第九十一章 消えた虎
第九十一章 消えた虎
甲斐。
躑躅ヶ崎館。
夜。
灯りの落とされた。
一室。
そこに。
数人の男が。
集まっていた。
武田勝頼。
山県昌景。
馬場信春。
内藤昌豊。
高坂昌信。
穴山信君。
誰も。
大きな声を。
出さない。
部屋の。
中央。
一通の書。
そして。
その向こう。
閉ざされた。
襖。
◆
勝頼が。
拳を。
握っていた。
「父上は」
誰も。
答えない。
勝頼は。
もう一度。
言った。
「父上は」
声が。
僅かに。
震える。
「逝かれた」
沈黙。
山県が。
目を閉じる。
馬場が。
俯く。
内藤は。
微動だにしない。
高坂だけが。
勝頼を。
見ていた。
◆
武田信玄。
甲斐の虎。
長く。
武田を。
率いてきた男。
その男は。
もう。
いない。
戦場では。
死ななかった。
織田との。
戦でも。
討たれなかった。
だが。
病には。
勝てなかった。
◆
最後の。
数日は。
ほとんど。
起き上がれなかった。
咳。
胸の痛み。
血。
医師たちは。
できる限りの。
ことをした。
だが。
止められない。
そして。
信玄は。
最後まで。
武田のことを。
考えていた。
◆
「死を」
「隠せ」
それが。
最後に。
残した。
命の。
一つだった。
武田信玄が。
死んだ。
その報せが。
外へ出れば。
敵は。
動く。
徳川。
織田。
上杉。
北条。
そして。
武田の。
内側すら。
揺れる。
だから。
隠す。
◆
「どこまで」
勝頼が。
低く尋ねる。
「隠せる」
高坂が。
答えた。
「永くは」
「無理にございます」
「分かっている」
「ですが」
「今すぐ」
「知られるのと」
「ひと月後」
「ふた月後に」
「知られるのでは」
「違います」
勝頼が。
頷く。
◆
馬場が。
口を開いた。
「まず」
「国境」
「兵を」
「動かしてはならぬ」
山県も。
続ける。
「大きな」
「軍議も」
「避けるべきです」
内藤が。
首を横に振る。
「いや」
「逆だ」
視線が。
集まる。
◆
「何も」
「動かなくなれば」
「それこそ」
「怪しまれる」
内藤が。
静かに言う。
「御館様が」
「生きておられた時と」
「同じように」
「動かすべきだ」
高坂が。
頷いた。
「書状も」
「出します」
「ただし」
「御館様の」
「直筆は」
「使えませぬ」
「花押は?」
勝頼が聞く。
「危険です」
高坂が答える。
「知る者が」
「おります」
◆
勝頼が。
目を閉じた。
父が。
死んだ。
悲しむ。
時間すら。
与えられない。
「父上の」
「葬儀は」
「密かに」
高坂が言った。
「寺も」
「限ります」
「僧も」
「選びます」
「医師は」
山県が。
尋ねる。
「外へ」
「出せぬ」
馬場が。
低く答えた。
◆
その言葉に。
部屋が。
僅かに。
重くなる。
殺す。
という意味ではない。
だが。
自由には。
できない。
少なくとも。
しばらくは。
屋敷の中へ。
置く。
信玄の。
死を。
知っている者を。
減らす。
◆
「三年」
勝頼が。
呟いた。
男たちが。
見る。
「父上は」
「死を」
「三年」
「隠せと」
「仰せになった」
高坂が。
静かに。
答える。
「三年」
「完全に」
「隠すことは」
「できませぬ」
勝頼が。
高坂を見る。
◆
「何故だ」
「人は」
「消えます」
「御館様が」
「姿を見せない」
「声を聞かせない」
「直筆の書がない」
「軍議へ出ない」
「客人に会わない」
「一つなら」
「病で」
「通せます」
高坂の目が。
鋭くなる。
「十も」
「二十も」
「重なれば」
「病だけでは」
「済みませぬ」
◆
勝頼は。
黙った。
「なら」
「どうする」
「死を」
「隠すのでは」
「ございませぬ」
高坂が言った。
「死を」
「確かめさせない」
勝頼の目が。
変わる。
◆
「病だと」
「思う者には」
「病だと」
「思わせる」
「死んだと」
「疑う者には」
「疑わせる」
「だが」
「証を」
「与えぬ」
馬場が。
小さく。
頷く。
「なるほど」
「敵が」
「確信できなければ」
「大軍は」
「動かしにくい」
「はい」
◆
勝頼は。
父の。
座っていた場所を。
見た。
もう。
そこに。
虎はいない。
ならば。
自分が。
立たなければならない。
「やる」
勝頼が。
言った。
「父上の死は」
「伏せる」
「武田は」
「揺らがぬ」
「そう」
「見せる」
山県たちが。
頭を下げた。
◆
だが。
その夜。
躑躅ヶ崎館から。
少し離れた場所。
一人の男が。
馬の数を。
数えていた。
武田家へ。
馬の飼料を。
納める。
商人。
何年も。
甲斐へ。
出入りしている。
誰も。
疑わない。
男は。
館の中へは。
入らない。
入る必要も。
ない。
◆
この三日。
おかしなことが。
ある。
医師が。
出てこない。
普段なら。
薬種を。
取りに。
人が。
動く。
だが。
それが。
止まった。
代わりに。
寺へ向かう。
使いが。
増えた。
そして。
一部の。
古参家臣が。
夜中に。
呼ばれている。
◆
男は。
結論を。
書かなかった。
ただ。
事実を。
覚えた。
医師。
出入り停止。
薬種。
購入減。
寺院。
夜間使者増加。
重臣。
夜間登城。
信玄。
姿なし。
それだけ。
男は。
翌朝。
甲斐を。
出た。
◆
その男が。
誰の。
目なのか。
武田は。
知らない。
帝の。
古き影。
◆
だが。
別の場所でも。
同じ。
甲斐を。
見ている者がいた。
宿場。
一人の。
旅商人。
その男は。
高槻の。
情報網に。
繋がっている。
彼が。
見ていたのは。
寺ではない。
道。
だった。
◆
「減ったな」
男が。
呟く。
甲斐から。
外へ出る。
使者。
以前より。
少ない。
逆に。
甲斐へ。
戻される者が。
増えている。
さらに。
武田家中から。
出される。
書状。
その書き方が。
変わった。
以前は。
信玄本人の。
意向を。
強く示す。
文が多かった。
今は。
「御屋形様の御意」
そればかり。
◆
本人の。
言葉が。
ない。
男は。
それを。
記録した。
――信玄本人。
――確認できず。
――書状。
――本人直筆なし。
――勝頼名義。
――増加。
――重臣間の使者。
――増加。
――国境兵力。
――大きな変化なし。
――結論。
――不明。
◆
数日後。
京。
高槻屋敷。
宗一郎は。
三枚の。
報告を。
並べていた。
半兵衛。
官兵衛。
二人も。
いる。
「どう思う」
宗一郎が聞く。
官兵衛が。
すぐに答える。
「死んでおりますな」
半兵衛が。
官兵衛を見る。
「早いですね」
「これだけ」
「揃えば」
「十分でしょう」
◆
宗一郎は。
首を横に振った。
「十分じゃない」
官兵衛が。
宗一郎を見る。
「何故です」
「全部」
「状況証拠だ」
宗一郎が。
紙を指す。
「信玄を」
「見た者がいない」
「だから」
「死んだ」
「それは」
「推測だ」
◆
官兵衛が。
薄く笑う。
「しかし」
「殿は」
「武田信玄が」
「長くはないと」
「以前から」
「考えておられた」
宗一郎の目が。
官兵衛を見る。
鋭い。
「だからこそだ」
官兵衛の笑みが。
消える。
◆
「俺が」
「そう思ってるから」
「都合のいい報告だけ」
「拾うかもしれない」
半兵衛が。
静かに。
頷いた。
「なるほど」
「先に答えを」
「持っている者ほど」
「危うい」
「そう」
宗一郎が。
報告を。
分ける。
◆
「事実」
「信玄が」
「人前へ出ていない」
一枚。
「事実」
「勝頼と」
「重臣の会合が」
「増えている」
一枚。
「事実」
「信玄本人の」
「直筆が」
「確認できない」
一枚。
「推測」
「信玄は」
「重病」
別の場所。
「推測」
「信玄は」
「すでに死んでいる」
さらに。
別。
◆
「判断」
宗一郎が。
最後に。
紙を置く。
「武田は」
「何かを」
「隠している」
半兵衛が。
頷く。
「これなら」
「確実です」
「うん」
官兵衛が。
宗一郎を見る。
「では」
「兵は」
「動かさぬので」
「動かさない」
即答。
◆
「武田が」
「弱っているなら」
「好機では」
「好機だから」
「動かない」
官兵衛の。
眉が。
僅かに。
上がる。
宗一郎は。
地図を見る。
「今」
「甲斐へ」
「兵を向ければ」
「武田は」
「一つになる」
「外敵が来たら」
「家中の揉め事は」
「後回しになる」
半兵衛が。
笑う。
「弱った相手を」
「殴るより」
「弱った相手が」
「どう動くか」
「見る」
「そういうことですか」
「そう」
◆
官兵衛は。
何も言わない。
だが。
その目は。
楽しそうだった。
この男。
高槻宗一郎。
やはり。
面白い。
◆
同じ頃。
禁裏。
帝も。
甲斐からの。
報告を。
読んでいた。
老人が。
前に。
座っている。
「信玄は」
帝が聞く。
「死んだか」
老人は。
即答しない。
「分かりませぬ」
帝の。
口元が。
僅かに。
緩む。
「それでよい」
◆
老人が。
顔を上げる。
「よろしいので」
「ああ」
「分からぬものを」
「分かったと言う方が」
「危うい」
帝は。
報告を。
置く。
「だが」
「死んでいる」
「可能性は」
「高くなった」
「御意」
「引き続き」
「見よ」
「武田の」
「奥へ」
「無理に」
「入る必要はない」
◆
「証を」
「取ろうとして」
「影を」
「失うな」
「は」
帝は。
一瞬。
宗一郎を。
思い出した。
おそらく。
あの男も。
同じことを。
言う。
そう思って。
少し。
笑った。
◆
「何か」
老人が。
尋ねる。
「いや」
帝が。
首を振る。
「似てきたと」
「思っただけだ」
「何が」
「こちらの」
「考え方が」
老人には。
意味が。
分からなかった。
帝は。
説明しなかった。
◆
鷹司家。
その頃。
冬姫は。
戦とは。
まったく。
違う敵と。
戦っていた。
「もう一度」
女房が。
言う。
冬姫が。
座り直す。
「はい」
「お歩きに」
「なってください」
冬姫が。
立つ。
一歩。
二歩。
三歩。
「速うございます」
止まる。
もう一度。
一歩。
二歩。
「今度は」
「遅うございます」
冬姫が。
女房を見る。
◆
「では」
「どのくらいが」
「よいのでしょう」
「優雅に」
「それが」
「分からないのです」
女房が。
額へ。
手を当てた。
「姫様」
「はい」
「戦場を」
「歩くのでは」
「ございませぬ」
「戦場を」
「歩いたことは」
「ございませぬ」
「例えです」
◆
冬姫が。
小さく。
笑う。
だが。
覚えることは。
本当に。
多かった。
歩き方。
座り方。
衣の扱い。
言葉。
歌。
書。
宮中で。
誰へ。
どのように。
挨拶するか。
誰の前で。
どこへ。
座るか。
何を。
言ってよいか。
何を。
言わぬ方がよいか。
◆
織田家で。
育った。
十四年。
それとは。
まるで。
違う世界。
それでも。
冬姫は。
逃げなかった。
夜。
手習いの。
紙へ。
何度も。
文字を書く。
指が。
痛くなっても。
続ける。
女房が。
止める。
「本日は」
「ここまでに」
「まだ」
「できます」
「明日も」
「ございます」
冬姫は。
筆を。
置いた。
◆
「難しいですね」
「はい」
女房が。
答える。
「ですが」
「姫様は」
「覚えが」
「早うございます」
冬姫が。
少し。
嬉しそうに。
笑った。
「父上には」
「言わないでください」
「何故で」
「褒められると」
「調子に乗ると」
「言われます」
女房が。
初めて。
声を出して。
笑った。
◆
その翌日。
明智光秀が。
鷹司家を。
訪れた。
養女入りの。
次。
帝への。
正式な婚姻へ。
進むため。
朝廷側との。
日取り。
儀礼。
贈答。
役目。
その。
調整。
光秀は。
一つずつ。
確認していく。
◆
だが。
その途中。
鷹司が。
言った。
「主上より」
「一つ」
「御意向が」
「御意向?」
「はい」
「急がせぬようにと」
光秀が。
顔を上げる。
「急がせぬ?」
「冬は」
「まだ」
「鷹司へ」
「入ったばかり」
「まず」
「こちらで」
「暮らし」
「学び」
「慣れさせよと」
◆
光秀は。
黙った。
政略婚。
なら。
早い方が。
よい。
正式に。
婚姻を結べば。
織田と。
朝廷の関係は。
より。
強くなる。
顕如。
毛利。
徳川。
各地への。
牽制にもなる。
それなのに。
帝は。
急がない。
「何故」
光秀が。
尋ねる。
鷹司は。
答えた。
「冬姫様が」
「物ではないからでしょう」
◆
光秀の目が。
僅かに。
変わった。
また。
それだ。
政治だけなら。
説明できない。
帝は。
本当に。
冬姫を。
一人の人間として。
扱おうとしている。
だが。
同時に。
国全体を。
恐ろしいほど。
冷静に。
見ている。
光秀には。
その二つが。
不思議だった。
◆
「鷹司様」
「何でしょう」
「主上は」
「いつ頃から」
「この婚姻を」
「考えておられたので」
鷹司が。
光秀を見る。
「それを」
「知って」
「どうなさる」
光秀は。
少し。
黙った。
「知りたいのです」
「何を」
「主上という」
「お方を」
◆
鷹司は。
しばらく。
何も言わなかった。
そして。
僅かに。
笑った。
「ならば」
「光秀殿」
「見ておれば」
「よろしい」
「見て」
「分かるので」
「少なくとも」
「人に聞くよりは」
「分かりましょう」
光秀は。
頭を下げた。
◆
その帰り。
光秀は。
禁裏の方角を。
見た。
疑っている。
だが。
敵としてではない。
知りたい。
何故。
帝は。
ここまで。
先を見る。
そして。
何故。
宗一郎は。
帝の考えを。
あれほど。
自然に。
受け入れている。
◆
石山本願寺。
その夜。
一人の使者が。
戻った。
顕如の前へ。
座る。
「毛利は」
顕如が。
尋ねる。
「話を」
「聞くとのことに」
「ございます」
教如の目が。
変わる。
「乗ったのか」
「まだ」
使者が答える。
「返答は」
「ございませぬ」
「ただ」
「使者を」
「追い返すことは」
「ありませんでした」
◆
顕如は。
目を閉じる。
十分。
今は。
それでよい。
毛利には。
毛利の。
事情がある。
織田と。
すぐに。
戦う理由は。
まだない。
なら。
理由を。
作ればよい。
◆
「何を」
「伝えた」
顕如が聞く。
「織田が」
「将軍を失わせ」
「今や」
「朝廷と」
「血を」
「結ぼうとしていること」
顕如の目が。
開く。
「言い方を」
「間違えるな」
使者が。
頭を下げる。
◆
「義昭を」
「殺したのは」
「信長ではない」
「帝だ」
教如が。
父を見る。
顕如は。
続けた。
「そこを」
「偽れば」
「こちらが」
「弱くなる」
「事実を」
「使え」
「織田が」
「朝廷と」
「結びつつある」
「それで」
「十分だ」
「御意」
◆
顕如は。
以前より。
慎重になっていた。
義昭で。
失敗した。
越前でも。
信長を。
止められなかった。
嘘を。
重ねれば。
どこかで。
崩れる。
なら。
事実を。
恐ろしく。
見せる。
織田信長が。
帝の。
外戚となる。
それは。
嘘ではない。
◆
「毛利へ」
「もう一つ」
「伝えよ」
「何を」
「今」
「動けとは」
「言わぬ」
顕如が。
地図の。
瀬戸内へ。
指を置く。
「ただ」
「海を」
「閉ざすなと」
教如が。
理解する。
石山。
兵糧。
硝石。
武器。
海路。
◆
戦が。
長引けば。
海が。
必要になる。
「父上」
「そこまで」
「見ておられるので」
「戦にならぬなら」
「それでよい」
顕如が。
静かに。
答えた。
「だが」
「戦になってから」
「船を」
「探しても」
「遅い」
◆
その会話を。
一人の僧が。
遠くから。
聞いていた。
顔を。
上げない。
反応もしない。
その夜。
経の。
一文字が。
また。
変わった。
◆
数日後。
帝の前へ。
報告。
――毛利。
――本願寺使者を受け入れる。
――返答なし。
――顕如。
――海路維持を要請する意向。
――一斉蜂起命令なし。
帝は。
読み終えた。
「顕如は」
「まだ」
「戦を」
「始めるつもりではない」
老人が。
頷く。
「そのように」
「見受けられます」
◆
「だが」
帝が。
紙を置く。
「戦になった時の」
「準備は」
「始めている」
「御意」
「信長へ」
「知らせる」
老人が。
僅かに。
顔を上げた。
「影のことも」
「知られるのでは」
「全部は」
「話さぬ」
帝が。
答える。
「石山が」
「毛利へ」
「接触した」
「それだけで」
「よい」
◆
「誰から」
「聞いたと」
「問われれば」
「朝廷にも」
「耳くらいあると」
「言っておけ」
老人が。
僅かに。
笑った。
「御意」
◆
その翌日。
信長の前へ。
朝廷からの。
書が。
届いた。
信長。
宗一郎。
半兵衛。
光秀。
丹羽長秀。
滝川一益。
柴田勝家は。
越前。
京にいる。
主要な者が。
集められた。
信長が。
書を読む。
そして。
地図へ。
投げる。
「顕如が」
「毛利へ」
「手を伸ばした」
空気が。
変わった。
◆
滝川が。
瀬戸内を見る。
「海ですか」
丹羽が。
頷く。
「石山へ」
「兵糧を」
「入れるなら」
「陸より」
「海の方が」
「大量に」
「運べます」
光秀が。
尋ねる。
「毛利は」
「応じたので」
信長が。
首を振る。
「まだ」
「返答はない」
◆
宗一郎が。
地図を見る。
毛利。
石山。
紀伊。
瀬戸内。
頭の中で。
未来の歴史が。
浮かぶ。
石山本願寺。
毛利水軍。
海上補給。
だが。
宗一郎は。
すぐに。
それを。
押し込めた。
未来は。
答えではない。
警告。
◆
「信長様」
「何だ」
「海を」
「調べましょう」
「毛利を」
「攻めるのでは」
「ありません」
「船」
「港」
「兵糧」
「硝石」
「誰が」
「どこから」
「運べるのか」
「先に」
「把握します」
丹羽が。
頷く。
「必要でしょう」
◆
信長が。
宗一郎を見る。
「やれ」
「はい」
「一益」
「は」
「西の」
「道も見ろ」
「承知」
「光秀」
「は」
「朝廷と」
「寺社」
「京を」
「引き続き」
「見ろ」
「は」
「長秀」
「船と」
「兵糧を」
「数えろ」
「御意」
◆
信長が。
最後に。
言った。
「まだ」
「戦ではない」
全員が。
信長を見る。
「顕如が」
「備えるなら」
「こちらも」
「備える」
「だが」
「先に」
「殴るな」
柴田が。
いれば。
少し。
不満そうな顔を。
したかもしれない。
宗一郎は。
そんなことを。
考えた。
◆
軍議が。
終わる。
光秀だけが。
少し。
残った。
「殿」
「何だ」
「一つ」
「よろしいでしょうか」
「申せ」
「この報せ」
光秀が。
朝廷からの。
書を見る。
「どこから」
「得たのでしょう」
信長が。
光秀を見る。
◆
「知らぬ」
「主上は」
「毛利と」
「石山の動きを」
「ここまで」
「早く」
「掴んでおられる」
「ああ」
「不思議では」
「ございませぬか」
信長が。
少し。
笑った。
「気になるか」
「はい」
◆
「なら」
「聞いてこい」
光秀の目が。
僅かに。
大きくなる。
「主上へ」
「直接で」
「ございますか」
「お前は」
「冬のことを」
「任せておる」
「朝廷へ」
「出入りする理由は」
「いくらでもある」
「ですが」
「聞いて」
「答えてくださるでしょうか」
信長が。
鼻で笑う。
◆
「知らん」
「……」
「だから」
「聞くのだろう」
光秀は。
しばらく。
黙った。
そして。
頭を下げた。
「承知いたしました」
◆
その夜。
宗一郎は。
甲斐から。
届いた。
新しい報告を。
読んでいた。
一行。
以前には。
なかった。
記述。
――信玄付き医師。
――薬種購入。
――完全停止。
宗一郎の。
指が。
止まる。
◆
「半兵衛」
「はい」
「寺は」
「まだです」
「もう一度」
「調べています」
「僧を」
「無理に」
「追うな」
「承知しております」
宗一郎は。
紙を。
置く。
かなり。
近い。
だが。
まだ。
言わない。
◆
同じ夜。
禁裏。
帝の前にも。
新しい報告が。
届いていた。
――躑躅ヶ崎館。
――夜間。
――密かに。
――香が大量に運び込まれる。
――寺院関係者。
――複数出入り。
――翌朝。
――痕跡なし。
帝は。
目を閉じた。
「葬いか」
老人は。
答えない。
帝も。
それ以上。
言わなかった。
◆
高槻の網。
帝の影。
別々の。
道。
別々の。
目。
別々の。
報告。
だが。
二つは。
同じ場所へ。
近づいていた。
甲斐の虎。
武田信玄。
その死へ。
◆
そして。
そのことを。
最も。
恐れている男が。
甲斐にいた。
武田勝頼。
父の。
死を。
隠す。
だが。
ただ。
隠れているだけでは。
武田は。
弱くなる。
勝頼は。
父の。
座っていた場所へ。
一人。
座った。
誰も。
いない。
部屋。
「父上」
返事は。
ない。
◆
「いつまで」
「あなたの」
「影に」
「隠れていれば」
「よいのです」
当然。
答えは。
返らない。
勝頼は。
目を閉じる。
やがて。
開いた。
その目から。
迷いが。
少し。
消えていた。
◆
「三年など」
「待てぬ」
勝頼が。
呟いた。
父の。
死を。
三年隠す。
だが。
三年。
自分が。
父の影として。
生きれば。
武田勝頼という。
当主は。
いつ。
生まれる。
◆
「武田を」
「残す」
それは。
父の。
最後の命。
だが。
父の。
真似を。
し続けることが。
武田を。
残すことなのか。
勝頼は。
立ち上がった。
「高坂を」
「呼べ」
外から。
声。
「はっ」
◆
少しして。
高坂昌信が。
入る。
「お呼びに」
「昌信」
「は」
「父上の」
「死は」
「隠す」
「御意」
「だが」
勝頼の目が。
高坂を見る。
「武田まで」
「止めるつもりはない」
高坂の。
表情が。
僅かに。
変わった。
◆
「明日から」
「評定を」
「増やす」
「私が」
「出る」
「御屋形様」
「父上の」
「名を使ってもよい」
勝頼が。
言う。
「だが」
「決めるのは」
「私だ」
沈黙。
高坂は。
しばらく。
勝頼を。
見ていた。
やがて。
深く。
頭を下げる。
「承知」
「いたしました」
◆
虎が。
消えた。
だが。
武田は。
消えていない。
その中から。
別の男が。
立とうとしている。
それが。
武田を。
救うのか。
滅ぼすのか。
まだ。
誰にも。
分からない。
宗一郎にも。
帝にも。
分からない。
ただ。
確かなことが。
一つだけ。
あった。
将軍が。
消えた。
織田と。
皇統が。
結ばれ始めた。
石山が。
毛利へ。
手を伸ばした。
そして。
甲斐では。
一つの時代を。
支えた。
虎が。
もう。
この世から。
消えていた。
時代は。
また。
一つ。
大きく。
動こうとしていた。




