第八十五章 将軍の最期
第八十五章 将軍の最期
朝。
近江から京へ続く街道に。
兵が。
動いた。
一千五百。
すべてが。
精鋭ではない。
幕臣。
奉公衆。
近江の国人。
雇われた兵。
そして。
将軍という名のもとに。
集められた者たち。
だが。
数の問題ではなかった。
その軍勢が。
どこへ向かっているか。
それが。
問題だった。
京。
そして。
その先には。
禁裏がある。
◆
先頭を進む兵が。
峠を越えた。
その時。
法螺貝が。
鳴った。
ブオオオオ――。
兵たちが。
止まる。
道の先。
織田の旗。
一つ。
二つ。
ではない。
左右の高地。
街道。
林。
橋。
いつの間にか。
織田勢が。
布陣していた。
だが。
誰も。
槍を構えていない。
鉄砲も。
撃たない。
ただ。
道を。
塞いでいる。
その中央。
馬上に。
一人の男。
明智光秀。
◆
光秀は。
将軍方の兵を見た。
その中には。
知っている顔もいる。
かつて。
同じ主君へ。
仕えた者。
同じ屋敷で。
酒を飲んだ者。
同じ未来を。
語った者。
光秀は。
一度。
目を閉じた。
そして。
開く。
「これより先は」
声を張る。
「京である!」
将軍方が。
ざわめく。
「陛下より」
「兵を京へ入れること」
「まかりならぬとの」
「御言葉が出ている!」
沈黙。
「引き返されよ!」
光秀は。
続けた。
「武器を捨てよとは申さぬ!」
「将軍家を捨てよとも申さぬ!」
「ただ!」
「兵を戻されよ!」
◆
向こうから。
一騎。
進み出た。
幕臣だった。
「明智殿!」
「これは」
「将軍家の兵である!」
「承知しております!」
「ならば」
「道を開けよ!」
光秀は。
首を横に振った。
「できませぬ」
「将軍の命であるぞ!」
「こちらは」
光秀が答えた。
「陛下の勅命にございます」
言葉が。
止まった。
将軍。
そして。
帝。
その二つを。
並べられれば。
武士たちにも。
分かる。
どちらが。
上なのか。
◆
それでも。
兵は。
動いた。
一歩。
二歩。
前へ。
光秀の後方。
織田勢が。
一斉に。
盾を構えた。
鉄砲隊が。
膝をつく。
だが。
撃たない。
さらに後ろ。
宗一郎が。
見ていた。
「まだ」
隣の半兵衛へ。
言う。
「撃つな」
「分かっている」
半兵衛が答える。
「向こうから」
「撃たせるのか」
「違う」
宗一郎は。
首を横に振った。
「撃たせたくない」
これが。
戦になれば。
死人が出る。
だが。
それ以上に。
意味が変わる。
織田対足利。
ではない。
朝廷の命に従う者と。
朝廷の命を破る者。
その境界が。
今。
ここにある。
◆
将軍方の兵の中から。
声が上がった。
「進め!」
一部が。
走り出す。
光秀が。
叫ぶ。
「止まれ!」
止まらない。
十人。
二十人。
五十人。
やがて。
百。
織田の前衛へ。
近づく。
「盾!」
号令。
盾が並ぶ。
槍が。
その隙間から出る。
だが。
突かない。
押す。
「戻れ!」
「戻れ!」
「陛下の御命令である!」
怒号。
悲鳴。
馬の嘶き。
それでも。
将軍方の一部が。
押し込もうとする。
その時。
パン。
一発。
銃声がした。
宗一郎の顔が。
変わった。
「どっちだ!」
伝令が叫ぶ。
「将軍方!」
次の瞬間。
織田側の盾に。
弾が当たった。
◆
信長は。
後方で。
その音を聞いた。
「撃ったな」
隣の長秀が。
頷く。
「はい」
信長が。
軍配を上げる。
だが。
まだ。
振らない。
「光秀」
前方。
光秀が。
振り返る。
遠い。
声は。
届かない。
だが。
目が合った。
信長は。
軍配を。
横へ振った。
光秀は。
理解した。
「前へ!」
織田勢が。
動いた。
◆
それでも。
鉄砲の一斉射ではなかった。
盾兵。
槍兵。
その後ろから。
鉄砲。
まず。
圧力をかける。
「武器を捨てよ!」
「捨てれば斬らぬ!」
「退け!」
光秀の声が。
戦場を走る。
何人かが。
槍を落とした。
一人。
二人。
十人。
だが。
後ろから。
将軍方の指揮官が叫ぶ。
「拾え!」
「将軍の兵ぞ!」
「退くな!」
その瞬間。
別の方向から。
馬蹄。
滝川一益。
騎馬隊。
側面へ。
回り込んでいた。
ただし。
突撃しない。
退路を。
塞がない。
逃げる道を。
残したまま。
側面へ。
圧力をかける。
宗一郎が。
信長に提案した形。
囲まない。
逃がす。
◆
戦は。
半刻も。
続かなかった。
最初の数十人が。
武器を捨てると。
崩れるのは。
早かった。
将軍のために。
死ぬ。
そこまでの覚悟を持つ者は。
多くない。
何より。
相手は。
「将軍に逆らえ」
とは。
言っていない。
「帝の命に従え」
そう。
言っている。
兵たちが。
次々と。
槍を置いた。
信長は。
追撃を命じなかった。
「終わりだ」
それだけ。
言った。
◆
だが。
本当の戦は。
終わっていなかった。
義昭は。
兵が敗れたと知ると。
京を離れ。
南へ動いた。
宇治。
槇島。
史実と。
同じ。
槇島城。
そこへ。
入った。
宗一郎は。
報告を聞いた瞬間。
背筋が。
冷たくなった。
「槇島……」
半兵衛が。
振り返る。
「知っているのか」
宗一郎は。
答えない。
答えられない。
知っている。
史実でも。
義昭は。
ここへ籠もった。
そして。
信長に敗れ。
追放される。
だが。
一つだけ。
違う。
今回は。
帝が。
いる。
未来を知る。
帝が。
自ら。
判断しようとしている。
◆
禁裏。
帝の前に。
報告が。
並べられた。
一つ。
二つ。
三つ。
近江からの出兵。
朝廷からの。
二度の制止。
義昭は。
従わなかった。
兵を増やした。
京へ向けた。
そして。
織田勢との接触。
先に。
鉄砲を撃った。
最後に。
槇島城へ。
入った。
帝は。
一枚ずつ。
読んだ。
何度も。
確認した。
誰が見た。
いつ。
どこで。
誰が命じた。
推測ではないか。
伝聞ではないか。
宗一郎が。
情報網で。
徹底させている方法。
それを。
帝も。
使った。
そして。
すべてを。
読み終えた。
◆
「二度」
帝が言った。
「はい」
「朕は」
「二度」
「兵を戻せと申した」
「はい」
「それでも」
「京へ向けた」
「……はい」
帝は。
目を閉じた。
史実。
足利義昭は。
死なない。
信長に追放される。
それでも。
征夷大将軍の地位を。
しばらく保つ。
その後も。
長く生きる。
本能寺の変も。
秀吉の天下も。
見る。
そして。
慶長二年。
その生涯を終える。
それが。
自分の知る。
足利義昭。
だが。
帝は。
目を開けた。
「だから」
「何だ」
側近が。
僅かに。
顔を上げた。
◆
歴史では。
そうだった。
だから。
今回も。
そうしなければならない。
そんな理由は。
どこにもない。
むしろ。
帝は。
思う。
自分が。
ここにいる。
高槻宗一郎が。
ここにいる。
すでに。
歴史は。
変わっている。
そして。
何より。
これは。
歴史の問題ではない。
今。
目の前で。
起きたこと。
その責任を。
どう取らせるか。
その問題だ。
「将軍であるから」
帝が言った。
「許されるのではない」
誰も。
声を出さない。
「将軍であるからこそ」
「許してはならぬ」
◆
その日のうちに。
信長へ。
勅命が届いた。
信長は。
書状を。
受け取った。
読む。
そして。
珍しく。
長く。
黙った。
宗一郎。
光秀。
半兵衛。
長秀。
勝家。
一益。
諸将が。
待つ。
やがて。
信長が。
書状を置いた。
「……宗一郎」
「はい」
「読め」
宗一郎が。
受け取る。
目を通す。
そして。
止まった。
そこには。
はっきりと。
書かれていた。
足利義昭。
朝命に背き。
兵を京へ向け。
京の安寧を。
脅かした。
よって。
その身を。
拘束せよ。
宗一郎は。
息を呑んだ。
◆
「討て」
ではない。
「捕らえよ」
だった。
だが。
宗一郎には。
分かった。
これは。
追放では。
終わらない。
信長が。
光秀を見る。
「どう思う」
光秀は。
目を閉じた。
そして。
頭を下げた。
「勅命に」
「従うべきかと」
声は。
震えていなかった。
だが。
拳が。
固く握られていた。
信長は。
それを見た。
何も。
言わなかった。
「槇島へ行く」
立ち上がる。
「将軍を」
「捕らえる」
◆
槇島城。
宇治川と。
巨椋池周辺の。
水に守られた城。
容易に。
攻められる場所ではない。
だが。
今回は。
史実とは違う。
信長の軍には。
高槻で整えられた。
測量図がある。
水路。
道。
堤。
浅瀬。
船着場。
すべてが。
完全ではない。
だが。
以前より。
はるかに。
細かい。
宗一郎は。
地図の上へ。
指を置いた。
「正面から」
「無理に攻めません」
勝家が。
腕を組む。
「では」
「囲むか」
「囲みます」
「ただし」
宗一郎は。
川を見る。
「逃げ道を」
「一つだけ残します」
信長が。
宗一郎を見る。
「またか」
「はい」
「逃がすのか」
「違います」
宗一郎は。
首を横に振った。
「降りる道を」
「残します」
◆
城を。
完全に囲えば。
人は。
死ぬまで戦う。
だが。
助かる道があれば。
心が。
揺れる。
しかも。
今回は。
義昭を。
殺すための戦ではない。
捕らえるための戦。
信長が。
頷く。
「よし」
「勝家」
「は!」
「北」
「一益」
「は!」
「西」
「長秀」
「東」
「光秀」
一瞬。
間があった。
「……は」
「南」
光秀が。
頭を下げる。
信長は。
続けた。
「宗一郎」
「はい」
「儂のそばにいろ」
「はい」
◆
槇島城を。
織田勢が。
囲んだ。
だが。
すぐには。
攻めない。
まず。
使者。
「陛下の勅命である」
「足利義昭殿」
「城を出られよ」
返事は。
ない。
二度目。
「城兵は」
「武器を捨てれば」
「命を保証する」
返事は。
ない。
三度目。
その時。
城から。
矢が飛んだ。
使者の。
足元へ。
突き刺さる。
信長は。
それを見た。
「十分だ」
◆
法螺貝。
太鼓。
織田勢が。
動いた。
だが。
城壁へ。
無数の兵を。
ぶつけない。
最初に。
大筒。
ドン――!
地面が。
震える。
城兵が。
身を伏せる。
狙いは。
人ではない。
門。
柵。
櫓。
ドン――!
二発目。
土煙。
高槻の砲は。
万能ではない。
重い。
遅い。
狙いも。
完璧ではない。
三発撃てば。
砲身を。
冷ます。
火薬も。
砲弾も。
無限ではない。
だが。
木と土で作られた。
一点を。
何度も。
叩く。
その用途なら。
十分だった。
◆
「右!」
宗一郎が叫ぶ。
「二間!」
砲手が。
照準を直す。
ドン――!
門の横。
土壁が。
崩れた。
勝家が。
笑う。
「開いたぞ!」
「まだです!」
宗一郎が止める。
「何だ!」
「向こうも」
「待ってます!」
崩れた場所。
その奥。
槍。
鉄砲。
城兵が。
構えている。
穴へ。
織田勢が殺到するのを。
待っている。
勝家が。
舌打ちした。
「なるほど」
信長が。
笑った。
「宗一郎」
「はい」
「なら」
「どうする」
「入らない」
「ほう」
「もう一つ」
「開けます」
◆
大筒が。
向きを変える。
別の場所。
ドン――!
ドン――!
城兵が。
右へ。
左へ。
動かされる。
そこへ。
一益の鉄砲隊。
城壁上だけを。
狙う。
撃つ。
伏せる。
装填。
交代。
また。
撃つ。
城兵は。
顔を出せない。
その間に。
長秀の兵が。
柵を。
外していく。
戦は。
派手ではない。
だが。
確実に。
城の抵抗力を。
削っていく。
◆
昼を過ぎる頃。
城内で。
異変が起きた。
「降ります!」
白い布。
一つ。
二つ。
三つ。
城兵が。
武器を捨て。
出てきた。
光秀の兵は。
斬らない。
武器だけを。
遠ざける。
水を。
渡す。
それを。
城壁の上から。
他の兵が。
見ている。
一人。
また一人。
そして。
十人。
二十人。
降伏が。
広がった。
義昭は。
奥で。
その報告を聞いた。
「裏切り者どもが」
だが。
声に。
力はなかった。
◆
夕刻。
門が。
内側から。
開いた。
城兵が。
雪崩のように。
出てくる。
だが。
戦うためではない。
武器を。
置くために。
光秀は。
その光景を。
黙って見た。
やがて。
一人の使者が。
走ってくる。
「明智様!」
光秀が。
振り向く。
「足利義昭様」
「御身柄を」
「確保いたしました」
光秀は。
目を閉じた。
長く。
長く。
そして。
「そうか」
それだけ。
答えた。
◆
義昭は。
縄を。
掛けられていなかった。
信長の命だった。
「将軍だった男だ」
「引きずるな」
義昭は。
二人の武士に。
挟まれ。
歩いてきた。
着物は。
汚れている。
髪も。
乱れている。
だが。
背筋だけは。
伸びていた。
信長。
宗一郎。
光秀。
その前へ。
義昭が。
立つ。
義昭は。
まず。
信長を見た。
「満足か」
信長は。
答えない。
「余を」
「ここまで落として」
「満足か!」
信長が。
静かに答えた。
「儂は」
「お前を」
「殺しておらぬ」
義昭が。
止まる。
「勅命だ」
「お前を」
「捕らえよとな」
義昭の顔が。
変わった。
「……帝が?」
「そうだ」
◆
義昭は。
宗一郎を見る。
そして。
光秀を見る。
「光秀」
光秀が。
一歩。
前へ出た。
「は」
「余は」
「負けたか」
光秀は。
答えられなかった。
義昭が。
小さく笑う。
「最後まで」
「答えぬか」
「いいえ」
光秀は。
首を横に振った。
「上様は」
一瞬。
昔の呼び方。
「……義昭様は」
「戦に」
「負けたのではございませぬ」
義昭が。
見る。
「では」
「何に負けた」
光秀は。
静かに答えた。
「御自身に」
義昭の顔が。
止まった。
◆
義昭は。
京へ。
戻された。
将軍としてではない。
罪人として。
だが。
牢へは。
入れられなかった。
寺の一室。
警護。
監視。
そして。
翌朝。
朝廷から。
正式な沙汰が。
下った。
信長が。
受け取る。
読んだ。
顔が。
僅かに変わった。
宗一郎が。
それを見る。
「何と?」
信長は。
紙を。
宗一郎へ渡した。
読む。
宗一郎の。
手が止まる。
「……これは」
光秀が。
宗一郎を見る。
宗一郎は。
何も言えなかった。
◆
禁裏。
帝は。
公家たちの前にいた。
反対は。
あった。
当然だった。
「将軍を」
「死罪に処すなど」
「前例が」
「足利家との関係が」
「諸国の武家が」
「本願寺が」
帝は。
すべて聞いた。
そして。
一言。
尋ねた。
「では」
「何故」
公家たちが。
黙る。
「将軍ならば」
「朕の命に」
「二度背いても」
「許されるのか」
誰も。
答えない。
「兵を」
「京へ向けても」
「許されるのか」
沈黙。
「もし」
帝の声が。
低くなる。
「それを許せば」
「次は」
「誰が」
「同じことをする」
誰も。
答えられない。
◆
帝は。
立った。
「義昭は」
「将軍であった」
「だからこそ」
「責任は」
「軽くならぬ」
むしろ。
「重くなる」
帝の目が。
冷たくなる。
「朕は」
「二度」
「戻れと申した」
「それでも」
「兵を」
「京へ向けた」
「ならば」
「答えは」
「一つだ」
公家の一人が。
恐る恐る。
尋ねる。
「斬首に」
「なされますか」
帝は。
少し。
黙った。
そして。
首を横に振った。
「否」
◆
「足利義昭は」
「征夷大将軍として」
「長く」
「武家の頂にあった者」
「その名まで」
「辱める必要はない」
帝は。
目を閉じた。
未来では。
生きる。
二十年以上。
生きる。
だが。
この世界では。
ここまでだ。
「最後の」
「慈悲を与える」
帝は。
告げた。
「切腹を」
「許す」
◆
その言葉は。
すぐに。
義昭へ。
伝えられた。
寺の一室。
義昭は。
静かに。
座っていた。
使者が。
沙汰を読み上げる。
最後まで。
義昭は。
何も言わなかった。
「以上にございます」
使者が。
頭を下げる。
長い。
沈黙。
やがて。
義昭が。
笑った。
「そうか」
不思議なほど。
穏やかな声だった。
「帝は」
「余を」
「許さなんだか」
「……」
「当然か」
義昭は。
庭を見る。
「二度」
「戻れと」
「言われた」
「余は」
「戻らなかった」
誰へともなく。
呟く。
「余は」
「将軍だったからな」
◆
その夜。
光秀が。
呼ばれた。
義昭自身が。
望んだ。
部屋へ入る。
義昭。
そして。
光秀。
二人だけではない。
見届け役は。
離れている。
だが。
会話は。
聞こえない距離。
光秀が。
座る。
義昭を見る。
昨日までとは。
違う。
怒りが。
消えている。
「来たか」
「はい」
光秀は。
深く頭を下げた。
「上様」
今度は。
言い直さなかった。
義昭が。
僅かに笑う。
「まだ」
「そう呼ぶか」
「はい」
「最後まで」
光秀は。
答えた。
「私にとって」
「一度」
「主君であられた御方にございます」
義昭は。
目を閉じた。
◆
「光秀」
「は」
「お前は」
「正しかったのか」
光秀は。
黙る。
「分かりませぬ」
義昭が。
目を開く。
「分からぬ?」
「はい」
「私は」
「自分が」
「正しいとは」
「思っておりませぬ」
「では」
「何故」
「余を止めた」
光秀は。
静かに。
答えた。
「間違っていると」
「思ったからにございます」
義昭が。
少し。
笑った。
「相変わらず」
「理屈ばかりだ」
「申し訳ございませぬ」
「謝るな」
義昭は。
庭を見る。
◆
「越前を」
「覚えているか」
「はい」
「何もなかった」
「はい」
「寒かったな」
光秀の目が。
僅かに。
潤む。
「……はい」
「余は」
「京へ戻りたかった」
「はい」
「将軍に」
「なりたかった」
「はい」
義昭は。
笑った。
「なった」
「……はい」
「なったのにな」
光秀は。
答えられなかった。
義昭が。
小さく。
呟く。
「いつから」
「間違えた」
光秀は。
首を横に振った。
「分かりませぬ」
「そうか」
「ですが」
光秀が。
義昭を見る。
「上様が」
「京へ戻られたことまで」
「間違いだったとは」
「私は」
「思いませぬ」
義昭の目が。
光秀を見る。
◆
「そうか」
「はい」
「なら」
「よい」
それだけだった。
長い。
長い。
沈黙。
やがて。
義昭が。
尋ねた。
「信長は」
「来ぬのか」
「お呼びいたしますか」
義昭は。
少し考えた。
そして。
首を横に振った。
「よい」
「今さら」
「何を話す」
さらに。
少し。
間を置く。
「ただ」
「伝えよ」
「何と」
義昭は。
僅かに。
笑った。
「余を」
「将軍にした男が」
「将軍のいない天下を」
「どう作るのか」
「見られぬのが」
「残念だとな」
光秀は。
深く。
頭を下げた。
「必ず」
「お伝えいたします」
◆
翌朝。
足利義昭は。
白装束を。
身につけた。
部屋は。
静かだった。
外には。
朝の光。
鳥の声。
義昭は。
最後まで。
背筋を伸ばしていた。
将軍として。
生きた。
ならば。
最後も。
武家の棟梁として。
終える。
それが。
帝から与えられた。
最後の慈悲だった。
義昭は。
短刀を前に。
一度。
目を閉じた。
兄。
義輝。
越前。
光秀。
信長。
京。
将軍宣下。
すべてが。
過ぎていく。
「余は」
小さく。
呟く。
「将軍であった」
それが。
誇りだった。
そして。
最後まで。
捨てられなかったものでもあった。
義昭は。
短刀へ。
手を伸ばした。
◆
介錯人の刀が。
振り下ろされた。
十五代将軍。
足利義昭。
死去。
史実とは。
二十年以上。
早い死だった。
そして。
その死によって。
室町幕府は。
名実ともに。
終わった。
◆
知らせを受けた。
信長は。
長く。
黙っていた。
喜ばない。
笑わない。
「そうか」
ただ。
それだけ。
光秀から。
最後の言葉を聞く。
――余を将軍にした男が。
――将軍のいない天下を。
――どう作るのか。
――見られぬのが残念だ。
信長は。
目を閉じた。
そして。
小さく言った。
「勝手な奴だ」
光秀が。
俯く。
「最後まで」
「勝手な奴だった」
それ以上。
信長は。
言わなかった。
◆
宗一郎は。
廊下から。
京を見ていた。
歴史が。
また。
変わった。
いや。
そんな。
軽い言葉ではない。
足利義昭は。
本来。
この後も。
生きる。
毛利を頼り。
信長への抵抗を続け。
信長の死後も。
生きる。
だが。
その未来が。
消えた。
「怖いのですか」
背後。
半兵衛。
宗一郎は。
少し考えた。
「怖い」
「何が」
「俺たちが」
「変えているものが」
半兵衛が。
隣へ来る。
宗一郎は。
続けた。
「一人を救えば」
「別の誰かが死ぬかもしれない」
「一つの戦をなくせば」
「別の戦が起きるかもしれない」
「未来を知っているからって」
「正しい未来を」
「知っているわけじゃない」
半兵衛は。
しばらく。
黙っていた。
「なら」
「どうしますか」
宗一郎は。
京を見る。
「見る」
「考える」
「間違えたら」
「直す」
「それしかない」
半兵衛が。
僅かに笑う。
「いつもの答えですね」
「他に」
「思いつかないんだよ」
◆
禁裏。
帝も。
同じ京を。
見ていた。
自分が。
命を下した。
一人の人間が。
死んだ。
歴史を。
変えた。
しかも。
自分の意思で。
帝は。
目を閉じる。
「これで」
「一つ」
側近が。
顔を上げる。
帝は。
続けなかった。
一つ。
時代が。
終わった。
だが。
終わらせただけでは。
意味がない。
将軍を。
消した。
なら。
次を。
作らなければならない。
権威。
制度。
軍。
法。
教育。
そして。
次代。
さらに。
血。
帝の目が。
開く。
「鷹司を」
側近が。
頭を下げる。
「は」
「呼べ」
「承知いたしました」
「それから」
帝は。
一瞬。
考えた。
「織田信長にも」
「使いを」
「何と」
帝は。
静かに答えた。
「話がある」
◆
石山。
本願寺。
義昭死去。
その知らせを。
顕如は。
黙って聞いた。
教如が。
立ち上がる。
「父上!」
「これは」
「信長が!」
「違う」
顕如が。
遮った。
教如が。
止まる。
「信長ではない」
顕如の顔から。
いつもの余裕が。
消えていた。
「帝だ」
部屋が。
静かになる。
「信長は」
「将軍を殺しておらぬ」
「勅命に従い」
「捕らえただけだ」
顕如が。
拳を握る。
「そして」
「帝が」
「裁いた」
それが。
恐ろしかった。
◆
もし。
信長が。
義昭を殺していたなら。
利用できた。
将軍殺し。
逆賊。
武家の秩序を壊した男。
いくらでも。
言葉を作れた。
だが。
違う。
義昭は。
帝の命を。
二度拒んだ。
兵を。
京へ向けた。
そして。
帝の命で。
捕らえられ。
帝の裁きで。
死んだ。
「……使えぬ」
顕如が。
呟く。
教如が。
父を見る。
「何が」
「将軍の死だ」
顕如は。
目を閉じた。
「信長を」
「悪にできぬ」
そして。
もっと。
恐ろしいことがある。
これまで。
朝廷は。
利用するものだと。
考えていた。
信長を。
縛るために。
将軍を。
守るために。
本願寺を。
守るために。
だが。
違った。
禁裏にいる帝は。
誰かに。
使われるだけの男ではない。
自ら。
決める。
自ら。
裁く。
そして。
必要なら。
将軍すら。
葬った。
顕如は。
ゆっくり。
目を開いた。
「まずいな」
教如が。
父を見る。
「何がです」
顕如は。
答えた。
「信長だけなら」
「まだ」
「戦えた」
「だが」
一度。
言葉を切る。
「信長の後ろに」
「帝が立つなら」
顕如の声が。
低くなる。
「戦そのものが」
「変わる」
◆
京。
一人の将軍が。
死んだ。
それは。
ただ。
一人の男の死ではなかった。
二百年以上。
続いた。
室町という時代の。
終わりだった。
そして。
誰も。
まだ知らない。
将軍の死によって。
空いた場所を。
誰が。
どのような仕組みで。
埋めるのか。
武家か。
朝廷か。
それとも。
その二つを。
結ぶ。
まったく新しい形か。
その答えを。
帝は。
すでに。
考え始めていた。
そして。
その中心には。
一人の姫が。
いた。




