第八十六章 帝の縁談
第八十六章 帝の縁談
足利義昭が。
死んだ。
十五代将軍。
そして。
室町幕府。
二百年以上続いた。
武家政権の形が。
名実ともに。
終わった。
だが。
時代というものは。
一人の死を。
待ってはくれない。
義昭が死んだ。
その翌日から。
京では。
すでに。
次の話が。
始まっていた。
◆
「次の将軍は」
「誰になる」
公家。
武家。
商人。
寺社。
誰もが。
同じことを。
口にした。
足利の誰かを。
立てるのか。
別の家から。
征夷大将軍を。
出すのか。
あるいは。
織田信長。
今。
天下で。
最も大きな力を持つ男。
その男が。
将軍となるのか。
だが。
当の信長は。
その話を聞いて。
露骨に。
嫌そうな顔をした。
◆
「将軍?」
「はい」
丹羽長秀が。
書状を前に。
座っている。
「京の公家の間でも」
「噂になっております」
「誰がなるかと」
信長が。
鼻を鳴らした。
「知らん」
「殿が」
「なられるのではないかと」
「嫌だ」
即答。
宗一郎が。
思わず。
信長を見る。
「即答ですか」
「何だ」
「もう少し」
「考えるかと思いました」
「考える必要があるか」
信長が。
書状を。
机へ放る。
「将軍になれば」
「天下が治まるのか」
誰も。
答えない。
「義昭は」
「将軍だった」
「それでも」
「戦は終わらなかった」
信長が。
宗一郎を見る。
「違うか」
「違いません」
◆
明智光秀は。
黙っていた。
義昭が死んで。
まだ。
間もない。
顔には。
疲れが残っている。
信長は。
それを見た。
だが。
あえて。
触れなかった。
代わりに。
光秀へ尋ねる。
「お前は」
「どう思う」
光秀が。
顔を上げた。
「次の将軍に」
「ございますか」
「ああ」
光秀は。
少し。
考えた。
「必要であるなら」
「置くべきかと」
「だが」
「必要でないなら」
「無理に」
「置く必要は」
「ないかと存じます」
信長が。
僅かに笑う。
「お前まで」
「そう言うか」
「義昭様を」
「見ましたゆえ」
光秀の声が。
少しだけ。
低くなる。
「権威と」
「実際の力が」
「別々にあり」
「互いに争えば」
「また」
「同じことが起こります」
◆
宗一郎も。
同じことを。
考えていた。
将軍を。
誰にするか。
それだけでは。
駄目だ。
必要なのは。
誰が。
何を決めるのか。
朝廷。
武家。
寺社。
国人。
商人。
それぞれの力を。
どう。
組み合わせるのか。
将軍という。
一つの椅子へ。
誰かを座らせれば。
終わる話ではない。
「宗一郎」
「はい」
信長が。
見る。
「お前は」
「何を考えておる」
「役所です」
「……役所?」
「役務を行う所を整備します」
「将軍より」
「先に」
「そっちです」
宗一郎が。
机の書類を見る。
「京の治安」
「裁判」
「土地」
「関所」
「寺社との調整」
「商人との取り決め」
「幕府がなくなっても」
「仕事はなくなりません」
長秀が。
深く。
頷いた。
「その通りにございます」
信長の顔が。
さらに。
嫌そうになる。
「面倒だ」
「天下を取るって」
「そういうことですよ」
「まだ取ったと」
「申しておらん」
「じゃあ」
「誰がやるんですか」
信長が。
黙った。
半兵衛が。
横で。
小さく笑った。
◆
その時。
外から。
声がした。
「申し上げます」
「鷹司家より」
「使者にございます」
宗一郎の。
顔が。
止まった。
半兵衛は。
それを。
見逃さなかった。
信長も。
見逃さなかった。
「宗一郎」
「はい」
「今」
「何故」
「その顔をした」
「どの顔ですか」
「知っている顔だ」
「知りません」
「嘘をつけ」
宗一郎は。
目を逸らした。
信長の目が。
細くなる。
だが。
鷹司。
その名には。
信長自身も。
覚えがある。
少し前。
鷹司家当主から。
密かに。
話をしたいと。
使いが来た。
そして。
実際に。
会った。
◆
あの時。
鷹司は。
信長へ。
いきなり。
縁談を。
持ち出したわけではない。
まず。
尋ねた。
朝廷を。
どう考えているのか。
幕府を。
どう考えているのか。
信長は。
答えた。
朝廷は。
織田の物ではない。
将軍も。
織田の飾りではない。
国そのものも。
織田家の物ではない。
戦を。
終わらせるために。
必要なものなら。
残す。
変えるべきものなら。
変える。
それだけだと。
そして。
鷹司は。
最後に。
奇妙なことを。
尋ねた。
――織田殿。
――御息女の御縁について。
――どこまで。
――お考えでしょうか。
あの時は。
それ以上。
踏み込まなかった。
だが。
信長には。
分かっていた。
鷹司家が。
ただ。
世間話をするために。
自分を呼んだのではない。
◆
「通せ」
信長が言った。
使者が。
入る。
深く。
頭を下げた。
「鷹司家当主より」
「織田殿へ」
「改めて」
「内々に」
「御話を申し上げたき儀が」
「ございます」
信長の目が。
僅かに。
細くなる。
「前の話の」
「続きか」
使者は。
一瞬。
間を置いた。
「左様にございます」
信長が。
宗一郎を見る。
宗一郎は。
天井を見た。
「宗一郎」
「はい」
「後で」
「話がある」
「……はい」
半兵衛が。
また。
笑いを堪えた。
◆
同じ頃。
禁裏。
帝は。
一枚の紙を。
見ていた。
足利義昭。
死去。
その記録。
自分が。
決めた。
史実では。
生きるはずだった男を。
自分が。
死なせた。
その事実は。
消えない。
だが。
帝は。
もう。
迷ってはいなかった。
未来を知っている。
だから。
未来の通りに。
進める。
それでは。
意味がない。
宗一郎が。
言った。
未来は。
答えではない。
警告だ。
自分も。
同じ答えへ。
辿り着いた。
ならば。
ここからは。
自分たちで。
選ぶ。
◆
「鷹司は」
帝が尋ねる。
側近が。
頭を下げた。
「織田殿へ」
「再び」
「使者を出したとのこと」
「そうか」
「はい」
帝は。
目を閉じる。
鷹司には。
すでに。
自分の考えを。
伝えてある。
織田の姫を。
鷹司家の養女へ。
そして。
その娘を。
自分が娶る。
ただし。
帝は。
最初から。
条件を。
一つ。
明確にしていた。
姫本人が。
望まないなら。
この話は。
進めない。
鷹司も。
それを。
受け入れた。
そして。
鷹司家自身も。
ただ。
名を貸すだけではない。
養女として。
迎えるなら。
本当の。
鷹司の娘として。
宮中で生きるための。
すべてを。
教える。
その覚悟を。
示していた。
残るのは。
織田信長。
そして。
姫本人。
◆
「主上」
側近が。
静かに尋ねる。
「本当に」
「お進めになられますか」
帝が。
目を開ける。
「何を」
「織田家との」
「御縁にございます」
帝は。
少し。
黙った。
義昭が。
死んだ。
幕府が。
終わった。
だから。
織田と。
血を結ぶ。
そんな。
単純な話ではない。
この話は。
義昭が。
死ぬ前から。
動いている。
むしろ。
義昭の死によって。
意味が。
さらに。
重くなった。
将軍という。
武家と朝廷をつなぐ。
古い形が。
消えた。
ならば。
次の形を。
作らなければならない。
◆
「進める」
帝が言った。
「ただし」
「急がせるな」
「は」
「鷹司にも」
「信長にも」
「姫にも」
「考える時間を与えよ」
側近が。
頭を下げる。
「承知いたしました」
帝は。
一度。
言葉を止めた。
「それから」
「はい」
「姫が」
「朕へ嫁ぐためだけに」
「鷹司へ入る形にはするな」
側近が。
僅かに。
顔を上げる。
「鷹司が」
「娘として迎える」
「ならば」
「その家の娘として」
「扱わせよ」
「名だけを」
「借りるようなことは」
「せぬ」
「は」
◆
帝には。
分かっていた。
武家の娘が。
いきなり。
帝の后となれば。
公家社会は。
大きく揺れる。
反発も。
出る。
織田が。
朝廷を。
乗っ取る。
そう。
言う者も。
必ず現れる。
だから。
鷹司を。
間に置く。
だが。
それは。
形だけの。
偽装であってはならない。
姫自身が。
宮中で。
生きられるようにする。
それが。
必要だった。
そして。
もう一つ。
帝は。
心の中で。
決めている。
もし。
姫を。
妻に迎えるなら。
側室は。
置かない。
それは。
政治のためではない。
前世の。
価値観だけでもない。
一人の女を。
国を変えるための。
道具として。
連れてくる。
そんな形には。
したくなかった。
◆
鷹司家。
信長は。
再び。
当主と。
向き合っていた。
前回と。
同じ。
人払い。
必要最低限の。
供だけ。
鷹司が。
深く。
頭を下げる。
「先日は」
「突然の問い」
「御無礼いたしました」
信長が。
首を横に振る。
「構わぬ」
「それより」
信長の目が。
鋭くなる。
「今日は」
「続きを」
「聞かせてもらえるのであろうな」
鷹司は。
一瞬。
黙った。
そして。
頷いた。
「はい」
◆
「織田殿」
「何だ」
「先日」
「御息女について」
「お尋ねいたしました」
「覚えておる」
「本日は」
鷹司が。
まっすぐ。
信長を見る。
「その理由を」
「お話しいたします」
信長は。
黙って。
待つ。
「まず」
「一つ」
「御承知いただきたいことが」
「ございます」
「申せ」
「この話は」
「鷹司家から」
「始めたものではございませぬ」
信長の眉が。
動く。
「では」
「誰だ」
鷹司が。
頭を下げる。
「主上にございます」
信長の顔が。
止まった。
◆
「……主上?」
「はい」
「主上が」
「儂の娘を?」
「はい」
信長は。
何も言わない。
だが。
頭の中では。
猛烈な速さで。
考えている。
帝。
鷹司。
娘。
そして。
宗一郎。
あの男が。
鷹司の名を聞いた瞬間。
見せた顔。
「なるほど」
信長が。
低く呟く。
「宗一郎め」
鷹司が。
僅かに。
首を傾げた。
「いえ」
「こちらの話だ」
◆
鷹司が。
続ける。
「主上は」
「織田殿の御息女の一人を」
「鷹司家へ」
「養女として迎えることを」
「望んでおられます」
信長は。
黙る。
「そして」
鷹司が。
一度。
息を吸う。
「その後」
「鷹司の娘として」
「禁裏へ」
「入っていただきたいと」
信長の目が。
細くなる。
「入る」
「とは」
鷹司は。
逃げなかった。
「主上が」
「御妻として」
「お迎えになりたいとの」
「御意にございます」
静寂。
◆
信長は。
驚いていた。
当然だった。
官位ではない。
領地でもない。
娘。
しかも。
相手は。
帝。
もし。
娘が。
帝の妻となる。
そして。
その間に。
皇子が。
生まれれば。
織田の血が。
皇統へ。
入る。
それが。
何を意味するか。
分からない。
信長ではない。
むしろ。
分かりすぎる。
だからこそ。
すぐには。
答えなかった。
◆
「鷹司殿」
「はい」
「主上は」
「何を望んでおられる」
鷹司が。
信長を見る。
「織田を」
「朝廷の下へ」
「置きたいのか」
「それとも」
「織田の力を」
「使いたいのか」
鷹司は。
少し。
考えた。
「私が」
「主上の御心を」
「すべて」
「語ることはできませぬ」
「当然だ」
「ですが」
鷹司は続ける。
「少なくとも」
「織田家を」
「朝廷の道具にするためだけの」
「御縁ではない」
「そう」
「私は」
「受け取っております」
信長の目が。
僅かに。
動く。
◆
「先日」
鷹司が言った。
「私が」
「織田殿へ」
「朝廷をどう考えるか」
「お尋ねした理由も」
「そこにございます」
信長が。
黙る。
「織田殿が」
「朝廷を」
「己の物と」
「考えておられるなら」
「私は」
「この話を」
「ここまで」
「進めるつもりは」
「ございませんでした」
信長が。
僅かに笑う。
「試したか」
「御無礼を」
「構わぬ」
信長は。
腕を組んだ。
「それで」
「合格したと」
「思ってよいのか」
鷹司が。
珍しく。
少し笑った。
「少なくとも」
「もう一度」
「お会いする価値は」
「あると」
「思いました」
信長が。
鼻を鳴らした。
◆
「だが」
信長が。
顔を戻す。
「儂だけで」
「決められる話ではない」
鷹司が。
すぐに。
頷いた。
「主上も」
「同じことを」
「仰せにございます」
信長の眉が。
上がる。
「何?」
「姫君御本人が」
「望まれぬなら」
「この話は」
「進めぬと」
信長は。
しばらく。
鷹司を見た。
「主上が」
「そう申されたのか」
「はい」
「命ではないと」
「はい」
信長が。
ゆっくり。
息を吐く。
それなら。
答えは。
決まっていた。
「ならば」
信長が言う。
「まず」
「娘に聞く」
「それで」
「よろしいか」
鷹司は。
深く。
頭を下げた。
「もちろんにございます」
◆
「もう一つ」
信長が言う。
「はい」
「鷹司家は」
「本当に」
「娘を」
「受け入れるつもりか」
鷹司は。
即座に。
答えなかった。
それは。
当然の問いだった。
名だけ。
養女にする。
それなら。
簡単だ。
だが。
武家の娘を。
五摂家の一つへ。
迎える。
家の中にも。
反対はある。
公家社会からも。
声が出る。
それでも。
鷹司は。
答えた。
「姫君が」
「お受けになるなら」
「鷹司の娘として」
「お迎えいたします」
「名だけではございませぬ」
「宮中で」
「生きてゆくために」
「必要なことを」
「すべて」
「我が家で」
「お教えいたします」
信長は。
鷹司を。
じっと見た。
そして。
一度だけ。
頷いた。
◆
その夜。
織田屋敷。
「宗一郎」
「はい」
信長の前。
宗一郎は。
正座していた。
少し。
遠い。
「何故」
「そんなところに座る」
「何となく」
「近う来い」
「ここで」
「聞こえます」
「近う来い」
「はい」
半兵衛は。
少し離れたところで。
茶を飲んでいる。
信長が。
宗一郎を見る。
「知っていたな」
「……何をでしょう」
「鷹司だ」
「……」
「主上が」
「儂の娘を」
「娶りたいという話だ」
宗一郎が。
目を閉じた。
「はい」
「知ってました」
◆
信長の眉が。
ぴくりと動く。
「何故」
「言わぬ」
「言えなかったんです」
「誰に止められた」
宗一郎は。
信長を見る。
答えない。
信長も。
数瞬。
宗一郎を見る。
そして。
ため息。
「主上か」
宗一郎は。
何も言わない。
「答えぬなら」
「そういうことにしておく」
「助かります」
「助けてはおらん」
半兵衛が。
茶碗で。
口元を隠した。
◆
「それで」
信長が言う。
「お前は」
「どう思う」
宗一郎は。
少し。
考えた。
「政治の話ですか」
「娘の話だ」
信長の声が。
少しだけ。
変わった。
宗一郎も。
表情を。
変える。
これは。
天下人と。
家臣の話ではない。
父親の。
話だ。
「俺が」
「決めることじゃないです」
「分かっておる」
「でも」
宗一郎は続ける。
「一つだけ」
「俺なら」
「本人に」
「全部話します」
信長が。
見る。
「良いことも」
「悪いことも」
「全部です」
◆
「帝の妻になる」
「それだけ聞けば」
「すごい話です」
「でも」
「公家から」
「嫌われるかもしれない」
「武家からも」
「利用される」
「織田家の娘として」
「何かあるたび」
「見られる」
「子が生まれれば」
「その子まで」
「政治の中に入る」
信長は。
黙って聞く。
「それを」
「知らないまま」
「行かせるのは」
「違うと思います」
「だから」
宗一郎が。
信長を見る。
「本人に」
「選ばせてください」
信長は。
少し。
黙った。
そして。
言った。
「主上も」
「同じことを」
「申されたそうだ」
宗一郎の顔が。
少し。
緩んだ。
「なら」
「よかったです」
◆
信長が。
その顔を見る。
「宗一郎」
「はい」
「お前」
「主上と」
「何を話しておる」
宗一郎の顔が。
再び。
固まった。
半兵衛が。
茶を飲む。
「……それは」
「言えません」
「またか」
「すみません」
「儂と」
「主上と」
「どちらが主君だ」
「それ」
「答えにくいやつです」
「答えろ」
「信長様です」
「なら言え」
「それは無理です」
「何故だ!」
「主上との約束だからです!」
信長が。
宗一郎を。
睨む。
宗一郎も。
困った顔で。
見る。
やがて。
信長が。
鼻を鳴らした。
「もうよい」
「ありがとうございます」
「腹が立つ」
「すみません」
半兵衛が。
ついに。
笑った。
◆
翌日。
信長は。
娘を。
呼んだ。
大広間ではない。
家臣も。
いない。
親子。
二人だけ。
娘は。
父の前へ。
座った。
「父上」
「何でしょう」
信長は。
しばらく。
何も言わなかった。
戦場なら。
迷わない。
敵が。
一万いようが。
二万いようが。
必要なら。
進む。
だが。
今は。
違う。
自分の。
娘。
「話がある」
「はい」
「縁談だ」
娘の目が。
僅かに。
大きくなる。
だが。
驚きは。
それほどでもない。
武家の娘。
いつか。
来る。
そう。
分かっていた。
◆
「どちらの御家でしょう」
「まず」
信長が言った。
「鷹司家へ」
娘が。
止まる。
「鷹司?」
「公家の?」
「ああ」
「私が」
「鷹司家へ」
「嫁ぐのですか」
「違う」
信長は。
首を横に振った。
「養女だ」
娘が。
さらに。
分からない顔をする。
「養女?」
「ああ」
「鷹司の娘になる」
「その後」
信長が。
一度。
言葉を止めた。
「禁裏へ入る」
娘の表情が。
変わった。
「……禁裏?」
◆
信長は。
娘を。
まっすぐ見た。
「主上が」
「お前を」
「妻に迎えたいと」
「仰せだ」
娘は。
動かなかった。
声も。
出なかった。
ただ。
父を見る。
「……私を?」
「ああ」
「主上が?」
「ああ」
「何故」
信長は。
首を横に振った。
「詳しいことは」
「儂にも」
「まだ分からぬ」
嘘ではない。
大きな意味は。
分かる。
だが。
帝自身が。
何を。
どこまで。
考えているのか。
信長にも。
すべては。
分からない。
◆
娘の顔に。
戸惑いが。
浮かぶ。
そして。
その奥に。
恐れ。
当然だった。
相手は。
帝。
普通の。
縁談ではない。
断れる。
そう。
思える相手でもない。
信長は。
それを。
見た。
だから。
最初に。
言った。
「嫌なら」
「断れ」
娘が。
顔を上げた。
「……え?」
「聞こえなかったか」
「ですが」
「主上からの」
「御話なのでしょう」
「ああ」
「なら」
「断るなど」
「できぬのでは」
「できる」
信長が。
即座に言った。
「主上御自身が」
「そう仰せだ」
娘の目が。
見開かれる。
◆
「お前が」
「嫌だと言えば」
「この話は」
「終わる」
「父上は」
娘が。
恐る恐る。
尋ねる。
「それで」
「よろしいのですか」
信長は。
娘を見る。
「お前が」
「嫌なのに」
「儂が」
「行けと言うと思うか」
娘は。
少し。
考えた。
「……少し」
「思います」
信長の眉が。
跳ねた。
「何故だ!」
娘が。
思わず。
笑った。
「父上ですから」
「どういう意味だ」
「そのままにございます」
「お前まで」
「宗一郎のようなことを」
娘には。
意味が。
分からない。
だが。
張り詰めていたものが。
少しだけ。
解けた。
◆
やがて。
娘が。
静かに尋ねた。
「父上」
「何だ」
「主上は」
「どのような御方ですか」
信長が。
止まった。
難しい。
問いだった。
帝。
静か。
若い。
だが。
底が。
見えない。
将軍を。
二度。
諫め。
それでも。
朝命に背けば。
最後は。
死を命じた。
冷酷。
だが。
ただ。
冷たいわけではない。
そして。
自分の娘に。
嫌なら断ってよいと。
言った。
信長は。
少し考え。
答えた。
「怖い男だ」
娘の顔が。
固まった。
「父上」
「それでは」
「嫁ぎたくなくなります」
「最後まで聞け」
◆
信長は。
腕を組んだ。
「静かな男だ」
「だが」
「儂より」
「何を考えておるか」
「分からぬ時がある」
「……それは」
「余計に怖うございます」
「そうだな」
信長は。
あっさり認めた。
娘が。
困った顔をする。
「ただ」
信長が続ける。
「話は」
「聞く」
娘が。
父を見る。
「自分と」
「違う考えでも」
「聞いた上で」
「決める男だ」
「少なくとも」
「儂には」
「そう見えた」
娘は。
黙った。
◆
「それから」
信長が言う。
「お前を」
「無理に」
「迎えるつもりはない」
「それは」
「先ほど」
「聞きました」
「なら」
「後は」
「お前が決めろ」
娘は。
俯いた。
鷹司家。
禁裏。
帝。
妻。
あまりにも。
大きすぎる。
自分の人生が。
一度に。
別のものへ。
変わろうとしている。
しばらく。
沈黙が。
続いた。
そして。
娘が。
顔を上げた。
「父上」
「何だ」
「一つ」
「お願いがございます」
信長が。
見る。
「申せ」
◆
「主上に」
「お会いすることは」
「できますか」
信長の目が。
僅かに。
大きくなった。
娘は。
続ける。
「私には」
「まだ」
「何も分かりませぬ」
「何故」
「私なのか」
「何故」
「織田の娘を」
「妻にしようと」
「思われたのか」
「そして」
娘の声が。
少し。
強くなる。
「私は」
「鷹司の娘になれば」
「織田の娘では」
「なくなるのでしょうか」
信長は。
何も言わない。
「それを」
「主上御自身に」
「お尋ねしたいのです」
◆
信長の口元が。
ゆっくり。
上がった。
「そうか」
「はい」
「怖くないのか」
「怖うございます」
娘は。
正直に答えた。
「ですが」
「知らぬまま」
「決める方が」
「もっと」
「怖うございます」
信長は。
しばらく。
娘を見る。
そして。
笑った。
「よい」
「父上?」
「会え」
娘が。
目を見開く。
「儂から」
「鷹司へ伝える」
「主上にも」
「話を通してもらう」
娘は。
深く。
頭を下げた。
「ありがとうございます」
信長は。
娘を見た。
そして。
小さく。
呟いた。
「やはり」
「儂の娘だな」
「何か」
「仰いましたか」
「何でもない」
◆
その日のうちに。
鷹司家へ。
信長から。
返事が届いた。
鷹司は。
文を。
読んだ。
――姫。
――縁談について。
――主上御本人と。
――一度。
――話をしたいと望む。
鷹司は。
しばらく。
その文を見た。
そして。
僅かに。
笑った。
「そう来られたか」
家臣が。
尋ねる。
「いかがなされます」
「禁裏へ」
「お伝えせよ」
「姫君は」
「拒んではおられぬ」
「だが」
「受けてもおられぬ」
一度。
文を見る。
「御自身の目で」
「主上を見てから」
「決めたいと」
◆
禁裏。
その返答を。
帝は。
静かに聞いた。
「朕に」
「会いたいと?」
「はい」
側近が。
頭を下げる。
「何故」
「御自分が」
「選ばれたのか」
「そして」
「鷹司家の養女となれば」
「織田家の娘では」
「なくなるのか」
「主上御自身に」
「お尋ねしたいとのこと」
帝は。
黙った。
やがて。
ほんの僅かに。
口元が。
緩んだ。
「信長の娘だな」
側近は。
意味が分からず。
黙っている。
◆
「会おう」
帝が言った。
「よろしいので」
「当然だ」
「朕は」
「本人が」
「決めるべきだと申した」
「ならば」
「決めるために」
「必要なことを」
「聞く権利がある」
側近が。
頭を下げる。
「鷹司家を」
「間に?」
「ああ」
「まだ」
「正式な入内の話にはするな」
「姫は」
「まだ」
「何も決めておらぬ」
「公家にも」
「漏らすな」
「は」
◆
側近が。
退出しようとする。
「待て」
「は」
帝は。
少しだけ。
考えた。
「姫は」
「何歳だ」
側近が答える。
帝は。
頷いた。
「分かった」
「それから」
「はい」
「会う時は」
「人を」
「できるだけ減らせ」
「ただし」
「二人きりにはするな」
「鷹司から」
「信頼できる女房を」
「一人つけよ」
「承知いたしました」
帝は。
目を閉じた。
戦国の。
政略結婚。
本人同士が。
会うことすらなく。
決まることもある。
だが。
自分は。
そうしない。
◆
石山。
本願寺。
顕如の前へ。
新しい報告が。
届いた。
「鷹司家と」
「織田家の間で」
「再び」
「使者が往来しております」
顕如の目が。
細くなる。
「内容は」
「掴めませぬ」
「だが」
「信長本人が」
「鷹司家当主と」
「密かに会った形跡が」
「ございます」
教如が。
眉をひそめる。
「公家との」
「取り込みでしょうか」
顕如は。
すぐには。
答えなかった。
義昭が。
死んだ。
将軍という。
大きな盾が。
消えた。
そして。
その直後。
鷹司。
禁裏。
織田。
三つが。
動いている。
偶然。
そう。
考えるには。
出来すぎている。
◆
「調べよ」
顕如が言った。
「ただし」
「禁裏へ」
「直接」
「手を入れるな」
教如が。
父を見る。
以前なら。
もっと。
踏み込んだかもしれない。
だが。
今は。
違う。
帝は。
足利義昭を。
裁いた。
利用されるだけの。
帝ではない。
「鷹司家の」
「外から調べよ」
「出入りする者」
「織田との使者」
「商人」
「女房」
「だが」
顕如の声が。
低くなる。
「禁裏へ」
「忍びを入れるような真似は」
「絶対にするな」
「承知いたしました」
◆
教如が。
退出した後。
顕如は。
一人。
考えた。
信長。
帝。
もし。
二人が。
ただ。
手を結ぶだけなら。
まだ。
裂け目を。
作れる。
政治の同盟は。
利が変われば。
壊れる。
だが。
もし。
もっと。
深いところで。
結ばれたら。
「まさかな」
顕如は。
呟く。
まだ。
答えには。
辿り着いていない。
だが。
胸の奥に。
嫌な感覚が。
残った。
◆
一方。
宗一郎は。
義昭の死後。
集められた。
膨大な書類を。
前にしていた。
「多い……」
机。
一つでは。
足りない。
幕府が。
扱っていた。
土地争い。
寺社。
関所。
商人。
公家。
武家。
裁判。
税。
京の警固。
「将軍一人」
「いなくなったら」
「全部なくなると」
「思ってた?」
半兵衛が。
横から尋ねる。
「思ってない」
「本当に?」
「少しだけ」
半兵衛が。
ため息をつく。
◆
「でも」
宗一郎が。
紙を一枚持つ。
「これ」
「ちゃんと」
「決めないとまずい」
「そうだな」
「信長様が」
「全部決める形も」
「駄目だと思う」
半兵衛が。
宗一郎を見る。
「何故」
「信長様が」
「死んだ後」
宗一郎が答える。
半兵衛の目が。
僅かに。
変わる。
「一人の人間が」
「全部決める仕組みは」
「その人が」
「いなくなった時」
「壊れる」
宗一郎は。
義昭の死を。
思い出す。
将軍。
一人。
そして。
幕府。
だが。
本当に。
終わったのは。
一人の命だけではない。
仕組みそのものが。
限界だった。
◆
「だから」
宗一郎が言う。
「次は」
「人じゃなく」
「仕組みを作らないと」
半兵衛が。
少し笑う。
「また」
「大きなことを」
「言いますね」
「言うだけなら」
「ただだから」
「作るのは」
「ただではない」
「分かってるよ」
宗一郎は。
書類の山を見る。
そして。
ため息。
「これ」
「全部読むの?」
「もちろん」
「逃げてもいい?」
「駄目です」
「だよね」
◆
そこへ。
一人の使いが。
入った。
「高槻様」
「はい」
「鷹司家より」
「知らせが」
宗一郎の手が。
止まる。
「何?」
使いが。
内容を伝える。
姫が。
帝との。
面会を望んだ。
宗一郎は。
黙った。
半兵衛が。
横から見る。
「何です」
「……いや」
宗一郎が。
少し。
笑う。
「よかった」
「何が」
「ちゃんと」
「本人が」
「自分で」
「考えようとしてる」
半兵衛は。
宗一郎を見る。
詳しい事情は。
知らない。
だが。
また。
帝と。
宗一郎の間に。
何かある。
それだけは。
もう。
分かっていた。
◆
数日後。
鷹司家。
奥の一室が。
整えられた。
華美ではない。
だが。
粗末でもない。
人払いが。
なされる。
表向き。
帝が。
鷹司家へ。
人を通じて。
用向きを。
伝えるだけ。
そう。
扱われる。
だが。
実際には。
違う。
ここで。
一人の姫が。
自分の未来を。
決めるため。
一人の男と。
会う。
その男は。
帝。
そして。
その帝も。
また。
未来を知る。
だが。
姫は。
知らない。
帝が。
何者なのか。
何を。
知っているのか。
◆
禁裏を出る前。
帝は。
一人。
立っていた。
側近が。
尋ねる。
「主上」
「御支度」
「整っております」
「ああ」
帝は。
歩き出す。
だが。
数歩で。
止まった。
「どうなされました」
帝は。
少し。
考えた。
戦なら。
決断できる。
将軍を。
裁くことも。
できた。
未来の。
国の形について。
信長や。
宗一郎と。
話すことも。
できた。
だが。
これから。
会う相手は。
違う。
政治家ではない。
武将でもない。
未来人でもない。
自分が。
妻にしたいと。
申し出た。
一人の。
少女。
「……難しいな」
側近が。
驚いた。
「何がでございます」
帝は。
首を横に振った。
「何でもない」
◆
同じ頃。
織田の姫も。
鷹司家へ。
向かっていた。
供は。
少ない。
信長は。
同行していない。
最後に。
ただ。
一言だけ。
娘へ。
言った。
――嫌なら。
――嫌と言え。
姫は。
その言葉を。
何度も。
胸の中で。
繰り返していた。
怖い。
当然だった。
だが。
逃げたくはない。
自分の。
人生だから。
自分で。
見たい。
自分で。
聞きたい。
そして。
自分で。
決めたい。
◆
鷹司家。
廊下。
帝が。
一方から。
歩いてくる。
反対側から。
姫が。
案内されてくる。
まだ。
互いの姿は。
見えない。
一枚の。
襖。
その向こう。
二つの人生。
そして。
この国の未来。
鷹司家の当主が。
静かに。
座った。
女房が。
姫の横へ。
控える。
やがて。
声がした。
「主上」
「お入りにございます」
姫の背筋が。
伸びた。
襖へ。
手が掛かる。
ゆっくり。
開く。
そして。
織田信長の娘と。
未来を知る帝が。
初めて。
互いの姿を。
見た。




