帝の外戚となる」
誰かが低い声で言った。
その一言で、部屋が静まり返った。
領地が一国増えるのとは、意味が違う。
織田家と朝廷が、血によって結ばれるのだ。
「しかも、信長は将軍にならぬと申しているそうだ」
「本当か?」
「京から届いた話では、そうだ」
「何故だ?」
その問いにも、答えられる者はいなかった。
武家の頂点に立とうとするなら、征夷大将軍という地位は魅力的なはずだった。
だが、信長はそれを望んでいないという。
「それが不気味なのだ」
一人の重臣が呟いた。
「何を欲しているのか、分からぬ」
その言葉に、誰も反論しなかった。
◆
評定が続く城内の廊下を、一人の下働きが水桶を持って歩いていた。
男は長く毛利領で働いており、周囲の者も特に気に留めない。
評定の中身を、すべて聞くことはできない。
しかし、男にはそれで十分だった。
誰が評定に呼ばれたか。
評定が何刻続いたか。
水軍に関係する者が、何人出入りしたか。
それだけを覚えておけばよい。
男は、帝の古き影に属する者だった。
一方、城下の宿では、別の男が商人へ酒を注いでいた。
「最近、船の値が上がりましたな」
何気ない世間話のように、男が口を開く。
「そうか?」
「ええ。特に大きな船は、なかなか手に入らぬそうで」
「まあ、そうだろうな」
「どなたが買っておられるので?」
商人は酒を口に運び、肩をすくめた。
「買うというより、押さえておるのだろう」
「どこがです?」
「さあな。そこまでは知らん」
男は、それ以上尋ねなかった。
必要なことは聞けた。
こちらは、高槻の情報網に属する者だった。
帝の古き影と、高槻の目と耳。
二つの網は、互いの存在を知らない。
それでも、同じ海へ目を向け始めていた。
◆
吉田郡山城では、評定が続いていた。
「石山へ返事を出すべきだ」
一人が言った。
「何と返す?」
「今すぐ織田と戦うつもりはない、と」
「それでよいのか?」
「今、戦う理由がない」
その言葉は、毛利の立場を正確に表していた。
織田は、まだ毛利へ攻め込んでいない。
毛利の領地を奪ってもいない。
瀬戸内の海路を閉ざしたわけでもなかった。
ならば、本願寺のためだけに巨大な織田家と戦う理由は足りない。
しかし、そこで話は終わらなかった。
「だが、海は捨てぬ」
重臣の一人が、強い口調で言った。
皆の視線が集まる。
「瀬戸内は我らの命だ。織田がそこへ手を伸ばすのであれば、話は変わる」
誰も異を唱えなかった。
それが、毛利の答えだった。
今は戦わない。
だが、海は譲らない。
やがて石山へ返書が送られた。
そこに援軍の約束はなかった。
兵糧を送るという確約もない。
ただ、海路については今後も協議を続けると記されていた。
◆
石山本願寺。
顕如は、毛利から届いた返書を二度読んだ。
傍らでは、教如が父の言葉を待っている。
「父上。毛利は動きませぬか?」
「今はな」
顕如は、静かに書状を置いた。
「だが、断られたわけではない」
「しかし、兵は出さぬと申しております」
「こちらも、今すぐ兵を出せとは求めておらぬ」
教如は、不思議そうに父を見た。
顕如は地図を広げ、瀬戸内へ指を置いた。
「これでよいのだ」
「何故でございますか?」
「毛利は、海を捨てぬ」
顕如は、ゆっくりと言葉を続けた。
「ならば、織田が海へ出てくれば、毛利も見ているだけではいられなくなる」
教如は、ようやく父の意図を理解した。
毛利を無理に戦へ誘う必要はない。
互いの利害がぶつかる状況を作れば、いずれ毛利自身が判断することになる。
「では、我らは海を使うのですね」
「そうだ。ただし、まだ武器を大量には動かすな」
「何故です?」
「見られている」
顕如の指が、地図の上を移動した。
京、堺、近江。
そして、高槻。
「高槻の目が、どこまで届いているか分からぬ」
「ならば、どういたします?」
「普通の商いに混ぜる」
顕如は、静かに答えた。
米、油、布、塩、鉄。
そうした日常の取引に、必要な物資を少しずつ混ぜて運ぶ。
一度に百を動かせば目立つ。
ならば、十を十回に分ければよい。
「時間がかかります」
「構わぬ」
顕如は、教如を見た。
「戦を始める前に負けるより、よほどよい」
教如は黙った。
父は以前より慎重になっている。
しかし、それは弱くなったということではない。
むしろ逆だった。
顕如は、高槻宗一郎という敵から学び始めていた。
◆
京、鷹司家。
冬姫の前には、一枚の紙が置かれていた。
「こちらが、婚姻の日取りの候補にございます」
女房が、丁寧に説明する。
冬姫は紙へ目を落とした。
まだ正式に決まったわけではない。
しかし、いくつかの吉日が選ばれている。
その一つが、やがて自分の婚姻の日となるのだろう。
冬姫は、不思議な気持ちで紙を見つめていた。
そこに書かれた日を迎えれば、自分は帝の妻となる。
十四歳の少女にとって、それはあまりにも大きな出来事だった。
「姫様」
「はい?」
「お顔が固うございます」
「そうでしょうか」
「はい」
冬姫は、そっと自分の頬へ手を当てた。
「……怖いのでしょうか」
女房は少し考えてから答えた。
「怖くない方が、不思議にございます」
冬姫が顔を上げる。
「あなたも?」
「私なら、逃げます」
冬姫は思わず吹き出した。
「主上も、同じことを仰ったそうです」
「主上が?」
「はい。知らぬ場所へ急に入れられれば、朕なら逃げると」
女房が目を丸くした。
「本当に主上が、そのようなことを?」
「光秀から聞きました」
女房は、しばらく言葉を失った。
やがて、小さく笑った。
「案外、お似合いかもしれませぬ」
冬姫の頬が、わずかに赤くなった。
「まだ、二度しかお会いしておりませぬ」
「では、三度目にお会いすれば、もう少し分かりましょう」
冬姫は、再び婚姻の日取りが書かれた紙を見た。
そして、小さな声で言った。
「……会いたいです」
「姫様?」
「婚姻の前に、もう一度、主上とお話ししたい」
女房は、静かに頭を下げた。
「鷹司様へお伝えいたします」
その願いは、同じ日のうちに禁裏へ届けられた。
◆
禁裏。
帝は、鷹司家から届いた書状を読んでいた。
「冬が?」
「はい。婚姻の日取りを決める前に、もう一度お話ししたいとのことでございます」
帝は、迷わず答えた。
「会う」
傍らに控える老人が、わずかに顔を上げた。
「何だ?」
「いえ。近頃、冬姫様のこととなりますと、御決断が早うございますな」
帝は、老人を見た。
「必要なことだからだ」
「御意」
「……その顔をやめろ」
「どの顔でございましょうか」
老人は、何食わぬ顔で答えた。
帝は小さく溜息をついた。
その時、別の書状が運び込まれた。
帝は目を通し、表情を変えた。
「毛利か」
「はっ」
老人が頭を下げる。
書状には、毛利の動きが簡潔にまとめられていた。
毛利は本願寺へ返書を送った。
即時の軍事協力は約束していない。
ただし、海路についての協議は続ける。
さらに、水軍関係者の評定への参加が増えており、一部の商人が大型船の確保を始めているという。
「毛利は、戦わぬか」
帝が呟いた。
「今のところは、そのように見受けられます」
「違う」
老人が顔を上げた。
帝は、地図の瀬戸内へ目を落とした。
「戦わぬと決めたのではない。戦う理由が、まだないだけだ」
「御意」
「ならば、その理由をこちらから与えてはならぬ」
老人は、深く頭を下げた。
「信長へ伝えよ」
「毛利へ手を出すな、とでございますか?」
「違う」
帝は首を振った。
「毛利が今は戦を望んでいない。その事実だけを伝えよ」
「判断は、信長様にお任せすると?」
「そうだ」
帝は、静かに続けた。
「信長には信長の役目がある。朕には朕の役目がある」
帝は、信長の上に立って軍を動かしたいわけではなかった。
朝廷がすべてを決め、武家を従わせるだけでは、新しい国の形にはならない。
かといって、武家が朝廷を呑み込んでも同じことだった。
それぞれの役割を定め、互いに支え合う仕組みが必要なのだ。
その境界を曖昧にすれば、いずれまた国は壊れる。
「それと、鷹司を呼べ」
帝が言った。
「婚姻についてでございますか?」
「ああ」
老人が下がろうとしたところで、帝が呼び止めた。
「待て」
「はっ」
帝は少し考えた。
「もう一人、呼びたい者がいる」
「どなたを?」
帝は、静かに答えた。
「信長だ」
◆
数日後、禁裏。
帝の前に、織田信長と鷹司家の当主が座っていた。
冬姫の婚姻の日取りを決めるための話し合い。
信長は、そう聞いていた。
「冬は、婚姻の前にもう一度、朕と話したいと申している」
帝が言った。
信長の眉が、わずかに動いた。
「何を話すのでございましょう?」
「知らぬ」
「主上にも?」
「冬が何を聞くかなど、朕が先に知るはずもあるまい」
信長は、わずかに笑った。
「それも、そうでございますな」
鷹司は、二人の様子を静かに見ていた。
以前より、明らかに距離が近くなっている。
互いの立場を理解しながらも、必要以上に畏まらず言葉を交わしていた。
「信長」
帝が呼んだ。
「はっ」
「冬のこととは別に、話がある」
信長の表情が引き締まった。
「何でございましょう?」
「将軍についてだ」
その一言で、場の空気が変わった。
信長は、少し嫌そうな顔をした。
「以前にも申し上げましたが、嫌にございます」
鷹司が、そっと目を伏せた。
帝は、わずかに笑った。
「知っている」
「ならば、何故その話を?」
「将軍になれとは言わぬ」
信長の目が、帝へ向けられた。
「幕府は終わった」
帝は、静かに言った。
「ならば、同じものをもう一度作る必要はない」
信長は黙った。
「高槻が京で始めたことを聞いた」
「役所のことでございますか?」
「ああ。治安、裁き、土地、寺社、商い、道。それぞれの役目を分けて、人を置く仕組みだ」
帝は、少し楽しそうに続けた。
「面白いと思わぬか?」
信長も、わずかに笑った。
「主上と高槻は、似たようなことを申されますな」
帝の心臓が、ほんのわずかに跳ねた。
しかし、表情には出さなかった。
「そうか」
「はい。高槻も、儂が死んでも残るものを作ると申しました」
帝は、信長を見た。
「正しい」
「主上も、同じことを仰せになりました」
「ならば、二人とも正しいのだろう」
信長の目が、わずかに細くなった。
何かがある。
信長も、そう感じていた。
だが、宗一郎は語らない。
帝も語らない。
そして信長も、今は無理に聞こうとはしなかった。
「では、主上」
信長が口を開いた。
「将軍を置かぬのであれば、武家を誰がまとめるのでございますか?」
帝は、その問いを待っていた。
「そのために、お前を呼んだ」
鷹司が、静かに帝へ目を向ける。
帝は続けた。
「将軍とは違う、新しい役を作る」
信長の表情から、笑みが消えた。
「新しい役、でございますか?」
「そうだ。武家を統べ、国の軍を預かる。ただし、国そのものを所有する役ではない」
信長は、黙って耳を傾けていた。
「帝が軍を直接動かすのでもない。武家が朝廷を呑み込むのでもない。それぞれの役目を分けるのだ」
帝の言葉は、ゆっくりと続いた。
「そして、その役を織田家だけの家職にはしない」
信長の目が変わった。
「世襲ではないと?」
「原則は、そうだ」
「では、儂の後は誰が継ぐのでございましょう?」
「その役に適する者だ」
信長は、少し笑った。
「それでは、揉めますぞ」
「揉めるだろう」
帝は平然と答えた。
「だからこそ、仕組みを作る」
「誰が決めるのでございます?」
「朝廷だけでも、武家だけでもない」
信長は、帝をじっと見た。
「難しいことを仰せになりますな」
「簡単ならば、とうに誰かがやっている」
信長は、声を上げて笑った。
「それは確かに、そうでございますな」
帝は、まだ新しい役の名を告げなかった。
名前を決めるのは後でよい。
先に、何をする役なのかを定める。
それは、宗一郎が物事を考える時のやり方にも、少し似ていた。
「信長」
「はっ」
「朕は、お前に最初のその役を任せたい」
信長の笑みが消えた。
征夷大将軍ではない。
関白でもない。
朝廷を支配する地位でもない。
軍事、治安、諸大名との軍事調整、外敵への備え、反乱への対処。
国の武力を預かる、新たな役職。
信長は、しばらく考えてから口を開いた。
「主上。一つ、お尋ねしてもよろしゅうございますか」
「何だ?」
「その役を、儂が信忠へ譲ることはできますか?」
鷹司の目が、わずかに動いた。
帝は、すぐには答えなかった。
やがて、静かに言った。
「信忠が、その役に足る者ならば認める」
信長は、帝を見た。
「織田の嫡男だからではなく?」
「そうだ」
信長の口元が、ゆっくりと上がった。
「……面白い」
それは、信長が本当に興味を持った時の顔だった。
「ならば、考えましょう」
「受けるとは、まだ申さぬのだな」
「役の名すら、まだ聞いておりませぬので」
「それもそうだ」
三人の間に、わずかな笑いが生まれた。
しかし、そこで話されていることは、決して小さなものではなかった。
数百年にわたって続いてきた武家政権の形そのものを、根本から変えようとしているのだ。
そして、その最初の担い手として、織田信長が選ばれようとしていた。
◆
同じ頃、高槻。
宗一郎は、一枚の船の図面を前に頭を悩ませていた。
その横では、与吉が図面を覗き込んでいる。
「宗一郎様」
「何だ?」
「これ、本当に浮きます?」
宗一郎は、しばらく図面を見つめた。
「……たぶん」
与吉が、露骨に嫌そうな顔をした。
「また、たぶんですか」
「仕方ないだろ。船は専門外なんだよ」
「では、誰に聞くのでございます?」
宗一郎は、壁に掛けた地図へ目を向けた。
堺、紀伊、淡路、瀬戸内。
船、海、水軍。
今まで陸のことばかり考えてきた。
しかし、これからは海を知らなければならない。
「船を知ってる奴に聞く」
宗一郎が答えた。
「誰でございます?」
宗一郎は、少し笑った。
「これから探す」
与吉は、思わず頭を抱えた。
「……先が思いやられます」
宗一郎は苦笑しながら、もう一度図面を見た。
自分が知らないことは、知っている者に教わればよい。
それは、高槻で技術を育ててきた時から変わらない考え方だった。
だが、宗一郎はまだ知らない。
同じ頃、安芸では毛利が海を譲らぬと決めたことを。
石山では顕如が、その海を利用するために動き始めたことを。
そして禁裏では、将軍に代わる新しい武家の役職が生まれようとしていることを。
◆
陸では、新しい役所が動き始めていた。
海では、船と物資を巡る思惑が交錯している。
甲斐では、勝頼が武田の未来を考え始めていた。
石山では、顕如が織田に対抗する道を探っている。
禁裏では、武家と朝廷の関係を変える新たな仕組みが話し合われていた。
そして、冬姫と帝の婚姻も、少しずつ近づいている。
天下は、一つの大戦だけで変わるのではない。
誰かが下した小さな決断。
誰かが選んだ新しい道。
誰かが守ろうとしたもの。
それらが同じ時代に重なり合った時、歴史は大きく姿を変える。
その境目に、彼らは立っていた。




