↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『天下布武、その先へ』―転生者と織田信長が拓いた、誰も知らない日本史―  作者: みなみ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
103/141

第九十八章 越えてはならぬ線

第九十八章 越えてはならぬ線


 織田信長と帝。


 二人の結びつきが、これ以上強固になることを許してはならない。


 そう考えた者たちがいた。


 これまで、織田家と朝廷を結びつけてきたのは、権威であり、制度であり、互いの利益だった。だが、間もなくそこに、決して切り離すことのできないものが加わろうとしている。


 血である。


 信長の娘、冬姫が帝へ嫁ぐ。


 やがて二人の間に子が生まれれば、その子には皇統の血と織田家の血が流れることになる。


 信長は帝の外戚となり、織田家と朝廷の関係は一代限りのものではなくなる。


 それだけは阻止しなければならなかった。


 婚姻を止める方法は、幾つも考えられた。


 公家を説得する。反対の声を集める。京に噂を流し、朝廷の内部から婚姻を取りやめさせる。


 しかし、どれも時間がかかる。


 何より、帝自身が冬姫を妻に迎えると決めている以上、容易に覆るものではなかった。


 ならば、もっと確実な方法がある。


 婚姻そのものを不可能にしてしまえばよい。


 すなわち――冬姫を殺す。


 その結論に至った者たちは、自分たちが何を敵に回そうとしているのか、まだ十分には理解していなかった。


     ◆


 紀伊国、熊野。


 山深い場所に建つ小さな堂で、数人の男たちが顔を寄せ合っていた。


 夜は更け、外では風が木々を揺らしている。堂内を照らすのは、仏前に置かれた灯明だけだった。


「……本当に、やるのか」


 一人の男が、重苦しい沈黙を破った。


「やる」


 上座に座る男が、短く答えた。


「相手は織田信長の娘だぞ。今は鷹司家の養女でもある。しかも、間もなく帝の妻となる身だ」


「分かっておる」


「分かっておるなら、考え直せ。失敗すれば、我らだけでは済まぬ」


 男の声には、隠しきれない恐怖があった。


 織田家の姫を殺害する。それだけでも恐ろしい罪である。まして、帝への入内を控えた姫となれば、朝廷そのものに刃を向けるに等しい。


「失敗しなければよい」


「そういう話ではない!」


 思わず声を荒らげた男を、上座の男が片手を上げて制した。


「冬姫が死ねば、信長は誰を疑うと思う」


 誰も答えなかった。


「本願寺か。朝廷か。公家か。それとも、婚姻に反対する別の者たちか」


 男は一同を見渡し、さらに続けた。


「では、帝はどう思う。信長が娘を守れなかったと考えるかもしれぬ。逆に信長は、娘を鷹司家へ預けた結果、命を奪われたとして、朝廷を疑うかもしれぬ」


 そこで、ようやく一人が気づいた。


「……姫を殺すこと自体が、目的ではないのか」


「そうだ」


 上座の男は、薄く笑った。


「我らが断ち切りたいのは、信長と帝の結びつきだ。冬姫の死によって両者が疑い合えば、それでよい」


 冬姫は、二人を引き裂くための刃だった。


「方法は決まっているのか」


 その問いに、別の男が懐から小さな紙包みを取り出した。


「毒を使う」


「刀ではないのか」


「鷹司家の屋敷で刃を振るえば、騒ぎになる。下手人が逃げ切れる保証もない。だが、毒ならば病に見せかけられる可能性がある」


「確実なのだな」


「扱いを誤らなければな」


 男たちの視線が、紙包みに集まった。


「誰が実行する」


「すでに女を一人、鷹司家へ入れてある。新参の下働きだ」


 女は、まだ冬姫の身近に仕える立場ではない。しかし、台所の仕事を手伝う機会はある。


 料理に使うものや器、薬などに触れる機会をうかがわせていた。


「いつだ」


「三日後。入内へ向けた正式な準備が始まり、鷹司家で祝いの膳が用意される」


 上座の男は、しばらく目を閉じていた。


 やがて、静かに命じた。


「やれ」


 その一言で、冬姫の命を奪う計画が動き始めた。


     ◆


 同じ頃、石山本願寺でも冬姫の婚姻について話し合われていた。


 しかし、そこで交わされていた言葉は、熊野の男たちのものとは明らかに異なっていた。


「冬姫を傷つけることは、決して許さぬ」


 本願寺顕如は、息子の教如へ厳しく告げた。


「ですが父上。このまま婚姻が成立すれば、織田家と朝廷は血で結ばれてしまいます」


「だからこそ、婚姻を止めるのだ。姫を殺すのではない」


「では、いかにして止めるのでございますか」


 顕如の前には、京の公家、寺社、商人、そして宮中に仕える女房たちへとつながる人脈が記されていた。


 顕如は、その一角を指した。


「疑念を広める」


「疑念、でございますか」


「織田の血が皇統へ入ることを、快く思わぬ者は必ずいる。表立って帝へ反対できずとも、内心では不安を抱く公家もおろう」


 信長が帝の外戚となれば、武家の力が朝廷へ入り込みすぎるのではないか。


 次の帝が織田家の意向に左右されるのではないか。


 そうした恐れは、誰かが一から作り出さずとも、人々の胸に芽生え得るものだった。


「偽りの噂を流すのでございますか」


「嘘だけでは弱い。事実を使うのだ」


 顕如は、指を折りながら語った。


「冬姫は織田信長の娘であり、鷹司家の養女となった。そして帝へ入内する。信長は武家最大の実力者であり、将軍の権威はすでに失われ、朝廷は信長へ新たな武家の役職を与えようとしている」


 それらは、いずれも事実だった。


「そこへ一つ、問いを添えるだけでよい」


 顕如は声を落とした。


「このままでは、朝廷は織田家のものになるのではないか、と」


 教如は、しばらく黙っていた。


 事実を並べ、その先にある不安を人々自身に考えさせる。


 露骨な中傷よりも、はるかに厄介な方法だった。


「公家へ伝えよ。寺社にも、京の商人にも。ただし、冬姫を悪く言ってはならぬ。姫には何の罪もない」


「主上については」


「帝を直接責めることも許さぬ」


「では、何を責めるのでございますか」


「仕組みだ」


 顕如は、静かに答えた。


「織田と朝廷が血で結ばれることの危うさを問うのだ。婚姻を取りやめさせることができれば、それでよい」


「もし、止まらなければ?」


 その問いに、顕如はしばらく答えなかった。


 やがて、重い口を開いた。


「その時は、次の手を考える」


 少なくとも今、顕如は冬姫の命を奪うつもりなどなかった。


 そこには、彼なりの越えてはならぬ一線があった。


     ◆


 三日後。


 京、鷹司家。


 朝から屋敷は慌ただしかった。


 冬姫の入内に向けた正式な準備が始まる日である。


 女房たちは衣装を整え、髪を結い、飾りを選び、何度も身だしなみを確認していた。


「姫様、どうか動かないでくださいませ」


「動いておりません」


「お手が動いております」


「手くらい動かします」


「その手を止めていただきたいのでございます」


 冬姫は、深いため息をついた。


「……戦へ行く方が、まだ楽なのではありませんか」


 その呟きに、年長の女房がすかさず反応した。


「そのようなこと、信長様の御前では決して仰らぬように」


「分かっています」


 冬姫は、不満そうに唇を尖らせた。


 十四歳。


 まだ遊びたい盛りである。


 しかし、自分がどのような立場に置かれているのかは、理解していた。


 織田信長の娘として生まれ、鷹司家の養女となり、やがて帝の妻となる。


 その婚姻が、父と帝、そして天下の行く末に関わることも、幼いなりに分かっていた。


 それでも、朝から何人もの女房に囲まれ、髪や衣を整えられ続ければ、少しくらい文句も言いたくなる。


 そんな冬姫のために、屋敷では小さな祝いの膳が用意されていた。


     ◆


 台所には、大勢の人が出入りしていた。


 料理人、下働き、食材を運ぶ者、水を運ぶ者、膳や器を整える女房たち。


 誰もが忙しく、他人の動きにいちいち注意を払う余裕はない。


 その中を、一人の女が歩いていた。


 鷹司家へ入って間もない下働きである。


 目立たず、余計な口を利かず、言われた仕事だけをこなす。


 誰の記憶にも残らないことが、彼女に与えられた役目だった。


 女は水桶を持ち、台所の裏手へ回った。


 人の姿がないことを確かめると、懐へ手を入れる。


 取り出したのは、小さな紙包みだった。


 包みを開こうとした、その時。


「それは何だ」


 背後から声がした。


 女の手が止まった。


 振り返ると、そこには腰の曲がった老婆が立っていた。


 鷹司家に長く仕えている女房で、普段は静かに働き、誰からも特別に注意を払われることのない人物だった。


「薬にございます」


 女は、平静を装って答えた。


「誰の薬だ」


「私のものでございます」


「何の薬だ」


 老婆の問いは、短かった。


 しかし、その目は女の手元から離れない。


「……腹の薬で」


「ならば、包みをこちらへ渡せ」


 女の表情が、わずかに変わった。


 次の瞬間、彼女は紙包みを口へ運ぼうとした。


 だが、その手は途中で止まった。


 老婆が、女の手首をつかんでいたのである。


「なっ……!」


 年老いた女とは思えぬ力だった。


 驚いた女は、空いた手を袖へ滑り込ませ、小さな刃を抜こうとした。


 しかし、刃が振るわれるより早く、老婆がその腕をねじり上げた。


「ぐっ!」


 女の指から刃が落ちる。


 同時に、背後から男が現れた。


 つい先ほどまで薪を運んでいた下男だった。


 男は女の体を押さえ、声を上げられぬよう口元を塞いだ。


「殺すな」


 老婆が命じた。


「御意」


 女の顔から血の気が引いた。


 自分は、最初から見張られていたのだ。


 老婆は、冷たい目で女を見下ろした。


「我らは主上より命を受けている。冬姫様へ手を出そうとする者は、生かして捕らえよとな」


 女の目が見開かれた。


 帝の影。


 宮中に古くから仕え、表に姿を現さぬ者たちである。


 彼らは、女が鷹司家へ入った日から見張っていた。


 いや、正確には、その前からだった。


 女を紹介した商人。


 その商人へ口を利いた寺の者。


 さらに、寺を訪れた山伏。


 影は、それらのつながりを一つずつ追っていた。


 すぐに捕らえなかったのは、女が何を目的としているのかを確かめるためである。


 そして今、その目的は明らかになった。


「連れていけ」


 老婆の命令に、男が頷いた。


 女は抵抗する間もなく、屋敷の奥へと運ばれていった。


     ◆


 冬姫は、何も知らなかった。


 祝いの膳が並べられようとしたところで、突然、すべての料理と器が下げられたのである。


「……どうしたのです?」


 冬姫が尋ねると、女房が頭を下げた。


「器に不備がございましたので、取り替えさせていただきます」


「全部ですか?」


「念のためにございます」


 冬姫は、不思議そうに首を傾げた。


「鷹司家というのは、大変なのですね」


 女房は、困ったように微笑んだ。


「……左様にございます」


 冬姫は知らない。


 ほんの少し前、自分の命を奪うための毒が、すぐ近くまで持ち込まれていたことを。


 そして、その毒が料理へ入れられる前に取り押さえられたことを。


     ◆


 禁裏。


 帝の前には、小さな紙包みと刃物、そして捕らえられた女の供述をまとめた書付が置かれていた。


 報告に訪れた老人は、深く頭を下げたまま動かない。


 帝は、しばらく何も言わなかった。


 やがて、最初に尋ねたのは、ただ一つだった。


「冬は、無事か」


「御無事にございます。毒は食事へ入れられる前に押さえました。冬姫様は、何も口になさっておりませぬ」


「……そうか」


 帝は、一瞬だけ目を閉じた。


 そのわずかな沈黙に、老人は胸を撫で下ろしかけた。


 しかし、次に帝が目を開いた時、その表情からは一切の温かみが消えていた。


「誰が命じた」


「女は名を偽っております」


「それは分かっている。朕が聞いているのは、誰が命じたかだ」


 声は荒くない。


 だからこそ、老人には恐ろしかった。


「直接命を伝えたのは、山伏にございます。ただし、女はその者の本名を知らぬと申しております」


「嘘か」


「一部は真実かと。女を仲介した商人から寺へ、さらに山伏へとつながりがございます。その先は紀伊方面へ延びております」


「熊野か」


「その可能性が高うございます」


 帝は、書付へ目を落とした。


「本願寺とのつながりは」


「今のところ、確認できておりませぬ」


「毛利は」


「同じく、ございませぬ」


「徳川は」


「確認できておりませぬ」


 帝は、わずかに指を動かした。


「南蛮はどうだ」


 その問いに、老人は初めて返答をためらった。


「……一つ、妙なものがございます」


 老人が差し出したのは、小さな布袋だった。


 中には、銀貨が入っていた。


 帝は、それを手に取った。


 日本の銭ではない。


「どこから出た」


「女を仲介した商人が、以前受け取った銀貨と同じ種類のものにございます」


「誰から受け取った」


「そこまでは、まだ判明しておりませぬ」


 帝は、銀貨を見つめた。


 異国の銀貨があるからといって、異国人が事件を命じたとは限らない。


 交易によって日本へ入った銀貨が、何人もの手を経て渡った可能性もある。


 しかし、無視してよい手掛かりでもなかった。


「……宗一郎を呼べ」


 老人が顔を上げた。


「高槻宗一郎殿を、でございますか」


「そうだ」


「よろしいのでございますか」


 帝は、老人を見た。


「冬が殺されかけた。もはや、朕一人で考える段階ではない」


 そして、続けた。


「女を殺すな。山伏も商人も、捕らえられるなら生かして捕らえよ」


 老人は、わずかに目を見開いた。


 帝が、それを見逃すはずもなかった。


「何だ。朕が皆殺しにするとでも思ったか」


「……滅相もございませぬ」


「したいと思っている」


 老人の背筋が凍った。


「冬を殺そうとした者を、一人残らず殺してやりたい」


 帝の拳が、かすかに震えていた。


 それは恐怖ではない。


 抑え込まれた怒りだった。


「だが、今ここで殺せば、誰が後ろにいるのか分からなくなる」


 帝は、銀貨を机へ置いた。


「すべて引きずり出す。誰が命じ、誰が金を出し、誰が手を貸したのか。一人も見落とすな」


「御意」


 老人は、深く頭を下げた。


 帝は、その姿を見ながら静かに息を吐いた。


 怒りに任せて命を奪うことは、容易い。


 だが、それでは冬を守れない。


 帝に必要なのは、怒りを忘れることではなかった。


 怒りを抱いたまま、最も確実な手を選ぶことだった。


     ◆


 同じ頃、京では別の動きが広がっていた。


「織田の娘が、帝へ嫁ぐというのか」


「ならば、次の東宮には織田の血が流れることになるのではないか」


「信長が将軍にならぬのも、そのためではあるまいか」


「いずれ朝廷そのものを、織田家が動かすつもりなのでは……」


 そんな噂が、公家屋敷や寺、茶屋、商家へと広がっていた。


 誰も本願寺の名を口にしない。


 しかし、語られる内容は不思議なほど似通っていた。


 ――このままでは、朝廷が織田家のものになる。


 最初に異変を察したのは、明智光秀だった。


 ある日、一人の公家が光秀のもとを訪れ、冬姫の婚姻を再考してほしいと訴えたのである。


「織田殿が帝の外戚となられれば、武家の力が禁裏へ入り込みすぎるのではないかと、案じております」


 光秀は、静かに尋ねた。


「冬姫様が、何か不都合なことをなさいましたか」


「いや、そのようなことは……」


「では、主上が何か道理に外れたことをなさいましたか」


「そうではない」


「信長様が、朝廷を奪うと仰せになりましたか」


「それも、聞いてはおらぬ」


 光秀は、相手をまっすぐに見つめた。


「では、何を恐れておられるのでございますか」


 公家は答えられなかった。


 光秀は、そこで確信した。


 恐れだけが、事実に先んじて広がっている。


「どなたから、その話をお聞きになりました」


「誰からでもよいではないか」


「よくはございませぬ」


 光秀の声が、わずかに厳しくなった。


「同じ話が、京の幾つもの場所で、ほぼ同時に語られ始めております。偶然とは思えませぬ」


 公家は、口を閉ざした。


 光秀は、それ以上追及せず、丁重に送り出した。


 そして、配下へ命じた。


「噂の出所を調べよ。誰が、いつ、どこで語り始めたのかを確かめるのだ」


「本願寺の仕業でございましょうか」


「決めつけるな」


 光秀は、即座に答えた。


「証拠もなく相手を定めれば、誰かの思う壺だ」


 それは、宗一郎が常々口にしている考え方でもあった。


 事実と推測を分ける。


 そして、判断を急がない。


 光秀は、静かに調査を進めさせた。


 しかし、その日の夕刻。


 さらに重大な知らせが届いた。


「明智様!」


 使者が、息を切らせて駆け込んできた。


「冬姫様に、異変が……!」


 光秀は立ち上がった。


「何があった!」


「毒を盛ろうとした者が捕らえられたとのことにございます!」


「姫様は!」


「御無事にございます!」


 その答えを聞き、光秀は一瞬だけ目を閉じた。


 しかし、安堵はすぐに怒りへと変わった。


「……詳しく話せ」


「詳細は、禁裏より信長様へ直接伝えられるとのことにございます」


 光秀は、すぐに織田屋敷へ向かった。


     ◆


 織田屋敷の一室には、重苦しい空気が漂っていた。


 信長の前には、帝から届けられた書状が置かれている。


 宗一郎、竹中半兵衛、明智光秀。


 さらに、京へ戻っていた羽柴秀吉と、その後ろに控える黒田官兵衛。


 誰もが、信長の言葉を待っていた。


 やがて、信長が口を開いた。


「……冬が、殺されかけた」


 その一言で、部屋の空気が凍りついた。


 秀吉の顔から笑みが消える。


 官兵衛は、目を細めた。


 光秀は唇を引き結び、半兵衛は宗一郎へ視線を向けた。


 宗一郎は、動かなかった。


「……冬姫様は、御無事なのですね」


 ようやく、それだけを尋ねた。


「ああ。毒を口にする前に、下手人は捕らえられた」


 宗一郎は、深く息を吐いた。


 その瞬間だった。


 信長の拳が、机へ叩きつけられた。


 鈍い音が、部屋に響く。


「誰だ」


 誰も答えられない。


「誰が、儂の娘に手を出した」


 信長は怒鳴っていなかった。


 しかし、その声に込められた怒りは、戦場で敵を前にした時よりも恐ろしかった。


 光秀が、慎重に口を開いた。


「信長様。一つ、御報告がございます」


「申せ」


「この数日、京では冬姫様の婚姻に反対する噂が、急に広まっております」


「……本願寺か」


「その可能性はございます。ですが、まだ確証はございませぬ」


 秀吉が、身を乗り出した。


「婚姻を妨げたい者が、姫様を狙ったのではございませぬか。ならば、石山の者どもが……」


「待ってください」


 宗一郎が、その言葉を遮った。


 信長の視線が、宗一郎へ向けられる。


「何だ」


「二つの出来事を、一緒にしないでください」


 部屋が静まり返った。


 宗一郎は、信長をまっすぐに見た。


「婚姻を止めたい者が、一つの勢力だけとは限りません。仮に本願寺が噂を広めていたとしても、それだけで冬姫様の暗殺を命じたとは言えないのです」


 官兵衛の目が、わずかに動いた。


 宗一郎は、地図を広げた。


 紀伊、熊野、志摩、伊勢。


 そこには、これまで調べてきた幾つかの不審な動きが記されていた。


「以前、船を襲った者たち。各地で不穏な噂を広めていた者たち。そして、今回冬姫様を狙った者たち。どこかでつながっている可能性があります」


「証拠はございますか」


 官兵衛が尋ねた。


「まだ足りません」


「では、あくまで推測ですな」


「そうです」


 宗一郎は、あっさり認めた。


「だからこそ、間違えたくないのです」


 官兵衛は、わずかに口元を緩めた。


「高槻殿らしいお考えです」


 宗一郎は、笑わなかった。


 信長が、低い声で尋ねた。


「今、分かっていることは何だ」


「紀伊と熊野を経由する人の動き。商人、山伏、寺社とのつながり。そして、海を通じた交易です」


 宗一郎は、そこで一度言葉を切った。


「さらに、南蛮との交易が関わっている可能性もあります」


「南蛮?」


 秀吉が、驚いたように聞き返した。


「南蛮人が、冬姫様を殺そうとしたと?」


「違います。そこまでは言っていません」


 宗一郎は、強い口調で答えた。


「南蛮人と一口に言っても、商人もいれば宣教師もいる。船乗りもいるし、国も立場も違います。交易に使われた銀貨が見つかったとしても、それだけで誰かを犯人にすることはできません」


 そして、続けた。


「関わった者がいるなら、その者を見つける。それだけです」


 信長は、長い間、宗一郎を見つめていた。


 やがて、静かに命じた。


「見つけろ」


「はい」


「生きたまま、儂の前へ連れてこい」


 宗一郎は、一瞬だけ言葉に詰まった。


 目の前にいるのは、天下を目指す織田信長である。


 しかし今、その目に宿っているのは、娘を殺されかけた父親の怒りだった。


「……できる限り、そのように」


「できる限り、ではない」


 信長は、言い切った。


「生きたままだ。聞かねばならぬことがある」


 宗一郎は、深く頭を下げた。


「承知いたしました」


     ◆


 その夜。


 信長は、帝と直接会った。


 同席したのは、冬姫の養父である鷹司家の当主だけだった。


 冬姫の姿はない。


 信長は、帝の前へ進むと、まず一つだけ尋ねた。


「冬は、本当に無事なのでございましょうな」


「ああ。毒は口へ入っていない。怪我もない」


 帝の答えを聞き、信長の肩からわずかに力が抜けた。


 しかし、次の瞬間には、その表情が厳しくなる。


「犯人を、こちらへ引き渡していただきたい」


「何をするつもりだ」


「お聞きになるまでもございますまい」


「殺すか」


「はい」


 信長は、ためらわなかった。


 帝は、その顔を静かに見つめた。


 そして、短く答えた。


「駄目だ」


 信長の目が鋭くなる。


「……なぜでございますか」


「朕も、殺したいからだ」


 信長は、思わず言葉を失った。


 帝の目に宿っていたのは、自分と同じ怒りだった。


「だが、まだ殺せぬ。誰が命じたのか、誰が金を出したのか、誰が手を貸したのか。それらをすべて明らかにするまではな」


 信長は、帝を見つめた。


 長い沈黙が流れた。


 やがて、信長の口元がわずかに動いた。


「……主上も、父親のような顔をなさいますな」


 帝は、少しだけ目を伏せた。


「まだ夫ですらない」


「それでも、でございますか」


「ああ」


 帝は、迷わず答えた。


「冬は、朕が守ると決めた者だ」


 その言葉を聞き、信長の表情が少し変わった。


 信長は、ゆっくりと頭を下げた。


「……ならば、今はお預けいたします」


「今は、か」


「黒幕を捕らえた後は、儂にも一言、言わせていただきたい」


 帝は、静かに答えた。


「朕も、一言では済まぬかもしれぬ」


 鷹司は、二人の顔を交互に見た。


 そして、何も言わずに天井へ視線を向けた。


 天下で最も恐ろしい二人の男が、同じ少女のために怒っている。


 その事実を、鷹司は誰よりも重く受け止めていた。


     ◆


 翌朝。


 冬姫は、ようやく事件のことを知らされた。


「……私が、殺されそうになったのですか」


 鷹司の説明を聞き、冬姫の顔から血の気が引いた。


「ああ。だが、下手人は捕らえられた。そなたに危害は及んでおらぬ」


「毒で……?」


「そうだ」


 冬姫は、自分の手を見下ろした。


 指先が、小さく震えていた。


 十四歳の少女である。


 どれほど気丈であっても、命を狙われたと知って平然としていられるはずがなかった。


「……婚姻をやめれば」


 冬姫が、かすれた声で呟いた。


「こういうことは、なくなるのでしょうか」


 鷹司は、答えられなかった。


 その時だった。


「分からぬ」


 静かな声がした。


 冬姫が振り返る。


「……主上」


 帝が、そこに立っていた。


 帝は冬姫の前へ進むと、向かい合うように腰を下ろした。


「婚姻をやめても、お前が信長の娘であることは変わらぬ。別の理由で狙う者が現れるかもしれない」


 冬姫は、俯いた。


「……怖いです」


「そうだろうな」


「主上は、怖くないのですか」


 帝は、少しだけ笑った。


「怖い」


 冬姫が顔を上げた。


「お前が死ぬかと思った。とても怖かった」


 帝は、その気持ちを隠さなかった。


 冬姫の目から、一粒の涙がこぼれた。


 帝は、そっと手を伸ばしかけた。


 しかし、途中で止める。


 まだ、触れてよいものか分からなかった。


 その手を、冬姫が自分から取った。


 帝の目が、わずかに見開かれる。


 小さな手だった。


 そして、震えていた。


「冬」


「……はい」


「婚姻を、やめたいか」


 冬姫は、涙を拭った。


 すぐには答えられなかった。


 怖い。


 また命を狙われるかもしれない。


 次は、誰も助けてくれないかもしれない。


 そんな考えが、次々と胸に浮かんでくる。


 それでも、冬姫は顔を上げた。


「……やめません」


「よいのか」


「はい」


 声は、まだ震えていた。


 しかし、その言葉には確かな意志があった。


「殺されそうになったからといって、やめるのは嫌です」


 帝は、しばらく冬姫を見つめていた。


 やがて、小さく笑った。


「……父親に似ているな」


 冬姫は、涙を浮かべたまま、少しだけ笑った。


「それは、褒めておられるのですか」


「半分はな」


「半分だけですか?」


「ああ。残り半分は、少々心配だ」


 冬姫は、思わず笑ってしまった。


 帝も、つられるように微笑んだ。


 ほんの短い時間だった。


 しかし、二人にとって、その笑顔は何よりも大切なものになった。


     ◆


 暗殺は失敗した。


 熊野で計画を立てた者たちが本当に壊したかったのは、冬姫の命だけではない。


 帝と冬姫の婚姻。


 そして、織田家と朝廷の結びつきだった。


 だが、結果は彼らの思惑とは逆になった。


 信長は、娘を守ろうとする帝の覚悟を知った。


 帝は、娘を案じる信長の怒りを知った。


 そして冬姫自身が、恐怖を抱えながらも婚姻を望んだ。


 二人の結びつきは、壊れるどころか、さらに強くなったのである。


 一方、京では、光秀による噂の調査が進んでいた。


 寺、茶屋、商人、公家の家人。


 語られた言葉と、それを伝えた者たちを一つずつたどるうち、やがて情報の流れは石山本願寺へと向かい始めた。


 しかし、冬姫の暗殺を企てた者たちの足跡は、紀伊の熊野へと延びている。


 二つの陰謀。


 一つは、冬姫の命を奪おうとした。


 もう一つは、婚姻への不安を広め、朝廷と織田家の結びつきを妨げようとした。


 目的は似ている。


 だが、今のところ、両者を同じ者が動かしているという証拠はない。


 その違いを見誤れば、怒りは無関係な者へ向けられ、戦は誤った相手との間に始まってしまう。


 宗一郎も、光秀も、帝も、それぞれ別の場所で同じ結論に至っていた。


 事実と推測を混同してはならない。


 敵を見誤ってはならない。


 だが、一つだけ、もはや疑いようのない事実があった。


 何者かが、冬姫を殺そうとした。


 帝にとって、それは越えてはならぬ一線だった。


 そして、信長にとっても同じだった。


 その線を越えた者たちは、まだ知らない。


 自分たちが、決して同時に敵へ回してはならない二人の男を、本気で怒らせてしまったことを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。