第八十章 未来を変える者
第八十章 未来を変える者
三日後。
宗一郎は。
再び禁裏へ呼ばれた。
今度も。
夜だった。
今度も。
信長には知らされていない。
そして。
今度も。
二人だけだった。
だが。
前回とは違う。
帝も。
宗一郎も。
相手が何者なのかを知っている。
襖が閉まる。
帝が言った。
「座れ」
「はい」
宗一郎が座る。
沈黙。
先に口を開いたのは。
宗一郎だった。
「今日は」
「教えていただけるんですよね」
「何をだ」
「陛下が何年から来たのか」
帝が少し笑った。
「覚えていたか」
「忘れられるわけないでしょう」
言ってから。
宗一郎は慌てて頭を下げた。
「……失礼しました」
「よい」
帝は気にしなかった。
そして。
しばらく黙った後。
口を開いた。
「令和だ」
宗一郎の目が大きくなる。
「……やっぱり」
「そなたもか」
「はい」
帝の目が変わった。
「何年だ」
宗一郎は答えた。
帝も。
自分が生きていた時代を話した。
細かな年月は違う。
だが。
二人は。
ほぼ同じ日本を知っていた。
平成。
令和。
インターネット。
自動車。
飛行機。
電気。
学校。
病院。
そして。
戦争のない日本。
少なくとも。
自分たちが生きていた日本では。
町を歩いていて。
突然。
隣国の兵が攻めてくることはない。
宗一郎は。
少し笑った。
「こういう話」
「久しぶりです」
帝も。
小さく笑った。
「朕もだ」
だが。
笑みは。
すぐ消えた。
◆
「高槻」
「はい」
「そなたは」
帝が尋ねた。
「歴史をどこまで覚えている」
「戦国時代なら」
宗一郎は答えた。
「かなり」
「好きだったのか」
「好きでした」
「だから信長についた?」
宗一郎は少し考えた。
「最初は」
「それもありました」
「今は?」
宗一郎は。
少しだけ笑った。
「本人を知ってしまいましたから」
帝が見る。
「歴史上の織田信長ではなく?」
「はい」
宗一郎は頷く。
「怒るし」
「無茶するし」
「人の話を聞かないし」
「それは前にも聞いた」
「本当に聞かないんですよ」
帝が笑った。
だが。
宗一郎は続けた。
「それでも」
「俺が知っている信長様は」
「教科書の中の人じゃない」
「生きてる人です」
帝の表情が。
静かになる。
宗一郎は言った。
「だから」
「本能寺で死ぬ人だとは」
「もう思っていません」
帝は。
その言葉を。
長く考えた。
◆
「朕は」
帝が言った。
「歴史を学んでいた」
宗一郎が顔を上げる。
「前世で?」
「ああ」
「専門家だったんですか」
「一応な」
宗一郎は。
少し嫌な顔をした。
「ずるいな……」
「何がだ」
「俺は趣味ですよ」
「十分だろう」
「いや」
宗一郎が首を振る。
「歴史学者と歴史好きじゃ全然違います」
帝は笑った。
「だが」
その笑みが消える。
「知っているからこそ」
「怖かった」
宗一郎は黙った。
帝が続ける。
「歴史を変えることが」
「ですか」
「ああ」
帝は庭を見る。
「我々は」
「未来を知っている」
「だから」
「正しい道も知っていると錯覚する」
宗一郎の表情が変わる。
「だが」
帝は言った。
「違う」
「我々が知っているのは」
「一度起きた結果だけだ」
宗一郎は。
ゆっくり頷いた。
「同じことをしても」
「同じ結果になるとは限らない」
「そうだ」
帝は宗一郎を見る。
「だから朕は」
「長く」
「大きく歴史へ手を入れることを避けていた」
宗一郎は何も言わない。
「だが」
帝の声が変わる。
「そなたが現れた」
「……俺?」
「そうだ」
帝は言った。
「半兵衛が生きている」
「浅井も」
「朝倉も」
「武田との戦も」
「すでに違う」
「歴史は」
「朕が触れなくても」
「変わってしまった」
宗一郎は。
少し困ったように笑った。
「責任重大ですね」
「他人事のように言うな」
「すみません」
◆
しばらく。
二人は黙った。
そして。
帝が言った。
「高槻」
「はい」
「そなた」
「徳川家康をどう見る」
宗一郎の顔から。
笑みが消えた。
「……難しいですね」
「史実では?」
宗一郎は考える。
「天下を取ります」
「江戸幕府を開く」
「そうだ」
「二百年以上続きます」
「そうだ」
帝は頷く。
「それ自体を」
「朕は単純に悪とは思わぬ」
宗一郎も頷いた。
江戸時代。
平和。
文化。
経済。
教育。
都市。
多くのものが育った。
鎖国という言葉だけで。
二百年以上を否定することなど。
できない。
帝は続けた。
「だが」
「その後がある」
宗一郎の表情が変わる。
幕末。
明治。
日清。
日露。
第一次世界大戦。
満州。
日中戦争。
太平洋戦争。
そして。
広島。
長崎。
「歴史は」
帝が言った。
「一本道ではない」
「はい」
「家康が天下を取ったから」
「原爆が落ちた」
「そのような単純な話ではない」
宗一郎は頷く。
「でも」
帝は続けた。
「朕は」
「知ってしまっている」
あの未来を。
二度の閃光を。
知っている。
ならば。
何もしないことも。
一つの選択になる。
「同じ道を」
帝が言った。
「そのまま歩ませる気はない」
宗一郎は。
帝を見る。
そこに。
前回とは違うものを感じた。
決意。
◆
「信長を生かす」
帝が言った。
宗一郎の目が動く。
「本能寺を?」
「本能寺だけではない」
帝は答える。
「信長という人間を」
「一つの分岐点として使う」
宗一郎は黙る。
「だが」
帝は続けた。
「信長一人では駄目だ」
「何故です」
「死ぬからだ」
宗一郎の顔が僅かに強張る。
「本能寺でなくとも」
帝は言った。
「人はいずれ死ぬ」
宗一郎は。
反論できなかった。
「信長が生きている間だけ」
「国が変わるのでは意味がない」
「信長が死んだ後も」
「戻らないものを作る」
宗一郎の目が細くなる。
「制度ですか」
「それもある」
「教育?」
「それも」
「軍制」
「必要だ」
「法律」
帝が。
そこで止めた。
「そうだ」
宗一郎は。
少し驚いた。
この時代の帝の口から。
その言葉が出たことに。
だが。
目の前の人物は。
未来人でもある。
「法」
帝が言った。
「教育」
「税」
「軍」
「医療」
「商い」
「外交」
「そして」
一度。
言葉を切る。
「権威」
宗一郎は。
最後の言葉で。
帝が何を考えているのか。
少しだけ察した。
◆
「高槻」
「はい」
「武家だけで」
「この国をまとめられると思うか」
宗一郎は考える。
「短期間なら」
「長くは?」
「難しいと思います」
「何故だ」
「勝った者が支配する仕組みなら」
宗一郎は答える。
「もっと強い者が出れば」
「また戦になります」
帝の目が。
僅かに動く。
「そうだ」
信長が天下を取る。
それだけでは。
終わらない。
信長の死後。
後継者が弱ければ。
また割れる。
だから。
帝は考えていた。
武力だけではない。
武家だけでもない。
朝廷だけでもない。
互いを。
縛る。
仕組み。
そして。
その最も古く。
最も強い方法。
血。
◆
「高槻」
帝が言った。
「信長に」
「娘がいるな」
宗一郎の身体が。
ほんの僅かに固まった。
「……はい」
来た。
何か。
来た。
「何人かおります」
「その中から」
帝は言った。
「一人」
宗一郎は黙る。
「公家へ入れる」
宗一郎の眉が上がった。
「養女、ですか」
帝の目が。
鋭くなる。
「理解が早いな」
宗一郎は。
背中に嫌な汗を感じた。
まさか。
「どこの家へ?」
帝は。
答えた。
「鷹司」
宗一郎は。
息を止めた。
五摂家。
藤原氏。
摂政。
関白。
朝廷の中枢。
織田の娘を。
いったん。
鷹司家の養女にする。
それから。
「……その後は?」
宗一郎が尋ねる。
帝は。
真っ直ぐ宗一郎を見る。
「朕が迎える」
宗一郎は。
完全に黙った。
◆
予想していた。
途中から。
そうではないかと思っていた。
それでも。
実際に聞くと。
重さが違う。
「陛下」
「何だ」
「それは」
宗一郎は慎重に言葉を選ぶ。
「とんでもない話ですよ」
「知っておる」
「公家が反対します」
「するだろう」
「将軍は」
「激怒するだろうな」
「本願寺も」
「警戒する」
「信長様は……」
そこで。
宗一郎が止まる。
帝が尋ねる。
「何だ」
宗一郎は。
少し考えた。
「分かりません」
帝が。
初めて困った顔をした。
「分からぬ?」
「はい」
「天下の話なら読めるんです」
「戦も」
「政治も」
「ある程度」
「でも」
宗一郎は苦笑した。
「娘の話になった信長様は」
「全然読めません」
帝は。
しばらく黙った。
そして。
小さく笑った。
「そこは朕も同じか」
◆
だが。
宗一郎は。
すぐ真顔になった。
「一つだけ」
「申せ」
「娘御本人の意思は」
帝が宗一郎を見る。
「必要だと思います」
宗一郎は言った。
「政治のためだから」
「父親が決めたから」
「帝がお望みだから」
「それだけで」
「一生を決めるのは」
宗一郎は。
言葉を止めた。
言い過ぎたかもしれない。
だが。
帝は怒らなかった。
むしろ。
少しだけ。
満足そうだった。
「同じことを考えていた」
宗一郎が顔を上げる。
「朕も」
帝は言った。
「顔も知らぬ女を」
「ただ政治のためだけに迎える気はない」
「本人が嫌だと言えば?」
「やめる」
即答だった。
宗一郎は。
少し驚いた。
帝は続ける。
「鷹司にも」
「信長にも」
「まず話をする」
「そして」
「娘本人にも」
「選ばせる」
宗一郎は。
静かに頭を下げた。
「それなら」
「俺から言うことはありません」
◆
「だが」
帝が続ける。
「まだ動かぬ」
宗一郎が顔を上げる。
「何故です」
「早すぎる」
帝は答えた。
「今動けば」
「義昭も」
「顕如も」
「婚姻を」
「信長が朝廷を支配するためのものだと騒ぐ」
宗一郎は頷いた。
間違いない。
むしろ。
絶好の材料になる。
「だから」
帝は言った。
「先に」
「朝廷自身が」
「信長を選んだのだと示す」
宗一郎の目が変わる。
「どうやって?」
帝は答えなかった。
代わりに。
「義昭が動く」
宗一郎の顔が変わる。
「近いうちに?」
「すでに」
帝は言った。
「朝廷へ調停を求める動きがある」
宗一郎の目が鋭くなる。
「何の?」
「信長と本願寺」
宗一郎は。
理解した。
義昭。
顕如。
朝廷を。
仲裁者として使う。
表向きは。
戦を止めるため。
だが。
狙いは違う。
「信長様の手を縛る」
「そうだ」
帝が頷く。
「停戦を命じさせる」
「その間に本願寺が立て直す」
「将軍は権威を取り戻す」
「そして」
宗一郎は続ける。
「信長様だけが」
「朝廷に逆らえない」
帝の目が細くなる。
「やはり早いな」
宗一郎は。
少し笑った。
「褒められてます?」
「一応な」
◆
その頃。
足利義昭の館。
一通の書状が。
置かれていた。
差出人。
石山本願寺。
義昭は。
長く。
その文面を見ていた。
「和睦」
側近が言う。
「本願寺は」
「朝廷の仲立ちによる停戦を望んでおります」
義昭が笑った。
「停戦?」
「はい」
「顕如が?」
「表向きは」
義昭の笑みが。
深くなる。
分かっている。
顕如が。
本当に戦を終えるつもりではない。
だが。
使える。
「よい」
義昭が言った。
「朝廷へ願い出よ」
「上様御自ら?」
「そうだ」
義昭は立ち上がる。
「余は征夷大将軍」
「武家の争いを収めるのは」
「余の役目だ」
側近が頭を下げる。
義昭は。
久しぶりに。
機嫌がよかった。
信長。
朝廷の命令なら。
無視できまい。
従えば。
本願寺は生き残る。
拒めば。
朝廷に逆らった。
そう言える。
どちらでもいい。
信長を。
削れる。
◆
石山。
顕如は。
義昭が動いたとの報告を受けた。
教如が尋ねる。
「これで」
「信長は止まりますか」
顕如は。
首を横に振った。
「止まらぬ」
「では何故」
「止まらぬからだ」
教如が黙る。
顕如は言った。
「信長は」
「朝廷の言葉を無視するほど愚かではない」
「だが」
「石山を残すほど甘くもない」
「ならば」
「苦しむ」
顕如の目が。
静かに細くなる。
「進めば朝廷」
「止まれば我ら」
「どちらを選んでも」
「傷が残る」
教如は。
父を見る。
「では」
「和睦する気は」
顕如は。
答えなかった。
その沈黙が。
答えだった。
◆
禁裏。
宗一郎は。
帝を見ていた。
「陛下」
「何だ」
「どうするおつもりですか」
帝は。
すぐには答えなかった。
将軍。
本願寺。
信長。
そして。
朝廷。
すべてが。
こちらを見ている。
帝は。
未来で。
何度も見た。
権威が。
誰かの道具になる瞬間を。
だが。
今。
その権威の中心に。
自分がいる。
「調停する」
宗一郎の目が。
僅かに大きくなる。
「本当に?」
「ああ」
帝は言った。
「ただし」
声が変わった。
「義昭と顕如が望む形ではない」
宗一郎は。
帝を見る。
「双方へ」
帝が言った。
「条件を出す」
「条件?」
「織田には」
「石山への攻撃を止めさせる」
宗一郎の顔が強張る。
だが。
帝は続けた。
「本願寺には」
「武装解除を求める」
宗一郎の目が。
大きくなる。
「武装解除……」
「寺領内の兵」
「鉄砲」
「城郭」
「諸国への軍事動員」
「すべてだ」
宗一郎は。
息を吐いた。
それなら。
顕如は。
飲まない。
「拒否します」
「だろうな」
帝は。
静かに言った。
宗一郎が。
帝を見る。
「最初から」
「それを?」
帝は答えない。
ただ。
「朕は」
「戦を止める機会を」
「双方へ与える」
そう言った。
「それを」
「どちらが拒むか」
「天下に見せる」
宗一郎は。
その意味を理解した。
義昭と顕如は。
朝廷を使って。
信長を縛ろうとした。
だが。
帝は。
逆に。
調停そのものを。
彼らの覚悟を量る場にする。
宗一郎は。
思わず。
小さく笑った。
「何だ」
帝が尋ねる。
「いえ」
「言え」
「陛下」
宗一郎は言った。
「結構」
一瞬迷い。
「怖い人ですね」
帝が。
静かに笑った。
「信長ほどではない」
宗一郎は。
首を横に振った。
「種類が違います」
◆
数日後。
朝廷から。
三者へ使者が出た。
織田信長。
足利義昭。
そして。
石山本願寺顕如。
朝廷による。
正式な調停。
京中が。
ざわめいた。
誰もが。
信長がどうするかを見る。
顕如がどうするかを見る。
将軍がどうするかを見る。
だが。
その裏で。
もう一つ。
誰にも知られない動きが。
始まっていた。
禁裏から。
一人の使者が。
ある公家の屋敷へ向かった。
五摂家。
鷹司家。
まだ。
養女の話はしない。
まだ。
婚姻の話もしない。
ただ。
帝が。
鷹司家の当主へ。
密かに会いたい。
それだけ。
使者は告げた。
そして。
その報せを受けた鷹司家では。
当主が。
長い間。
黙っていた。
「主上が」
「我が家に?」
理由は。
分からない。
だが。
禁裏では。
帝が。
静かに。
次の一手を考えていた。
調停。
将軍。
本願寺。
信長。
その決着を見た後。
動かす。
織田の血を。
公家へ。
そして。
公家から。
皇室へ。
戦場では。
まだ誰も知らない。
一つの婚姻が。
やがて。
天下の形そのものを変えることを。
そして。
その婚姻こそが。
足利義昭と顕如に。
決定的な危機感を抱かせることになる。
歴史は。
戦だけで。
動くのではない。
一人の女の輿入れが。
十万の兵より。
天下を揺らすこともある。
その最初の糸が。
今。
禁裏から。
鷹司家へ。
静かに伸び始めていた。




