第九十章 鷹司の娘
第九十章 鷹司の娘
「光秀」
「はっ」
「冬のことを」
「任せる」
明智光秀は。
一瞬。
意味が。
分からなかった。
「……冬姫様を」
「でございますか」
「ああ」
織田信長は。
目の前にある。
一通の書状を。
光秀へ。
投げるように。
渡した。
◆
光秀が。
受け取る。
鷹司家。
そして。
朝廷。
二つに。
関わる。
書。
光秀は。
素早く。
目を通した。
冬姫を。
鷹司家の。
養女とする。
そのための。
手続きを。
進める。
織田家と。
鷹司家。
双方の。
取り決め。
そして。
朝廷への。
奏上。
「なるほど」
光秀が。
頷く。
「私が」
「鷹司家との」
「折衝を」
「はい」
「お前が」
「一番向いておる」
信長が言った。
◆
それは。
確かだった。
公家。
寺社。
京。
朝廷。
織田家中で。
それらに。
最も詳しいのは。
光秀だった。
「承知いたしました」
光秀が。
頭を下げる。
だが。
信長は。
続けた。
「ただし」
「は」
「これは」
「ただの養女ではない」
光秀が。
顔を上げる。
「と」
「申されますと」
信長は。
少し。
間を置いた。
そして。
言った。
「冬は」
「鷹司の娘となった後」
「主上へ」
「嫁ぐ」
◆
光秀の。
表情が。
止まった。
ほんの。
僅か。
だった。
だが。
宗一郎には。
分かった。
――驚いた。
当然だった。
光秀は。
朝廷との。
折衝を。
多く任されている。
だが。
この話は。
まだ。
限られた者しか。
知らない。
「……主上へ」
光秀が。
ゆっくり。
繰り返す。
「ああ」
信長は。
それだけ。
答えた。
◆
光秀の。
頭の中で。
いくつもの。
ものが。
繋がった。
鷹司。
冬姫。
帝。
そして。
信長。
織田信長の。
実の娘。
それを。
一度。
鷹司家へ。
養女として入れる。
その後。
帝へ。
嫁がせる。
つまり。
鷹司家への。
養女入りそのものが。
目的ではない。
その先。
帝との。
婚姻。
最初から。
そこまで。
決まっている。
◆
「殿」
「何だ」
「一つ」
「お尋ねしても」
「構わん」
光秀は。
慎重に。
言葉を選んだ。
「このお話」
「どなたが」
「考えられたのでございますか」
宗一郎が。
光秀を見る。
信長は。
隠さなかった。
「主上だ」
光秀の。
目が。
僅かに。
動いた。
◆
「……主上が」
「ああ」
「鷹司殿では」
「ないのですか」
「違う」
「主上が」
「鷹司へ」
「話をされた」
「そして」
「鷹司から」
「儂へ」
「話が来た」
光秀は。
黙った。
それは。
予想していなかった。
◆
光秀は。
帝を。
軽く見ていない。
むしろ。
逆だった。
足利義昭を。
最後まで。
諫めた。
そして。
帝の。
勅命を。
直接受け。
将軍家の兵を。
止めた。
最後には。
義昭自身が。
帝の裁きを。
受けた。
あの日。
光秀は。
理解した。
今の帝は。
ただ。
御簾の奥に。
座っているだけの。
存在ではない。
だが。
これは。
それ以上だった。
◆
「何故」
光秀が。
小さく呟いた。
信長が。
眉を上げる。
「何がだ」
「いえ」
光秀は。
一度。
頭を下げた。
だが。
疑問は。
消えない。
何故。
主上は。
そこまで。
先を見ている。
幕府が。
消えた。
直後。
武家の。
新しい秩序が。
まだ。
決まっていない。
その時に。
織田信長の娘を。
妻にする。
偶然。
ではない。
◆
「殿」
光秀が。
もう一度。
尋ねる。
「冬姫様は」
「このことを」
「承知しておられるので」
「自分で決めた」
信長は。
即答した。
光秀が。
顔を上げる。
「自ら」
「主上と」
「二度会った」
「二度?」
「ああ」
「話をして」
「冬自身が」
「鷹司へ入り」
「主上へ嫁ぐと」
「決めた」
光秀の顔から。
僅かな。
緊張が。
消えた。
◆
「そうで」
「ございましたか」
信長が。
光秀を見る。
「何だ」
「冬が」
「嫌がっておるとでも」
「思ったか」
「……少し」
信長の目が。
細くなる。
「光秀」
「は」
「儂は」
「そこまで」
「酷い父か」
光秀は。
返答に。
困った。
宗一郎が。
横を向いた。
半兵衛も。
口元を。
隠した。
◆
「何故」
「誰も」
「答えぬ」
「難しい質問ですので」
宗一郎が答える。
「貴様には」
「聞いておらん」
「はい」
◆
少し。
空気が。
緩んだ。
だが。
光秀の。
疑念そのものは。
消えなかった。
冬姫の。
意思。
そこではない。
問題は。
もっと。
大きい。
「殿」
「まだあるのか」
「ございます」
光秀が。
姿勢を正す。
「この婚姻が」
「成立すれば」
「殿は」
「主上の」
「外戚となられます」
「ああ」
「そして」
「もし」
「御子が」
「お生まれになれば」
言葉が。
止まる。
その先を。
口にすることは。
あまりにも。
重い。
信長が。
代わりに言った。
「その子には」
「儂の血が」
「入る」
「……は」
◆
「だから」
「何だ」
信長の声は。
静かだった。
光秀は。
信長を見る。
「殿は」
「それを」
「望まれたので」
「違う」
即答。
「話を」
「持ってきたのは」
「主上だと」
「言ったであろう」
「では」
「何故」
「お受けになったので」
信長は。
少し。
黙った。
そして。
言った。
「冬が」
「決めたからだ」
光秀の目が。
僅かに。
変わる。
◆
「それだけで」
「ございますか」
「それだけではない」
信長が。
腕を組む。
「この縁が」
「天下に」
「何をもたらすか」
「分からぬほど」
「儂は」
「馬鹿ではない」
「ならば」
「何を」
「お考えに」
「光秀」
信長が。
遮った。
「儂は」
「帝に」
「なりたいのではない」
部屋が。
静かになる。
◆
「将軍も」
「いらぬ」
「帝にも」
「なれぬ」
「なる気もない」
信長が。
鼻で笑う。
「儂は」
「儂だ」
「ならば」
「何故」
「繋がる必要が」
「あるのでございます」
信長は。
光秀を。
じっと見た。
「繋がらねば」
「また」
「割れるからだ」
◆
光秀が。
黙る。
「武家と」
「朝廷」
信長が言う。
「どちらが」
「上か」
「どちらが」
「天下を」
「動かすか」
「そんなことを」
「百年後まで」
「争わせるつもりはない」
宗一郎が。
信長を見る。
信長は。
続ける。
「主上には」
「主上の役目がある」
「儂には」
「儂の役目がある」
「違うなら」
「違うままでよい」
「だが」
「敵になる必要はない」
◆
光秀は。
何も。
言わなかった。
古きものを。
重んじる。
光秀だからこそ。
その言葉の。
意味が。
分かった。
武家が。
朝廷を。
押さえ込む。
それも。
違う。
朝廷が。
武家の軍を。
直接握る。
それも。
違う。
なら。
どうする。
役目を。
分ける。
そして。
争わぬために。
繋ぐ。
◆
だが。
それでも。
光秀には。
引っ掛かるものが。
あった。
――主上だ。
信長ではない。
宗一郎でもない。
帝。
何故。
十七歳の帝が。
ここまで。
先を。
見ている。
義昭の時も。
そうだった。
勅命を。
出す時。
迷いが。
なかった。
将軍を。
裁く時も。
そう。
そして。
今度は。
武家と。
朝廷を。
血で。
結ぼうとしている。
◆
「宗一郎殿」
突然。
光秀が。
宗一郎を見る。
宗一郎の。
背筋に。
嫌なものが。
走った。
「はい」
「あなたは」
「いつから」
「この話を」
「ご存じだった」
「……」
信長が。
笑った。
「聞いてやれ」
「殿」
「儂も」
「それは」
「気になっておる」
宗一郎は。
頭を抱えたくなった。
◆
「少し前から」
「少しとは」
「少しです」
「いつです」
「そこまで」
「細かく」
「聞きます?」
「聞きます」
光秀の目が。
鋭い。
半兵衛が。
宗一郎を見る。
楽しんでいる。
「半兵衛」
「何でしょう」
「助けて」
「無理でございます」
◆
「宗一郎殿」
光秀が。
続ける。
「主上から」
「直接」
「お聞きになったのですか」
宗一郎は。
答えに。
詰まった。
嘘は。
つきたくない。
だが。
帝との。
約束がある。
帝が。
未来から来た。
そのことは。
信長にも。
半兵衛にも。
話せない。
「そのことは」
宗一郎が。
慎重に答える。
「俺からは」
「言えません」
光秀の目が。
変わる。
◆
「言えない?」
「はい」
「誰の命で」
宗一郎は。
黙った。
それだけで。
十分だった。
光秀は。
目を細めた。
「……主上」
宗一郎は。
何も言わない。
否定もしない。
光秀は。
しばらく。
宗一郎を見ていた。
◆
信長も。
宗一郎を見る。
「おい」
「はい」
「やはり」
「何か」
「隠しておるな」
「前にも」
「申し上げました」
「言えないものは」
「言えません」
「儂にもか」
「信長様にも」
「半兵衛にも」
半兵衛が。
笑う。
「私は」
「巻き込まれましたか」
「一緒に」
「怒られてください」
「嫌です」
◆
光秀は。
そのやり取りを。
見ていた。
そして。
確信した。
何かが。
ある。
宗一郎と。
帝。
二人の間に。
自分たちが。
知らない。
何かが。
だが。
敵意ではない。
むしろ。
逆。
宗一郎は。
帝を。
警戒しながらも。
信じている。
それが。
光秀には。
不思議だった。
◆
「分かりました」
光秀が。
頭を下げる。
「冬姫様の」
「養女入り」
「私が」
「責任を持って」
「進めます」
信長が。
頷く。
「頼む」
「ただし」
光秀が。
顔を上げる。
「私も」
「確かめとうございます」
「何をだ」
「この婚姻が」
「誰のためのものなのか」
信長の目が。
細くなる。
光秀は。
続けた。
「織田のためか」
「朝廷のためか」
「主上のためか」
「あるいは」
「この国のためなのか」
◆
信長は。
しばらく。
光秀を見た。
そして。
笑った。
「なら」
「見てこい」
「よろしいので」
「ああ」
「お前が」
「養女入りを」
「取り仕切るのだ」
「嫌でも」
「見える」
光秀が。
深く。
頭を下げた。
「は」
◆
その日から。
光秀は。
動いた。
まず。
鷹司家。
冬姫を。
単なる。
名目上の養女に。
してはならない。
鷹司家の。
正式な娘として。
迎える。
そのための。
手順。
贈答。
書状。
親族への。
知らせ。
朝廷への。
奏上。
そして。
冬姫が。
宮中へ入るための。
教育。
一つ。
一つ。
光秀が。
確認した。
◆
鷹司家で。
光秀は。
当主と。
向かい合った。
「一つ」
「確認したきことが」
「何でしょう」
「冬姫様は」
「鷹司家の」
「名だけを」
「借りるのでは」
「ございませぬな」
鷹司は。
少し。
表情を。
硬くした。
「無論」
「では」
「織田の娘であることは」
「どうなります」
鷹司は。
光秀を。
真っ直ぐ見た。
◆
「消えませぬ」
光秀の目が。
動く。
「冬姫様は」
「鷹司の娘となる」
「だが」
「十四年」
「織田の娘として」
「生きてこられたことまで」
「消せるものではない」
光秀は。
黙る。
それは。
帝が。
冬姫へ。
言った言葉と。
同じだった。
もちろん。
光秀は。
それを知らない。
◆
「それを」
「主上も」
「望まれております」
鷹司が。
続けた。
光秀が。
尋ねる。
「主上が」
「そのように?」
「はい」
「冬姫様を」
「織田を捨てさせるために」
「鷹司へ」
「入れるのではない」
「なら」
「何故」
「鷹司なのでございます」
鷹司は。
しばらく。
光秀を見る。
◆
「橋です」
「橋?」
「武家から」
「いきなり」
「禁裏へ」
「姫君を入れれば」
「それを」
「織田が」
「禁裏へ」
「直接入り込んだと」
「見る者も出ましょう」
光秀が。
僅かに。
頷く。
「鷹司が」
「間へ入る」
「姫を」
「預かり」
「公家の娘として」
「送り出す」
「だが」
「織田の血を」
「隠しはしない」
◆
「つまり」
光秀が言う。
「織田と」
「朝廷の」
「どちらかが」
「どちらかを」
「呑み込む形にしない」
鷹司が。
頷いた。
「そのように」
「主上は」
「お考えです」
また。
主上。
光秀の。
疑念は。
消えるどころか。
深くなる。
◆
その帰り。
光秀は。
馬上で。
考え続けていた。
十七歳。
まだ。
十七歳。
なのに。
何故。
そこまで。
武家を。
知っている。
何故。
そこまで。
先を。
考える。
そして。
何故。
宗一郎と。
考え方が。
似ている。
「……高槻殿」
光秀が。
小さく呟いた。
偶然。
なのだろうか。
◆
数日後。
冬姫は。
鷹司家へ。
移る準備を。
始めていた。
衣。
書。
身の回りの品。
だが。
荷は。
驚くほど。
少ない。
帰蝶が。
尋ねる。
「それだけで」
「よいのですか」
「はい」
冬姫が。
答える。
「また」
「来られますから」
帰蝶の目が。
僅かに。
揺れる。
◆
「主上が」
「そう仰ったのですか」
「はい」
「鷹司の娘となっても」
「父上と」
「母上の娘であることは」
「変わらぬと」
帰蝶は。
静かに。
冬姫を。
抱き寄せた。
「母上?」
「少しだけ」
「このままで」
冬姫は。
何も言わず。
母の背へ。
手を回した。
◆
少し離れた。
廊下。
信長が。
立っていた。
声を。
掛けない。
ただ。
見ている。
その横へ。
宗一郎が。
来た。
「信長様」
「何だ」
「寂しいんですか」
「殺すぞ」
「すみません」
「貴様は」
「本当に」
「余計なことだけは」
「すぐ分かるな」
宗一郎は。
笑った。
◆
「でも」
宗一郎が言う。
「遠くへ」
「行くわけじゃない」
「ああ」
「会えます」
「分かっておる」
「なら」
「大丈夫です」
信長が。
宗一郎を見る。
「お前は」
「娘を」
「嫁に出したことが」
「あるのか」
「ありません」
「なら」
「黙っておれ」
「はい」
◆
やがて。
その日が。
来た。
華美な。
行列ではない。
まだ。
帝への。
輿入れではない。
織田家から。
鷹司家へ。
一人の。
娘が。
移る日。
だが。
京の。
多くの者が。
その意味を。
理解し始めていた。
◆
冬姫が。
輿へ。
乗る前。
信長の前へ。
座った。
「父上」
「うむ」
「行ってまいります」
信長が。
眉を寄せる。
「嫁入りは」
「まだ先だ」
冬姫が。
笑う。
「分かっております」
「なら」
「そのような顔をするな」
「どのような顔です」
「今生の別れのような」
「顔だ」
冬姫が。
少し。
笑った。
◆
「父上」
「何だ」
「ありがとうございました」
信長が。
黙る。
「まだ」
「礼を言うには」
「早い」
「では」
「また」
「言います」
「ああ」
冬姫が。
頭を下げる。
信長は。
最後まで。
泣かなかった。
もちろん。
泣くはずもない。
だが。
輿が。
見えなくなってからも。
その場を。
しばらく。
動かなかった。
宗一郎は。
何も。
言わなかった。
今度は。
本当に。
何も。
言わなかった。
◆
鷹司家。
冬姫を。
迎えたのは。
当主だけではない。
家の者。
女房。
そして。
明智光秀。
今日。
光秀は。
織田家の。
使者として。
正式に。
冬姫を。
鷹司家へ。
託す。
書が。
読み上げられる。
形式。
言葉。
儀礼。
一つ。
一つ。
古い。
古い。
仕来り。
だが。
光秀は。
それを。
軽んじなかった。
◆
何百年と。
続いてきた。
もの。
新しい世を。
作るからと。
全て。
壊してよいわけではない。
残すべきもの。
変えるべきもの。
その境を。
見極める。
それが。
必要だ。
光秀は。
そう。
考えていた。
だからこそ。
この婚姻が。
気になった。
◆
手続きが。
終わる。
冬姫は。
正式に。
鷹司家の。
娘となった。
だが。
それは。
織田との。
縁が切れたことを。
意味しない。
鷹司の娘。
そして。
織田信長の娘。
二つを。
抱えたまま。
やがて。
帝のもとへ。
嫁ぐ。
◆
光秀は。
冬姫を見た。
十四歳。
小さな。
肩。
その肩へ。
あまりにも。
大きなものが。
乗っている。
「冬姫様」
「はい」
「一つ」
「お尋ねしても」
「よろしいでしょうか」
冬姫が。
光秀を見る。
「何でしょう」
◆
「怖くは」
「ございませぬか」
冬姫は。
少し。
考えた。
「怖いです」
光秀は。
少し。
驚いた。
「ですが」
冬姫が続ける。
「怖いから」
「やめるのは」
「もっと」
「嫌でございます」
光秀の目が。
僅かに。
見開かれる。
◆
「主上を」
「信じておられるのですか」
冬姫は。
また。
考えた。
「まだ」
「全部は」
「知りませぬ」
「二度しか」
「お会いしておりませんから」
「では」
「何故」
「決められたので」
冬姫は。
少し。
笑った。
「知りたいと」
「思ったからです」
◆
「何を」
「主上が」
「作ろうとしている国を」
光秀が。
動かなくなる。
冬姫は。
続けた。
「そして」
「私も」
「その国を」
「見たいと」
「思いました」
光秀は。
深く。
頭を下げた。
「そうで」
「ございますか」
疑念が。
一つ。
消えた。
少なくとも。
冬姫は。
道具ではない。
自分で。
選んだ。
◆
だが。
別の疑念は。
残った。
帝。
何故。
あの若さで。
そこまで。
先を。
見る。
そして。
高槻宗一郎。
何故。
あの男は。
それを。
驚かない。
二人の間に。
何がある。
光秀は。
まだ。
知らない。
◆
その夜。
禁裏。
帝の前に。
一人の。
影が。
膝をついていた。
「滞りなく」
「鷹司家へ」
「入られました」
帝が。
目を閉じる。
「そうか」
「明智光秀殿が」
「すべて」
「取り仕切られました」
「光秀が」
「は」
帝は。
少し。
考えた。
「何か」
「気づいたか」
影が。
一瞬。
黙る。
「主上と」
「高槻殿の間に」
「何かあるのではないかと」
「疑っているように」
「見受けられます」
帝が。
額へ。
手を当てた。
◆
「あの男も」
「鋭いな」
「いかが」
「なさいます」
「何もするな」
帝は。
即答した。
「光秀は」
「信長の臣だ」
「疑うことまで」
「止める必要はない」
「御意」
「それより」
帝が。
影を見る。
「石山は」
影の空気が。
変わった。
◆
「顕如が」
「動いております」
「毛利への」
「使者を」
「急がせました」
「紀伊では」
「船と」
「米」
「硝石の確保が」
「進んでおります」
帝の目が。
細くなる。
「門徒は」
「まだ」
「一斉蜂起の命は」
「出ておりませぬ」
「だが」
「備えさせている」
「は」
◆
「焦っているな」
帝が。
呟く。
「そのように」
「見受けられます」
「焦りは」
「人を」
「早く動かす」
「そして」
帝が。
静かに。
続ける。
「早く動けば」
「間違える」
「見ておけ」
「は」
「まだ」
「手は出すな」
「顕如が」
「備えるだけなら」
「こちらも」
「見るだけだ」
◆
だが。
帝の影は。
すでに。
動いている。
安芸。
毛利家。
家臣たちが。
集まる。
その。
少し後ろ。
書を。
整理している。
一人の男。
誰も。
気にしない。
長く。
毛利家へ。
仕えている。
男。
その男の耳へ。
石山から。
使者が。
近づいているとの。
報せが。
入る。
男は。
何も。
しない。
ただ。
覚える。
◆
紀伊。
港。
船を。
数える男。
三河。
徳川家臣の。
屋敷で。
書状を運ぶ者。
越後。
上杉家の。
城下で。
商いをする者。
甲斐。
武田家の。
奥深く。
主君の。
姿が見えぬことに。
気づいている者。
それぞれが。
互いの。
顔を知らない。
名も。
知らない。
だが。
同じ。
存在。
帝の影。
◆
そして。
甲斐。
一人の影が。
異変を。
見ていた。
武田信玄が。
姿を。
見せない。
一月。
二月。
長い。
病。
それだけなら。
説明はつく。
だが。
おかしい。
医師。
僧。
側近。
使者。
そして。
勝頼。
動きが。
変わっている。
◆
影は。
断定しない。
――信玄死去。
そうは。
書かなかった。
代わりに。
書いた。
――武田信玄。
――約二月。
――公の場に姿なし。
――勝頼。
――主要家臣との会合増加。
――医師の出入り。
――以前より減少。
――一部街道。
――監視強化。
――理由不明。
事実だけ。
◆
その報告は。
何人もの。
手を経て。
京へ。
向かった。
だが。
同じ頃。
別の道から。
同じ異変を。
追っている者たちがいた。
高槻の。
目と耳。
◆
高槻屋敷。
半兵衛が。
一枚の紙を。
宗一郎へ。
渡した。
「甲斐からです」
宗一郎が。
読む。
そして。
表情が。
変わる。
「信玄が」
「二月近く」
「人前に出ていない」
「はい」
「勝頼の動きも」
「増えております」
宗一郎は。
黙った。
◆
未来の。
記憶。
武田信玄。
その死。
本来の。
歴史。
だが。
今は。
もう。
本来の歴史ではない。
宗一郎は。
紙を。
置いた。
「死んだと」
「書いてない」
「はい」
半兵衛が。
答える。
「だから」
「まだ」
「死んだとは」
「考えない」
「承知しました」
◆
宗一郎は。
甲斐を。
見つめる。
幕府が。
消えた。
冬姫が。
鷹司の娘となった。
帝との。
婚姻が。
進む。
顕如が。
焦る。
毛利へ。
手を伸ばす。
そして。
甲斐では。
信玄が。
消えようとしている。
あまりにも。
多くのものが。
同時に。
動き始めている。
◆
半兵衛が。
尋ねる。
「次は」
「何を」
「見ます」
宗一郎は。
答えた。
「全部です」
「全部?」
「甲斐だけじゃない」
宗一郎が。
地図へ。
指を置く。
三河。
遠江。
美濃。
飛騨。
越後。
相模。
「信玄が」
「本当に死んだら」
「動くのは」
「武田だけじゃない」
半兵衛の目が。
細くなる。
◆
「周りが」
「動く」
「はい」
宗一郎が。
地図を見る。
そして。
静かに。
言った。
「歴史が」
「変わったからこそ」
「一つだけ」
「忘れちゃいけない」
「何でしょう」
「人は」
「変わってない」
欲。
恐れ。
野心。
愛情。
恨み。
忠義。
それらは。
未来でも。
戦国でも。
変わらない。
◆
鷹司家。
夜。
冬姫は。
新しい部屋で。
一人。
座っていた。
今日から。
ここが。
家になる。
まだ。
不思議だった。
織田の娘。
鷹司の娘。
そして。
やがて。
帝の妻。
障子の外から。
女房の声がする。
「姫様」
「はい」
「明日より」
「宮中へ入られるための」
「お稽古を」
「始めます」
冬姫が。
小さく。
息を吐いた。
「何から」
「歌」
「書」
「作法」
「装束」
「言葉」
「儀礼」
「まだ」
「ございます」
冬姫が。
少し。
黙った。
◆
「多いですね」
「はい」
「逃げても」
「よいでしょうか」
女房が。
一瞬。
固まった。
部屋の中から。
冬姫の。
笑い声が。
聞こえる。
「冗談です」
女房が。
深く。
息を吐いた。
「姫様」
「そのようなところは」
「織田に」
「置いてきていただきとう」
「ございます」
冬姫が。
また。
笑った。
◆
織田の娘が。
鷹司の娘となった。
だが。
織田の娘で。
なくなったわけではない。
そして。
その先には。
帝がいる。
時代は。
確かに。
変わった。
だが。
変わった時代は。
待ってはくれない。
西では。
顕如が。
毛利へ。
手を伸ばす。
東では。
武田信玄の。
姿が。
消えた。
京では。
将軍のいない。
新しい国の形を。
作らなければならない。
そして。
そのすべてを。
二つの網が。
見始めていた。
高槻宗一郎の。
新しい目。
そして。
千年の闇へ。
根を張る。
帝の影。
二つは。
まだ。
手を結んでいない。
互いの。
正体すら。
知らない。
だが。
同じ国を。
見ていた。
次に。
大きく動く場所を。
探しながら。




