第八十九章 時代が変わった日
第八十九章 時代が変わった日
冬姫と。
帝が。
初めて会ってから。
数日。
鷹司家。
再び。
二人は。
向かい合っていた。
十七歳の帝。
十四歳の冬姫。
前とは。
少しだけ。
違う。
冬姫は。
もう。
帝から。
目を逸らさなかった。
◆
「冬」
帝が。
先に口を開く。
「はい」
「また会ったな」
「はい」
冬姫が。
小さく笑う。
「今日は」
「前ほど」
「緊張しておりませぬ」
「そうか」
「はい」
少し。
間を置いて。
冬姫が続ける。
「ですが」
「やはり」
「少しは」
「緊張しております」
帝が。
笑った。
「朕もだ」
冬姫の目が。
僅かに。
大きくなる。
「主上も?」
「当たり前だ」
「朕を」
「何だと思っている」
冬姫が。
少し考える。
「帝にございます」
「それはそうだ」
◆
離れた場所に。
鷹司家の当主。
そして。
冬姫に付き添う。
女房。
二人だけには。
しない。
だが。
会話へは。
口を挟まない。
前回と。
同じ。
ただ。
今日は。
一つだけ。
違う。
冬姫には。
聞きたいことが。
決まっていた。
◆
「主上」
「何だ」
「今日は」
「一つ」
「お聞きしたいことが」
「聞け」
冬姫は。
一度。
息を吸った。
「主上は」
「どのような国を」
「お作りに」
「なりたいのですか」
帝の表情が。
止まった。
鷹司も。
僅かに。
顔を上げる。
十四歳の少女が。
二度目の面会で。
帝へ。
尋ねたこと。
それは。
自分が。
どれほど。
大切にされるのか。
でもない。
何を。
与えてもらえるのか。
でもない。
国。
だった。
◆
「難しいことを」
「聞くな」
帝が。
小さく笑う。
冬姫が。
僅かに。
俯く。
「申し訳ございませぬ」
「謝るな」
帝が。
すぐに言う。
「良い問いだ」
冬姫が。
顔を上げる。
帝は。
少しだけ。
考えた。
前世。
平成。
令和。
歴史学者として。
学んだ。
長い。
人の歴史。
戦争。
革命。
飢餓。
疫病。
そして。
広島。
長崎。
知っていることは。
多い。
だが。
その未来を。
そのまま。
話すことは。
できない。
◆
「戦が」
「終わる国」
帝が言った。
冬姫は。
黙って聞く。
「ですが」
「父上も」
「戦を終わらせようと」
「しております」
「ああ」
「なら」
「同じなのでしょうか」
帝は。
首を横に振った。
「それだけでは」
「足りぬ」
「戦を」
「終わらせるだけでは」
「駄目だ」
冬姫が。
帝を見る。
「何故でございます」
「終わった戦が」
「また始まるからだ」
◆
帝は。
静かに続けた。
「一人の」
「強い者が」
「天下をまとめる」
「それで」
「一度は」
「戦が終わるかもしれぬ」
「だが」
「その者が」
「死んだら」
「どうなる」
冬姫は。
答えない。
「子が」
「同じだけ」
「強いとは限らぬ」
「家臣が」
「従い続けるとも」
「限らぬ」
「再び」
「天下を欲する者が」
「出るかもしれぬ」
冬姫が。
小さく。
頷いた。
◆
「だから」
帝が言う。
「朕が望むのは」
「戦を終わらせる国ではない」
「戦へ」
「戻らぬ国だ」
冬姫の目が。
僅かに。
変わる。
帝は。
続ける。
「誰か一人が」
「いなければ」
「壊れる国ではない」
「信長が」
「死んでも」
「壊れぬ」
「朕が」
「死んでも」
「壊れぬ」
鷹司の目が。
静かに。
帝へ向いた。
◆
帝自身が。
いなくなっても。
残る国。
それを。
帝本人が。
口にする。
「法が」
「残る」
「役目が」
「残る」
「記録が」
「残る」
「学ぶ場所が」
「残る」
「薬を作る場所が」
「残る」
「商いが」
「続く」
「道が」
「残る」
「そして」
帝は。
冬姫を見る。
「人が」
「残る」
◆
冬姫は。
しばらく。
何も言わなかった。
そして。
静かに。
尋ねた。
「それは」
「高槻様が」
「なさっていることと」
「似ておりませんか」
帝の目が。
僅かに。
大きくなった。
「何故」
「そう思う」
「父上から」
「聞いております」
冬姫が答える。
「高槻の学問所では」
「百姓の子でも」
「商人の子でも」
「学べると」
「はい」
「飯も」
「食べられると」
「そうだ」
「技術所では」
「薬を」
「作っているとも」
「聞いております」
帝が。
黙る。
◆
「父上は」
冬姫が。
少し。
笑う。
「高槻様のことを」
「よく」
「変な男だと」
「申しております」
帝が。
吹き出した。
「信長らしい」
「ですが」
冬姫の声が。
少し。
柔らかくなる。
「父上は」
「高槻様の話をする時」
「楽しそうにございます」
帝は。
何も。
言わなかった。
それは。
何となく。
分かる。
◆
「主上も」
「高槻様と」
「同じものを」
「見ておられるのでしょうか」
鋭い。
帝は。
改めて。
そう思った。
十四歳。
だが。
信長の娘。
人を。
よく見ている。
「同じかは」
「分からぬ」
帝は。
嘘をつかなかった。
「だが」
「似たものを」
「見ているのかもしれぬ」
「では」
「父上も?」
帝は。
少し考えた。
「あの男は」
「少し違う」
冬姫が。
首を傾げる。
「違うのですか」
「ああ」
「信長は」
「道がなければ」
「まず」
「壊す」
冬姫が。
思わず。
笑った。
◆
「否定できませぬ」
「だろう」
「宗一郎は」
「壊した後に」
「何を置くかを考える」
「朕は」
「それが」
「その二人が死んだ後も」
「残るかを考える」
冬姫が。
帝を見る。
信長。
宗一郎。
帝。
三人は。
同じではない。
だからこそ。
必要なのかもしれない。
◆
「主上」
「何だ」
「もし」
「父上と」
「主上の考えが」
「違ったら」
鷹司の表情が。
僅かに。
固くなった。
それは。
簡単な。
問いではない。
帝と。
外戚となる。
信長。
その間に。
入ることになる。
冬姫。
「私は」
「どちらに」
「従えばよいのでしょう」
帝は。
すぐには。
答えなかった。
◆
「どちらにも」
冬姫の目が。
大きくなる。
「従わなくてよい」
「え?」
「お前は」
「信長の」
「間者として」
「朕へ嫁ぐのではない」
帝の声が。
静かになる。
「朕も」
「お前を」
「信長を操るための」
「人質にするつもりはない」
冬姫は。
帝を。
じっと見る。
「父と」
「夫が」
「違うことを言えば」
「お前自身が」
「考えよ」
「私が?」
「ああ」
「どちらが」
「正しいと思うか」
「自分で決めろ」
◆
冬姫が。
少し。
困った顔をした。
「難しゅうございます」
「朕も」
「難しい」
帝は。
即答した。
冬姫が。
笑う。
「主上にも」
「分からぬことが」
「あるのですね」
「山ほどある」
「帝なのに?」
「帝だから」
「何でも分かるなら」
「苦労はせぬ」
今度は。
鷹司まで。
僅かに。
笑った。
◆
だが。
冬姫は。
もう一つ。
聞いた。
「では」
「もし」
「父上が」
「戦に敗れたら」
帝の目が。
変わった。
「織田家が」
「力を失っても」
「このお話は」
「変わりませぬか」
部屋が。
静かになる。
政略結婚。
織田信長が。
強いから。
価値がある。
天下へ。
最も近い男の。
娘だから。
帝へ嫁ぐ。
ならば。
信長が。
力を失えば。
どうなる。
十四歳の少女は。
そこまで。
考えていた。
◆
「変わらぬ」
帝は。
即答した。
冬姫が。
帝を見る。
「一度」
「朕の妻となった者を」
「父親が」
「負けたからと」
「捨てるつもりはない」
「ですが」
「政のための」
「婚姻なのでしょう」
「ああ」
帝は。
否定しない。
「始まりは」
「そうだ」
「だが」
帝の声が。
少し。
強くなる。
「婚姻した後まで」
「お前を」
「政の道具としてしか」
「見ぬつもりはない」
冬姫の目が。
帝から。
離れない。
◆
「前にも」
「言ったな」
「はい」
「お前は」
「血ではない」
「一人の人間だ」
冬姫が。
小さく。
頷く。
「なら」
「信長の力が」
「失われようと」
「お前が」
「別の人間になるわけではない」
冬姫の手が。
膝の上で。
僅かに。
動いた。
その言葉を。
確かめるように。
◆
長い。
沈黙。
やがて。
冬姫が。
口を開いた。
「主上」
「何だ」
「私も」
「一つ」
「お話ししてよろしいでしょうか」
「もちろんだ」
冬姫は。
少し。
視線を落とした。
「私は」
「国のことなど」
「よく分かりませぬ」
「父上のように」
「戦もできませぬ」
「高槻様のように」
「新しいものを」
「作ることもできませぬ」
帝は。
黙って聞く。
◆
「ですが」
冬姫が。
ゆっくり。
顔を上げる。
「戦へ出た人が」
「帰ってこられる国が」
「よいです」
帝の表情が。
変わった。
「帰ってくる国?」
「はい」
「父も」
「兄も」
「夫も」
「戦へ行けば」
「帰ってくるか」
「分かりませぬ」
「待っている者は」
「ただ」
「待つしかございませぬ」
◆
冬姫の声が。
僅かに。
小さくなる。
「ですから」
「戦へ行っても」
「帰ってこられる」
「いえ」
冬姫は。
首を横に振る。
「そもそも」
「戦へ」
「行かなくてもよい」
「そのような国が」
「私は」
「よいです」
帝は。
何も。
言えなかった。
◆
広島。
長崎。
沖縄。
東京。
前世で。
歴史学者だった。
自分は。
何度も。
資料を。
読んだ。
死者。
何万人。
何十万人。
そんな。
数字。
だが。
その数字の。
一つ一つに。
帰ってこなかった。
誰かがいる。
待っていた。
誰かがいる。
「帰ってくる国」
帝が。
呟いた。
冬姫が。
少し。
恥ずかしそうにする。
「国というには」
「小さな話でしょうか」
「いや」
帝は。
首を横に振る。
「それが」
「国だ」
◆
冬姫が。
顔を上げる。
「人が」
「生きる」
「家へ」
「帰る」
「飯を食う」
「子を育てる」
「病になれば」
「治そうとする」
「学びたい者が」
「学ぶ」
「商いをする」
「その当たり前を」
「守るために」
「国がある」
帝は。
冬姫を。
真っ直ぐ見る。
「朕も」
「その国を」
「見たい」
冬姫の目が。
僅かに。
潤んだ。
◆
それは。
恋では。
まだない。
二度。
会っただけ。
十七歳と。
十四歳。
互いのことなど。
まだ。
ほとんど。
知らない。
だが。
この人となら。
同じものを。
見られるかもしれない。
冬姫は。
そう。
思った。
◆
「主上」
「何だ」
「私は」
冬姫が。
姿勢を正した。
鷹司が。
顔を上げる。
付き添いの女房も。
冬姫を見る。
帝は。
何も言わず。
待った。
「決めました」
帝の目が。
僅かに。
変わる。
◆
「鷹司家の」
「養女となります」
鷹司が。
静かに。
頭を下げた。
冬姫は。
続ける。
「そして」
一度。
息を吸う。
「主上のもとへ」
「嫁ぎとうございます」
静寂。
◆
帝は。
すぐには。
答えなかった。
十七歳の。
少年としてなら。
喜べばよい。
帝としてなら。
この言葉の。
重さを。
考えなければならない。
織田信長の。
娘。
鷹司家の。
養女。
そして。
帝の。
妻。
その意味は。
あまりにも。
大きい。
「冬」
「はい」
「父に」
「言われたからでは」
「ないな」
「はい」
「鷹司に」
「言われたからでも」
「ないな」
「はい」
「朕が」
「帝だからでも」
冬姫は。
少し。
考えた。
そして。
首を横に振った。
「違います」
◆
「では」
「何故だ」
冬姫は。
帝を見る。
「主上の」
「お側で」
「その国を」
「見たいからにございます」
帝の目が。
静かに。
冬姫を見る。
「そうか」
「はい」
帝は。
深く。
息を吐いた。
そして。
頭を。
僅かに。
下げた。
冬姫が。
驚く。
◆
帝が。
自分へ。
頭を下げた。
ほんの。
僅か。
だが。
確かに。
「ありがとう」
冬姫の目が。
大きくなる。
鷹司も。
驚いていた。
「お前の決断を」
「軽くは扱わぬ」
帝が言う。
「はい」
「鷹司の娘となり」
「朕の妻となっても」
「織田の娘として」
「生きた十四年が」
「消えることはない」
「はい」
「そして」
帝の声が。
少し。
柔らかくなる。
「朕も」
「お前が」
「選んだことを」
「後悔せぬよう」
「努めよう」
冬姫が。
小さく。
笑った。
「そこは」
「必ず幸せにすると」
「仰らないのですか」
帝が。
止まった。
◆
鷹司が。
咳払いをする。
帝は。
少し。
困った顔をした。
「必ずと言うのは」
「無責任ではないか」
冬姫が。
笑う。
「主上らしゅうございます」
「まだ」
「二度しか会っておらぬだろう」
「二度でも」
「分かることはございます」
帝は。
少し。
悔しそうな顔をした。
それを見て。
冬姫は。
また。
笑った。
◆
その日の。
夕刻。
織田屋敷。
信長は。
娘の前に。
座っていた。
宗一郎。
半兵衛。
そして。
少し離れて。
帰蝶。
冬姫が。
静かに。
頭を下げる。
「父上」
「うむ」
「決めました」
信長の顔が。
動かない。
「申せ」
「鷹司家の」
「養女となります」
信長の指が。
僅かに。
動く。
◆
「そして」
冬姫は。
父を見る。
「主上のもとへ」
「嫁ぎます」
沈黙。
宗一郎は。
信長を見る。
信長は。
何も。
言わない。
「父上?」
冬姫が。
呼ぶ。
「……そうか」
それだけ。
◆
宗一郎が。
思わず。
信長を見る。
いつもの。
信長なら。
もっと。
何か。
言う。
だが。
言わない。
帰蝶だけが。
信長の。
僅かな変化に。
気づいていた。
「冬」
信長が。
もう一度。
呼ぶ。
「はい」
「自分で」
「決めたのだな」
「はい」
「後悔せぬか」
冬姫は。
少し考える。
「分かりませぬ」
信長の眉が。
上がる。
◆
「分からぬ?」
「先のことですから」
「分かりませぬ」
冬姫が。
笑う。
「ですが」
「今」
「行かなかった方が」
「後悔すると思います」
信長は。
娘を。
じっと見た。
そして。
鼻で。
小さく笑った。
「誰に」
「似たのやら」
宗一郎が。
ぼそり。
「信長様でしょう」
「黙れ」
「はい」
◆
信長が。
冬姫へ。
手を伸ばした。
頭へ。
触れる。
幼い頃。
そうしたように。
「行け」
冬姫の目が。
僅かに。
揺れる。
「父上」
「鷹司へ行こうと」
「帝へ嫁ごうと」
信長が言う。
「お前は」
「儂の娘だ」
「はい」
「忘れるな」
「はい」
冬姫の。
声が。
少しだけ。
震えた。
◆
帰蝶が。
静かに。
冬姫の背へ。
手を添える。
信長は。
もう。
何も言わない。
宗一郎は。
黙って。
見ていた。
未来を。
知っている。
歴史を。
知っている。
だからこそ。
分かる。
これは。
ただの。
縁談ではない。
◆
史実の。
織田信長。
朝廷との関係は。
後世まで。
様々に。
語られる。
対立。
協調。
利用。
警戒。
そして。
本能寺。
その後。
秀吉。
家康。
江戸幕府。
歴史は。
続いていく。
だが。
今。
その道が。
また一つ。
消えた。
◆
織田信長の娘が。
鷹司家へ。
入り。
帝へ。
嫁ぐ。
信長は。
帝の。
外戚となる。
そして。
もし。
二人の間に。
子が。
生まれれば。
その子には。
皇統と。
織田の血が。
流れる。
宗一郎は。
背筋に。
僅かな。
寒気を感じた。
「変わった」
半兵衛が。
横を見る。
「何がです」
宗一郎は。
すぐには。
答えなかった。
◆
「時代が」
半兵衛の目が。
宗一郎を見る。
「また」
「変わった」
◆
その夜。
鷹司家では。
正式な。
準備が。
始まった。
冬姫を。
ただ。
名だけの。
養女にするのではない。
鷹司家の。
娘として。
迎える。
宮中の。
作法。
言葉。
儀礼。
歌。
書。
朝廷の。
しきたり。
覚えることは。
山ほどある。
冬姫も。
それを。
承知した。
「大変でございますよ」
女房が言う。
冬姫は。
頷く。
「はい」
「お逃げになりますか」
冬姫が。
少し笑う。
「逃げませぬ」
◆
同じ頃。
禁裏。
帝は。
一人で。
座っていた。
机には。
冬姫の。
決断を記した。
文。
そして。
もう一つ。
各地から。
届いた。
影の報告。
帝は。
先に。
冬姫の文を。
見た。
そして。
静かに。
畳んだ。
「決めたか」
十七歳の。
少年として。
嬉しくない。
わけがない。
だが。
帝には。
それだけで。
終わらせられない。
◆
「入れ」
障子が。
開く。
一人の。
老人。
帝の。
古き影。
「御前に」
「報せは」
「すでに」
「各地へ」
「流れ始めております」
帝の目が。
僅かに。
細くなる。
「早いな」
「正式な内容までは」
「漏れておりませぬ」
「ですが」
「鷹司家へ」
「織田家の姫が入る」
「その動きは」
「隠し切れるものでは」
「ございませぬ」
帝が。
頷く。
「石山は」
「探っております」
「顕如か」
「は」
◆
老人が。
続ける。
「毛利」
「徳川」
「上杉」
「武田」
「各家にも」
「いずれ」
「伝わりましょう」
帝は。
黙った。
婚姻。
それだけで。
天下が。
動く。
「影へ」
「伝えよ」
老人が。
頭を下げる。
「御命令を」
「冬へ」
「手を出す者を」
「見逃すな」
老人の目が。
僅かに。
変わる。
「御意」
「だが」
帝が。
続ける。
「噂を」
「止める必要はない」
「よろしいので」
「ああ」
◆
「この婚姻は」
「隠して」
「進めるものではない」
帝の声が。
静かに。
強くなる。
「いずれ」
「天下へ」
「知らせる」
「ならば」
「反対する者も」
「出ましょう」
「出ればよい」
帝は。
即答した。
「意見を言う者まで」
「斬るな」
「は」
「だが」
帝の目から。
十七歳の。
少年の色が。
消える。
「冬を」
「害そうとする者」
「鷹司を」
「力で脅す者」
「禁裏へ」
「刃を向ける者」
「それは」
「別だ」
老人が。
深く。
頭を下げる。
「その時は」
「刃を」
「血に染めても」
「よろしいのでございますね」
帝は。
老人を見る。
そして。
答えた。
「必要ならば」
「迷うな」
「御意」
◆
その命は。
京だけには。
留まらなかった。
帝の影は。
各地へ。
深く。
根を張っている。
商人。
僧。
医師。
船頭。
下級武士。
奉公人。
そして。
大名の。
側近。
家老に。
近い場所。
軍議へ。
同席できる者。
主君の。
書状へ。
触れられる者。
そんな。
権力の中枢にすら。
影は。
いる。
◆
だが。
彼らは。
すぐには。
動かない。
帝のため。
見る。
帝のため。
聞く。
帝のため。
待つ。
そして。
必要な時だけ。
刃となる。
自身の。
名も。
家も。
命すら。
すべて。
帝のため。
それが。
古き影。
◆
石山本願寺。
顕如の前へ。
一人の男が。
座っていた。
「もう一度」
顕如が。
低く言う。
男が。
頭を下げる。
「織田家の姫君が」
「鷹司家へ」
「養女として」
「入られる話が」
「進んでおります」
「その先だ」
男が。
僅かに。
躊躇う。
「禁裏へ」
「入られるものと」
「見られます」
顕如の指が。
止まる。
◆
「誰の」
「后となる」
男は。
頭を。
さらに下げた。
「帝」
沈黙。
教如が。
息を呑んだ。
「父上」
顕如は。
答えない。
鷹司。
織田。
禁裏。
すべてが。
一本に。
繋がった。
◆
「決まったのか」
「そこまでは」
「確認できておりませぬ」
男は。
そう答えた。
だが。
顕如には。
分かった。
恐らく。
決まる。
いや。
もう。
決まっているかもしれない。
「下がれ」
男が。
去る。
◆
教如が。
父を見る。
「父上」
「これは」
「まずい」
顕如が。
低く。
答えた。
「それほど」
「でございますか」
顕如の目が。
鋭くなる。
「信長は」
「武力を持つ」
「高槻は」
「知恵と」
「技を持つ」
「主上は」
「権威を持つ」
教如が。
黙る。
「それらが」
「今まで」
「別々だった」
「だから」
「間へ」
「楔を」
「打てた」
◆
「だが」
顕如の拳が。
僅かに。
握られる。
「血が」
「繋がる」
信長の娘が。
帝の妻になる。
やがて。
子が。
生まれるかもしれない。
その子には。
織田の血が。
入る。
信長を。
ただの。
一武将として。
扱えなくなる。
そして。
帝も。
ただ。
京の奥へいる。
権威ではなくなる。
◆
「義昭が」
「死んだ時から」
「おかしかった」
顕如が。
呟く。
「父上?」
「我らは」
「信長を」
「見すぎた」
「高槻を」
「見すぎた」
顕如は。
禁裏の方角を見る。
「主上を」
「見ていなかった」
◆
それは。
顕如にとって。
大きな。
誤算だった。
帝は。
飾りではない。
義昭を。
裁いた。
信長へ。
命を下した。
そして。
今度は。
信長の娘を。
妻に迎えようとしている。
一つ。
一つ。
確実に。
天下へ。
手を伸ばしている。
いや。
顕如は。
そこで。
考えを。
止めた。
違う。
帝は。
天下を。
奪おうとしているのではない。
もっと。
厄介だ。
◆
「国の形を」
「変えようとしている」
顕如の。
呟きに。
教如が。
父を見る。
「何と」
「いや」
顕如は。
首を横に振った。
そして。
地図へ。
目を落とす。
石山。
紀伊。
安芸。
瀬戸内。
毛利。
選べる手が。
少なくなっている。
武田は。
以前とは違う。
義昭は。
もういない。
越前でも。
思うように。
信長を。
止められなかった。
そして。
今。
朝廷まで。
信長へ。
近づいている。
◆
焦り。
顕如は。
自分の中に。
それが。
生まれていることを。
認めざるを得なかった。
「教如」
「は」
「毛利への」
「使者を」
「急がせよ」
教如の目が。
変わる。
「戦を」
「始めるのでございますか」
「まだだ」
顕如が。
強く言う。
「まだ」
「こちらから」
「始めてはならぬ」
◆
「だが」
「備えよ」
「米」
「硝石」
「船」
「紀伊との道」
「瀬戸内との道」
「すべて」
「太くせよ」
「御意」
「各地の門徒には」
「立てとは」
「まだ言うな」
「ただし」
「いつでも」
「動けるようにせよ」
教如が。
深く。
頭を下げた。
◆
その会話を。
少し離れた。
廊下で。
一人の僧が。
聞いていた。
何年も。
石山にいる。
誰も。
疑わない。
顕如も。
教如も。
その男の顔を。
何度も。
見ている。
だが。
知らない。
その男が。
何者なのか。
◆
男は。
何も。
しなかった。
そのまま。
歩いた。
経蔵へ。
入った。
翌日。
修復へ出される。
一巻の。
経。
その中に。
僅かな。
違いが。
あった。
たった。
数文字。
それだけ。
だが。
それで。
十分だった。
◆
数日後。
禁裏。
帝の前へ。
報告が。
置かれる。
――顕如。
――毛利への接触を急ぐ。
――米。
――硝石。
――船。
――紀伊。
――各地の門徒へ備え。
帝は。
静かに。
読み終えた。
「やはり」
「動くか」
影が。
頭を下げる。
「いかが」
「なさいます」
帝は。
少し。
考えた。
そして。
机の。
もう一方へ。
目を向ける。
そこには。
冬姫が。
鷹司家の。
養女となるための。
書が。
置かれていた。
◆
一方は。
婚姻。
一方は。
戦の備え。
まるで。
違う。
二つ。
だが。
帝には。
同じものに。
見えた。
どちらも。
次の時代へ。
続いている。
「影」
「は」
「各地を」
「見よ」
「毛利」
「紀伊」
「石山」
「三河」
「甲斐」
「越後」
「すべてだ」
「御意」
「だが」
帝が。
影を見る。
「まだ」
「斬るな」
「は」
「顕如が」
「備えるだけなら」
「こちらも」
「見るだけでよい」
「一線を」
「越えるまでは」
「御意」
◆
同じ頃。
高槻屋敷。
宗一郎は。
一人。
地図を。
見ていた。
京。
石山。
紀伊。
安芸。
甲斐。
三河。
そして。
禁裏。
半兵衛が。
部屋へ入る。
「まだ」
「起きておられたのですか」
「うん」
「姫様のことで?」
宗一郎が。
首を横に振る。
「それも」
「あるけど」
「違う」
「では」
宗一郎は。
地図の。
京を。
指した。
◆
「歴史って」
「何でしょう」
半兵衛が。
妙な顔をする。
「また」
「難しいことを」
「急に」
「申されますね」
宗一郎が。
苦笑する。
「今日」
「思ったんです」
「俺が」
「知ってた歴史が」
「どんどん」
「なくなってる」
「それは」
「以前からでは」
「そうなんだけど」
宗一郎が。
首を横に振る。
「今日のは」
「違う」
◆
「信長様の娘が」
「帝へ嫁ぐ」
「帝は」
「信長様の」
「娘婿になる」
「信長様は」
「帝の」
「外戚になる」
宗一郎が。
ゆっくり。
息を吐く。
「こんなの」
「俺の知ってる」
「歴史には」
「なかった」
半兵衛は。
何も言わない。
「本能寺が」
「起きるかどうか」
「誰が」
「天下を取るか」
「そんな話だけじゃ」
「なくなった」
◆
宗一郎は。
窓の外を見る。
「この国そのものが」
「違う方向へ」
「歩き始めた」
半兵衛が。
静かに。
尋ねる。
「怖いですか」
宗一郎は。
少し。
考えた。
「怖い」
そして。
笑った。
「でも」
「たぶん」
「これでいい」
◆
未来を。
知る者が。
二人。
いる。
一人は。
技術と。
制度を。
作る。
一人は。
玉座に座り。
国そのものを。
見ている。
その二人の間に。
織田信長がいる。
そして。
今日。
十四歳の少女が。
自分自身の意思で。
その輪へ。
足を踏み入れた。
◆
鷹司家の。
養女。
帝の。
妻。
やがて。
その血が。
次の世代へ。
続いていく。
まだ。
誰も。
その先を。
知らない。
宗一郎も。
知らない。
帝も。
知らない。
未来は。
もう。
二人の記憶の中にある。
歴史書とは。
違う。
◆
その日。
大きな戦は。
なかった。
城も。
落ちなかった。
大名も。
死ななかった。
ただ。
十四歳の少女が。
一つの。
決断をした。
――鷹司の娘となる。
――帝へ嫁ぐ。
それだけだった。
だが。
後の世から。
振り返れば。
この日は。
一つの戦に。
勝った日より。
一つの国を。
滅ぼした日より。
遥かに。
大きな意味を。
持つことになる。
武家と。
朝廷。
力と。
権威。
織田と。
皇統。
二つの流れが。
初めて。
血によって。
結ばれようとしていた。
そして。
高槻宗一郎が。
知っていた。
歴史の道は。
この日。
静かに。
消えた。
代わりに。
誰も知らない。
新しい道が。
生まれた。
時代の流れが。
変わった。




