【加筆修正】第九十六章 歴史の奔流
第九十六章 歴史の奔流
歴史が変わる時、誰かが鐘を鳴らして知らせてくれるわけではない。
昨日と同じように朝が訪れ、人々は飯を食い、商人は店を開き、農民は田畑へと向かう。寺では朝の鐘が鳴り、町にはいつもと変わらぬ営みが広がっている。
しかし、そんな何でもない一日の裏側で、幾つもの歯車が同時に回り始めることがある。
そして、ある瞬間、人々は気づくのだ。
もはや、以前の時代には戻れないのだと。
◆
淡路島の東岸。
浜辺には、焼け焦げた織田方の船が引き上げられていた。
船腹は黒く炭化し、ところどころに大きな傷が残っている。波打ち際には焼けた木片が漂い、潮の匂いに混じって、焦げた木の臭いがかすかに残っていた。
その浜に、十三人の遺体が並べられている。
宗一郎は、彼らの前に立っていた。
少し後ろには竹中半兵衛と滝川一益が控え、周囲には船乗りや漁師、織田の兵、そして高槻の情報網に属する者たちが集まっていた。
誰も口を開かなかった。
宗一郎は、一人の遺体の前にしゃがみ込んだ。
まだ若い。二十歳にもなっていないように見える。
「……名前は?」
傍らの船頭が、沈んだ声で答えた。
「弥助と申します。堺の生まれでございます」
「どうして、この船に乗っていたんだ?」
「……金がよかったからだと、聞いております」
宗一郎は、静かに目を閉じた。
弥助という若者を、宗一郎は知らなかった。
十三人全員の顔や名前を覚えているわけではない。そもそも、彼らと直接言葉を交わしたことすらなかった。
それでも、彼らは死んだ。
家族もいただろう。帰りを待つ者もいただろう。
そして、彼らが命を落とした理由は、戦場で敵と戦ったからではなかった。
まだ、戦ですらない。
何者かが戦を始めさせるために、彼らの命を奪ったのである。
「宗一郎様」
半兵衛が、静かに声をかけた。
宗一郎は立ち上がった。
「分かっている。怒りに任せて決めたりはしない」
半兵衛は、わずかに表情を和らげた。
「それならば、よろしゅうございます」
「まずは調べる。船を焼いた者が誰なのか、必ず突き止める」
滝川一益が尋ねた。
「見つけたら、どうする?」
宗一郎は、海へ目を向けた。
「それから考えます」
怒りに任せて犯人を殺すことは、難しくないかもしれない。
だが、それでは誰かの思惑どおりに動かされるだけだ。
宗一郎は焼けた船を指した。
「船の状態を、できるだけ詳しく記録してください。矢が刺さった跡、火の回り方、船体の傷。どの方向から攻撃されたのか、どれほどの数を受けたのか。距離についても、分かる範囲で構いません」
船乗りたちは、顔を見合わせた。
一益が眉を上げる。
「そこまで分かるものなのか?」
「分からないことも多いでしょう。だからこそ、分からなかったことまで記録するんです」
宗一郎は、はっきりと言った。
事実と推測を分け、そこから判断を導く。
それが、高槻で徹底してきたやり方だった。
調査を始めて間もなく、一人の船大工が宗一郎を呼んだ。
「高槻様。少し、こちらへ」
船大工は、焼け焦げた船腹の一角を指していた。
「この傷でございます」
木が丸く抉れている。
矢が刺さった跡とは、明らかに違っていた。
「……鉄砲か?」
「おそらくは」
一益も、身を乗り出して傷を確かめた。
「海の上から撃たれたということか」
「その可能性が高うございます」
さらに調べると、同じような傷が幾つも見つかった。
しかも、傷の位置には一定のまとまりがあった。
宗一郎は、表情を険しくした。
「……慣れているな」
「何にだ?」
一益の問いに、宗一郎は答えた。
「船の上から鉄砲を撃つことに、です」
揺れる船上では、陸と同じようには狙えない。風もあり、波もある。船同士が動いていれば、なおさらだ。
もちろん、傷の位置だけで断定はできない。
しかし、少なくとも襲撃者の中には、海上での鉄砲の扱いに慣れた者がいた可能性が高かった。
「毛利か?」
一益が尋ねた。
「まだ、そうは言えません」
宗一郎は、即座に否定した。
「紀伊にも、淡路にも、志摩にも、海を知る者はいます。瀬戸内海なら、なおさらです」
「……なるほどな」
一益は頷いた。
宗一郎は、再び焼けた船を見た。
自分たちは、海についてあまりにも知らなかった。
船の造りも、海上での戦い方も、潮の流れも、港と港を結ぶ人々の関係も。
陸で培ってきた知識だけでは、足りない。
「一益殿」
「何だ?」
「人を貸していただけませんか」
「何人必要だ?」
「できるだけ多く」
「何をするつもりだ?」
宗一郎は、海を見つめたまま答えた。
「海を覚えます」
◆
安芸国、毛利家。
評定の席に、織田方の船が焼き討ちに遭ったという報告が届いていた。
「織田の船が焼かれた、だと?」
その知らせに、居並ぶ者たちの表情が変わった。
「我らの船ではあるまいな」
「無論だ。そのような命は出しておらぬ」
「本願寺も、自分たちの仕業ではないと申している」
座敷に沈黙が落ちた。
「……では、誰がやった?」
答えられる者はいなかった。
だが、問題は犯人が誰なのかということだけではない。
織田が毛利を疑えば、それだけで戦の火種になりかねなかった。
「織田は、我らを疑うだろうな」
「間違いあるまい」
「ならば、どうする?」
「何もしないという手もある」
「それでは、かえって疑いが深まるぞ」
その時、一人の男が机を叩いた。
「こちらから使者を出すべきだ」
視線が集まる。
「織田へか?」
「ああ」
「我らは関わっておらぬと伝えるのか」
「違う。我らの船ではないと、それだけを伝える」
「信じると思うか?」
「それは織田が決めることだ」
毛利も理解していた。
今、最も危険なのは、織田そのものでも本願寺そのものでもない。
誤解である。
そして、何者かが意図的にその誤解を生み出そうとしている可能性があった。
「海を調べよ」
命が下された。
「毛利の名を勝手に使う船、旗を隠して動く船、こちらの命もなく織田へ手を出した者。すべて洗い出せ」
毛利も動き始めた。
織田を攻めるためではない。
望まぬ戦を始めないためだった。
◆
石山本願寺。
顕如もまた、同じ報告を読んでいた。
「毛利が、海の調査を始めたようにございます」
教如の言葉に、顕如は頷いた。
「当然であろう。我らも調べる」
「父上。もし、犯人を見つけたならば、いかがいたしますか」
顕如は、息子を見た。
「殺すな」
教如は驚いた。
「なぜでございますか」
「生かして捕らえ、誰に命じられたのかを聞くためだ」
顕如の目には、冷たい光が宿っていた。
「我らを利用し、勝手に戦を始めようとする者を、許すつもりはない」
教如は、深く頭を下げた。
顕如は地図へ視線を落とした。
淡路の海。
堺。
紀伊。
そして、織田の勢力が広がる畿内。
「……高槻か」
顕如は、小さく呟いた。
高槻宗一郎。
本願寺にとっては、明らかな敵である。
しかし今、その敵と自分たちは、同じ何者かを探していた。
皮肉な話だった。
◆
甲斐国、躑躅ヶ崎館。
武田勝頼は、かつて父・信玄が座っていた場所を見つめていた。
その座には、まだ誰も座っていない。
勝頼自身も、少し離れた場所に腰を下ろしていた。
居並ぶのは、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、高坂昌信、穴山信君ら、武田家を支えてきた重臣たちである。
誰も口にはしない。
しかし、皆が理解していた。
武田信玄は、もういない。
「父上の死を、いつまで隠せると思う」
勝頼が尋ねた。
高坂昌信が答える。
「敵が確証を持たぬという意味であれば、まだしばらくは。しかし、完全に隠し通すことはできませぬ」
「そうか」
勝頼は、静かに頷いた。
「ならば、それでよい」
重臣たちが、顔を上げた。
「父上が生きているのか、死んでいるのか。敵には、しばらく考えさせておけばよい」
馬場信春が尋ねた。
「その間に、我らは何をいたしましょう」
勝頼は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、父が座っていた場所へ歩み寄る。
一度だけ、その座を見下ろした。
やがて、腰を下ろした。
座敷の空気が変わった。
「武田を、作り直す」
山県昌景が、わずかに眉を動かした。
「作り直す、でございますか」
「ああ。父上の武田をそのまま真似ても、私は父上にはなれぬ」
誰も口を挟まなかった。
「ならば、私の武田を作る」
穴山信君が、わずかに目を伏せた。
勝頼は、その動きを見逃さなかったが、何も言わなかった。
「まず、兵を数えよ。米を数え、馬を数え、城と街道を調べよ。どこに何があり、何が足りぬのか、すべて明らかにする」
勝頼の声が強くなる。
「そして、誰が武田へ忠義を尽くしているのか。それも、よく見ておけ」
穴山の目が、かすかに動いた。
勝頼は、すでに父の後ろを歩くつもりではなかった。
武田家を自分の手で立て直す。
その決意が、重臣たちにも伝わっていた。
◆
三河国、岡崎。
徳川家康のもとにも、武田の動きが報告されていた。
「勝頼が、兵数の確認を始めたと?」
「はっ。米、馬、城、街道に至るまで、改めて調べているとのことにございます」
家康は、長く黙っていた。
「……やはり、信玄は死んだのではございませぬか」
家臣の一人が口にしたが、家康は答えなかった。
代わりに、別のことを尋ねた。
「織田は動いたか」
「いいえ。今のところ、大きな軍勢の動きはございませぬ」
「高槻はどうだ」
「海に詳しい者を集めているとの話がございます。石山への輸送船に関係するものかと」
「……海か」
家康の目が、わずかに細くなった。
西には石山本願寺。
東には武田。
織田家は、その両方を見なければならない。
好機。
その言葉が、家康の頭に浮かんだ。
だが、すぐに打ち消した。
まだ早い。
「遠江の城を確認せよ」
「兵を動かすのでございますか」
「動かさぬ。米、矢、鉄砲、馬、塀、堀。備えがどこまで整っているか、確かめるだけだ」
家康の命令は、奇しくも勝頼のものと似ていた。
戦う前に、まず自分の力を正確に知る。
それが、家康の選んだ道だった。
「それと、高槻の調べはどうなっておる」
「外から様子を探っております。技術所の警備は、以前より厳しくなっているようにございます」
「中へ入った者は?」
「まだ、おりませぬ」
「まだ、だと?」
家康の声が低くなった。
報告した男が、身を固くする。
「命じたはずだ。外から見よと」
「……御意」
「余計なことはするな」
家康は、静かに言った。
高槻の技術所には、何かがある。
それは分かっている。
しかし、今ここで無理に踏み込めば、宗一郎だけでなく信長の警戒まで招くことになる。
家康は、慎重だった。
少なくとも、この時はまだ。
◆
京の役所では、朝から人々が列を作っていた。
商人、寺の使い、百姓、小領主、職人。
中には、女や老人の姿もあった。
役所の戸が開く前から、これほどの人が集まるようになっていたのである。
明智光秀は、その様子を眺めていた。
「増えましたな」
隣に立つ半兵衛が言った。
「増えすぎです」
光秀は、苦笑した。
「高槻殿は、どちらへ?」
「海です」
「逃げましたか」
「本人は、仕事だと申すでしょう」
光秀は、思わず笑った。
だが、その表情はすぐに真剣なものへ戻った。
役所の前に人が並ぶ。
それは、この場所が人々に認められ始めた証でもあった。
将軍はいない。
幕府も、かつての形では存在しない。
それでも、人々は争いを刀で解決しようとせず、訴状を持ってここへ来るようになった。
それは、小さな変化に見えるかもしれない。
しかし、光秀には分かっていた。
こうした変化こそが、世の中を根本から変えていくのだ。
光秀は、一枚の訴状を手に取った。
「次の者を」
役人が声を上げる。
戸が開かれ、また一人、訴えを抱えた者が中へ入ってきた。
戦場ではない場所で、天下は少しずつ姿を変え始めていた。
◆
禁裏。
帝の前には、鷹司家の当主と織田信長、そして冬姫が座していた。
この日、話し合われていたのは、冬姫の入内の日取りである。
儀礼、吉日、準備に必要な時間、各家への通達。
それらを慎重に調整した末、ようやく一つの日が選ばれた。
冬姫は、差し出された紙へ目を落とした。
帝も、それを確かめる。
信長は腕を組んだまま、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「……少々、早くはございませぬか」
鷹司が、困った顔をした。
冬姫は、父を見た。
「父上」
「何だ」
「以前にも、同じことを仰ったそうですね」
信長は、少し離れた場所に控えていた光秀へ視線を向けた。
光秀は、そっと目を逸らした。
「……光秀」
「はっ」
「後で話がある」
「……承知いたしました」
冬姫が、小さく笑った。
帝も、わずかに口元を緩めた。
やがて帝は、日取りの記された紙へ手を置いた。
「冬」
「はい」
「この日で、よいか」
冬姫は、まっすぐに帝を見た。
「はい」
その返事に、迷いはなかった。
帝は頷き、今度は信長へ視線を向けた。
「信長。よいな」
信長は、冬姫を見た。
十四歳。
幼い頃、転んでは泣いていた娘。
屋敷の中を走り回り、叱られては口を尖らせていた娘。
いつの間にか口答えを覚え、父の言葉にも自分の考えを返すようになった娘。
その冬姫が、今、自分で選んだ道を歩もうとしている。
信長は、ゆっくりと息を吐いた。
「……儂に聞かれることではございませぬ」
そして、静かに続けた。
「冬が決めたことにございます」
冬姫の目が、わずかに潤んだ。
「父上……」
「泣くな。まだ嫁いでおらん」
「父上こそ」
「儂は泣いておらぬわ」
冬姫は、涙を浮かべたまま笑った。
帝も、ほんの少しだけ笑った。
こうして、その日、冬姫の入内の日取りが正式に決まった。
織田信長の娘にして、鷹司家の養女。
冬姫が、帝の妻となる。
その知らせは、まず朝廷へ、次いで織田家へ、そして各地の大名へと届けられることになった。
一枚の書状。
しかし、そこに記された意味は、計り知れないほど大きかった。
織田家と朝廷。
武家と皇統。
それまで別々の権威として存在してきた二つの力が、婚姻によって血のつながりを持つことになる。
安芸の毛利。
越後の上杉。
甲斐の武田。
三河の徳川。
相模の北条。
紀伊の寺社勢力。
そして堺の商人たち。
誰もが、その知らせの意味を考えずにはいられなかった。
◆
石山本願寺。
顕如は、冬姫の入内の日取りが決まったという報告を受け取った。
長い間、何も言わなかった。
教如が、父の言葉を待っている。
「……決まったか」
やがて、顕如が呟いた。
「何がでございますか」
「時代が、だ」
教如は、父を見た。
「もう、元には戻らぬ」
顕如の声は、静かだった。
将軍は死に、室町幕府は完全に終わった。
しかし、信長は将軍になろうとしていない。
代わりに、娘を帝へ嫁がせる。
京では新しい役所が動き始め、武家の争いだけでなく、民の訴えまで扱うようになっている。
さらに帝は、信長へ征夷大将軍とは異なる、新たな武家の役職を与えようとしていた。
「我らが戦っている相手は、もはや織田信長一人ではなくなった」
顕如は、静かに言った。
「国の形そのものが、変わろうとしているのだ」
教如は、言葉を失った。
戦に勝つか、負けるか。
これまでは、それが大きな問題だった。
しかし、今は違う。
たとえ一度の戦に勝ったとしても、天下の仕組みそのものが変わってしまえば、本願寺がこれまで知っていた世の中は失われる。
顕如は、そのことを理解していた。
「第二陣を出す」
教如が顔を上げた。
「父上。第一陣は、まだ石山へ到着しておりませぬ」
「だからこそだ」
顕如は立ち上がった。
「向こうが新しい国の形を作るというならば、我らも生き残るための形を考えねばならぬ」
そして、次々と命じた。
「船を増やせ。米を集めよ。紀伊へ人を送り、毛利との話も続けるのだ」
「はっ」
「それから、旗なき船を探せ」
顕如の目が鋭くなった。
「見つけたなら、必ず生け捕りにせよ」
教如は、深く頭を下げた。
石山もまた、新たな時代へ備え始めていた。
◆
一方、高槻技術所では、大きな轟音が響いていた。
ドン――!
地面が揺れ、土が跳ね上がる。
近くの木々から、鳥が一斉に飛び立った。
「うわっ!」
与吉が、思わず地面へ伏せた。
「宗一郎様!」
「何だ!」
「近すぎます!」
「俺もそう思った!」
試していたのは、上向きの角度で弾を放つ大筒だった。
この日、初めて本格的な試射を行ったのである。
しかし、弾は狙った場所から大きく外れていた。
「着弾はどこです!」
「向こうだ!」
「向こうとは、どちらですか!」
「まだ分からん!」
「それでは駄目ではございませんか!」
与吉の叫びに、宗一郎も言い返せなかった。
職人たちは安全を確かめたうえで、着弾地点を探し、距離を測り、記録を取っていく。
結果だけを見れば、失敗だった。
しかし、砲身は破裂していない。
それだけでも、一歩前進である。
宗一郎は、試射の記録を見つめながら頷いた。
「次は、装薬量と仰角を見直そう。ただし、無理はするな。人が死んだら、何の意味もない」
職人たちは、真剣な顔で頷いた。
そして、その試射場から少し離れた場所には、別の職人たちが集められていた。
船大工である。
紀伊、堺、伊勢、志摩。
それぞれ異なる海で船を造ってきた者たちだった。
宗一郎は、彼らの前に立った。
「最初に言っておきます」
船大工たちが、顔を上げる。
「俺は、海を知りません」
あまりにも率直な言葉に、職人たちは顔を見合わせた。
「だから、皆さんに教えてほしいんです」
一人の老船大工が尋ねた。
「高槻様は、どのような船を造りたいのでございますか」
宗一郎は、一枚の図を広げた。
そこには、船の上に小さな大筒を載せた姿が描かれていた。
老船大工は、図を見るなり顔をしかめた。
「……沈みますな」
与吉が、小さく呟いた。
「ほら、やっぱり」
宗一郎は、与吉を睨んだ。
「まだ何も説明していないだろう」
「ですが、沈むと仰っております」
「だから、どうすれば沈まないかを考えるんだよ」
宗一郎は、改めて老船大工へ向き直った。
「このままでは難しいのは分かりました。では、どうすれば大筒を載せられる船になるでしょうか」
老船大工は、しばらく図を見つめていた。
やがて、ゆっくりと腰を下ろした。
「まず、船の幅から考え直さねばなりませぬ」
宗一郎は、笑顔になった。
「お願いします」
高槻式の新しい船。
それは、まだ存在していない。
大筒を載せれば船の重心が変わり、反動にも耐えなければならない。船体を大きくすれば、今度は動かすための人手や港の深さが問題になる。
解決しなければならないことは、山ほどあった。
それでも、最初の一歩は踏み出された。
船大工たちは図を囲み、それぞれの経験をもとに意見を交わし始めた。
◆
同じ日の夕刻。
淡路島で、一人の漁師が高槻の者へ妙な話を持ち込んだ。
「旗のない船を見た?」
「ああ」
漁師は、日焼けした顔で頷いた。
「三日前のことだ」
「どこで見た」
漁師は、海の方角を指した。
「東へ向かっていた」
「何隻だ」
「十一隻」
「船の形は覚えているか」
漁師は、少し考えた。
「……瀬戸内の船じゃねえな」
報告を書き取っていた男の筆が止まった。
「なぜ、そう分かる」
漁師は、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「俺が何年、海で船を見てきたと思ってるんだ」
「では、どこの船だ」
「そこまでは知らねえ」
漁師は、もう一度海を見た。
「ただ、東から来た船だ。それは間違いねえ」
その報告は、夜のうちに宗一郎へ届けられた。
「……東から?」
半兵衛が、聞き返した。
宗一郎も、書付を見つめている。
毛利の船ではない可能性が出てきた。
紀伊かもしれない。
志摩かもしれない。
あるいは、もっと東から来た船かもしれない。
もちろん、漁師の証言だけで断定はできない。
だが、調べるべき範囲が広がったことは確かだった。
「……誰なんだ」
宗一郎が、小さく呟いた。
半兵衛は、答えなかった。
その時、別の使者が部屋へ入ってきた。
「宗一郎様。禁裏より知らせが届いております」
「今度は何だ?」
宗一郎は書状を受け取り、封を開いた。
そして、読み進めるうちに動きを止めた。
「……宗一郎様?」
半兵衛が尋ねる。
宗一郎は、黙って書状を渡した。
半兵衛が目を通し、驚いたように顔を上げた。
冬姫の入内の日取りが、正式に決まったのである。
宗一郎は、長く息を吐いた。
「……決まったか」
「はい」
「これで、本当に変わるな」
半兵衛が、静かに尋ねた。
「何が、でございますか」
宗一郎は、少しだけ笑った。
「歴史が」
その言葉を、宗一郎はこれまでにも何度となく口にしてきた。
しかし、今度は意味が違っていた。
かつて宗一郎は、未来の歴史を知っていた。
誰がどこで戦い、誰が死に、誰が天下を取るのか。
その知識は、この時代を生き抜くための大きな助けとなった。
だが、今は違う。
足利義昭は死に、室町幕府は完全に終わった。
浅井長政は生きている。
朝倉義景は信長自身の手で討たれた。
竹中半兵衛も生きている。
そして、宗一郎の知らないところで、帝もまた未来の知識を持ちながら、この時代を変えようとしていた。
冬姫は、その帝へ嫁ぐ。
信長は将軍にならず、朝廷との新たな関係を築こうとしている。
高槻では、本来この時代には存在しなかった技術や仕組みが、次々と生まれていた。
もはや、宗一郎が知る歴史の道筋は残っていない。
あるのは、まだ誰も知らない未来だけだった。
「半兵衛」
「はい」
「……怖いな」
半兵衛は、宗一郎を見た。
「宗一郎様でも、怖いのでございますか」
「当たり前だろ」
宗一郎は、苦笑した。
「未来を知っているつもりで、ここまで来た。でも、もうほとんど分からないんだ」
半兵衛は、少し考えてから笑った。
「ならば、我らと同じでございますな」
「同じ?」
「我らは、もとより明日のことなど知りませぬ。それでも、こうして生きております」
宗一郎は、しばらく半兵衛を見つめていた。
そして、ゆっくりと笑った。
「……そうだな」
未来を知っていることが、必ずしも強さとは限らない。
知らない未来へ進む覚悟もまた、人には必要なのだ。
◆
その夜。
京の禁裏では、帝が一人、庭を眺めていた。
静かな夜だった。
月明かりが庭石を照らし、風が木々の葉を揺らしている。
帝もまた、宗一郎と同じことを感じていた。
かつて自分が知っていた歴史。
織田信長。
豊臣秀吉。
徳川家康。
関ヶ原の戦い。
江戸幕府の成立。
鎖国と呼ばれる対外関係の制限。
幕末、明治。
日清戦争、日露戦争。
第一次世界大戦。
第二次世界大戦。
そして、広島と長崎。
それらへと続いていた歴史の流れは、すでに大きく変わっている。
少なくとも、同じ形では訪れないだろう。
それこそが、帝の望んだことだった。
しかし、恐れがないわけではない。
歴史を変えることは、悲劇を消し去ることと同じではない。
一つの悲劇を防いだ結果、別の悲劇が生まれるかもしれない。
未来を知っていたからこそ、帝にはその恐ろしさが分かった。
「……それでも」
帝は、小さく呟いた。
止まるわけにはいかない。
その時、背後に人の気配が生まれた。
「主上」
振り返ると、年老いた男が静かに控えていた。
帝の影として働く者だった。
「何だ」
「新たな報告にございます」
「どこからだ」
「三河にございます」
帝の目が、わずかに変わった。
「徳川か」
「はい。徳川殿の者と思われる三人が、高槻へ向かっております」
「目的は」
「まだ分かりませぬ。商人に姿を変えております」
帝は、しばらく黙っていた。
徳川家康。
信長の同盟者でありながら、その動向には注意を払うべき人物だった。
とはいえ、三河の者が高槻へ向かったというだけで、罪を問うことはできない。
商人に扮しているからといって、直ちに敵意があるとも限らなかった。
まだ、一線を越えたとは言えない。
しかし、その線へ近づいている可能性はあった。
「追え」
「御意」
「こちらからは手を出すな」
「御意」
「高槻の敷地へ不法に踏み込むまでは、見張るだけでよい」
老人が、深く頭を下げた。
「もし、踏み込んだならば?」
帝の目が、冷たくなった。
「捕らえよ。ただし、殺すな」
「はっ」
「まず、誰の命で動いているのかを確かめる」
老人は、音もなく退出した。
帝は、再び庭へ目を向けた。
徳川家康が、何を考えているのか。
今はまだ、分からない。
だが、見過ごすつもりもなかった。
◆
西には、旗なき船。
東には、徳川の密偵。
北東では、父を失った武田勝頼が、新たな武田家を築こうとしている。
石山では顕如が動き、安芸では毛利が海を調べ始めた。
京では信長が新たな天下の形を描き、その傍らで帝が静かに未来を見据えている。
誰も、同じ未来を見てはいない。
誰も、すべてを知っているわけではない。
それでも、全員が動き始めていた。
もはや歴史は、一人の英雄だけが動かすものではなくなっていた。
信長が一歩進めば、顕如が対応を考える。
顕如が船を出せば、毛利が動く。
毛利が動けば、宗一郎は海へ目を向ける。
高槻が変われば、家康が警戒する。
信玄が死ねば、勝頼が立つ。
勝頼が立てば、家康は備えを固める。
帝が冬姫を妻に迎えれば、天下の権威の形そのものが変わっていく。
一つの決断が、次の決断を生む。
その連鎖は、もはや誰にも止められなかった。
戦国という時代そのものが、終わろうとしていた。
だが、それは必ずしも、すぐに平和が訪れることを意味しない。
古い時代が終わろうとする時、必ず新しい時代を拒む者が現れる。
そして、その者が誰なのか。
宗一郎も、信長も、帝も、まだ知らなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
歴史は、すでに大きな変革の奔流へと呑み込まれている。
そして、その流れは次に、人の血を求めようとしていた。




