【加筆修正】第九十五章 天下、動く
第九十五章 天下、動く
異変に最初に気づいたのは、武士でも忍びでもなかった。
堺で商いを営む、一人の米商人だった。
「……おかしいな」
帳面をめくっていた男が、ふと手を止めた。
「何がでございますか?」
傍らに控えていた番頭が、主人の手元を覗き込む。
帳面に記されているのは、ここ最近の物資の取引だった。
米、塩、油、縄、木材、鉄。そして硝石。
どれも、商いの町である堺では珍しくない品物である。
米や塩は人々の暮らしに欠かせず、木材や縄は船にも建物にも使う。鉄や硝石も、武具や火薬を扱う者にとっては必要なものだった。
それぞれを別々に見れば、何の変哲もない取引にすぎない。
しかし、すべての品が同じ頃から動き始めているとなれば、話は違った。
「買っている者が、皆違うんだ」
商人は帳面を指で叩いた。
買い付けに来る者も、取引する店も、使われる名義も異なっている。
一度に買う量も、それほど多くはない。
十、二十、三十と、小さく分けて買い集められていた。
ところが、その行き先を追っていくと、奇妙な共通点が浮かび上がってくる。
紀伊、淡路、播磨、堺。
そして、海。
番頭が、声を潜めた。
「旦那様。これ、最後は同じところへ運ばれているのではございませぬか?」
商人は答えなかった。
しばらく帳面を見つめ、もう一度、取引の日付と行き先を確かめる。
やがて、静かに帳面を閉じた。
「高槻へ知らせろ」
「承知いたしました」
番頭は深く頭を下げ、すぐに店を出ていった。
◆
二日後、京。
宗一郎の前には、三枚の報告書が置かれていた。
向かいに座る竹中半兵衛が、一枚ずつ内容を確かめている。
「紀伊、淡路、堺……。いずれも似た動きが見られますな」
「ああ。しかも、米だけじゃない」
宗一郎は、机に広げた地図を見つめていた。
米、縄、木材、油、鉄、硝石。
食糧を運ぶための物資であり、船を動かすための資材でもある。そして、戦を続けるために必要なものでもあった。
「顕如が動くな」
宗一郎が言うと、半兵衛も頷いた。
「以前より、はるかに巧妙なやり方でございます」
「向こうだって学んでいるんだろうな」
宗一郎は苦笑した。
以前、高槻では物資の流れを記録し、そこから敵の動きを予測する仕組みを作った。
誰が、何を、どれだけ買い集めているのか。
それを調べれば、兵が動き始める前に戦の準備を察知できる。
しかし、顕如もその仕組みの存在を知った。
だからこそ、買い付けを分散させたのだろう。
人を分け、店を分け、港を分ける。一度に大量の物資を買わず、少しずつ集めていく。
そうすれば、一つ一つの取引は目立たない。
「厄介なことでございますな」
「敵が馬鹿じゃないのは、むしろ普通のことだよ」
宗一郎がそう答えると、半兵衛は小さく笑った。
だが、次の報告を読んだところで、その表情が引き締まった。
「確認できるだけで、米は二千石ほどにございます」
「……確認できるだけで?」
「はい。それに、紀伊、淡路、播磨を合わせますと、船は三十隻を超えております」
宗一郎は地図に指を置いた。
「第一陣だな」
「おそらくは」
「石山へ入れるつもりだ」
半兵衛は、静かに尋ねた。
「止めますか?」
宗一郎は、すぐには答えなかった。
兵糧を敵へ届けさせない。
言葉にすれば簡単だ。
しかし、海は陸とは違う。
紀伊、淡路、播磨、堺。さらに西へ目を向ければ、毛利の勢力が広がっている。
そこには水軍があり、商人があり、海賊もいる。
海を行き交う者たちは、一つの旗の下だけで動いているわけではなかった。
「……まだ手は出さない」
宗一郎が言った。
「理由をお聞きしても?」
「毛利だよ」
半兵衛の目が細くなる。
「毛利は、まだ織田の敵じゃない。本願寺とも正式に手を結んでいるわけじゃないだろう」
宗一郎は、地図の西へ指を動かした。
「ここで織田が海の船を片っ端から止めるような真似をしたら、どうなると思う?」
「毛利に、織田と戦う理由を与えることになりますな」
「そういうことだ」
半兵衛が頷いた、その時だった。
廊下を駆ける足音が響いた。
「宗一郎様!」
戸が勢いよく開き、使者が飛び込んでくる。
「紀伊より急報にございます!」
宗一郎は報告書を受け取り、すぐに目を通した。
そして、表情を変えた。
「……出たか」
半兵衛が立ち上がる。
「船でございますか?」
「ああ」
確認された輸送船は四十二隻。
さらに、別の港から合流する船がある可能性も報告されていた。
護衛船は六隻。
積荷は米、塩、油、鉄。そのほかにも、確認できていない物資がある。
向かう先は、大坂湾。
「石山でございましょうな」
「おそらくな」
宗一郎は、報告書の最後の一行を見つめた。
――護衛船には武装あり。
「信長様のところへ行く」
「はい」
二人は、すぐに立ち上がった。
◆
同じ頃、石山本願寺。
顕如のもとにも、輸送船団が出航したとの報告が届いていた。
「第一陣、出航いたしました」
教如の言葉に、顕如が静かに目を開く。
「数は?」
「輸送船四十二隻、護衛船六隻にございます」
「毛利は?」
「動いておりませぬ」
「それでよい」
顕如は短く答えた。
教如は、少し不安そうに父を見た。
「もし、織田に襲われれば、いかがいたしますか?」
「見る」
「何をでございますか?」
「織田が、どこまで海へ手を出すかをだ」
この輸送は、単に兵糧を石山へ運ぶためだけのものではなかった。
織田の出方を試す意味もあった。
堺、紀伊、淡路、そして海。
織田は、どこまでを自らの支配下にあるものとして扱うのか。
もし信長が、石山へ向かう船だけでなく、周辺の商船まで力ずくで止めようとすれば、毛利はどう受け止めるだろうか。
海の商人たちは、どう考えるだろうか。
各地の水軍は、どう動くだろうか。
織田の力が強くなればなるほど、その振る舞いを警戒する者も増える。
「高槻も動くでしょうな」
教如が言った。
「ああ」
顕如は頷いた。
「むしろ、そちらの動きを見たい」
その声は、静かだった。
◆
京の織田屋敷では、評定が開かれていた。
広げられた地図を囲むのは、織田信長、高槻宗一郎、竹中半兵衛、明智光秀、丹羽長秀、滝川一益。
そこへ、少し遅れて羽柴秀吉が姿を現した。
その後ろには、黒田官兵衛が控えている。
「遅れまして、申し訳ございませぬ」
秀吉が頭を下げると、信長は軽く手を振った。
「座れ」
「はっ」
秀吉が腰を下ろし、官兵衛もその後ろに座った。
宗一郎は、官兵衛へちらりと目を向けた。
黒田官兵衛。
頭の切れる男だ。
それも、並外れて。
宗一郎がこの時代で特に注意を払っている人物の一人だった。
しかし、官兵衛の主は宗一郎ではない。
羽柴秀吉。
その軍師として働いているのが、今の官兵衛だった。
「輸送船、四十二隻。護衛船、六隻か」
信長が報告を読み上げた。
秀吉は地図を見ながら、あっさりと言った。
「沈めますか?」
判断が早い。
信長は、宗一郎へ目を向けた。
「高槻」
「反対です」
宗一郎が即答すると、秀吉が顔を向けた。
「何故じゃ?」
「毛利が、まだ敵ではないからです」
「本願寺の船じゃろう?」
「すべてがそうだと確認できたわけではありません。それに、海には商船も水軍も海賊もいます。関係のない船まで巻き込めば、面倒なことになります」
そこで、官兵衛が初めて口を開いた。
「では、石山へ入るまで見ていると?」
宗一郎は、官兵衛を見た。
「そうは言っていない」
「ならば、どこで止めます?」
鋭い問いだった。
曖昧な答えでは納得しない。
宗一郎は、少し考えてから答えた。
「まず、確認する。船の数、積荷、護衛、旗。それから、どこの港を出て、誰の名義で動いているのか」
官兵衛が、わずかに笑った。
「その間に、石山へ着いてしまいますぞ」
「そうかもしれない」
「ならば、一度は兵糧を入れさせると?」
宗一郎は、官兵衛から目を逸らさずに答えた。
「一度の兵糧を止めるために毛利を敵へ回す方が、よほど高くつく」
秀吉が腕を組んだ。
「わしなら、半分だけ奪うな」
宗一郎が顔を向ける。
「半分?」
「全部取れば戦になる。全部通せば、織田は手も出せぬと舐められる。ならば、半分じゃ」
秀吉は、にやりと笑った。
滝川一益が声を上げて笑う。
「いかにも猿らしい考えだ」
「褒め言葉としていただきまする」
秀吉は平然と答えた。
しかし、官兵衛だけは笑わなかった。
「問題は、どうやって半分だけ奪うかにございます」
秀吉が官兵衛を見る。
「そこをお前が考えるんじゃろうが」
「では、まず船を分けさせます」
宗一郎の目が動いた。
「分ける?」
「すべての船を、同じ場所へ入れなければよいのです」
官兵衛は地図を指した。
「潮、風、水深、港、航路。それらを利用すれば、船団の動きを制限できるやもしれませぬ」
官兵衛は、一同を見渡した。
「我らが海を知らぬのであれば、知る者に聞けばよろしい」
信長が宗一郎を見る。
宗一郎は苦笑した。
「……俺がさっき考えていたことと、同じですね」
「何だ?」
「いえ、何でもありません」
その時、丹羽長秀が静かに口を開いた。
「しかし、根本の問題がございます」
皆の視線が集まる。
「我らには、水軍が足りませぬ」
その一言で、部屋が静まり返った。
織田は陸では強い。
鉄砲、槍、大筒、兵站。そして高槻の技術。
だが、海では勝手が違う。
船を造れば、それで戦えるというものではない。
潮の流れ、風向き、暗礁、港の位置、船の扱い方、海上での戦い方。
それらは、長年の経験がものをいう世界だった。
宗一郎は、地図を見つめた。
「……認めます」
信長が顔を向ける。
「何をだ?」
「俺たちは、海が弱い」
誰も反論しなかった。
「今まで、陸のことばかり見すぎました。俺の失敗です」
信長は、宗一郎を責めなかった。
ただ、短く命じた。
「ならば、直せ」
「はい」
信長は、次々に家臣へ指示を出していった。
「一益」
「はっ」
「堺、紀伊、淡路の船の動きを洗え」
「承知」
「長秀」
「はっ」
「港、兵糧、船数、積荷。すべて数えよ」
「御意」
「光秀」
「はっ」
「京と寺社を調べろ。石山へ通じる者の動きを見よ」
「承知いたしました」
「秀吉」
「はっ!」
「官兵衛を使え」
秀吉が、にやりと笑った。
「言われずとも、使い倒しまする」
すると官兵衛が、無表情のまま口を開いた。
「殿。少しは休ませていただきたいものです」
「嘘を申せ。お前は考えておる時が一番楽しそうではないか」
評定の席に、小さな笑いが起きた。
だが、宗一郎は官兵衛を見ていた。
この男は使える。
間違いなく、優れた知恵を持っている。
だからこそ、怖い。
味方として頼もしい者は、敵に回ればそれだけ厄介な存在になる。
信長が、最後に宗一郎へ目を向けた。
「高槻」
「はい」
「海を何とかしろ」
宗一郎は、思わず嫌そうな顔をした。
「……それ、命令が雑すぎません?」
「知らん」
「海ですよ?」
「知っておる」
「俺、船乗りじゃありませんよ」
「ならば、船乗りを使え」
宗一郎は、言葉に詰まった。
信長が笑う。
「貴様がいつも申しておることだ。一人ですべてをやろうとするな」
宗一郎は頭を掻いた。
「……分かりました」
その日の夜、高槻の情報網へ新たな命令が走った。
海を知る者を探せ。
船を知る者を探せ。
潮の流れを読み、風向きを知り、海の危険を肌で覚えている者を集めよ。
紀伊、伊勢、志摩、淡路、瀬戸内。
海賊でも、水軍の者でも、商人でも、漁師でも、船大工でも、水先案内人でも構わない。
身分は問わない。
必要なのは、本当に海を知っている者だった。
◆
同じ頃、三河の岡崎城。
徳川家康のもとには、甲斐からの報告が届いていた。
武田信玄の姿が確認できない。
勝頼が評定を主導している。
医師の出入りが見られなくなった。
薬の購入が止まっている。
寺への夜間の出入りがあった。
家康は、報告書を最後まで読んだ。
「信玄は、死んだのでございましょうか」
家臣が尋ねた。
家康は紙を置いた。
「分からぬ」
「しかし、これだけの情報が揃えば……」
「だからこそ、決めつけるな」
家康は地図へ目を向けた。
三河、遠江、甲斐、信濃。
もし信玄が死んだのであれば、徳川にとっては好機かもしれない。
そう考えたくなる。
だからこそ、危険だった。
「勝頼は何をしておる?」
「兵、米、馬、城、街道を、改めて調べさせております」
家康の指が止まった。
「攻める準備でございましょうか?」
「違うかもしれぬ」
「では、何を?」
「自分の武田を、知ろうとしておるのだろう」
家臣は黙り込んだ。
家康は、勝頼を軽く見ていなかった。
父が偉大だからといって、息子が愚かであるとは限らない。
むしろ、偉大な父を持つ者だからこそ、独自の道を探そうとすることもある。
「織田は動いたか?」
「目立った軍勢の動きはございませぬ」
家康の目が細くなった。
信長も気づいているはずだ。
高槻宗一郎も、武田の異変を知らぬはずがない。
それなのに、動かない。
その静けさが、家康には不気味だった。
「高槻を調べよ」
家臣が顔を上げた。
「高槻宗一郎を、でございますか?」
「ああ」
「何故でございましょう」
「信長だけを見ていては、今の織田は分からぬ」
家康は、静かに言った。
「高槻に集まる人、商人、技術所、軍、新しい大筒。そして、あの男の弱みを調べよ」
「御意」
「ただし、無理に中へ入るな」
家臣が顔を上げた。
「外から見よ。それでよい」
「承知いたしました」
家康は、それ以上何も言わなかった。
まだ、動く時ではない。
◆
その命令は、翌日には帝の古き影へ届いていた。
禁裏。
帝の前で、老人が深く頭を下げる。
「徳川殿が、高槻殿を調べ始めました」
帝の目が、わずかに冷たくなった。
「害意はあるか?」
「今のところ、確認できておりませぬ」
「ならば、触るな」
「御意」
「見るだけならば、見させておけばよい」
帝は、静かに続けた。
「だが、技術所へ手を伸ばしたなら知らせよ」
「はっ」
「宗一郎を殺そうとする。人を攫う。家族へ手を出す。そのようなことがあれば、話は別だ」
帝の声が低くなった。
「その線を越えたなら、朕が判断する」
老人は、さらに深く頭を下げた。
帝は、徳川を敵と決めつけているわけではなかった。
ただ、見過ごしてよいことと、決して許してはならないことの境界を、明確に定めていた。
◆
その日の午後。
鷹司家では、冬姫が三度目となる帝との対面を迎えていた。
以前に比べ、座る姿勢が美しくなっている。
歩き方も、所作も変わった。
帝は、その違いに気づいた。
「慣れたな」
冬姫は、少し得意そうに微笑んだ。
「毎日、叱られておりますので」
「朕なら逃げている」
「そのお話は、もう伺いました」
帝が、ぴたりと動きを止めた。
「……誰からだ?」
「光秀からでございます」
「……光秀」
冬姫が笑った。
帝も、ほんの少しだけ笑みを浮かべた。
だが、冬姫には今日、どうしても聞いておきたいことがあった。
「主上」
「何だ?」
「もし、父上と主上が、違う道を選ばれたら……私は、どうすればよいのでしょうか」
帝の表情が変わった。
冬姫は十四歳だった。
父は織田信長。
そして、夫となるのは帝である。
もし、その二人が対立したならば、自分はどちらの側に立つべきなのか。
幼い問いのようでいて、決して軽いものではなかった。
帝は、少し考えてから口を開いた。
「冬」
「はい」
「朕の味方をしなくてよい」
冬姫は目を見開いた。
「父の味方も、しなくてよい」
「では、私は誰の味方をすればよろしいのでしょう」
帝は、まっすぐ冬姫を見た。
「お前が正しいと思うものの味方をせよ」
冬姫は、言葉を失った。
「朕も間違う。信長も間違う。二人とも間違うことさえあるだろう。その時は、お前自身が考えよ」
「……主上が間違っていると思えば、申し上げてもよろしいのですか?」
「ああ」
「お怒りになりませぬか?」
帝は、少し考えた。
「……怒るかもしれぬ」
冬姫が、思わず吹き出した。
「怒るのですね」
「朕も人だ」
その言葉を聞いて、冬姫は嬉しくなった。
帝という、誰もが畏れ敬う存在。
けれど、自分の前にいるのは、間違いもすれば怒ることもある、一人の人間なのだ。
そう思うと、不思議と心が軽くなった。
しばらく、穏やかな沈黙が続いた。
やがて冬姫が、静かに息を吸った。
「主上」
「何だ?」
「婚姻の日を、お決めください」
帝の動きが止まった。
「……よいのか?」
「はい」
「急がなくてもよいのだぞ」
「分かっております」
冬姫は微笑んだ。
「だからこそ、私からお願いしているのでございます」
帝は、長く冬姫を見つめた。
そして、静かに頷いた。
「分かった」
この日、二人の意思は、確かなものとなった。
あとは日取りを定め、儀礼を整え、天下へ知らせるだけである。
織田信長の娘として生まれ、鷹司家の養女となった冬姫が、帝へ嫁ぐ日を。
◆
だが、その日の夕刻。
婚姻とはまったく別の報せが、京へ飛び込んできた。
一頭の馬が、泥を跳ね上げながら織田屋敷へ駆け込んだ。
馬は汗にまみれ、口元には白い泡が浮かんでいる。
使者は、転がるように馬から降りた。
「信長様! 急報にございます!」
信長が顔を上げた。
傍らにいた宗一郎も振り返る。
「海にございます!」
「輸送船か?」
宗一郎が尋ねた。
「違います!」
使者は、息を切らしながら叫んだ。
「織田方の見張り船が、襲われました!」
部屋の空気が一変した。
「場所は!」
「淡路の東にございます!」
「被害は!」
「一隻焼失! 二隻損傷! 死者十三名!」
信長の顔から、笑みが消えた。
「誰がやった」
使者は、深く頭を下げた。
「分かりませぬ!」
「旗は?」
「旗を掲げておりませぬ!」
宗一郎は、すぐに地図へ駆け寄った。
淡路の東。
大坂湾。
石山へ向かう輸送船の航路と重なる。
「輸送船はどうした!」
「そのまま進んでおります!」
「石山へか?」
「はい!」
宗一郎は眉を寄せた。
「護衛六隻で襲ったのか?」
「違うと思われます!」
「何?」
「別の船がおりました!」
宗一郎が、使者を見据えた。
「何隻だ」
「少なくとも十隻!」
部屋が静まり返った。
宗一郎の背筋を、冷たいものが走った。
聞いていない。
顕如の輸送船は四十二隻。
護衛船は六隻。
そこへ、さらに正体不明の船が十隻以上。
この情報は、これまでの報告にはなかった。
秀吉が、低い声で言った。
「本願寺が、隠しておったか」
宗一郎は首を横へ振った。
「まだ分からない」
「毛利か?」
今度は光秀が尋ねた。
「それも分かりません。紀伊の水軍かもしれない。淡路の海賊かもしれない。ほかにも、可能性はいくらでもあります」
信長が、宗一郎を見た。
「高槻」
「はい」
「戦か?」
宗一郎は、地図を見つめた。
答えは、まだ分からない。
だからこそ、正直に答えた。
「……分かりません」
信長は怒らなかった。
「ならば、調べろ」
「はい」
「ただし」
信長が立ち上がった。
「次に撃たれたなら、撃ち返せ」
宗一郎が顔を上げる。
「旗がなくても、ですか?」
「こちらを殺しに来る者へ、家名を尋ねてから戦うつもりか?」
宗一郎は黙った。
信長の言うことは正しい。
攻撃を受けているのに、相手の正体が分かるまで何もできないというわけにはいかない。
だが、危険でもあった。
対応を誤れば、毛利を敵に回すことになるかもしれない。
それでも、味方の命を守る必要がある。
「……分かりました」
宗一郎は、静かに答えた。
◆
同じ頃、石山本願寺。
顕如のもとにも、襲撃の報告が届いていた。
「何だと?」
顕如が立ち上がった。
「織田の見張り船が襲われただと?」
「はい」
「誰がやった!」
「分かりませぬ」
「我らの護衛か?」
「違います」
教如が、驚いて顔を上げた。
「では、毛利が?」
「違う」
顕如は、即座に否定した。
「毛利は、まだ動かぬ」
「では、いったい誰が……」
顕如は答えなかった。
少なくとも、これは自分の命令ではない。
ならば、誰かが勝手に戦を始めたのか。
それとも、戦を始めさせようとしているのか。
顕如の目が鋭くなった。
「輸送船へ伝えよ」
「はっ」
「織田船を追うな。こちらから先に撃つな」
教如が、父を見た。
「何故でございますか?」
「今、我らが欲しいのは兵糧だ」
顕如は、静かに答えた。
「毛利との戦ではない」
誰が何を狙っているのか、まだ分からない。
だが、正体不明の者に振り回されて、望まぬ戦へ引きずり込まれるつもりはなかった。
◆
禁裏でも、帝の前に同じ報告が届けられていた。
古き影の老人が、静かに頭を下げる。
「襲撃者の正体は、我らにも分かっておりませぬ」
帝の目が細くなった。
「本願寺の命令か?」
「今のところ、確認できませぬ」
「毛利は?」
「動いたとの報告はございませぬ」
帝は黙り込んだ。
高槻の情報網。
織田の目。
そして、帝の影。
いずれも、襲撃者の正体を掴んでいない。
それは、帝にとっても気になる事態だった。
海の上で、一隻の船が燃えた。
たった一隻。
しかし、十三人が命を落としている。
誰が殺したのか。
何のために殺したのか。
その答えを、まだ誰も知らなかった。
◆
西では、海が燃えた。
東では、武田信玄の死を巡り、徳川家康が動き始めている。
甲斐では、勝頼が父の名から少しずつ離れ、自らの武田を築こうとしていた。
京では、将軍に代わる新たな役職が生まれようとしている。
そして、冬姫と帝の婚姻も目前に迫っていた。
天下は、確実に動いていた。
宗一郎は、燃えた船の報告書を握ったまま、地図を見つめていた。
未来の記憶にはない襲撃だった。
自分が知っていた歴史とは、また一つ違う出来事が起きた。
未来の知識が、少しずつ役に立たなくなっていく。
「半兵衛」
「はい」
「海へ人を出す」
「どこへでございますか?」
宗一郎は、地図の上へ指を置いた。
「全部だ」
紀伊。
淡路。
堺。
播磨。
瀬戸内。
「誰がこの火をつけたのか、必ず見つける」
その声には、静かな決意が込められていた。
◆
その夜。
誰も知らない、小さな港。
旗を掲げていない十数隻の船が、闇に紛れて戻ってきた。
船から、一人の男が降りる。
港で待っていた別の男が、声をかけた。
「どうだった?」
「織田の船を一隻焼いた」
「本願寺の船は?」
「触っていない」
「よい」
待っていた男は、短く頷いた。
「次はどうする?」
船から降りた男が尋ねた。
待っていた男は、暗い海へ目を向けた。
そして、静かに答えた。
「何もしない」
「……何?」
「織田が、誰を疑うかを見る」
男は、それ以上何も言わなかった。
海の上には、すでに火が放たれた。
誰が放った火なのか分からぬまま、疑いだけが広がっていく。
毛利。
本願寺。
紀伊の水軍。
海賊。
そして、織田。
互いに相手の出方を疑い、警戒する。
その疑いが深まれば、いずれ誰かが先に刀を抜くだろう。
戦は、まだ始まっていない。
だが、何者かが確かに、戦を始めさせようとしていた。




