第九十九章 虎の尾
第九十九章 虎の尾
虎の尾を踏んだ。
それだけなら、まだ逃げられたのかもしれない。
だが、彼らが踏んだ虎は一頭ではなかった。
織田信長。
そして――帝。
しかも二人が、最も触れてはならぬと思っているものへ手を出した。
冬姫。
信長の娘であり、帝が「守る」と決めた少女。
それを政治の道具として殺そうとした。
戦ならば、まだ逃げ道はある。
城へ籠もることもできる。山へ逃げることもできる。降伏することさえできる。
だが、これから始まるものに戦場はなかった。
静かに人を辿り、金を辿り、船を辿り、最後の一人まで引きずり出す。
待っているのは――地獄の沙汰だった。
◆
禁裏。
夜はすでに深かった。
帝の前に、一人の老人と二人の男が膝をついている。
いずれも名を名乗らない。
必要がないからだ。
彼らは、帝の古き影。
帝の前には、冬姫暗殺未遂に関する報告が並べられていた。
捕らえた女。
女を鷹司家へ紹介した商人。
その商人へ口を利いた寺の者。
寺へ出入りしていた山伏。
紀伊。
熊野。
志摩。
そして、南蛮との交易で使われている銀貨。
「女は何を話した」
帝が尋ねた。
「命を伝えた男について、顔、声、背丈、癖。覚えている限りを聞き取りました。ただし、名は知らぬと申しております」
「嘘か」
「一部は真実かと」
帝は表情を変えなかった。
「商人は」
「すでに見張っております」
「こちらに気づいているか」
「いいえ」
「ならば、まだ捕らえるな」
老人が僅かに顔を上げた。
「泳がせるのでございますか」
「ああ」
帝の指が、地図の上をゆっくりと動いた。
「逃げるなら、逃げさせろ。助けを求めるなら、求めさせろ。人は追い詰められた時、自分が最も頼りにしている場所へ向かう」
「御意」
「ただし――」
帝の声から温度が消えた。
「一人も見失うな」
老人が深く頭を下げる。
「どこまで辿りましょう」
「全部だ」
帝は即答した。
「毒を用意した者。運んだ者。女を紹介した者。屋敷へ入れるために口を利いた者。金を出した者。船を貸した者。匿った者。命令を伝えた者。そして――命じた者」
そこまで言ってから、帝は一度言葉を切った。
「ただし、知らずに利用された者は分けよ」
老人の目が僅かに動いた。
「知って与した者と、何も知らず使われた者を同じにするな。朕が欲しいのは無関係な者の首ではない」
そして帝は、銀貨を手に取った。
「だが、冬を殺すと知りながら、一指でも貸した者は別だ」
静かな声だった。
だからこそ恐ろしかった。
「ただでは済まさぬ」
「御意」
「もう一つ。本願寺の工作と混ぜるな」
「本願寺も婚姻を壊そうとしております」
「分かっている」
帝は銀貨を置いた。
「婚姻を壊そうとしたことと、冬を殺そうとしたことは別の罪だ。そこを混ぜれば、本当の敵を見失う」
怒っている。
誰よりも怒っている。
だからこそ、帝は分けた。
感情で敵を増やすのではない。
本当に冬姫を殺そうとした者だけを、一人残らず引きずり出す。
それが玉座に座る者の怒りだった。
◆
同じ頃。
織田屋敷にも、主だった者たちが集められていた。
丹羽長秀。
滝川一益。
明智光秀。
羽柴秀吉。
高槻宗一郎。
竹中半兵衛。
そして秀吉の後ろには、黒田官兵衛がいる。
柴田勝家は越前を離れられない。代わりに、いつでも兵を動かせるよう使者が走っていた。
机の中央には、紀伊から京までの地図が広げられている。
「兵を出す」
信長が言った。
宗一郎がすぐに首を振った。
「まだです」
部屋の空気が張り詰めた。
娘を殺されかけた父親へ、待てと言ったのだ。
だが信長は怒鳴らなかった。
「理由を申せ」
「今、兵を動かせば逃げます」
宗一郎は地図を指した。
「向こうは暗殺が失敗したことを知っている。女が捕らえられたことも、いずれ知るでしょう。でも、こちらがどこまで掴んでいるかまでは分からない」
半兵衛が頷く。
「ならば、知らぬふりをする」
「そうです」
宗一郎は続けた。
「女を捕らえたことは隠し切れなくても、女が何を話したかは隠せる。相手が逃げれば、その先に仲間がいる。金を動かせば、金の先に誰かがいる。船に乗れば、船を用意した者がいる」
官兵衛が地図を見ながら呟いた。
「逃げる者を追うのではなく、逃げた先を見る」
「そういうこと」
「嫌なやり方ですな」
宗一郎が官兵衛を見る。
「官兵衛にだけは言われたくない」
秀吉の口元が一瞬だけ緩んだ。
だが信長の視線を受け、すぐ真顔へ戻る。
「一益」
「はっ」
「海を見ろ。紀伊、志摩、淡路。逃げる船がないか調べよ。ただし、まだ止めるな」
「御意」
「丹羽」
「は」
「堺を洗え。銀の流れ、船の手配、南蛮との交易。特に普段と違う金の動きを探せ」
「承知」
「光秀」
「はっ」
「京だ。本願寺が流した噂と、暗殺の線を分けろ。寺も公家も商人も見る。ただし決めつけるな」
「御意」
「秀吉」
「は」
「紀伊へ繋がる陸の道だ。山伏、行商、旅人、荷駄。誰がどこを通ったか調べろ」
「承知」
信長の視線が、その後ろへ移った。
「官兵衛」
「は」
「秀吉を助けろ。高槻とも情報を合わせよ」
「承知いたしました」
官兵衛はあくまで秀吉の軍師だ。
だが今回は、秀吉の命を受けて宗一郎の情報網とも連携する。
宗一郎は官兵衛を見た。
この男は頭が切れすぎる。
味方なら心強い。
だからこそ、怖い。
「最後に」
信長の声が低くなった。
「一人も先走るな」
一同が信長を見る。
「儂も先走らぬ」
その一言に、誰もが息を呑んだ。
信長自身が、自分の怒りを抑えると言っている。
「全部見つけてからだ」
信長の手が地図の上に置かれた。
「冬に手を出した者を、端から端まで儂の前へ並べる」
誰も返事をしなかった。
必要がなかった。
その言葉だけで、信長が何をするつもりなのか十分に伝わっていた。
◆
石山本願寺。
顕如の前にも、冬姫暗殺未遂の報せが届いていた。
読み終えた瞬間、顕如の顔色が変わった。
「我らではないな」
「違います」
教如が即答する。
「婚姻を止めるための工作はしております。ですが、冬姫を殺せなどとは誰にも命じておりませぬ」
「確かだな」
「はい」
顕如は目を閉じた。
最悪だった。
あまりにも時期が悪い。
本願寺は、確かに京で婚姻への不安を煽っていた。
織田の血が皇統へ入る。
信長が外戚となる。
朝廷が織田に呑まれるのではないか。
そうした疑念を広げていた。
その最中に、冬姫が殺されかけた。
外から見れば、一続きに見える。
「京の工作を止めろ」
教如が顔を上げた。
「すべてですか」
「ああ」
「ですが、それでは婚姻を――」
「もう婚姻どころではない」
顕如の声が強くなる。
「今も続ければ、我らが暗殺まで企てたと見られる」
教如が黙る。
「誰かが、我らと同じ目的を持ちながら、一線を越えた」
顕如は立ち上がった。
「そいつを探す」
「織田のために?」
「違う。我らのためだ」
顕如の目に警戒が浮かぶ。
「この者たちは、海で織田の船を襲い、毛利や我らへ疑いを向けさせた。そして今度は冬姫を殺そうとした」
「……我らを使っておりますな」
「そうだ」
顕如はようやく、その危険性をはっきりと認識した。
「織田と本願寺を戦わせたい者がいる。織田と毛利もだ。そして今度は、信長と帝まで割ろうとした」
教如の顔から怒りが消えた。
代わりに、恐怖に近い警戒が浮かぶ。
「何者なのでしょう」
「それを知るために探す」
顕如が命じた。
「紀伊、熊野を洗え。旗なき船についても調べさせよ」
「見つけた場合は」
「殺すな。捕らえろ」
「御意」
奇妙なことが起きた。
織田。
朝廷。
本願寺。
本来なら互いに警戒し、争っている三つの勢力が、別々の理由から同じ者を探し始めたのである。
網が三重になった。
◆
紀伊。
山伏姿の男が、一人で街道を歩いていた。
急いではいない。
急げば怪しまれる。
だが、額には汗が滲んでいた。
暗殺は失敗した。
女も捕らえられたらしい。
どこまで話した。
それが分からない。
熊野へ戻らなければならない。
男は途中の茶屋へ入り、水を頼んだ。
「はいよ」
老婆が水を置く。
隣には旅商人。
向かいには百姓。
外には馬を引く男。
どこにでもある光景だった。
山伏は気にしない。
だが。
旅商人は、高槻の目。
百姓は、帝の影。
馬を引く男は、本願寺の者だった。
三人とも、互いの正体を知らない。
ただ一つだけ共通している。
全員が。
山伏を見ていた。
山伏は水を飲み、立ち上がる。
誰も追わない。
少なくとも、そう見える。
やがて熊野へ入った男は、いつもの家へ向かった。
戸が閉まっている。
裏へ回る。
誰もいない。
「……」
男の顔色が変わった。
仲間が逃げた。
「くそっ」
その小さな一言を。
三つの目が、別々の場所から見ていた。
そして三つの報告が、三つの異なる道を走り始めた。
◆
禁裏。
「動きました」
老人の報告に、帝が顔を上げる。
「どこへ」
「熊野の拠点と見られる家から、複数の者が消えております」
「追っているか」
「はい」
「まだ捕らえるな」
「御意」
帝は地図を見る。
逃げるなら。
行く場所がある。
逃がす者がいる。
「海を見よ」
「御意」
◆
ほぼ同じ頃。
滝川一益にも報告が届いた。
「志摩で船が?」
「三隻。昨夜より準備を始めたとのこと」
「旗は」
「ございませぬ」
一益の口元が上がった。
「ようやく尻尾を出したか」
だが、捕らえない。
宗一郎から言われている。
見る。
伝える。
確かめる。
判断は、その後。
「漁師を使え」
「は?」
「海を知らぬ侍が尾ければ、すぐに気づかれる。海を知る者にやらせろ」
これもまた、高槻から広がり始めた考え方だった。
身分ではなく。
必要な知識を持つ者を使う。
小さな漁船が、何事もないように沖へ出ていった。
◆
そして堺。
丹羽長秀のもとへ、一枚の銀貨が持ち込まれた。
「これです」
丹羽は黙って受け取る。
冬姫暗殺を仲介した商人が受け取っていたものと、同じ種類の銀貨。
「誰が持っていた」
「南蛮との交易を扱う商人です」
「南蛮人か」
「いえ。日本人にございます」
丹羽の目が細くなる。
「名は」
商人が答える。
丹羽は聞き覚えがあった。
堺。
平戸。
豊後。
紀伊。
複数の土地で、同じ名が現れている。
南蛮商人と日本の商人の間へ入り、荷を動かし、銀を替え、船を手配する。
だが本人は、ほとんど表へ出ない。
「今、どこにいる」
「紀伊へ向かったとの話にございます」
丹羽はすぐ筆を取った。
◆
高槻へ、報告が集まった。
熊野から消えた者たち。
志摩で準備される旗なき船。
堺で見つかった銀貨。
そして紀伊へ向かった仲介商人。
宗一郎は机いっぱいに紙を広げた。
半兵衛が一枚ずつ並べ替える。
秀吉から派遣された官兵衛も、その場にいた。
「繋がりましたな」
官兵衛が言った。
「まだ」
宗一郎は即答した。
「まだ、ですか」
「金がどこから来たのか分からない」
宗一郎は銀貨を指で弾いた。
「人は嘘をつく。でも金と物は、人より嘘をつきにくい」
「ならば金を追う」
官兵衛が言う。
「そう」
宗一郎は地図を見る。
「それと船」
半兵衛が一枚の報告を取った。
「宗一郎様。これを」
「何?」
「志摩で動いた三隻ですが、船そのものは以前にも見られております」
「どこで」
半兵衛は別の紙を横へ置いた。
宗一郎の顔が変わった。
「……淡路」
「はい」
織田の監視船が襲われた時。
遠方から目撃された、旗なき船。
船体の形。
帆の継ぎ方。
舳先の補修痕。
一隻が一致した。
完全な証拠ではない。
だが。
「同じ船の可能性が高い」
官兵衛が呟く。
宗一郎は返事をしなかった。
もう一枚。
丹羽から届いた報告。
銀貨。
仲介商人。
紀伊。
さらに熊野。
線が。
一本になり始めている。
「海の襲撃」
半兵衛が言う。
「冬姫様の暗殺」
「同じ組織かもしれない」
官兵衛が続ける。
宗一郎はそこで初めて頷いた。
「可能性は、かなり上がった」
「まだ断定しませんか」
「しない」
宗一郎はきっぱりと言った。
「間違えたら、関係ない人間まで殺すことになる」
官兵衛が宗一郎を見る。
少しだけ。
その目から笑みが消えた。
「……なるほど」
宗一郎は気づかない。
この時。
官兵衛が見ていたのは地図ではなかった。
高槻宗一郎という人間だった。
◆
その夜。
熊野。
山伏が辿り着いた拠点に、仲間は戻らなかった。
代わりに。
一人の男が現れた。
「遅い」
「皆は」
「もう出た」
「どこへ」
「海だ」
山伏の顔が変わる。
「俺も行く」
「そのために来た」
二人は夜道を下った。
山から。
海へ。
小さな入り江。
そこには三隻の船が待っていた。
旗はない。
すでに何人もの男が乗り込んでいる。
「急げ」
荷が積まれる。
箱。
書状。
銀。
「どこへ行く」
山伏が尋ねる。
「南だ」
「堺ではないのか」
「堺はもう危ない」
「なら、どこへ」
男は答えた。
「まず海へ出る」
「その後は?」
一瞬。
男が迷った。
そして小さく言った。
「向こうへ渡る」
山伏が眉を寄せる。
「向こう?」
「余計なことを聞くな」
船が岸を離れた。
ゆっくり。
闇へ溶けていく。
だが。
遠く。
漁火にしか見えない小さな灯りが、同じように動き始めた。
一つ。
二つ。
三つ。
滝川一益が放った目だった。
さらに陸では。
帝の影。
高槻の目。
本願寺の者。
それぞれが別々に、同じ船を見送っていた。
◆
そして。
船が出たという報せが、信長のもとへ届いた。
「三隻」
信長が聞く。
「はい」
宗一郎が答えた。
「熊野から逃げた者が乗った可能性が高いです」
「どこへ向かう」
「まだ分かりません」
「南か」
「はい。ただし途中で西へ変える可能性もあります」
信長が地図を見る。
「捕らえるか」
宗一郎は少しだけ考えた。
「……まだ」
信長の目が上がる。
「まだ待つか」
「はい」
「何故だ」
「三隻を捕まえて終わりにしたくないからです」
宗一郎は地図の先を指した。
「どこへ逃げるのか。それを見たい」
信長が黙る。
「もし南蛮船へ乗るなら、その船が分かる。別の港へ入るなら、そこに協力者がいる。誰かが迎えに来るなら、その人間も捕まえられる」
長い沈黙。
やがて。
信長が笑った。
「悪い男になったな」
宗一郎が嫌そうな顔をする。
「信長様に言われたくありません」
「褒めておる」
「褒められた気がしません」
ほんの一瞬。
部屋の緊張が緩む。
だが、すぐに信長の顔から笑みが消えた。
「一益へ伝えろ」
「はい」
「追わせろ」
そして。
「逃げる先まで見届けた後――」
信長の指が、地図を押さえた。
「全部捕らえろ」
「分かりました」
◆
同じ夜。
禁裏にも同じ報告が届いていた。
「船が出ました」
老人が告げる。
「三隻」
「はい」
「織田も見ているか」
「そのようにございます」
帝は少し考えた。
「邪魔をするな」
「よろしいので」
「同じ獲物へ二つの網を投げれば、互いの網が絡む」
帝は地図を見る。
「織田に海を任せる」
「御意」
「我らは陸を見る」
老人が頭を下げる。
だが立ち去る前に、帝が呼び止めた。
「待て」
「は」
「捕らえた後」
老人が帝を見る。
「与した者を全て洗え」
「御意」
「実行犯だけではない」
帝の声が低くなる。
「冬を殺すと知って金を出した者。道を開けた者。匿った者。船を貸した者。毒を用意した者。身分も家柄も問わぬ」
「御意」
「ただし、知らずに使われた者は分けろ」
「心得ております」
帝は目を閉じた。
冬姫の震える手を思い出す。
怖いです。
そう言った十四歳の少女。
それでも。
婚姻をやめないと答えた。
帝の目が開いた。
「知って与した者には」
老人が待つ。
「自分が何へ手を貸したのか、思い知らせよ」
「御意」
老人が消える。
帝は一人になった。
そして。
誰にも聞こえない声で呟いた。
「朕の妻となる者へ手を出した」
まだ正式には妻ではない。
それでも。
帝の中では、すでに決まっていた。
「ただで済むと思うな」
◆
海では。
三隻の旗なき船が進んでいた。
その後ろを。
小さな漁船が追う。
さらにその後ろ。
別の船。
誰も声を上げない。
誰も旗を掲げない。
静かな追跡だった。
だが。
逃げる側はまだ知らない。
京。
堺。
熊野。
志摩。
石山。
禁裏。
それぞれから、自分たちへ向かって網が伸びていることを。
冬姫へ手を出した瞬間。
彼らは織田を敵にした。
帝を敵にした。
高槻を敵にした。
さらに。
自分たちへ暗殺の罪を着せられることを恐れた本願寺まで、敵に回した。
虎の尾を踏んだ。
いや。
それだけではない。
虎の尾を踏み。
振り返った虎の前で。
もう一度。
踏みつけた。
まだ誰も処刑されていない。
城も焼かれていない。
兵も大きく動いていない。
だからこそ。
恐ろしかった。
静かに名が集められている。
静かに金が辿られている。
静かに船が追われている。
静かに逃げ道が消えている。
そして。
すべてが揃った時。
信長は動く。
帝も動く。
その時に待っているものを。
彼らはまだ知らなかった。
地獄の沙汰は。
まだ――始まってすらいなかった。




