第百章 地獄の沙汰
第百章 地獄の沙汰
三隻の船は、南へ向かっていた。
夜の海。
旗はない。
灯りも、必要最低限。
岸から離れすぎず、しかし漁村へ近づきすぎない。
海を知らぬ者なら、ただ南へ逃げているように見えただろう。
だが。
「おかしいな」
小さな漁船の上で、男が呟いた。
滝川一益に雇われた志摩の漁師だった。
「何がだ」
織田の侍が尋ねる。
「あいつら、逃げてねえ」
「逃げているではないか」
「違う」
漁師は前方の三隻を見る。
「本気で逃げるなら、もっと沖へ出る。あの風なら沖へ出た方が速い」
「では何をしている」
「待ってる」
「何を」
漁師は答えなかった。
代わりに、水平線を見る。
夜明けにはまだ遠い。
月も細い。
それでも海に生きる者には、見えるものがある。
波。
風。
帆の向き。
そして。
船の動き。
「あいつら、誰かと落ち合うつもりだ」
侍の顔が変わった。
「一益様へ知らせろ」
小さな船が一隻、静かに離れた。
残る船は追跡を続ける。
三隻の逃亡船は、それに気づかなかった。
宗一郎の判断は正しかった。
捕らえなくてよかった。
逃亡者は今、自分たちから次の糸へ向かっていた。
◆
夜明け前。
三隻は、紀伊半島の南端を回らなかった。
途中で針路を変えた。
西。
「やっぱりだ」
漁師が呟く。
南ではない。
西へ行く。
さらに一刻。
やがて。
前方に、別の船影が現れた。
一隻。
大きい。
逃亡船の三隻より、明らかに大きかった。
帆の形も違う。
漁師の目が細くなる。
「ありゃあ……」
「知っているのか」
「南蛮船じゃねえ」
侍が驚く。
「違うのか」
「違う。向こうの船を真似てるところはあるが、造りが違う」
「では」
「日の本の船だ」
だが。
普通の商船とも違う。
船腹が低い。
人が多い。
しかも、船縁には板が立てられている。
戦うことを考えた船。
漁師が顔をしかめた。
「海賊衆だ」
その言葉が終わるより早く、三隻の逃亡船から合図が上がった。
煙。
一筋。
大船からも煙が上がる。
応答。
「繋がってる」
織田の侍が呟く。
「間違いねえ」
「近づけるか」
「馬鹿言え。あれに見つかったら、こんな船ひっくり返される」
侍は歯を食いしばった。
見たい。
だが、ここで見つかれば全てが終わる。
「戻る」
「それがいい」
漁船がゆっくり針路を変えた。
だが。
その時だった。
「待て」
漁師が止めた。
「どうした」
「向こうから来る」
大船から、小舟が一隻下ろされた。
逃亡船へ向かっている。
乗っているのは四人。
一人だけ、着ている物が違った。
頭巾。
黒い羽織。
腰に二本。
侍ではない。
商人にも見えない。
男が逃亡船へ乗り移る。
何かを受け取った。
箱。
そして。
書状。
織田の侍が目を凝らす。
「見えぬ」
「俺にも見えねえ」
やがて男は大船へ戻った。
三隻の逃亡船は、そのまま西へ。
大船は東へ。
分かれた。
「どうする」
侍が尋ねる。
漁師は迷わなかった。
「大きい方だ」
「逃げた奴らではなく?」
「三隻はもう別の船が見てる」
侍が驚く。
「どこに」
「お前さんら、海じゃ本当に何も見えねえな」
漁師が顎で示した。
遥か後方。
波間に、小さな帆。
「一益様の船だ」
漁師は大船を見る。
「俺たちは、あっちを見る」
陸の戦とは違う。
海では、海を知る者に従う。
宗一郎が求めたものが、少しずつ形になり始めていた。
◆
その日の夕刻。
滝川一益の前へ、二つの報告が届いた。
三隻の逃亡船は西へ。
謎の大船は東へ。
途中で人と荷の受け渡し。
一益は地図を睨んだ。
「分けたか」
追跡する側を試している。
あるいは、証拠を逃がした。
「三隻の方は」
「二隻が追っております」
「大船は」
「志摩の漁師が一隻」
「足りんな」
一益は即座に立った。
「儂が行く」
「一益様自ら?」
「海で十三人殺されておる」
一益が刀を取る。
「二度目はない」
だが、数歩進んで止まった。
信長の命令を思い出す。
追え。
行き先を見ろ。
そして、全部捕らえろ。
「……いや」
家臣が見る。
「どうされました」
「まだだ」
一益は座り直した。
「宗一郎の小僧に付き合ってやる」
地図を指す。
「三隻も、大船も追え。港へ入るまで手を出すな」
「もし沖へ出た場合は」
「その時は捕らえる」
「抵抗すれば」
一益の目が鋭くなった。
「こちらからは撃つな」
一拍。
「撃たれたら沈めろ」
「御意」
信長は怒っている。
だが、織田は暴れていない。
それが。
追われる側にとって、何より恐ろしかった。
◆
京。
明智光秀の調査も進んでいた。
本願寺から流された噂。
こちらは比較的早く線が見えた。
寺。
茶屋。
商人。
公家の家人。
さらにその先。
石山と繋がる者。
「やはり本願寺です」
家臣が報告する。
光秀は頷いた。
「婚姻への反対工作はな」
「では、冬姫様の件も」
「違う」
家臣が言葉を止める。
「ですが」
「本願寺の者を三人押さえた。全員、婚姻への不安を広げよとは命じられている。だが冬姫様を害せとは、一人も聞いていない」
「口を合わせている可能性は」
「ある」
光秀は認めた。
「だから調べる。だが、疑わしいことと事実は違う」
机には、もう一つの報告があった。
本願寺側の工作が。
冬姫暗殺未遂の直後から。
止まっている。
それも一斉に。
「本願寺は気づいたのだ」
光秀が言った。
「自分たちが暗殺の罪まで着せられる危険に」
家臣が息を呑む。
「ならば」
「少なくとも今は、本願寺も暗殺者を探している可能性がある」
奇妙な状況だった。
敵の敵。
だからといって味方ではない。
だが同じ者を追っている。
「引き続き見よ。ただし、本願寺の者を暗殺未遂の罪で捕らえるな」
「御意」
光秀は立ち上がり、窓の外を見た。
自分でも驚くほど怒っている。
冬姫は信長の娘だからではない。
帝の妻となる者だからだけでもない。
帝が。
冬姫自身へ意思を問うたことを。
光秀は知っている。
十四歳の少女が自分で決めた婚姻。
それを。
毒で壊そうとした。
「愚か者め」
光秀が呟いた。
「朝廷へ刃を向けた意味を、まだ分かっておらぬ」
◆
二日後。
高槻。
宗一郎の前へ、海からの報告が届いた。
「大船は志摩へ?」
「正確には志摩の外れ。人目につきにくい入り江へ入りました」
滝川の使者が答える。
「三隻は」
「さらに西へ。紀伊水道を抜ける様子です」
宗一郎は考える。
二つに分かれた。
どちらが重要か。
半兵衛が言った。
「大船でしょう」
「俺もそう思う」
「理由は」
官兵衛が尋ねる。
宗一郎は報告書を指した。
「逃亡者は書状と箱を大船へ渡した」
「証拠を預けた」
「かもしれない」
宗一郎が訂正する。
「それと、大船は東へ戻った」
半兵衛が続ける。
「逃げる船ではなく、迎えに来た船」
「つまり」
官兵衛の指が志摩へ移る。
「拠点が東にある」
宗一郎が頷く。
「少なくとも協力者はいる」
そこへ。
新しい報告。
「宗一郎様!」
若い者が駆け込む。
「志摩より急報!」
「何」
「大船から下りた男が確認されました」
「誰」
「名は分かりませぬ。ただ――」
使者が息を整える。
「以前、堺で調べた南蛮交易の仲介人と接触しております」
宗一郎の目が変わった。
「銀貨の?」
「はい」
線が。
また一本。
繋がった。
海の襲撃。
熊野。
暗殺。
銀貨。
志摩。
南蛮交易。
官兵衛が静かに言った。
「もう偶然ではありますまい」
「うん」
宗一郎も、今度は否定しなかった。
「同じ網だ」
半兵衛が尋ねる。
「捕らえますか」
宗一郎は少し考えた。
そして。
「捕らえる」
ついに決めた。
「ただし同時に」
「同時?」
「志摩だけ捕まえたら、他が逃げる」
宗一郎は地図を広げた。
「熊野」
「堺」
「紀伊」
「志摩」
そして。
「船」
四つを指す。
「全部、同じ刻に押さえる」
官兵衛が宗一郎を見る。
「そこまでの権限が高槻殿に?」
「ないよ」
宗一郎は立ち上がった。
「だから信長様に頼む」
「朝廷側は」
「帝が動いてる」
言ってから。
宗一郎が止まる。
官兵衛を見る。
「……朝廷も独自に調べているはず」
官兵衛は僅かに目を細めた。
だが。
何も聞かなかった。
半兵衛だけが。
宗一郎の僅かな言い直しを見ていた。
それでも。
何も言わなかった。
◆
信長の決断は早かった。
「やれ」
それだけだった。
「よろしいのですか」
宗一郎が確認する。
「何を今さら」
信長は地図を見る。
「冬を殺そうとした者へ繋がる線なのだろう」
「可能性は極めて高いです」
「ならば押さえる」
丹羽。
滝川。
秀吉。
光秀。
それぞれへ使者が飛ぶ。
兵を大量に動かす必要はない。
必要なのは速さ。
そして。
同時であること。
信長が宗一郎を見る。
「何人要る」
「多すぎると気づかれます」
「ならば」
「各所、必要なだけ」
信長が笑う。
「お前の忍びと同じだな」
「大軍で鼠を捕まえようとすると、穴から逃げますから」
「鼠か」
信長の笑みが消える。
「冬を殺そうとした鼠なら、随分と大きな鼠だ」
宗一郎は答えなかった。
「いつだ」
「明後日の夜」
「遅くないか」
「逃げる船を追う時間が必要です」
信長は不満そうだった。
だが。
「分かった」
待った。
娘を殺されかけた男が。
二日。
待つ。
それだけでも、信長がどれほど本気で黒幕まで辿ろうとしているか分かった。
◆
禁裏。
帝もまた、同じ頃に報告を受けていた。
「織田が動きます」
「いつ」
「明後日の夜」
老人が答える。
帝は少し考えた。
「合わせよ」
「織田と?」
「ああ」
「連絡を取りますか」
「不要だ」
帝は地図を見る。
「向こうには向こうの網がある。我らは我らの網で動く」
「同じ場所へ入る可能性がございます」
「その時は譲れ」
老人が僅かに驚く。
「よろしいので」
「捕らえる者が織田でも、朕でも構わぬ」
帝の目的は手柄ではない。
「生きたまま口を開かせられれば、それでよい」
「御意」
「ただし」
帝の目が鋭くなる。
「冬を殺すと知りながら与した者の名は、一人も漏らすな」
「すでに名簿を作り始めております」
「何人だ」
「現時点で、疑いがある者は二十七」
「知っていたと確認できた者は」
「六」
帝の顔は動かなかった。
「証拠を揃えよ」
「御意」
「朕の怒りだけで裁くな」
老人が頭を下げる。
「しかし、証が揃ったなら」
帝は続けた。
「身分によって軽くするな」
「心得ております」
帝は窓の外を見る。
冬姫は今、別の部屋にいる。
護衛は増やした。
食事も、水も、薬も。
すべて二重に確認させている。
それでも。
閉じ込めてはいない。
冬姫自身が望まなかったからだ。
――殺されそうになったからといって、何もできなくなるのは嫌です。
そう言った。
帝は反対しなかった。
代わりに。
外側の世界を変えることにした。
「朕の妻になる者を、怯えさせた」
帝が静かに呟く。
「その代価は、払ってもらう」
◆
二日後。
夜。
熊野。
男が一人、家から出た。
角を曲がる。
「御用がございます」
前から百姓姿の男。
振り返る。
後ろにも一人。
「何者だ」
「お静かに」
刀へ手を伸ばした瞬間。
腕を取られた。
口を塞がれる。
数息。
終わった。
堺。
蔵の裏口から帳面を持った男が出る。
「どちらへ」
丹羽の手の者。
男が逃げる。
だが、路地の出口はすでに塞がれていた。
紀伊。
山伏が火をつけようとした。
書状の束。
火が近づく。
その腕へ石が飛ぶ。
「ぐっ!」
松明が落ちる。
秀吉の手の者が雪崩れ込んだ。
「火を消せ!」
「紙を押さえろ!」
「殺すな!」
書状は。
残った。
そして。
志摩。
最も大きな動きが始まった。
◆
入り江。
謎の大船が浮かんでいる。
岸には十数人。
荷を積み替えていた。
銀。
火薬。
布。
そして。
小さな木箱。
「急げ」
黒い羽織の男が命じる。
「夜明け前に出る」
「どこへ」
「東だ」
その時。
海から声がした。
「出るのは無理だ」
全員が振り返る。
暗い海。
一隻。
いや。
三隻。
小さな船。
その中央。
滝川一益。
「織田……!」
黒羽織の男が叫ぶ。
「船を出せ!」
だが。
船頭が動かない。
「何をしている!」
「無理です」
「何故だ!」
船頭が沖を指す。
風。
潮。
そして入り江の狭い出口。
「今出たら、あいつらに横を取られる」
「構わん!」
「沈みます!」
黒羽織の男が刀を抜いた。
その瞬間。
別の声。
「海の男の言うことは聞いた方がいい」
岸側。
男たちが振り返る。
いつの間にか。
道を塞ぐ者たち。
高槻の目。
そして。
その後ろ。
見慣れない男。
海の匂いがする。
侍のようで。
侍らしくない。
黒羽織の男が睨む。
「何者だ」
男が答える。
「九鬼嘉隆」
まだ。
織田水軍の将ではない。
まだ。
天下に名を轟かせてもいない。
だが。
志摩の海を知る者なら。
その名を知らぬ者は少なかった。
「高槻とかいう変な男に、海を教えてくれと頼まれてな」
一益が海上から怒鳴る。
「嘉隆!」
「何だ!」
「余計な話は後にせい!」
「そっちから話しかけたんじゃないだろうが!」
「誰が話しかけた!」
ほんの一瞬。
妙な空気になった。
黒羽織の男は。
その一瞬を逃さなかった。
「撃て!」
パン――!
火縄銃。
弾が。
嘉隆の横を抜けた。
次。
二発。
三発。
「伏せろ!」
嘉隆が叫ぶ。
一益の顔が変わる。
「撃ったな」
信長の命令。
こちらからは撃つな。
撃たれたなら。
話は別。
「鉄砲!」
織田兵が構える。
「待て!」
嘉隆が怒鳴った。
一益が見る。
「何だ!」
「船へ撃つな!」
「何故だ!」
「火薬積んでるぞ!」
一益の顔が変わった。
船腹。
荷。
樽。
もし火が移れば。
捕虜も。
証拠も。
全部消える。
「陸だけ狙え!」
一益が即座に命令を変えた。
「撃て!」
銃声。
男が一人倒れる。
次。
嘉隆たちが距離を詰める。
黒羽織の男が後退する。
「船へ!」
だが。
船頭が。
逃げた。
「貴様!」
「死にたくねえ!」
船頭は海へ飛び込んだ。
黒羽織の男が船へ向かう。
嘉隆が追う。
刀。
抜く。
ぶつかる。
金属音。
黒羽織の男は弱くなかった。
二合。
三合。
嘉隆が押される。
「ほう」
嘉隆が笑った。
「商人じゃねえな」
「黙れ!」
男が踏み込む。
嘉隆が避ける。
刀が木箱へ当たる。
箱が割れた。
中身が。
地面へ。
散る。
銀貨。
同じ銀貨。
一益が見た。
「押さえろ!」
黒羽織の男の顔が変わった。
逃げる。
海へ。
飛び込もうとする。
嘉隆が肩を掴む。
「離せ!」
「駄目だ」
「離せ!」
「お前は死んだ方が楽なんだろ」
男が止まる。
嘉隆の目が鋭くなる。
「だったら、生きてもらう」
拳。
黒羽織の男の顔へ。
男が崩れる。
「縛れ!」
戦いは。
終わった。
◆
夜明け。
志摩。
捕虜、十八。
死者、三。
逃亡、二。
大船、一隻。
小舟、四隻。
銀貨。
火薬。
帳面。
書状。
そして。
海で織田船を襲った時に使われた可能性のある火矢と、同じ作りの矢。
一益はそれを見つめた。
「繋がったな」
嘉隆が答える。
「まだだ」
一益が横を見る。
「宗一郎みたいなことを言うな」
「誰だそれは」
「お前を呼んだ変な男だ」
「ああ」
嘉隆は笑った。
「確かに言いそうだ」
そこへ家臣が走ってきた。
「一益様!」
「何だ」
「船の中から、これが」
一通の書状。
封はない。
宛名もない。
だが。
中には。
短い言葉。
婚姻。
海。
毛利。
本願寺。
そして。
冬。
一益の顔から表情が消えた。
「誰が書いた」
「分かりませぬ」
嘉隆が横から見る。
「これじゃ証拠にならねえな」
「分かっておる」
一益は書状を閉じた。
「だが」
もう一つ。
押収された帳面。
そこには。
金の動きが。
残っていた。
最初の海上襲撃。
その五日前。
銀。
十一隻。
人。
武器。
支払い。
そして。
冬姫暗殺の準備が始まった時期。
別の支払い。
同じ印。
一益の目が細くなる。
「同じ奴らだ」
海で十三人を殺した者。
冬姫を殺そうとした者。
ようやく。
一本に繋がった。
だが。
帳面の一番上。
金を出した者の欄だけ。
名前がない。
あるのは。
一つの印。
一益はそれを見た。
「これは……」
十字。
だが。
南蛮寺で使われる十字と。
僅かに違う。
横棒が二本。
その下に。
小さな円。
嘉隆が覗き込む。
「見たことあるぞ」
一益が振り返る。
「どこで」
「平戸だ」
空気が変わった。
「いつ」
「何年か前だ。南蛮船と商いする連中の中に、これを使う奴がいた」
「南蛮人か」
「違う」
嘉隆が首を振った。
「日の本人だ」
「名は」
嘉隆は少し考えた。
「本当の名かは知らん」
そして。
言った。
「弥三郎」
一益が黙る。
堺から届いた報告。
同じ名。
南蛮交易の仲介人。
堺。
紀伊。
平戸。
そして。
志摩。
「どこにいる」
「最後に聞いた時は、平戸だ」
一益が立ち上がった。
「早馬!」
家臣が走る。
「高槻へ送れ!」
ついに。
名前が出た。
◆
その日の夜。
高槻。
「弥三郎」
宗一郎が、その名を繰り返した。
半兵衛。
官兵衛。
そして、戻ってきた一益。
さらに。
九鬼嘉隆。
初めて。
宗一郎と嘉隆が向き合った。
「あなたが九鬼嘉隆さん?」
「あんたが高槻宗一郎か」
「そうです」
嘉隆は宗一郎を上から下まで見る。
「海を知らんそうだな」
「まったく」
「よくそんな奴が船に大筒を載せようと思ったな」
「やっぱり駄目ですか」
「今の絵のままなら沈む」
「もう一人にも言われました」
「当たり前だ」
宗一郎が少し肩を落とす。
一益が机を叩いた。
「船の話は後にせい!」
「あ、はい」
「お前が始めたんだろうが」
「儂ではない!」
半兵衛が小さく笑う。
官兵衛は無表情だったが、口元だけが僅かに動いていた。
だが。
宗一郎が帳面を開くと。
全員の表情が変わった。
「海の襲撃と暗殺は、同じ組織でほぼ間違いない」
宗一郎が言う。
「金の流れが一致しました。使われた船も一隻一致。銀貨も同じ。仲介人も重なる」
官兵衛が尋ねる。
「本願寺は」
「暗殺には繋がらない」
「毛利は」
「今のところ繋がらない」
「南蛮人は」
宗一郎が少し黙る。
「金と交易では繋がる。でも、だから南蛮人が黒幕とは言えない」
嘉隆が頷いた。
「平戸じゃ南蛮の銀なんぞ珍しくもない」
「そういうことです」
宗一郎は十字に似た印を指した。
「問題はこれ」
嘉隆が言う。
「弥三郎が使っていた」
「本人を見たことは」
「一度だけ」
「どんな男」
「日本人。四十前後だったと思う。言葉が上手い。南蛮人とも普通に話してた」
「宣教師?」
「違う」
「商人?」
「商人と言えば商人だが……」
嘉隆は少し考える。
「何でも売る男だった」
「何でも?」
「鉄砲。硝石。絹。銀。情報。人」
宗一郎の顔が変わる。
「人?」
「船乗りも傭兵も、必要なら集める」
官兵衛が呟いた。
「戦を売る商人」
嘉隆が官兵衛を見る。
「そんな感じだ」
宗一郎は黙って地図を見る。
弥三郎。
黒幕なのか。
違う。
おそらく。
「この人も中継点だ」
宗一郎が言った。
官兵衛が見る。
「何故そう思われる」
「金が大きすぎる」
帳面を指す。
「船を十一隻動かして、兵を雇って、紀伊と熊野に人を置いて、京へ人を入れて、鷹司家にまで女を潜り込ませる」
半兵衛が続けた。
「一介の仲介商人が、自分の金だけで行う規模ではない」
「誰かが後ろにいる」
宗一郎が頷く。
「弥三郎を捕まえれば分かる」
嘉隆が言った。
「なら平戸へ行くか」
「行きます」
「誰が」
「俺が」
一益。
半兵衛。
官兵衛。
三人が同時に宗一郎を見た。
「何です」
半兵衛が笑顔で言う。
「駄目です」
「何で」
「宗一郎様が平戸まで行く必要はございません」
「でも」
「ございません」
「……はい」
嘉隆が笑う。
「尻に敷かれてるな」
「軍師です」
「同じようなもんだろ」
「違います」
半兵衛の笑顔が少し深くなる。
宗一郎は黙った。
官兵衛が地図を見る。
「それより急ぐべきです」
「うん」
「志摩が押さえられたことが平戸へ伝われば」
「弥三郎は逃げる」
宗一郎が立ち上がる。
「信長様へ報告する」
そして。
「帝にも」
一瞬。
また。
言いすぎた。
官兵衛の目が。
宗一郎へ向く。
「主上へ?」
「冬姫様の件だから当然だろ」
「……なるほど」
官兵衛はそれ以上聞かなかった。
だが。
半兵衛は。
また見ていた。
◆
禁裏。
帝の前に。
押収された名簿の写しが置かれた。
確認済み。
冬姫暗殺の意図を知りながら協力した者。
八名。
疑いが濃い者。
十三名。
知らずに使われた可能性が高い者。
二十一名。
帝は一枚ずつ確認した。
「この寺は」
「山伏を泊めております。ただし住職が目的を知っていた証はございませぬ」
「ならば罪を問うな」
「こちらの商人は」
「毒を運ぶと知っておりました」
「証は」
「女と山伏、双方の証言が一致しております。金の記録も」
帝の目が止まる。
「捕らえよ」
「御意」
「こちらは」
「船を貸しておりますが、積荷を商いの品と聞かされております」
「証は」
「他の船頭三名の証言と一致」
「放せ」
老人が僅かに顔を上げた。
帝は冷たく言った。
「朕は怒っている」
「……はい」
「だからこそ、間違えるな」
「御意」
「無実の者まで罰すれば、冬の名で罪なき者を苦しめることになる」
それは。
帝が最も避けたいことだった。
「だが」
次の紙。
帝の目が止まる。
「これは」
鷹司家へ女を紹介した商人。
暗殺の目的を知っていた。
報酬。
銀。
さらに。
成功した場合の追加報酬。
帝の顔から完全に表情が消えた。
「確かか」
「はい」
「言い逃れは」
「できぬかと」
「ならば」
帝は紙を置いた。
「裁きの場へ出せ」
「密かに処分するのでは」
帝が老人を見る。
「何故隠す」
老人が黙る。
「冬は、誰にも知られず殺されかけたのではない」
帝の声が静かに響く。
「政治のために、帝の妻となる少女を殺そうとした」
「はい」
「ならば」
帝は言った。
「何をすれば、どのような責を負うのか」
「天下へ示す」
老人の目が変わった。
暗殺者を。
闇で殺すのではない。
法と権威の前へ引きずり出す。
それは復讐よりも。
はるかに重い意味を持つ。
「ただし」
帝は続けた。
「まだ処断するな」
「弥三郎でございますか」
「ああ」
帝の目が西へ向く。
「上がいる」
老人が頷く。
「我らも同じ判断にございます」
「ならば」
帝が命じた。
「平戸を見る」
「御意」
◆
だが。
遅かった。
平戸。
その夜。
「弥三郎様!」
男が駆け込んだ。
「志摩がやられました!」
弥三郎の顔が変わる。
「船は」
「押さえられました」
「帳面は」
男が答えない。
弥三郎は立ち上がった。
「……馬鹿が」
机を蹴る。
「燃やせと言っただろう!」
「申し訳ございません!」
「熊野は」
「連絡が途絶えております」
「堺は」
「動けませぬ」
弥三郎の顔から。
少しずつ。
血の気が引いていく。
熊野。
堺。
志摩。
一つではない。
同時。
「……織田だけじゃない」
「は?」
弥三郎は気づいた。
早すぎる。
織田だけで、ここまで同時に動けるのか。
「朝廷か」
男が驚く。
「まさか」
「違う」
弥三郎は首を振る。
「何かいる」
そして。
ようやく理解した。
冬姫。
あの娘へ手を出した瞬間。
自分たちは。
織田信長だけではなく。
もっと古い何かまで。
敵に回した。
「船を出せ」
「今から?」
「今すぐだ」
「どこへ」
弥三郎が港を見る。
沖。
大きな南蛮船。
「まず、あれへ乗る」
「その後は」
「日本を出る」
男が息を呑む。
「そこまで」
「もう駄目だ」
弥三郎には分かった。
日本の中に。
安全な場所はない。
「金を積め」
「書状は」
「燃やせ」
「帳面も?」
「全部だ」
男が走る。
弥三郎は一人になる。
そして。
机の下から。
小さな箱を取り出した。
中。
書状。
一通。
他とは違う。
南蛮文字。
だが。
差出人の名はない。
弥三郎はそれを見つめた。
「……俺だけ」
「切るつもりか」
黒幕は。
弥三郎すら。
捨てようとしていた。
その時。
外から。
叫び声。
「弥三郎様!」
「何だ!」
「港に!」
弥三郎が外へ出る。
「船が入ってきます!」
「南蛮船か」
「違います!」
「では何だ!」
男が叫んだ。
「志摩の船です!」
弥三郎の顔が凍る。
沖。
まだ小さい。
だが。
確実に。
こちらへ向かっている。
先頭。
見慣れない船。
その舳先に。
一人の男が立っていた。
九鬼嘉隆。
まだ。
織田の水軍を背負ってはいない。
まだ。
巨大な鉄甲船など影も形もない。
持っているのは。
海の知識。
海の男たち。
そして。
信長からの一つの命令。
――逃がすな。
嘉隆が平戸の港を見た。
「さて」
横にいる滝川の使者へ言う。
「高槻の旦那は、生け捕りにしろって言ったんだったな」
「はい」
「信長様もです」
「面倒だな」
「殺してはなりません」
「分かってるよ」
嘉隆が笑った。
「だから面倒なんだ」
風が。
帆を膨らませる。
一方。
港では。
弥三郎が。
ようやく。
自分へ迫るものの大きさを理解していた。
海で十三人を殺した。
本願寺へ疑いを向けた。
毛利へ疑いを向けた。
帝と信長を割ろうとした。
そして。
冬姫を殺そうとした。
その一つ一つなら。
逃げ切れたかもしれない。
だが。
全部やった。
敵にしてはいけない者を。
全部。
敵にした。
「弥三郎様」
男が震える。
「どうします」
弥三郎は答えなかった。
沖の船を見る。
後ろには。
燃やさなければならない書状。
目の前には。
逃げるための南蛮船。
そして。
海の向こうから。
織田の手が。
迫ってくる。
地獄の沙汰は。
ついに。
入口を開いた。




