【加筆修正】第九十七章 影の正体
第九十七章 影の正体
十一隻。
旗を掲げていない。
東から来た。
宗一郎は、報告書に記されたその情報を、何度も読み返していた。
淡路沖で織田方の船を襲った者たちは、いったい何者なのか。
襲撃に使われた船と、東へ向かった十一隻が同じものなのかさえ、まだ確かではない。
だが、宗一郎には、どうしても気になることがあった。
「半兵衛」
「はい」
「最初から調べ直そう」
半兵衛が顔を上げた。
「最初から、でございますか?」
「ああ。今回の船のことだけじゃない」
宗一郎は立ち上がると、机に広げていた書類を脇へ寄せた。
そして、別の箱を持ってこさせた。
中に収められていたのは、これまで高槻の情報網が集めてきた古い報告書である。
越前、三河、遠江、京、甲斐。
それぞれの土地で起きた出来事や、耳にした噂が細かく記録されていた。
箱の中身を見た半兵衛の表情が変わった。
「……まさか」
「そう。そのまさかだ」
宗一郎は、一枚の報告書を取り出した。
「前から気になっていた奴がいる」
高槻の情報網は、ただ噂を集めるだけのものではない。
現地で見聞きする者、情報を運ぶ者、その真偽を確かめる者、そして集まった事実から判断を下す者。
それぞれの役割を分けることで、誤った情報に振り回されない仕組みを作ってきた。
その情報網が形になり始めた頃から、宗一郎は一つの奇妙な存在を感じていた。
誰かがいる。
しかし、その姿が見えない。
越前では、一揆を煽る噂が妙に早く広まった。
三河では、織田家に対する不安をかき立てる話が武士たちの間へ入り込んでいた。
遠江では、武田と徳川の双方を疑わせるような噂が流れた。
京では、公家、寺社、商人のそれぞれに、少しずつ内容の異なる話が伝わっていた。
単に情報を集めているだけではない。
何者かが、意図的に情報を流している。
しかも、そのやり方は巧妙だった。
「帝の影という可能性はございませぬか」
半兵衛の言葉に、宗一郎の手が止まった。
帝の影。
宗一郎は、その組織の全貌を知らない。
そもそも、帝がどのような者たちを使って情報を集めているのか、詳しく把握しているわけではなかった。
ただ、帝が時として驚くほど早く情報を得ていることには気づいていた。
「可能性はある」
宗一郎はそう答えたものの、すぐに首を横へ振った。
「でも、違うと思う」
「なぜでございますか?」
宗一郎は、一枚の古い報告書を半兵衛へ差し出した。
それは、足利義昭がまだ生きていた頃、京の公家たちの間に流れた噂だった。
――織田信長は、いずれ帝を廃し、自ら王となる。
半兵衛が、静かに読み上げた。
「帝のために動いている者が、こんな噂を流すと思うか?」
「……確かに、不自然でございますな」
宗一郎は、続けて別の書類を並べた。
越前では、信長がすべての寺を焼き払うという噂。
三河では、織田が徳川を用済みと考えているという噂。
京では、高槻宗一郎が異国の術を使っているという噂。
遠江では、武田が徳川領の寺を焼こうとしているという噂。
どれも、まったく根拠のない話として片づけるには厄介な内容だった。
信長は、実際に敵対した寺社勢力と戦っている。
織田と徳川の関係にも、利害の違いはある。
高槻では、従来の常識では説明しにくい技術が生まれていた。
武田も、遠江を巡って徳川と争ってきた。
事実の一部を取り出し、そこへ不安と誤解を混ぜ込む。
そうすることで、聞いた者は噂を簡単には否定できなくなる。
「こいつらは、国を取ろうとしているんじゃない」
宗一郎が言った。
半兵衛が顔を上げる。
「では、何を狙っているのでしょう」
「……つながることを、壊そうとしている」
宗一郎は、地図へ目を向けた。
織田と徳川。
織田と朝廷。
武士と寺社。
領主と民。
そして、毛利と織田。
敵対する勢力のどちらかを勝たせたいわけではない。
互いに疑わせ、手を結べないようにする。
それが目的なのではないか。
「なるほど……。だから今回も、毛利の仕業に見せかけようとしたのでしょうか」
「まだ、毛利と関係がないとは決まっていないぞ」
宗一郎は、すぐに釘を刺した。
「承知しております」
半兵衛は、わずかに笑った。
「しかし、今のようにお答えになるということは、宗一郎様も同じ可能性をお考えなのでしょう」
宗一郎は、嫌そうな顔をした。
「……半兵衛」
「はい」
「最近、性格が悪くなってないか?」
「さて。誰の影響でしょうな」
半兵衛は涼しい顔で答えた。
宗一郎が言い返そうとした、その時だった。
戸が開き、滝川一益が入ってきた。
「見つけたぞ」
宗一郎は立ち上がった。
「何をです?」
「船だ」
◆
一益が机へ置いたのは、海沿いの村々から集めた報告だった。
淡路島の東方で、旗を掲げていない十一隻の船が目撃されている。
その船影は、やがて東へ向かった。
紀伊では確認されていない。
淡路南岸でも、該当する船の目撃情報はなかった。
しかし、志摩で似た船が見つかっていた。
「志摩?」
宗一郎は、思わず聞き返した。
「ああ。小さな入り江へ入ったらしい。港と呼べるような場所ではない」
「そこは、誰の領分です?」
一益は、地図の一点を指した。
「それが面白い。九鬼の縄張りに近い場所だ」
宗一郎は、黙り込んだ。
九鬼。
九鬼嘉隆。
その名を、宗一郎が知らないはずはなかった。
後に織田水軍を支えることになる人物であり、史実では鉄甲船と呼ばれる大型軍船の話とともに語られる男である。
しかし、それは宗一郎の知る歴史での話だった。
今、この時点で九鬼が織田の味方だと決まっているわけではない。
「九鬼がやったと思うか?」
一益が尋ねた。
「いいえ。まだ、そう考えるのは早いです」
宗一郎は、即答した。
未来の知識があるからこそ、気をつけなければならない。
史実で信長に仕えた人物が、今も必ず味方になるとは限らない。
反対に、史実で敵対した人物が、この世界でも敵になるという保証はなかった。
「九鬼の船だという証拠はありません。今分かっているのは、似た船が志摩の入り江へ入ったということだけです」
「そうだな」
一益も頷いた。
宗一郎は紙を取り出し、三つの項目を書いた。
事実。
推測。
判断。
まず、事実として記録できること。
旗のない十一隻が、淡路島の東方で目撃されたこと。
織田船への襲撃後、東へ向かった船影があったこと。
そして、志摩付近で似た船が目撃されたこと。
次に推測。
襲撃に関わった船が、志摩方面を拠点としている可能性がある。
最後に判断。
九鬼勢の関与は、現時点では確認できない。
「これでいい」
宗一郎が筆を置くと、一益は苦笑した。
「相変わらず、面倒な男だな」
「間違った相手と戦を始めるより、よほどましですよ」
宗一郎は、平然と答えた。
その時、さらに新たな報告が届いた。
今度は、高槻に協力する商人からだった。
「志摩で、鉄砲玉が買い集められております」
宗一郎の目が鋭くなった。
「いつからだ?」
「一月ほど前からでございます」
「量は?」
「一度に買われる量は多くございませぬ。ただ、何度も買い付けが行われております」
「誰が買っている?」
「漁師、船乗り、商人など、名義はばらばらにございます」
宗一郎と半兵衛が、同時に顔を上げた。
「……同じですな」
半兵衛が言った。
「ああ」
本願寺が物資を分散して購入していた時と、似たやり方だった。
もっとも、それだけで同じ者が関わっているとは言えない。
だが、今回の買い付けには、ほかにも気になる点があった。
「火薬は?」
「硝石を直接大量に買うのではなく、出来上がった火薬を少量ずつ集めているようにございます」
「縄や油はどうだ?」
「そちらも、買い付けの記録がございます」
宗一郎は立ち上がった。
「地図を広げてくれ」
机の上に、志摩、伊勢、紀伊、三河、遠江を含む地図が広げられた。
宗一郎は、海路を指でなぞっていく。
そして、三河のところで手を止めた。
「……三河か」
半兵衛も、何かに気づいたようだった。
以前、三河で織田に対する不安を煽っていた商人がいた。
その商人が利用していた船の出所は、伊勢だった。
さらに遠江では、武田について不自然な情報を売り歩いていた旅商人がいた。
その男は、自分の出身を志摩だと話していたという。
一つなら偶然かもしれない。
二つ重なっても、まだ偶然の可能性はある。
しかし、三つ、四つと重なれば、疑う理由になる。
「……線になってきたな」
宗一郎が呟いた。
だが、半兵衛は地図を見ながら、別の場所を指していた。
「宗一郎様。こちらは、いかがでしょう」
「どこだ?」
「紀伊でございます」
半兵衛の指が止まったのは、熊野だった。
◆
熊野。
その地名は、以前にも一度だけ報告に現れていた。
越前で広がった噂を調べていた時のことだ。
「熊野から伊勢へ。伊勢から三河へ。そして海路を使えば、さらに遠くまで移動できます」
半兵衛の言葉に、宗一郎は頷いた。
熊野には寺社があり、山伏がいる。
参詣者が各地から集まり、商人が物資を運び、船も出入りする。
人の行き来が多いということは、情報を運ぶにも都合がよい。
「……待てよ」
宗一郎は、古い報告書の箱を探り始めた。
一枚、また一枚と書類を取り出す。
そして、ようやく目当てのものを見つけた。
「これだ」
越前で、朝倉家の残党と一向勢が入り乱れていた頃の報告だった。
その時、高槻の者たちは、一人の不審な男を捕らえている。
男は山伏の姿をしていた。
武器も持たず、怪しい書状も持っていなかった。
尋問しても、特に有力な情報は得られなかった。
結局、疑いを裏づけるものがなく、男は放された。
しかし、その男が持っていた護符について、記録が残されていた。
「これを見てくれ」
宗一郎が差し出した紙を、半兵衛が覗き込んだ。
「……熊野」
部屋が静まり返った。
「……やられたな」
宗一郎は、低く呟いた。
「ずっと前から、見られていたのかもしれない」
越前。
京。
三河。
遠江。
そして、海。
すべてに同じ組織が関わっていると断定できるわけではない。
だが、紀伊、熊野、志摩という土地が、何らかの中継点になっている可能性は浮かび上がってきた。
半兵衛が、静かに口を開いた。
「本願寺では、ないのでしょうな」
「少なくとも、本願寺だけでは説明できない」
「毛利でも?」
「毛利がすべてを動かしているとは考えにくい」
「徳川は、いかがでしょう」
宗一郎は首を横へ振った。
「徳川が、自分と織田の仲をわざわざ壊す意味は薄い。もちろん、家康殿が何もしていないとまでは言えないけどな」
「武田ならば?」
「遠江では得をするかもしれない。でも、越前や京で起きたことまで説明するのは難しい」
候補を一つずつ検討していく。
毛利。
本願寺。
徳川。
武田。
朝倉家の残党。
旧幕府勢力。
それぞれに動機はあり得る。
しかし、どの勢力も、すべての出来事を一つにつなぐには何かが足りなかった。
朝倉残党には、これほどの海上戦力を動かす力が見えない。
旧幕府勢力なら、足利義昭が生きていた頃の動きは説明できる。
だが、活動範囲があまりにも広かった。
「では、いったい誰だ?」
一益が尋ねた。
宗一郎は、答えられなかった。
◆
同じ頃、禁裏でも、同じ地名が話題に上っていた。
「志摩か」
帝が、静かに呟いた。
「はい。旗なき船と似た船が、志摩の入り江へ入ったとの報告にございます」
老人が頭を下げた。
「九鬼か?」
「断定はできませぬ」
「……熊野はどうだ」
老人が、わずかに顔を上げた。
「熊野にございますか」
「ああ。何か変わった動きはないか」
「近頃、熊野から伊勢へ向かう山伏の数が増えております」
帝の目が細くなった。
「近頃とは、いつからだ」
「半年ほど前からにございます」
「……半年か」
帝は、しばらく考え込んだ。
足利義昭が追い詰められる前。
朝倉家が滅びる頃。
その時期から、すでに何者かが動いていた可能性がある。
「熊野に、我らの者はいるか」
「おります。深く入り込んでいる者が一名、連絡可能な者が二名にございます」
「起こすな」
老人が、意外そうに顔を上げた。
「よろしいのでございますか」
「まだ敵と決まったわけではない」
帝は、静かに答えた。
「眠らせておけ。今は外から見ればよい」
「御意」
帝は、地図へ視線を戻した。
熊野。
志摩。
伊勢。
三河。
そして、海。
幾つもの土地をつなぐ線を見つめているうちに、一つの可能性が頭をよぎった。
しかし、帝はそれを口にはしなかった。
まだ、確かめるべきことがあった。
◆
石山本願寺でも、調査は進んでいた。
「紀伊でございますか?」
教如が聞き返した。
「はい。旗なき船に乗っていた水夫の一人と似た男を、紀伊で見たという者がおります」
報告を聞いた顕如が、顔を上げた。
「どこへ向かった」
「熊野の方へ向かったとのことにございます」
「……熊野か」
顕如は、しばらく黙っていた。
教如が尋ねる。
「紀伊の門徒ではございませぬか」
「違う」
顕如は、即座に答えた。
「我らの者ならば、分かる」
高槻。
帝。
そして、本願寺。
それぞれ異なる情報網が、同じ土地へ近づき始めていた。
しかし、互いにそのことを知らない。
それぞれが、自分たちの方法で見えない敵を追っていた。
◆
安芸の毛利家にも、新たな報告が届いていた。
「襲撃に関わったと思われる船が、東へ戻っただと?」
「はい。少なくとも、目撃された船は西へ向かっておりませぬ」
毛利の重臣たちは、顔を見合わせた。
「ならば、我らへ罪を着せるつもりだったのか」
「まだ分かりませぬ」
「だが、西の船に見せかける必要があった者、ということかもしれぬな」
その言葉に、誰も反論しなかった。
毛利もまた、少しずつ疑いの向きを変え始めていた。
◆
京では、宗一郎と半兵衛が夜遅くまで調査を続けていた。
机の上には地図が広がり、周囲には報告書が積み上げられている。
「……目的だな」
宗一郎が言った。
「はい」
「どこで動いているのかは、少しずつ分かってきた。次は、何のためにやっているのかだ」
半兵衛は紙を取り、これまでの出来事を書き出した。
織田と徳川の間に疑いを生じさせる。
織田と朝廷の関係を揺さぶる。
寺社に織田への恐怖を植えつける。
毛利と織田を戦わせようとする。
書き終えた半兵衛が、顔を上げた。
「共通するものがございますな」
「ああ」
「大きな勢力が、一つにまとまることを嫌っている」
宗一郎は頷いた。
「織田が天下を取るのを嫌っている、ということでしょうか」
「それだけなら、もっと直接的な方法を選ぶんじゃないか」
宗一郎は、首を横へ振った。
「信長様の命を狙うこともできる。高槻の技術所を壊そうとすることもできる。でも、今のところ、そういう動きは目立たない」
半兵衛は、地図を見つめた。
噂。
疑い。
分断。
そして、衝突。
「……天下を乱れたままにしておきたいのでしょうか」
半兵衛が呟いた。
「もしくは、一つにまとまられると困る奴がいる」
宗一郎は、地図を指でなぞった。
その指が、紀伊で止まった。
紀伊にあるもの。
本願寺の勢力。
熊野の寺社。
山伏や商人の往来。
そして、海。
海の向こうからやって来る者たち。
宗一郎の表情が、ふと変わった。
「……待てよ」
半兵衛が顔を上げる。
「どうなされました?」
「昔の報告を持ってきてくれ」
「どの報告でございますか」
「堺の異国商人に関するものだ。南蛮との取引を調べた記録を、全部」
半兵衛が眉を寄せた。
「異国商人、でございますか?」
「そうだ。急いでくれ」
やがて、別の箱が運び込まれた。
中には、南蛮船の入港記録や、商人たちの取引に関する報告が収められていた。
堺。
平戸。
豊後。
宣教師。
商人。
火薬、硝石、絹、銀。
宗一郎は、一枚ずつ目を通していった。
そして、ある商人の記録で手を止めた。
名前は日本人のものだった。
しかし、その取引先は、堺、紀伊、伊勢、三河へと広がっている。
別の商人の記録にも、似た土地の名が並んでいた。
さらに、寺社へ寄進を行っていた者の記録にも、紀伊、三河、京という地名があった。
どれも、それだけなら不自然な取引ではない。
商人が複数の土地を行き来するのは珍しくないし、寺社への寄進も日常的に行われている。
だが、これまでの報告と重ね合わせると、気になる一致が生まれていた。
「半兵衛」
「はい」
宗一郎は、ゆっくりと顔を上げた。
「これ、日本の大名同士の争いだけじゃないかもしれない」
半兵衛の顔から、笑みが消えた。
「……どういう意味でございますか」
宗一郎は、すぐには答えなかった。
まだ証拠が足りない。
未来の歴史を知っているからこそ、思いついてしまう可能性がある。
だが、その知識は、時に判断を誤らせる。
南蛮との交易に関わる者がいるからといって、南蛮人が陰謀を企てているとは限らない。
商人も宣教師も船乗りも、それぞれ立場や目的が違う。
その違いを無視して、一つにまとめてはならない。
「……まだ何も決めない」
宗一郎は、自分に言い聞かせるように言った。
「ただ、調べる場所は絞れてきた」
「どこでございますか」
宗一郎は、地図の上へ指を置いた。
「紀伊と志摩」
そして、海の向こうへ視線を移した。
「それから、南蛮との交易路だ」
半兵衛が、静かに息を呑んだ。
調べるべき相手は、国内の大名だけではなくなった。
しかし、その可能性を確かめるためにも、今は慎重に動く必要があった。
◆
同じ頃。
紀伊国、熊野の山中。
深い森に囲まれた小さな堂に、一人の山伏が入っていった。
夜の山は静まり返り、堂の中では灯明が小さな炎を揺らしている。
すでに三人の男が待っていた。
「織田は毛利を疑ったか」
一人が尋ねた。
「一時は疑ったようだ。だが、思っていたより早く、別の可能性を調べ始めている」
「……高槻か」
「おそらくな」
男が、舌打ちした。
「あの男は、まったく邪魔だ」
別の男が、低い声で尋ねた。
「消すか?」
「いや、まだ駄目だ」
「なぜだ」
「高槻が死ねば、信長が怒る。帝も動くだろう」
男は、灯明の炎を見つめた。
「それに、高槻の仕組みは、すでにあの男一人を殺せば止まるようなものではない」
堂の中に、沈黙が落ちた。
「では、どうする」
男は、静かに答えた。
「割る」
「何をだ?」
「信長と帝をだ」
その言葉で、堂の空気が変わった。
「……可能なのか?」
「今は難しい」
「冬姫が入内する。二人の結びつきは、ますます強くなるぞ」
「だからこそだ」
男は、一枚の紙を広げた。
そこには、織田、朝廷、高槻、徳川、武田、本願寺、毛利の名が書かれ、それぞれを結ぶ線が引かれていた。
「血で結ばれる前に、その間へ疑いを差し込む」
誰も口を挟まなかった。
「もし、それでも止まらなければ?」
男は、紙の上に置いた指を動かした。
その指は、京で止まった。
「次は、海ではない」
灯明の炎が揺れた。
「京だ」
◆
やがて、一人の山伏が堂を出ていった。
深い山道を歩くその腰には、小さな袋が下がっていた。
袋の中には、一枚の銀貨が入っている。
日本の銭ではなかった。
だが、そのことを宗一郎たちは、まだ知らない。
高槻の情報網は、ようやく見えない影の輪郭へ近づき始めていた。
毛利だけでは説明できない。
本願寺でもない。
徳川や武田でも、すべてはつながらない。
旧幕府勢力だけの仕業とも考えにくい。
紀伊。
熊野。
志摩。
海を行き交う船。
商人。
山伏。
寺社。
そして、南蛮との交易。
これまで無関係に見えていた出来事が、少しずつ一本の線で結ばれようとしていた。
その正体は、まだ見えない。
だが、調べるべき場所は確実に絞られていた。
そして、影が次に狙おうとしている場所は、京だった。
そこには間もなく、一人の少女が入る。
織田信長の血を引き、鷹司家の養女となり、帝の妻となる少女。
冬姫。
歴史の大きな変革を止めようとする者たち。
そして、その変革の中心へ、自らの意思で歩み出そうとする少女。
二つの道が、京で交わろうとしていた。




