第八十八章 帝の影
第八十八章 帝の影
冬姫と。
帝が。
初めて会ってから。
三日が過ぎた。
まだ。
婚姻は。
決まっていない。
冬姫は。
十四歳。
帝は。
十七歳。
冬姫が。
出した答えは。
ただ一つ。
――もう一度。
――お会いしたい。
それだけだった。
だが。
その。
小さな答えは。
すでに。
いくつもの場所へ。
波紋を。
広げ始めていた。
◆
石山本願寺。
顕如は。
一枚の報告を。
読んでいた。
鷹司家。
織田家。
禁裏。
三つの間で。
人が動いている。
それは。
分かっている。
だが。
肝心なところが。
分からない。
「……またか」
顕如が。
低く呟いた。
教如が。
顔を上げる。
「父上?」
顕如は。
紙を。
畳へ置いた。
「分からぬ」
「何がでございます」
「何もだ」
◆
以前なら。
違った。
京には。
本願寺の。
目も。
耳もあった。
商人。
僧。
門徒。
寺。
公家に近い者。
幕府に近い者。
金を渡せば。
口を開く者もいる。
信仰によって。
動く者もいる。
足利義昭も。
いた。
義昭と。
信長の間に。
亀裂を。
広げることもできた。
公家の。
不安を煽ることも。
できた。
だが。
義昭は。
死んだ。
しかも。
ただ。
信長に。
討たれたのではない。
帝の勅命によって。
裁かれ。
最後に。
切腹を許されて。
死んだ。
◆
それ以降。
何かが。
変わった。
京で。
人が。
口を閉ざす。
以前なら。
金を受け取った男が。
受け取らない。
以前なら。
酒の席で。
何でも話した者が。
急に。
何も知らぬと言う。
昨日まで。
本願寺へ。
情報を流していた者が。
姿を消す。
そして。
最も。
気味が悪いのは。
何人かが。
死んだことだった。
◆
一人は。
川へ落ちた。
一人は。
盗賊に。
襲われた。
一人は。
病で。
急死した。
どれも。
おかしくない。
この時代なら。
珍しくもない。
だが。
顕如は。
偶然だとは。
思えなかった。
「教如」
「は」
「鷹司へ送った者は」
「戻ったか」
教如の表情が。
僅かに。
硬くなる。
「まだ」
「戻っておりませぬ」
顕如の指が。
畳を。
一度。
叩いた。
「何日だ」
「四日」
沈黙。
「遅い」
◆
教如も。
同じことを。
思っていた。
鷹司家へ。
直接。
忍び込ませたわけではない。
出入りする。
商人。
女房。
奉公人。
その周囲から。
探らせただけ。
それでも。
戻らない。
「もう一人」
顕如が言う。
「送りますか」
教如が尋ねる。
「いや」
顕如は。
即座に。
止めた。
「送るな」
「ですが」
「何かいる」
教如が。
父を見る。
「何か?」
顕如は。
答えなかった。
何者なのか。
分からない。
だが。
確実に。
何かが。
いる。
禁裏の周囲。
鷹司。
公家。
京。
そして。
恐らく。
もっと。
広く。
◆
「父上」
教如が。
声を落とす。
「織田の者でしょうか」
顕如は。
首を横に振った。
「違う」
「何故」
「信長なら」
「もっと分かりやすい」
顕如は。
苦い顔をする。
「高槻の者なら」
「もう少し」
「跡が見える」
高槻宗一郎。
あの男の。
情報網は。
恐ろしい。
だが。
合理的だ。
人を置く。
報告を集める。
確かめる。
繋ぐ。
新しい。
仕組み。
だから。
追えば。
僅かに。
形が見える。
だが。
今。
感じているものは。
違う。
◆
「最初から」
顕如が。
呟く。
「いたのか」
「何が」
「我らが」
「京へ」
「手を伸ばすより」
「ずっと前から」
顕如は。
禁裏のある方角を。
見る。
「そこに」
「いたのではないか」
教如は。
何も。
答えられなかった。
◆
その頃。
禁裏。
帝は。
冬姫から。
届いた。
一通の文を。
読んでいた。
正式な。
恋文などではない。
鷹司を通した。
簡単なもの。
先日の。
面会への。
礼。
そして。
最後に。
一言。
――次にお会いできました折には。
――主上が望まれる国について。
――お聞きしとうございます。
帝は。
そこを。
二度。
読んだ。
「国か」
十七歳の帝が。
小さく。
笑う。
普通なら。
もっと。
別のことを。
聞いてもよい。
好きなもの。
嫌いなもの。
日々。
何をしているか。
だが。
冬姫は。
国を。
聞いてきた。
「本当に」
「信長の娘だな」
◆
その時。
障子の外から。
声がした。
「主上」
帝の表情が。
変わる。
「入れ」
入ってきたのは。
一人の。
老人だった。
粗末な。
衣。
腰も。
少し。
曲がっている。
どこにでもいる。
老人。
そう。
見える。
だが。
部屋へ入った瞬間。
老人の。
姿勢が変わった。
膝をつく。
深く。
頭を下げる。
「御前に」
「戻りましてございます」
帝は。
冬姫の文を。
静かに。
伏せた。
◆
「何処からだ」
「石山」
老人が答えた。
帝の目が。
細くなる。
「顕如は」
「焦り始めております」
「そうか」
「鷹司」
「織田」
「禁裏」
「三つの繋がりを」
「探っております」
「どこまで」
「血縁を」
「疑い始めております」
帝は。
黙った。
やはり。
早い。
顕如は。
愚かではない。
むしろ。
恐ろしく。
頭が切れる。
だからこそ。
本願寺は。
ここまで。
生き残っている。
◆
「鷹司を」
「探った者は」
帝が尋ねる。
老人が。
答える。
「一人」
「捕らえました」
帝の目が。
老人へ向く。
「生きているか」
「いいえ」
短い。
答えだった。
帝は。
何も。
言わない。
「何をした」
「最初は」
「問いただしました」
「口を割ったか」
「必要なことは」
「すべて」
老人の声には。
何の感情もない。
「その後」
「処しました」
静寂。
◆
帝の古き影。
それは。
ただ。
情報を。
運ぶ者ではない。
帝の。
目。
帝の。
耳。
そして。
必要なら。
帝の。
刃となる。
長い歴史の中で。
帝を。
禁裏を。
皇統を。
守るため。
人を。
殺したことも。
一度や。
二度ではない。
毒。
刃。
事故。
病。
行方不明。
方法など。
どうでもよい。
必要なのは。
帝へ。
危険が。
届かないこと。
ただ。
それだけ。
◆
「主上」
老人が。
頭を下げたまま。
言う。
「御不快で」
「ございましたか」
帝は。
しばらく。
答えなかった。
未来から来た。
帝。
前世なら。
人を殺す。
その言葉だけで。
拒絶しただろう。
だが。
ここは。
戦国。
足利義昭を。
死なせたのも。
自分。
そして。
この影たちは。
自分が。
生まれる。
遥か前から。
存在している。
「いや」
帝が。
答えた。
「必要だったのだな」
「は」
「ならば」
「責は」
「朕が負う」
老人が。
初めて。
顔を上げた。
◆
「恐れながら」
「それは」
「違います」
帝が。
老人を見る。
「何がだ」
「我らの」
「刃が」
「血に染まろうと」
「それは」
「我らが選んだこと」
老人の目に。
迷いは。
なかった。
「我らの命」
「我らの名」
「我らの家」
「我らの血」
「そのすべては」
「帝のためにございます」
帝の顔から。
笑みが。
消えた。
「その言葉を」
「軽く言うな」
「軽くは」
「申しておりませぬ」
老人は。
静かに。
答えた。
◆
帝の古き影。
いつ。
生まれたのか。
正確な記録すら。
残っていない。
何百年。
あるいは。
それ以上。
代々。
皇位を継ぐ者へ。
存在だけが。
伝えられてきた。
時代によって。
数は。
増え。
減った。
消えた家もある。
新しく。
加わった家もある。
だが。
影そのものは。
消えなかった。
そして。
その根は。
帝が。
想像していたより。
遥かに。
深かった。
◆
京だけではない。
尾張。
美濃。
近江。
越前。
甲斐。
駿河。
三河。
越後。
紀伊。
堺。
石山。
播磨。
安芸。
四国。
九州。
各地に。
いる。
商人として。
僧として。
農民として。
船頭として。
医師として。
職人として。
女房として。
武士として。
そして。
中には。
もっと。
深い場所まで。
入り込んだ者も。
いる。
◆
ある大名の。
側近。
ある家の。
勘定を預かる者。
ある城の。
兵糧を管理する者。
ある寺の。
重役。
ある港の。
船を差配する者。
そして。
ある国では。
当主が。
最も信頼する。
家臣の一人。
それすら。
帝の影だった。
その者たちは。
毎日のように。
禁裏へ。
報告を送るわけではない。
十年。
何も。
送らない者もいる。
二十年。
ただ。
その地で。
生きる者もいる。
だが。
動くべき時が。
来れば。
動く。
◆
主君が。
帝へ。
刃を向けようとする。
禁裏を。
害そうとする。
皇統を。
利用し。
国を。
大きく乱そうとする。
その時。
昨日まで。
最も忠実だった。
家臣が。
変わる。
刀を。
抜く。
毒を。
入れる。
門を。
開く。
文を。
奪う。
そして。
時には。
主君すら。
殺す。
全ては。
帝のため。
自身の存在。
その全てが。
帝のため。
それが。
影だった。
◆
「主上」
老人が。
続ける。
「各地より」
「報せが」
「集まっております」
「聞こう」
老人が。
一枚目を。
置く。
「甲斐」
帝の目が。
変わる。
「武田信玄」
「未だ」
「姿を確認できませぬ」
「勝頼は」
「家中の者との」
「会合を増やしております」
「信玄は」
「死んだか」
「分かりませぬ」
老人は。
即答した。
帝が。
僅かに。
笑う。
「それでよい」
◆
「次」
「三河」
徳川家康。
帝の表情が。
僅かに。
硬くなる。
「家康殿は」
「表向き」
「織田との関係を」
「変えておりませぬ」
「だが」
「家中には」
「不安が広がっております」
「理由は」
「織田が」
「強くなりすぎたこと」
老人が。
答える。
「将軍家が消え」
「武田を退け」
「越前へも」
「手を伸ばした」
「次は」
「徳川ではないかと」
「囁く者が」
「おります」
帝が。
尋ねる。
「家康本人は」
「慎重にございます」
「だが」
「何もしていないわけでは」
「ございませぬ」
帝の目が。
細くなる。
「何をした」
老人は。
答えた。
「織田家中の」
「何人かについて」
「調べさせております」
◆
「誰だ」
老人が。
名を。
いくつか挙げる。
そして。
最後に。
「高槻宗一郎」
帝の指が。
止まる。
「宗一郎を?」
「は」
「何を」
「素性」
「家臣」
「技術所」
「兵」
「商人との繋がり」
「そして」
老人が。
一瞬。
止まる。
「弱み」
帝の目が。
冷たくなった。
◆
「まだ」
「探っているだけか」
「はい」
「なら」
「まだ触れるな」
老人が。
頭を下げる。
「御意」
帝は。
静かに。
続ける。
「ただし」
「宗一郎本人へ」
「害意が向いた時は」
老人の目が。
帝を見る。
「朕へ」
「知らせよ」
「先に」
「殺すな」
「……御意」
ほんの。
一瞬。
間があった。
帝は。
気づいた。
「何だ」
「いえ」
老人が。
僅かに。
頭を下げる。
「以前の主上方とは」
「少し」
「違われると」
帝が。
苦笑した。
「そうだろうな」
◆
次。
越前。
本願寺。
紀伊。
毛利。
上杉。
堺。
九州。
報告は。
続く。
軍勢だけではない。
米。
鉄砲。
硝石。
船。
寺。
商人。
浪人。
婚姻。
借金。
不作。
人の流れ。
大名の。
病。
家臣同士の。
不仲。
側室。
跡継ぎ。
重臣の。
不満。
城の。
修理。
蔵の。
米の量。
どれも。
一つだけなら。
小さい。
だが。
繋げれば。
国が。
見える。
◆
帝は。
報告を聞きながら。
改めて。
恐ろしさを。
感じていた。
高槻宗一郎の。
情報網。
あれは。
新しい。
合理的。
誰が。
見たか。
いつ。
見たか。
どこで。
見たか。
事実。
推測。
判断。
それらを。
分ける。
対して。
帝の影は。
古い。
だが。
深い。
あまりにも。
深い。
宗一郎が。
数年で。
作り上げた網とは。
根の長さが。
違う。
一つの家が。
三代。
四代。
同じ大名へ。
仕えていることすらある。
その家の。
当主自身が。
自分は。
大名の家臣であると。
本気で。
思っている。
だが。
家の奥。
決して。
開けてはならぬ。
箱。
そこには。
一つだけ。
伝えられている。
――帝より命あらば。
――全てに優先せよ。
◆
帝は。
老人を見る。
「影は」
「どこまで」
「入っている」
老人は。
答えない。
「朕にも」
「言えぬのか」
「主上」
老人が。
静かに言う。
「影は」
「知らぬ方が」
「強うございます」
帝の眉が。
動く。
「もし」
「一人が捕らえられれば」
「その者が」
「知る影まで」
「危うくなります」
「ゆえに」
「我ら自身も」
「互いを」
「すべては」
「知りませぬ」
帝が。
小さく。
息を吐く。
「よくできている」
「長く」
「生き残るために」
「ございます」
◆
「では」
帝が尋ねる。
「朕が」
「すべての影を」
「集めよと命じれば」
老人は。
初めて。
僅かに。
笑った。
「集まりませぬ」
帝の目が。
丸くなる。
「朕の命でも?」
「はい」
「何故だ」
「全てが集まれば」
「全てが死ぬからにございます」
帝は。
老人を見る。
やがて。
笑った。
「なるほど」
「朕を守るためなら」
「朕の命にも」
「従わぬことがあるか」
老人は。
深く。
頭を下げた。
「御叱責」
「いかようにも」
「いや」
帝は。
首を横に振った。
「そのままでよい」
◆
その頃。
石山。
顕如は。
また。
報告を。
受け取っていた。
「戻りませぬ」
「またか」
「はい」
鷹司を。
調べに出した。
二人目。
今度は。
直接ではない。
遠くから。
人の出入りだけを。
見せた。
それでも。
消えた。
顕如が。
立ち上がった。
「止めよ」
教如が。
顔を上げる。
「父上?」
「鷹司を」
「探るのを」
「一度」
「止める」
「しかし」
「もう」
「二人だ」
顕如の声に。
苛立ちが。
混じる。
◆
「何かが」
「こちらを」
「見ている」
教如が。
黙る。
「信長ではない」
「高槻でもない」
「なら」
「誰が」
顕如は。
答えない。
答えたく。
なかった。
一つだけ。
頭に。
浮かんでいる。
だが。
それを。
認めれば。
自分たちは。
これまで。
大きな。
思い違いを。
していたことになる。
禁裏。
帝。
公家たちに。
囲まれ。
軍も。
大領も。
持たぬ。
存在。
だから。
政治の中で。
動かせる。
そう。
思っていた。
◆
足利義昭も。
そう思った。
自分も。
そう思った。
だが。
もし。
違ったなら。
帝は。
武力を。
持っていないのではない。
見えないだけ。
なのではないか。
「まさか」
顕如が。
呟く。
教如が。
尋ねる。
「父上」
「何か」
「心当たりが」
顕如は。
答えなかった。
代わりに。
別のことを。
尋ねる。
「織田は」
「どうしている」
「京の制度を」
「整え始めております」
「高槻宗一郎を中心に」
「幕府が担っていた役務を」
「分けようとしております」
顕如の顔が。
さらに。
険しくなる。
◆
幕府が。
消えた。
ならば。
混乱する。
そう。
考えていた。
混乱すれば。
本願寺に。
時間ができる。
信長の力も。
京へ。
縛られる。
だが。
宗一郎が。
役所を。
作ろうとしている。
治安。
裁判。
土地。
商人。
寺社。
関所。
仕事を。
分け。
人を置き。
記録する。
将軍という。
一人の権威へ。
戻さない。
「また」
顕如が。
小さく。
呟いた。
「また」
「高槻か」
◆
武田を。
使おうとした。
退けられた。
越前で。
信長を。
泥沼へ。
引きずり込もうとした。
思ったほど。
崩れない。
義昭を。
信長へ。
ぶつけた。
最後は。
帝自身が。
義昭を。
切った。
朝廷へ。
不安を。
植えようとした。
逆に。
帝と信長が。
近づいた。
そして。
今。
鷹司まで。
動いている。
一つ。
一つ。
見れば。
まだ。
負けではない。
本願寺は。
健在。
石山も。
ある。
門徒も。
いる。
だが。
顕如には。
分かった。
選べる手が。
少しずつ。
減っている。
◆
「何故だ」
顕如が。
呟いた。
教如が。
父を見る。
「何故」
「こちらが」
「一手打つたび」
「向こうには」
「その先がある」
拳が。
僅かに。
握られる。
顕如が。
焦りを。
表へ。
出すことは。
少ない。
だから。
教如は。
何も。
言えなかった。
「信長だけなら」
顕如が言う。
「戦えばよい」
「高槻だけなら」
「殺せばよい」
教如の目が。
動く。
「だが」
顕如は。
禁裏の方向を見る。
「今は」
「違う」
◆
信長。
高槻宗一郎。
帝。
そして。
鷹司。
もし。
それらが。
一本に。
繋がれば。
本願寺が。
戦う相手は。
織田家。
一つでは。
なくなる。
武力。
制度。
情報。
権威。
そして。
血。
顕如は。
そこまで。
考えて。
顔を上げた。
「教如」
「は」
「鷹司の件」
「別の道から」
「探れ」
教如が。
驚く。
「先ほど」
「止めると」
「鷹司へ」
「近づくのは止める」
顕如の目が。
鋭くなる。
「織田側から」
「見る」
「姫を?」
「違う!」
声が。
強くなった。
◆
「姫には」
「手を出すな」
「絶対にだ」
「は」
「信長の娘へ」
「何かあれば」
「織田だけでは済まぬ」
顕如自身。
気づいていた。
もう。
帝との縁を。
前提に。
考えている。
「では」
「誰を」
顕如は。
少し。
考えた。
「織田家中」
「この縁談を」
「嫌う者が」
「必ずいる」
「武家の娘が」
「禁裏へ入る」
「それを」
「危ぶむ者もいる」
「そこを探せ」
「御意」
◆
だが。
顕如は。
知らなかった。
その命令が。
出された。
まさに。
その部屋の。
すぐ外。
廊下を。
静かに歩く。
一人の僧。
何年も。
石山に。
仕えている。
経を読み。
書を写し。
使い走りをする。
誰からも。
疑われていない。
その男が。
足を。
止めることなく。
顕如の言葉を。
聞いていた。
顔色一つ。
変えない。
そのまま。
通り過ぎる。
◆
夜。
男は。
寺を。
出ない。
外へ。
文も。
送らない。
ただ。
経蔵へ。
入った。
古い。
経巻を。
一本。
取り出す。
中には。
何もない。
男は。
経を。
一行。
書き写す。
ただし。
一文字だけ。
本来とは。
違う文字を。
使う。
翌朝。
その経は。
修復のため。
別の寺へ。
送られる。
そこから。
さらに。
別の者へ。
誰も。
知らない。
誰も。
全体を。
見ない。
だが。
数日後。
その一文字は。
禁裏へ。
届く。
それが。
帝の影だった。
◆
禁裏。
帝は。
新たな報せを。
読んだ。
――顕如。
――鷹司への直接探索を停止。
――織田家中より縁談への反対者を探す意向。
帝は。
紙を。
置いた。
「早いな」
老人が。
頭を下げる。
「いかがいたします」
帝は。
少し。
考える。
「何もするな」
「よろしいので」
「ああ」
「反対する者が」
「いるなら」
「いてよい」
老人が。
顔を上げる。
「消す必要はない」
帝が言う。
「この縁は」
「恐怖で」
「作るものではない」
「は」
「ただし」
帝の声が。
変わる。
「姫へ」
「手を伸ばす者が」
「現れたなら」
老人の目が。
静かに。
細くなる。
「その時は」
「いかが」
帝は。
一瞬も。
迷わなかった。
「朕へ」
「報告せよ」
老人が。
待つ。
「そして」
帝の声が。
冷たくなる。
「急を要するなら」
「朕の許しを」
「待たなくてよい」
老人は。
深く。
頭を下げた。
「御意」
◆
その瞬間。
十七歳の。
青年の顔は。
消えていた。
そこにいるのは。
帝。
義昭を。
許さなかった。
あの。
冷たい目。
家族へ。
刃を向ける者。
禁裏へ。
手を伸ばす者。
国を。
己の欲で。
大きく乱す者。
その一線を。
越えれば。
帝は。
容赦しない。
「影」
「は」
「冬は」
「まだ」
「朕の妻ではない」
「承知しております」
「だが」
帝は。
一度。
目を閉じる。
そして。
開いた。
「朕が」
「守ると決めた者だ」
老人の頭が。
さらに。
深くなる。
「御意」
◆
その夜。
帝は。
一人になった。
机には。
二つのものが。
置かれている。
一つ。
各地から。
影が届けた。
報告。
甲斐。
三河。
越前。
石山。
紀伊。
毛利。
上杉。
九州。
そして。
もう一つ。
冬姫からの。
短い文。
帝は。
報告を。
一度。
横へ置いた。
冬姫の文を。
開く。
――主上が望まれる国について。
――お聞きしとうございます。
帝は。
その文字を。
見つめた。
◆
どんな国。
前世。
平成。
令和。
平和だった。
少なくとも。
自分が。
戦場へ。
行くことはなかった。
学校があり。
病院があり。
法があり。
人は。
生まれた家だけで。
人生のすべてを。
決められない。
完璧ではない。
問題も。
山ほどあった。
それでも。
この時代より。
遥かに。
人が。
明日を。
信じられる。
国だった。
「冬」
帝が。
小さく。
呟く。
次に。
会う時。
未来の話は。
できない。
だが。
望む国の話なら。
できる。
◆
戦を。
終わらせる。
だけではない。
戦が。
終わった後。
何を。
残すのか。
信長は。
力を持つ。
宗一郎は。
知識と。
仕組みを作る。
帝には。
権威がある。
そして。
影がいる。
古く。
深く。
時には。
血に染まる。
影。
帝は。
その力を。
ただ。
敵を殺すために。
使うつもりはない。
だが。
必要なら。
使う。
それが。
玉座へ。
座る者の。
責任。
「綺麗なだけでは」
「国は守れぬ」
帝は。
呟いた。
◆
同じ頃。
石山。
顕如は。
眠れずにいた。
目を閉じると。
一つ。
一つ。
浮かぶ。
義昭。
武田。
越前。
京。
鷹司。
信長。
高槻。
帝。
自分が。
張ったはずの。
網が。
少しずつ。
破られていく。
いや。
違う。
顕如は。
目を開けた。
破られているのではない。
「最初から」
「別の網が」
「あったのか」
誰も。
答えない。
◆
顕如は。
まだ。
知らない。
石山の中にも。
影がいる。
毛利の近くにも。
武田の近くにも。
徳川の近くにも。
上杉の近くにも。
そして。
織田の近くにすら。
いる。
彼らは。
普段。
何もしない。
主君へ。
忠実に仕える。
家族を持つ。
子を育てる。
笑う。
泣く。
その土地で。
生きる。
だが。
ただ一つ。
決して。
変わらないものがある。
帝より。
命が下れば。
全てが。
変わる。
昨日までの。
主君も。
地位も。
家も。
己の命すら。
捨てる。
必要なら。
刃を抜く。
そして。
その刃を。
血に染める。
全ては。
帝のため。
自身の存在。
その全てが。
帝のため。
◆
だが。
その帝は。
今。
十七歳。
未来を知り。
歴史を知り。
その力の。
恐ろしさも。
知っている。
だからこそ。
使う相手を。
選ぶ。
守るものを。
選ぶ。
そして。
次に。
守ろうとしているものは。
国だけでは。
なかった。
十四歳の。
織田冬姫。
まだ。
妻ではない。
まだ。
婚約すら。
していない。
だが。
もう一度。
会いたい。
そう。
言ってくれた少女。
帝は。
その言葉を。
もう一度。
読み返した。
そして。
静かに。
文を閉じた。
次に会う時。
話すことは。
決まった。
――どんな国を。
――二人で。
――見たいのか。
その話を。
しようと。
一方。
石山では。
焦り始めた顕如が。
次の一手を。
探していた。
そして。
顕如は。
まだ。
気づいていなかった。
その一手を。
考える声さえ。
すでに。
帝の影が。
聞いていることを。




