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『天下布武、その先へ』―転生者と織田信長が拓いた、誰も知らない日本史―  作者: みなみ


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【加筆修正】第九十五章 天下、動く

第九十五章 天下、動く


 異変に最初に気づいたのは、武士でも忍びでもなかった。


 堺で商いを営む、一人の米商人だった。


「……おかしいな」


 帳面をめくっていた男が、ふと手を止めた。


「何がでございますか?」


 傍らに控えていた番頭が、主人の手元を覗き込む。


 帳面に記されているのは、ここ最近の物資の取引だった。


 米、塩、油、縄、木材、鉄。そして硝石。


 どれも、商いの町である堺では珍しくない品物である。


 米や塩は人々の暮らしに欠かせず、木材や縄は船にも建物にも使う。鉄や硝石も、武具や火薬を扱う者にとっては必要なものだった。


 それぞれを別々に見れば、何の変哲もない取引にすぎない。


 しかし、すべての品が同じ頃から動き始めているとなれば、話は違った。


「買っている者が、皆違うんだ」


 商人は帳面を指で叩いた。


 買い付けに来る者も、取引する店も、使われる名義も異なっている。


 一度に買う量も、それほど多くはない。


 十、二十、三十と、小さく分けて買い集められていた。


 ところが、その行き先を追っていくと、奇妙な共通点が浮かび上がってくる。


 紀伊、淡路、播磨、堺。


 そして、海。


 番頭が、声を潜めた。


「旦那様。これ、最後は同じところへ運ばれているのではございませぬか?」


 商人は答えなかった。


 しばらく帳面を見つめ、もう一度、取引の日付と行き先を確かめる。


 やがて、静かに帳面を閉じた。


「高槻へ知らせろ」


「承知いたしました」


 番頭は深く頭を下げ、すぐに店を出ていった。


     ◆


 二日後、京。


 宗一郎の前には、三枚の報告書が置かれていた。


 向かいに座る竹中半兵衛が、一枚ずつ内容を確かめている。


「紀伊、淡路、堺……。いずれも似た動きが見られますな」


「ああ。しかも、米だけじゃない」


 宗一郎は、机に広げた地図を見つめていた。


 米、縄、木材、油、鉄、硝石。


 食糧を運ぶための物資であり、船を動かすための資材でもある。そして、戦を続けるために必要なものでもあった。


「顕如が動くな」


 宗一郎が言うと、半兵衛も頷いた。


「以前より、はるかに巧妙なやり方でございます」


「向こうだって学んでいるんだろうな」


 宗一郎は苦笑した。


 以前、高槻では物資の流れを記録し、そこから敵の動きを予測する仕組みを作った。


 誰が、何を、どれだけ買い集めているのか。


 それを調べれば、兵が動き始める前に戦の準備を察知できる。


 しかし、顕如もその仕組みの存在を知った。


 だからこそ、買い付けを分散させたのだろう。


 人を分け、店を分け、港を分ける。一度に大量の物資を買わず、少しずつ集めていく。


 そうすれば、一つ一つの取引は目立たない。


「厄介なことでございますな」


「敵が馬鹿じゃないのは、むしろ普通のことだよ」


 宗一郎がそう答えると、半兵衛は小さく笑った。


 だが、次の報告を読んだところで、その表情が引き締まった。


「確認できるだけで、米は二千石ほどにございます」


「……確認できるだけで?」


「はい。それに、紀伊、淡路、播磨を合わせますと、船は三十隻を超えております」


 宗一郎は地図に指を置いた。


「第一陣だな」


「おそらくは」


「石山へ入れるつもりだ」


 半兵衛は、静かに尋ねた。


「止めますか?」


 宗一郎は、すぐには答えなかった。


 兵糧を敵へ届けさせない。


 言葉にすれば簡単だ。


 しかし、海は陸とは違う。


 紀伊、淡路、播磨、堺。さらに西へ目を向ければ、毛利の勢力が広がっている。


 そこには水軍があり、商人があり、海賊もいる。


 海を行き交う者たちは、一つの旗の下だけで動いているわけではなかった。


「……まだ手は出さない」


 宗一郎が言った。


「理由をお聞きしても?」


「毛利だよ」


 半兵衛の目が細くなる。


「毛利は、まだ織田の敵じゃない。本願寺とも正式に手を結んでいるわけじゃないだろう」


 宗一郎は、地図の西へ指を動かした。


「ここで織田が海の船を片っ端から止めるような真似をしたら、どうなると思う?」


「毛利に、織田と戦う理由を与えることになりますな」


「そういうことだ」


 半兵衛が頷いた、その時だった。


 廊下を駆ける足音が響いた。


「宗一郎様!」


 戸が勢いよく開き、使者が飛び込んでくる。


「紀伊より急報にございます!」


 宗一郎は報告書を受け取り、すぐに目を通した。


 そして、表情を変えた。


「……出たか」


 半兵衛が立ち上がる。


「船でございますか?」


「ああ」


 確認された輸送船は四十二隻。


 さらに、別の港から合流する船がある可能性も報告されていた。


 護衛船は六隻。


 積荷は米、塩、油、鉄。そのほかにも、確認できていない物資がある。


 向かう先は、大坂湾。


「石山でございましょうな」


「おそらくな」


 宗一郎は、報告書の最後の一行を見つめた。


 ――護衛船には武装あり。


「信長様のところへ行く」


「はい」


 二人は、すぐに立ち上がった。


     ◆


 同じ頃、石山本願寺。


 顕如のもとにも、輸送船団が出航したとの報告が届いていた。


「第一陣、出航いたしました」


 教如の言葉に、顕如が静かに目を開く。


「数は?」


「輸送船四十二隻、護衛船六隻にございます」


「毛利は?」


「動いておりませぬ」


「それでよい」


 顕如は短く答えた。


 教如は、少し不安そうに父を見た。


「もし、織田に襲われれば、いかがいたしますか?」


「見る」


「何をでございますか?」


「織田が、どこまで海へ手を出すかをだ」


 この輸送は、単に兵糧を石山へ運ぶためだけのものではなかった。


 織田の出方を試す意味もあった。


 堺、紀伊、淡路、そして海。


 織田は、どこまでを自らの支配下にあるものとして扱うのか。


 もし信長が、石山へ向かう船だけでなく、周辺の商船まで力ずくで止めようとすれば、毛利はどう受け止めるだろうか。


 海の商人たちは、どう考えるだろうか。


 各地の水軍は、どう動くだろうか。


 織田の力が強くなればなるほど、その振る舞いを警戒する者も増える。


「高槻も動くでしょうな」


 教如が言った。


「ああ」


 顕如は頷いた。


「むしろ、そちらの動きを見たい」


 その声は、静かだった。


     ◆


 京の織田屋敷では、評定が開かれていた。


 広げられた地図を囲むのは、織田信長、高槻宗一郎、竹中半兵衛、明智光秀、丹羽長秀、滝川一益。


 そこへ、少し遅れて羽柴秀吉が姿を現した。


 その後ろには、黒田官兵衛が控えている。


「遅れまして、申し訳ございませぬ」


 秀吉が頭を下げると、信長は軽く手を振った。


「座れ」


「はっ」


 秀吉が腰を下ろし、官兵衛もその後ろに座った。


 宗一郎は、官兵衛へちらりと目を向けた。


 黒田官兵衛。


 頭の切れる男だ。


 それも、並外れて。


 宗一郎がこの時代で特に注意を払っている人物の一人だった。


 しかし、官兵衛の主は宗一郎ではない。


 羽柴秀吉。


 その軍師として働いているのが、今の官兵衛だった。


「輸送船、四十二隻。護衛船、六隻か」


 信長が報告を読み上げた。


 秀吉は地図を見ながら、あっさりと言った。


「沈めますか?」


 判断が早い。


 信長は、宗一郎へ目を向けた。


「高槻」


「反対です」


 宗一郎が即答すると、秀吉が顔を向けた。


「何故じゃ?」


「毛利が、まだ敵ではないからです」


「本願寺の船じゃろう?」


「すべてがそうだと確認できたわけではありません。それに、海には商船も水軍も海賊もいます。関係のない船まで巻き込めば、面倒なことになります」


 そこで、官兵衛が初めて口を開いた。


「では、石山へ入るまで見ていると?」


 宗一郎は、官兵衛を見た。


「そうは言っていない」


「ならば、どこで止めます?」


 鋭い問いだった。


 曖昧な答えでは納得しない。


 宗一郎は、少し考えてから答えた。


「まず、確認する。船の数、積荷、護衛、旗。それから、どこの港を出て、誰の名義で動いているのか」


 官兵衛が、わずかに笑った。


「その間に、石山へ着いてしまいますぞ」


「そうかもしれない」


「ならば、一度は兵糧を入れさせると?」


 宗一郎は、官兵衛から目を逸らさずに答えた。


「一度の兵糧を止めるために毛利を敵へ回す方が、よほど高くつく」


 秀吉が腕を組んだ。


「わしなら、半分だけ奪うな」


 宗一郎が顔を向ける。


「半分?」


「全部取れば戦になる。全部通せば、織田は手も出せぬと舐められる。ならば、半分じゃ」


 秀吉は、にやりと笑った。


 滝川一益が声を上げて笑う。


「いかにも猿らしい考えだ」


「褒め言葉としていただきまする」


 秀吉は平然と答えた。


 しかし、官兵衛だけは笑わなかった。


「問題は、どうやって半分だけ奪うかにございます」


 秀吉が官兵衛を見る。


「そこをお前が考えるんじゃろうが」


「では、まず船を分けさせます」


 宗一郎の目が動いた。


「分ける?」


「すべての船を、同じ場所へ入れなければよいのです」


 官兵衛は地図を指した。


「潮、風、水深、港、航路。それらを利用すれば、船団の動きを制限できるやもしれませぬ」


 官兵衛は、一同を見渡した。


「我らが海を知らぬのであれば、知る者に聞けばよろしい」


 信長が宗一郎を見る。


 宗一郎は苦笑した。


「……俺がさっき考えていたことと、同じですね」


「何だ?」


「いえ、何でもありません」


 その時、丹羽長秀が静かに口を開いた。


「しかし、根本の問題がございます」


 皆の視線が集まる。


「我らには、水軍が足りませぬ」


 その一言で、部屋が静まり返った。


 織田は陸では強い。


 鉄砲、槍、大筒、兵站。そして高槻の技術。


 だが、海では勝手が違う。


 船を造れば、それで戦えるというものではない。


 潮の流れ、風向き、暗礁、港の位置、船の扱い方、海上での戦い方。


 それらは、長年の経験がものをいう世界だった。


 宗一郎は、地図を見つめた。


「……認めます」


 信長が顔を向ける。


「何をだ?」


「俺たちは、海が弱い」


 誰も反論しなかった。


「今まで、陸のことばかり見すぎました。俺の失敗です」


 信長は、宗一郎を責めなかった。


 ただ、短く命じた。


「ならば、直せ」


「はい」


 信長は、次々に家臣へ指示を出していった。


「一益」


「はっ」


「堺、紀伊、淡路の船の動きを洗え」


「承知」


「長秀」


「はっ」


「港、兵糧、船数、積荷。すべて数えよ」


「御意」


「光秀」


「はっ」


「京と寺社を調べろ。石山へ通じる者の動きを見よ」


「承知いたしました」


「秀吉」


「はっ!」


「官兵衛を使え」


 秀吉が、にやりと笑った。


「言われずとも、使い倒しまする」


 すると官兵衛が、無表情のまま口を開いた。


「殿。少しは休ませていただきたいものです」


「嘘を申せ。お前は考えておる時が一番楽しそうではないか」


 評定の席に、小さな笑いが起きた。


 だが、宗一郎は官兵衛を見ていた。


 この男は使える。


 間違いなく、優れた知恵を持っている。


 だからこそ、怖い。


 味方として頼もしい者は、敵に回ればそれだけ厄介な存在になる。


 信長が、最後に宗一郎へ目を向けた。


「高槻」


「はい」


「海を何とかしろ」


 宗一郎は、思わず嫌そうな顔をした。


「……それ、命令が雑すぎません?」


「知らん」


「海ですよ?」


「知っておる」


「俺、船乗りじゃありませんよ」


「ならば、船乗りを使え」


 宗一郎は、言葉に詰まった。


 信長が笑う。


「貴様がいつも申しておることだ。一人ですべてをやろうとするな」


 宗一郎は頭を掻いた。


「……分かりました」


 その日の夜、高槻の情報網へ新たな命令が走った。


 海を知る者を探せ。


 船を知る者を探せ。


 潮の流れを読み、風向きを知り、海の危険を肌で覚えている者を集めよ。


 紀伊、伊勢、志摩、淡路、瀬戸内。


 海賊でも、水軍の者でも、商人でも、漁師でも、船大工でも、水先案内人でも構わない。


 身分は問わない。


 必要なのは、本当に海を知っている者だった。


     ◆


 同じ頃、三河の岡崎城。


 徳川家康のもとには、甲斐からの報告が届いていた。


 武田信玄の姿が確認できない。


 勝頼が評定を主導している。


 医師の出入りが見られなくなった。


 薬の購入が止まっている。


 寺への夜間の出入りがあった。


 家康は、報告書を最後まで読んだ。


「信玄は、死んだのでございましょうか」


 家臣が尋ねた。


 家康は紙を置いた。


「分からぬ」


「しかし、これだけの情報が揃えば……」


「だからこそ、決めつけるな」


 家康は地図へ目を向けた。


 三河、遠江、甲斐、信濃。


 もし信玄が死んだのであれば、徳川にとっては好機かもしれない。


 そう考えたくなる。


 だからこそ、危険だった。


「勝頼は何をしておる?」


「兵、米、馬、城、街道を、改めて調べさせております」


 家康の指が止まった。


「攻める準備でございましょうか?」


「違うかもしれぬ」


「では、何を?」


「自分の武田を、知ろうとしておるのだろう」


 家臣は黙り込んだ。


 家康は、勝頼を軽く見ていなかった。


 父が偉大だからといって、息子が愚かであるとは限らない。


 むしろ、偉大な父を持つ者だからこそ、独自の道を探そうとすることもある。


「織田は動いたか?」


「目立った軍勢の動きはございませぬ」


 家康の目が細くなった。


 信長も気づいているはずだ。


 高槻宗一郎も、武田の異変を知らぬはずがない。


 それなのに、動かない。


 その静けさが、家康には不気味だった。


「高槻を調べよ」


 家臣が顔を上げた。


「高槻宗一郎を、でございますか?」


「ああ」


「何故でございましょう」


「信長だけを見ていては、今の織田は分からぬ」


 家康は、静かに言った。


「高槻に集まる人、商人、技術所、軍、新しい大筒。そして、あの男の弱みを調べよ」


「御意」


「ただし、無理に中へ入るな」


 家臣が顔を上げた。


「外から見よ。それでよい」


「承知いたしました」


 家康は、それ以上何も言わなかった。


 まだ、動く時ではない。


     ◆


 その命令は、翌日には帝の古き影へ届いていた。


 禁裏。


 帝の前で、老人が深く頭を下げる。


「徳川殿が、高槻殿を調べ始めました」


 帝の目が、わずかに冷たくなった。


「害意はあるか?」


「今のところ、確認できておりませぬ」


「ならば、触るな」


「御意」


「見るだけならば、見させておけばよい」


 帝は、静かに続けた。


「だが、技術所へ手を伸ばしたなら知らせよ」


「はっ」


「宗一郎を殺そうとする。人を攫う。家族へ手を出す。そのようなことがあれば、話は別だ」


 帝の声が低くなった。


「その線を越えたなら、朕が判断する」


 老人は、さらに深く頭を下げた。


 帝は、徳川を敵と決めつけているわけではなかった。


 ただ、見過ごしてよいことと、決して許してはならないことの境界を、明確に定めていた。


     ◆


 その日の午後。


 鷹司家では、冬姫が三度目となる帝との対面を迎えていた。


 以前に比べ、座る姿勢が美しくなっている。


 歩き方も、所作も変わった。


 帝は、その違いに気づいた。


「慣れたな」


 冬姫は、少し得意そうに微笑んだ。


「毎日、叱られておりますので」


「朕なら逃げている」


「そのお話は、もう伺いました」


 帝が、ぴたりと動きを止めた。


「……誰からだ?」


「光秀からでございます」


「……光秀」


 冬姫が笑った。


 帝も、ほんの少しだけ笑みを浮かべた。


 だが、冬姫には今日、どうしても聞いておきたいことがあった。


「主上」


「何だ?」


「もし、父上と主上が、違う道を選ばれたら……私は、どうすればよいのでしょうか」


 帝の表情が変わった。


 冬姫は十四歳だった。


 父は織田信長。


 そして、夫となるのは帝である。


 もし、その二人が対立したならば、自分はどちらの側に立つべきなのか。


 幼い問いのようでいて、決して軽いものではなかった。


 帝は、少し考えてから口を開いた。


「冬」


「はい」


「朕の味方をしなくてよい」


 冬姫は目を見開いた。


「父の味方も、しなくてよい」


「では、私は誰の味方をすればよろしいのでしょう」


 帝は、まっすぐ冬姫を見た。


「お前が正しいと思うものの味方をせよ」


 冬姫は、言葉を失った。


「朕も間違う。信長も間違う。二人とも間違うことさえあるだろう。その時は、お前自身が考えよ」


「……主上が間違っていると思えば、申し上げてもよろしいのですか?」


「ああ」


「お怒りになりませぬか?」


 帝は、少し考えた。


「……怒るかもしれぬ」


 冬姫が、思わず吹き出した。


「怒るのですね」


「朕も人だ」


 その言葉を聞いて、冬姫は嬉しくなった。


 帝という、誰もが畏れ敬う存在。


 けれど、自分の前にいるのは、間違いもすれば怒ることもある、一人の人間なのだ。


 そう思うと、不思議と心が軽くなった。


 しばらく、穏やかな沈黙が続いた。


 やがて冬姫が、静かに息を吸った。


「主上」


「何だ?」


「婚姻の日を、お決めください」


 帝の動きが止まった。


「……よいのか?」


「はい」


「急がなくてもよいのだぞ」


「分かっております」


 冬姫は微笑んだ。


「だからこそ、私からお願いしているのでございます」


 帝は、長く冬姫を見つめた。


 そして、静かに頷いた。


「分かった」


 この日、二人の意思は、確かなものとなった。


 あとは日取りを定め、儀礼を整え、天下へ知らせるだけである。


 織田信長の娘として生まれ、鷹司家の養女となった冬姫が、帝へ嫁ぐ日を。


     ◆


 だが、その日の夕刻。


 婚姻とはまったく別の報せが、京へ飛び込んできた。


 一頭の馬が、泥を跳ね上げながら織田屋敷へ駆け込んだ。


 馬は汗にまみれ、口元には白い泡が浮かんでいる。


 使者は、転がるように馬から降りた。


「信長様! 急報にございます!」


 信長が顔を上げた。


 傍らにいた宗一郎も振り返る。


「海にございます!」


「輸送船か?」


 宗一郎が尋ねた。


「違います!」


 使者は、息を切らしながら叫んだ。


「織田方の見張り船が、襲われました!」


 部屋の空気が一変した。


「場所は!」


「淡路の東にございます!」


「被害は!」


「一隻焼失! 二隻損傷! 死者十三名!」


 信長の顔から、笑みが消えた。


「誰がやった」


 使者は、深く頭を下げた。


「分かりませぬ!」


「旗は?」


「旗を掲げておりませぬ!」


 宗一郎は、すぐに地図へ駆け寄った。


 淡路の東。


 大坂湾。


 石山へ向かう輸送船の航路と重なる。


「輸送船はどうした!」


「そのまま進んでおります!」


「石山へか?」


「はい!」


 宗一郎は眉を寄せた。


「護衛六隻で襲ったのか?」


「違うと思われます!」


「何?」


「別の船がおりました!」


 宗一郎が、使者を見据えた。


「何隻だ」


「少なくとも十隻!」


 部屋が静まり返った。


 宗一郎の背筋を、冷たいものが走った。


 聞いていない。


 顕如の輸送船は四十二隻。


 護衛船は六隻。


 そこへ、さらに正体不明の船が十隻以上。


 この情報は、これまでの報告にはなかった。


 秀吉が、低い声で言った。


「本願寺が、隠しておったか」


 宗一郎は首を横へ振った。


「まだ分からない」


「毛利か?」


 今度は光秀が尋ねた。


「それも分かりません。紀伊の水軍かもしれない。淡路の海賊かもしれない。ほかにも、可能性はいくらでもあります」


 信長が、宗一郎を見た。


「高槻」


「はい」


「戦か?」


 宗一郎は、地図を見つめた。


 答えは、まだ分からない。


 だからこそ、正直に答えた。


「……分かりません」


 信長は怒らなかった。


「ならば、調べろ」


「はい」


「ただし」


 信長が立ち上がった。


「次に撃たれたなら、撃ち返せ」


 宗一郎が顔を上げる。


「旗がなくても、ですか?」


「こちらを殺しに来る者へ、家名を尋ねてから戦うつもりか?」


 宗一郎は黙った。


 信長の言うことは正しい。


 攻撃を受けているのに、相手の正体が分かるまで何もできないというわけにはいかない。


 だが、危険でもあった。


 対応を誤れば、毛利を敵に回すことになるかもしれない。


 それでも、味方の命を守る必要がある。


「……分かりました」


 宗一郎は、静かに答えた。


     ◆


 同じ頃、石山本願寺。


 顕如のもとにも、襲撃の報告が届いていた。


「何だと?」


 顕如が立ち上がった。


「織田の見張り船が襲われただと?」


「はい」


「誰がやった!」


「分かりませぬ」


「我らの護衛か?」


「違います」


 教如が、驚いて顔を上げた。


「では、毛利が?」


「違う」


 顕如は、即座に否定した。


「毛利は、まだ動かぬ」


「では、いったい誰が……」


 顕如は答えなかった。


 少なくとも、これは自分の命令ではない。


 ならば、誰かが勝手に戦を始めたのか。


 それとも、戦を始めさせようとしているのか。


 顕如の目が鋭くなった。


「輸送船へ伝えよ」


「はっ」


「織田船を追うな。こちらから先に撃つな」


 教如が、父を見た。


「何故でございますか?」


「今、我らが欲しいのは兵糧だ」


 顕如は、静かに答えた。


「毛利との戦ではない」


 誰が何を狙っているのか、まだ分からない。


 だが、正体不明の者に振り回されて、望まぬ戦へ引きずり込まれるつもりはなかった。


     ◆


 禁裏でも、帝の前に同じ報告が届けられていた。


 古き影の老人が、静かに頭を下げる。


「襲撃者の正体は、我らにも分かっておりませぬ」


 帝の目が細くなった。


「本願寺の命令か?」


「今のところ、確認できませぬ」


「毛利は?」


「動いたとの報告はございませぬ」


 帝は黙り込んだ。


 高槻の情報網。


 織田の目。


 そして、帝の影。


 いずれも、襲撃者の正体を掴んでいない。


 それは、帝にとっても気になる事態だった。


 海の上で、一隻の船が燃えた。


 たった一隻。


 しかし、十三人が命を落としている。


 誰が殺したのか。


 何のために殺したのか。


 その答えを、まだ誰も知らなかった。


     ◆


 西では、海が燃えた。


 東では、武田信玄の死を巡り、徳川家康が動き始めている。


 甲斐では、勝頼が父の名から少しずつ離れ、自らの武田を築こうとしていた。


 京では、将軍に代わる新たな役職が生まれようとしている。


 そして、冬姫と帝の婚姻も目前に迫っていた。


 天下は、確実に動いていた。


 宗一郎は、燃えた船の報告書を握ったまま、地図を見つめていた。


 未来の記憶にはない襲撃だった。


 自分が知っていた歴史とは、また一つ違う出来事が起きた。


 未来の知識が、少しずつ役に立たなくなっていく。


「半兵衛」


「はい」


「海へ人を出す」


「どこへでございますか?」


 宗一郎は、地図の上へ指を置いた。


「全部だ」


 紀伊。


 淡路。


 堺。


 播磨。


 瀬戸内。


「誰がこの火をつけたのか、必ず見つける」


 その声には、静かな決意が込められていた。


     ◆


 その夜。


 誰も知らない、小さな港。


 旗を掲げていない十数隻の船が、闇に紛れて戻ってきた。


 船から、一人の男が降りる。


 港で待っていた別の男が、声をかけた。


「どうだった?」


「織田の船を一隻焼いた」


「本願寺の船は?」


「触っていない」


「よい」


 待っていた男は、短く頷いた。


「次はどうする?」


 船から降りた男が尋ねた。


 待っていた男は、暗い海へ目を向けた。


 そして、静かに答えた。


「何もしない」


「……何?」


「織田が、誰を疑うかを見る」


 男は、それ以上何も言わなかった。


 海の上には、すでに火が放たれた。


 誰が放った火なのか分からぬまま、疑いだけが広がっていく。


 毛利。


 本願寺。


 紀伊の水軍。


 海賊。


 そして、織田。


 互いに相手の出方を疑い、警戒する。


 その疑いが深まれば、いずれ誰かが先に刀を抜くだろう。


 戦は、まだ始まっていない。


 だが、何者かが確かに、戦を始めさせようとしていた。

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