第九十八章 越えてはならぬ線
第九十八章 越えてはならぬ線
織田信長と帝。
二人の結びつきが、これ以上強固になることを許してはならない。
そう考えた者たちがいた。
これまで、織田家と朝廷を結びつけてきたのは、権威であり、制度であり、互いの利益だった。だが、間もなくそこに、決して切り離すことのできないものが加わろうとしている。
血である。
信長の娘、冬姫が帝へ嫁ぐ。
やがて二人の間に子が生まれれば、その子には皇統の血と織田家の血が流れることになる。
信長は帝の外戚となり、織田家と朝廷の関係は一代限りのものではなくなる。
それだけは阻止しなければならなかった。
婚姻を止める方法は、幾つも考えられた。
公家を説得する。反対の声を集める。京に噂を流し、朝廷の内部から婚姻を取りやめさせる。
しかし、どれも時間がかかる。
何より、帝自身が冬姫を妻に迎えると決めている以上、容易に覆るものではなかった。
ならば、もっと確実な方法がある。
婚姻そのものを不可能にしてしまえばよい。
すなわち――冬姫を殺す。
その結論に至った者たちは、自分たちが何を敵に回そうとしているのか、まだ十分には理解していなかった。
◆
紀伊国、熊野。
山深い場所に建つ小さな堂で、数人の男たちが顔を寄せ合っていた。
夜は更け、外では風が木々を揺らしている。堂内を照らすのは、仏前に置かれた灯明だけだった。
「……本当に、やるのか」
一人の男が、重苦しい沈黙を破った。
「やる」
上座に座る男が、短く答えた。
「相手は織田信長の娘だぞ。今は鷹司家の養女でもある。しかも、間もなく帝の妻となる身だ」
「分かっておる」
「分かっておるなら、考え直せ。失敗すれば、我らだけでは済まぬ」
男の声には、隠しきれない恐怖があった。
織田家の姫を殺害する。それだけでも恐ろしい罪である。まして、帝への入内を控えた姫となれば、朝廷そのものに刃を向けるに等しい。
「失敗しなければよい」
「そういう話ではない!」
思わず声を荒らげた男を、上座の男が片手を上げて制した。
「冬姫が死ねば、信長は誰を疑うと思う」
誰も答えなかった。
「本願寺か。朝廷か。公家か。それとも、婚姻に反対する別の者たちか」
男は一同を見渡し、さらに続けた。
「では、帝はどう思う。信長が娘を守れなかったと考えるかもしれぬ。逆に信長は、娘を鷹司家へ預けた結果、命を奪われたとして、朝廷を疑うかもしれぬ」
そこで、ようやく一人が気づいた。
「……姫を殺すこと自体が、目的ではないのか」
「そうだ」
上座の男は、薄く笑った。
「我らが断ち切りたいのは、信長と帝の結びつきだ。冬姫の死によって両者が疑い合えば、それでよい」
冬姫は、二人を引き裂くための刃だった。
「方法は決まっているのか」
その問いに、別の男が懐から小さな紙包みを取り出した。
「毒を使う」
「刀ではないのか」
「鷹司家の屋敷で刃を振るえば、騒ぎになる。下手人が逃げ切れる保証もない。だが、毒ならば病に見せかけられる可能性がある」
「確実なのだな」
「扱いを誤らなければな」
男たちの視線が、紙包みに集まった。
「誰が実行する」
「すでに女を一人、鷹司家へ入れてある。新参の下働きだ」
女は、まだ冬姫の身近に仕える立場ではない。しかし、台所の仕事を手伝う機会はある。
料理に使うものや器、薬などに触れる機会をうかがわせていた。
「いつだ」
「三日後。入内へ向けた正式な準備が始まり、鷹司家で祝いの膳が用意される」
上座の男は、しばらく目を閉じていた。
やがて、静かに命じた。
「やれ」
その一言で、冬姫の命を奪う計画が動き始めた。
◆
同じ頃、石山本願寺でも冬姫の婚姻について話し合われていた。
しかし、そこで交わされていた言葉は、熊野の男たちのものとは明らかに異なっていた。
「冬姫を傷つけることは、決して許さぬ」
本願寺顕如は、息子の教如へ厳しく告げた。
「ですが父上。このまま婚姻が成立すれば、織田家と朝廷は血で結ばれてしまいます」
「だからこそ、婚姻を止めるのだ。姫を殺すのではない」
「では、いかにして止めるのでございますか」
顕如の前には、京の公家、寺社、商人、そして宮中に仕える女房たちへとつながる人脈が記されていた。
顕如は、その一角を指した。
「疑念を広める」
「疑念、でございますか」
「織田の血が皇統へ入ることを、快く思わぬ者は必ずいる。表立って帝へ反対できずとも、内心では不安を抱く公家もおろう」
信長が帝の外戚となれば、武家の力が朝廷へ入り込みすぎるのではないか。
次の帝が織田家の意向に左右されるのではないか。
そうした恐れは、誰かが一から作り出さずとも、人々の胸に芽生え得るものだった。
「偽りの噂を流すのでございますか」
「嘘だけでは弱い。事実を使うのだ」
顕如は、指を折りながら語った。
「冬姫は織田信長の娘であり、鷹司家の養女となった。そして帝へ入内する。信長は武家最大の実力者であり、将軍の権威はすでに失われ、朝廷は信長へ新たな武家の役職を与えようとしている」
それらは、いずれも事実だった。
「そこへ一つ、問いを添えるだけでよい」
顕如は声を落とした。
「このままでは、朝廷は織田家のものになるのではないか、と」
教如は、しばらく黙っていた。
事実を並べ、その先にある不安を人々自身に考えさせる。
露骨な中傷よりも、はるかに厄介な方法だった。
「公家へ伝えよ。寺社にも、京の商人にも。ただし、冬姫を悪く言ってはならぬ。姫には何の罪もない」
「主上については」
「帝を直接責めることも許さぬ」
「では、何を責めるのでございますか」
「仕組みだ」
顕如は、静かに答えた。
「織田と朝廷が血で結ばれることの危うさを問うのだ。婚姻を取りやめさせることができれば、それでよい」
「もし、止まらなければ?」
その問いに、顕如はしばらく答えなかった。
やがて、重い口を開いた。
「その時は、次の手を考える」
少なくとも今、顕如は冬姫の命を奪うつもりなどなかった。
そこには、彼なりの越えてはならぬ一線があった。
◆
三日後。
京、鷹司家。
朝から屋敷は慌ただしかった。
冬姫の入内に向けた正式な準備が始まる日である。
女房たちは衣装を整え、髪を結い、飾りを選び、何度も身だしなみを確認していた。
「姫様、どうか動かないでくださいませ」
「動いておりません」
「お手が動いております」
「手くらい動かします」
「その手を止めていただきたいのでございます」
冬姫は、深いため息をついた。
「……戦へ行く方が、まだ楽なのではありませんか」
その呟きに、年長の女房がすかさず反応した。
「そのようなこと、信長様の御前では決して仰らぬように」
「分かっています」
冬姫は、不満そうに唇を尖らせた。
十四歳。
まだ遊びたい盛りである。
しかし、自分がどのような立場に置かれているのかは、理解していた。
織田信長の娘として生まれ、鷹司家の養女となり、やがて帝の妻となる。
その婚姻が、父と帝、そして天下の行く末に関わることも、幼いなりに分かっていた。
それでも、朝から何人もの女房に囲まれ、髪や衣を整えられ続ければ、少しくらい文句も言いたくなる。
そんな冬姫のために、屋敷では小さな祝いの膳が用意されていた。
◆
台所には、大勢の人が出入りしていた。
料理人、下働き、食材を運ぶ者、水を運ぶ者、膳や器を整える女房たち。
誰もが忙しく、他人の動きにいちいち注意を払う余裕はない。
その中を、一人の女が歩いていた。
鷹司家へ入って間もない下働きである。
目立たず、余計な口を利かず、言われた仕事だけをこなす。
誰の記憶にも残らないことが、彼女に与えられた役目だった。
女は水桶を持ち、台所の裏手へ回った。
人の姿がないことを確かめると、懐へ手を入れる。
取り出したのは、小さな紙包みだった。
包みを開こうとした、その時。
「それは何だ」
背後から声がした。
女の手が止まった。
振り返ると、そこには腰の曲がった老婆が立っていた。
鷹司家に長く仕えている女房で、普段は静かに働き、誰からも特別に注意を払われることのない人物だった。
「薬にございます」
女は、平静を装って答えた。
「誰の薬だ」
「私のものでございます」
「何の薬だ」
老婆の問いは、短かった。
しかし、その目は女の手元から離れない。
「……腹の薬で」
「ならば、包みをこちらへ渡せ」
女の表情が、わずかに変わった。
次の瞬間、彼女は紙包みを口へ運ぼうとした。
だが、その手は途中で止まった。
老婆が、女の手首をつかんでいたのである。
「なっ……!」
年老いた女とは思えぬ力だった。
驚いた女は、空いた手を袖へ滑り込ませ、小さな刃を抜こうとした。
しかし、刃が振るわれるより早く、老婆がその腕をねじり上げた。
「ぐっ!」
女の指から刃が落ちる。
同時に、背後から男が現れた。
つい先ほどまで薪を運んでいた下男だった。
男は女の体を押さえ、声を上げられぬよう口元を塞いだ。
「殺すな」
老婆が命じた。
「御意」
女の顔から血の気が引いた。
自分は、最初から見張られていたのだ。
老婆は、冷たい目で女を見下ろした。
「我らは主上より命を受けている。冬姫様へ手を出そうとする者は、生かして捕らえよとな」
女の目が見開かれた。
帝の影。
宮中に古くから仕え、表に姿を現さぬ者たちである。
彼らは、女が鷹司家へ入った日から見張っていた。
いや、正確には、その前からだった。
女を紹介した商人。
その商人へ口を利いた寺の者。
さらに、寺を訪れた山伏。
影は、それらのつながりを一つずつ追っていた。
すぐに捕らえなかったのは、女が何を目的としているのかを確かめるためである。
そして今、その目的は明らかになった。
「連れていけ」
老婆の命令に、男が頷いた。
女は抵抗する間もなく、屋敷の奥へと運ばれていった。
◆
冬姫は、何も知らなかった。
祝いの膳が並べられようとしたところで、突然、すべての料理と器が下げられたのである。
「……どうしたのです?」
冬姫が尋ねると、女房が頭を下げた。
「器に不備がございましたので、取り替えさせていただきます」
「全部ですか?」
「念のためにございます」
冬姫は、不思議そうに首を傾げた。
「鷹司家というのは、大変なのですね」
女房は、困ったように微笑んだ。
「……左様にございます」
冬姫は知らない。
ほんの少し前、自分の命を奪うための毒が、すぐ近くまで持ち込まれていたことを。
そして、その毒が料理へ入れられる前に取り押さえられたことを。
◆
禁裏。
帝の前には、小さな紙包みと刃物、そして捕らえられた女の供述をまとめた書付が置かれていた。
報告に訪れた老人は、深く頭を下げたまま動かない。
帝は、しばらく何も言わなかった。
やがて、最初に尋ねたのは、ただ一つだった。
「冬は、無事か」
「御無事にございます。毒は食事へ入れられる前に押さえました。冬姫様は、何も口になさっておりませぬ」
「……そうか」
帝は、一瞬だけ目を閉じた。
そのわずかな沈黙に、老人は胸を撫で下ろしかけた。
しかし、次に帝が目を開いた時、その表情からは一切の温かみが消えていた。
「誰が命じた」
「女は名を偽っております」
「それは分かっている。朕が聞いているのは、誰が命じたかだ」
声は荒くない。
だからこそ、老人には恐ろしかった。
「直接命を伝えたのは、山伏にございます。ただし、女はその者の本名を知らぬと申しております」
「嘘か」
「一部は真実かと。女を仲介した商人から寺へ、さらに山伏へとつながりがございます。その先は紀伊方面へ延びております」
「熊野か」
「その可能性が高うございます」
帝は、書付へ目を落とした。
「本願寺とのつながりは」
「今のところ、確認できておりませぬ」
「毛利は」
「同じく、ございませぬ」
「徳川は」
「確認できておりませぬ」
帝は、わずかに指を動かした。
「南蛮はどうだ」
その問いに、老人は初めて返答をためらった。
「……一つ、妙なものがございます」
老人が差し出したのは、小さな布袋だった。
中には、銀貨が入っていた。
帝は、それを手に取った。
日本の銭ではない。
「どこから出た」
「女を仲介した商人が、以前受け取った銀貨と同じ種類のものにございます」
「誰から受け取った」
「そこまでは、まだ判明しておりませぬ」
帝は、銀貨を見つめた。
異国の銀貨があるからといって、異国人が事件を命じたとは限らない。
交易によって日本へ入った銀貨が、何人もの手を経て渡った可能性もある。
しかし、無視してよい手掛かりでもなかった。
「……宗一郎を呼べ」
老人が顔を上げた。
「高槻宗一郎殿を、でございますか」
「そうだ」
「よろしいのでございますか」
帝は、老人を見た。
「冬が殺されかけた。もはや、朕一人で考える段階ではない」
そして、続けた。
「女を殺すな。山伏も商人も、捕らえられるなら生かして捕らえよ」
老人は、わずかに目を見開いた。
帝が、それを見逃すはずもなかった。
「何だ。朕が皆殺しにするとでも思ったか」
「……滅相もございませぬ」
「したいと思っている」
老人の背筋が凍った。
「冬を殺そうとした者を、一人残らず殺してやりたい」
帝の拳が、かすかに震えていた。
それは恐怖ではない。
抑え込まれた怒りだった。
「だが、今ここで殺せば、誰が後ろにいるのか分からなくなる」
帝は、銀貨を机へ置いた。
「すべて引きずり出す。誰が命じ、誰が金を出し、誰が手を貸したのか。一人も見落とすな」
「御意」
老人は、深く頭を下げた。
帝は、その姿を見ながら静かに息を吐いた。
怒りに任せて命を奪うことは、容易い。
だが、それでは冬を守れない。
帝に必要なのは、怒りを忘れることではなかった。
怒りを抱いたまま、最も確実な手を選ぶことだった。
◆
同じ頃、京では別の動きが広がっていた。
「織田の娘が、帝へ嫁ぐというのか」
「ならば、次の東宮には織田の血が流れることになるのではないか」
「信長が将軍にならぬのも、そのためではあるまいか」
「いずれ朝廷そのものを、織田家が動かすつもりなのでは……」
そんな噂が、公家屋敷や寺、茶屋、商家へと広がっていた。
誰も本願寺の名を口にしない。
しかし、語られる内容は不思議なほど似通っていた。
――このままでは、朝廷が織田家のものになる。
最初に異変を察したのは、明智光秀だった。
ある日、一人の公家が光秀のもとを訪れ、冬姫の婚姻を再考してほしいと訴えたのである。
「織田殿が帝の外戚となられれば、武家の力が禁裏へ入り込みすぎるのではないかと、案じております」
光秀は、静かに尋ねた。
「冬姫様が、何か不都合なことをなさいましたか」
「いや、そのようなことは……」
「では、主上が何か道理に外れたことをなさいましたか」
「そうではない」
「信長様が、朝廷を奪うと仰せになりましたか」
「それも、聞いてはおらぬ」
光秀は、相手をまっすぐに見つめた。
「では、何を恐れておられるのでございますか」
公家は答えられなかった。
光秀は、そこで確信した。
恐れだけが、事実に先んじて広がっている。
「どなたから、その話をお聞きになりました」
「誰からでもよいではないか」
「よくはございませぬ」
光秀の声が、わずかに厳しくなった。
「同じ話が、京の幾つもの場所で、ほぼ同時に語られ始めております。偶然とは思えませぬ」
公家は、口を閉ざした。
光秀は、それ以上追及せず、丁重に送り出した。
そして、配下へ命じた。
「噂の出所を調べよ。誰が、いつ、どこで語り始めたのかを確かめるのだ」
「本願寺の仕業でございましょうか」
「決めつけるな」
光秀は、即座に答えた。
「証拠もなく相手を定めれば、誰かの思う壺だ」
それは、宗一郎が常々口にしている考え方でもあった。
事実と推測を分ける。
そして、判断を急がない。
光秀は、静かに調査を進めさせた。
しかし、その日の夕刻。
さらに重大な知らせが届いた。
「明智様!」
使者が、息を切らせて駆け込んできた。
「冬姫様に、異変が……!」
光秀は立ち上がった。
「何があった!」
「毒を盛ろうとした者が捕らえられたとのことにございます!」
「姫様は!」
「御無事にございます!」
その答えを聞き、光秀は一瞬だけ目を閉じた。
しかし、安堵はすぐに怒りへと変わった。
「……詳しく話せ」
「詳細は、禁裏より信長様へ直接伝えられるとのことにございます」
光秀は、すぐに織田屋敷へ向かった。
◆
織田屋敷の一室には、重苦しい空気が漂っていた。
信長の前には、帝から届けられた書状が置かれている。
宗一郎、竹中半兵衛、明智光秀。
さらに、京へ戻っていた羽柴秀吉と、その後ろに控える黒田官兵衛。
誰もが、信長の言葉を待っていた。
やがて、信長が口を開いた。
「……冬が、殺されかけた」
その一言で、部屋の空気が凍りついた。
秀吉の顔から笑みが消える。
官兵衛は、目を細めた。
光秀は唇を引き結び、半兵衛は宗一郎へ視線を向けた。
宗一郎は、動かなかった。
「……冬姫様は、御無事なのですね」
ようやく、それだけを尋ねた。
「ああ。毒を口にする前に、下手人は捕らえられた」
宗一郎は、深く息を吐いた。
その瞬間だった。
信長の拳が、机へ叩きつけられた。
鈍い音が、部屋に響く。
「誰だ」
誰も答えられない。
「誰が、儂の娘に手を出した」
信長は怒鳴っていなかった。
しかし、その声に込められた怒りは、戦場で敵を前にした時よりも恐ろしかった。
光秀が、慎重に口を開いた。
「信長様。一つ、御報告がございます」
「申せ」
「この数日、京では冬姫様の婚姻に反対する噂が、急に広まっております」
「……本願寺か」
「その可能性はございます。ですが、まだ確証はございませぬ」
秀吉が、身を乗り出した。
「婚姻を妨げたい者が、姫様を狙ったのではございませぬか。ならば、石山の者どもが……」
「待ってください」
宗一郎が、その言葉を遮った。
信長の視線が、宗一郎へ向けられる。
「何だ」
「二つの出来事を、一緒にしないでください」
部屋が静まり返った。
宗一郎は、信長をまっすぐに見た。
「婚姻を止めたい者が、一つの勢力だけとは限りません。仮に本願寺が噂を広めていたとしても、それだけで冬姫様の暗殺を命じたとは言えないのです」
官兵衛の目が、わずかに動いた。
宗一郎は、地図を広げた。
紀伊、熊野、志摩、伊勢。
そこには、これまで調べてきた幾つかの不審な動きが記されていた。
「以前、船を襲った者たち。各地で不穏な噂を広めていた者たち。そして、今回冬姫様を狙った者たち。どこかでつながっている可能性があります」
「証拠はございますか」
官兵衛が尋ねた。
「まだ足りません」
「では、あくまで推測ですな」
「そうです」
宗一郎は、あっさり認めた。
「だからこそ、間違えたくないのです」
官兵衛は、わずかに口元を緩めた。
「高槻殿らしいお考えです」
宗一郎は、笑わなかった。
信長が、低い声で尋ねた。
「今、分かっていることは何だ」
「紀伊と熊野を経由する人の動き。商人、山伏、寺社とのつながり。そして、海を通じた交易です」
宗一郎は、そこで一度言葉を切った。
「さらに、南蛮との交易が関わっている可能性もあります」
「南蛮?」
秀吉が、驚いたように聞き返した。
「南蛮人が、冬姫様を殺そうとしたと?」
「違います。そこまでは言っていません」
宗一郎は、強い口調で答えた。
「南蛮人と一口に言っても、商人もいれば宣教師もいる。船乗りもいるし、国も立場も違います。交易に使われた銀貨が見つかったとしても、それだけで誰かを犯人にすることはできません」
そして、続けた。
「関わった者がいるなら、その者を見つける。それだけです」
信長は、長い間、宗一郎を見つめていた。
やがて、静かに命じた。
「見つけろ」
「はい」
「生きたまま、儂の前へ連れてこい」
宗一郎は、一瞬だけ言葉に詰まった。
目の前にいるのは、天下を目指す織田信長である。
しかし今、その目に宿っているのは、娘を殺されかけた父親の怒りだった。
「……できる限り、そのように」
「できる限り、ではない」
信長は、言い切った。
「生きたままだ。聞かねばならぬことがある」
宗一郎は、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
◆
その夜。
信長は、帝と直接会った。
同席したのは、冬姫の養父である鷹司家の当主だけだった。
冬姫の姿はない。
信長は、帝の前へ進むと、まず一つだけ尋ねた。
「冬は、本当に無事なのでございましょうな」
「ああ。毒は口へ入っていない。怪我もない」
帝の答えを聞き、信長の肩からわずかに力が抜けた。
しかし、次の瞬間には、その表情が厳しくなる。
「犯人を、こちらへ引き渡していただきたい」
「何をするつもりだ」
「お聞きになるまでもございますまい」
「殺すか」
「はい」
信長は、ためらわなかった。
帝は、その顔を静かに見つめた。
そして、短く答えた。
「駄目だ」
信長の目が鋭くなる。
「……なぜでございますか」
「朕も、殺したいからだ」
信長は、思わず言葉を失った。
帝の目に宿っていたのは、自分と同じ怒りだった。
「だが、まだ殺せぬ。誰が命じたのか、誰が金を出したのか、誰が手を貸したのか。それらをすべて明らかにするまではな」
信長は、帝を見つめた。
長い沈黙が流れた。
やがて、信長の口元がわずかに動いた。
「……主上も、父親のような顔をなさいますな」
帝は、少しだけ目を伏せた。
「まだ夫ですらない」
「それでも、でございますか」
「ああ」
帝は、迷わず答えた。
「冬は、朕が守ると決めた者だ」
その言葉を聞き、信長の表情が少し変わった。
信長は、ゆっくりと頭を下げた。
「……ならば、今はお預けいたします」
「今は、か」
「黒幕を捕らえた後は、儂にも一言、言わせていただきたい」
帝は、静かに答えた。
「朕も、一言では済まぬかもしれぬ」
鷹司は、二人の顔を交互に見た。
そして、何も言わずに天井へ視線を向けた。
天下で最も恐ろしい二人の男が、同じ少女のために怒っている。
その事実を、鷹司は誰よりも重く受け止めていた。
◆
翌朝。
冬姫は、ようやく事件のことを知らされた。
「……私が、殺されそうになったのですか」
鷹司の説明を聞き、冬姫の顔から血の気が引いた。
「ああ。だが、下手人は捕らえられた。そなたに危害は及んでおらぬ」
「毒で……?」
「そうだ」
冬姫は、自分の手を見下ろした。
指先が、小さく震えていた。
十四歳の少女である。
どれほど気丈であっても、命を狙われたと知って平然としていられるはずがなかった。
「……婚姻をやめれば」
冬姫が、かすれた声で呟いた。
「こういうことは、なくなるのでしょうか」
鷹司は、答えられなかった。
その時だった。
「分からぬ」
静かな声がした。
冬姫が振り返る。
「……主上」
帝が、そこに立っていた。
帝は冬姫の前へ進むと、向かい合うように腰を下ろした。
「婚姻をやめても、お前が信長の娘であることは変わらぬ。別の理由で狙う者が現れるかもしれない」
冬姫は、俯いた。
「……怖いです」
「そうだろうな」
「主上は、怖くないのですか」
帝は、少しだけ笑った。
「怖い」
冬姫が顔を上げた。
「お前が死ぬかと思った。とても怖かった」
帝は、その気持ちを隠さなかった。
冬姫の目から、一粒の涙がこぼれた。
帝は、そっと手を伸ばしかけた。
しかし、途中で止める。
まだ、触れてよいものか分からなかった。
その手を、冬姫が自分から取った。
帝の目が、わずかに見開かれる。
小さな手だった。
そして、震えていた。
「冬」
「……はい」
「婚姻を、やめたいか」
冬姫は、涙を拭った。
すぐには答えられなかった。
怖い。
また命を狙われるかもしれない。
次は、誰も助けてくれないかもしれない。
そんな考えが、次々と胸に浮かんでくる。
それでも、冬姫は顔を上げた。
「……やめません」
「よいのか」
「はい」
声は、まだ震えていた。
しかし、その言葉には確かな意志があった。
「殺されそうになったからといって、やめるのは嫌です」
帝は、しばらく冬姫を見つめていた。
やがて、小さく笑った。
「……父親に似ているな」
冬姫は、涙を浮かべたまま、少しだけ笑った。
「それは、褒めておられるのですか」
「半分はな」
「半分だけですか?」
「ああ。残り半分は、少々心配だ」
冬姫は、思わず笑ってしまった。
帝も、つられるように微笑んだ。
ほんの短い時間だった。
しかし、二人にとって、その笑顔は何よりも大切なものになった。
◆
暗殺は失敗した。
熊野で計画を立てた者たちが本当に壊したかったのは、冬姫の命だけではない。
帝と冬姫の婚姻。
そして、織田家と朝廷の結びつきだった。
だが、結果は彼らの思惑とは逆になった。
信長は、娘を守ろうとする帝の覚悟を知った。
帝は、娘を案じる信長の怒りを知った。
そして冬姫自身が、恐怖を抱えながらも婚姻を望んだ。
二人の結びつきは、壊れるどころか、さらに強くなったのである。
一方、京では、光秀による噂の調査が進んでいた。
寺、茶屋、商人、公家の家人。
語られた言葉と、それを伝えた者たちを一つずつたどるうち、やがて情報の流れは石山本願寺へと向かい始めた。
しかし、冬姫の暗殺を企てた者たちの足跡は、紀伊の熊野へと延びている。
二つの陰謀。
一つは、冬姫の命を奪おうとした。
もう一つは、婚姻への不安を広め、朝廷と織田家の結びつきを妨げようとした。
目的は似ている。
だが、今のところ、両者を同じ者が動かしているという証拠はない。
その違いを見誤れば、怒りは無関係な者へ向けられ、戦は誤った相手との間に始まってしまう。
宗一郎も、光秀も、帝も、それぞれ別の場所で同じ結論に至っていた。
事実と推測を混同してはならない。
敵を見誤ってはならない。
だが、一つだけ、もはや疑いようのない事実があった。
何者かが、冬姫を殺そうとした。
帝にとって、それは越えてはならぬ一線だった。
そして、信長にとっても同じだった。
その線を越えた者たちは、まだ知らない。
自分たちが、決して同時に敵へ回してはならない二人の男を、本気で怒らせてしまったことを。




