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第七十九章 平成

第七十九章 平成


夜。


京の織田屋敷。


宗一郎はまだ起きていた。


机の上には。


近江。


伊勢。


河内。


石山。


そして京。


各地から届いた報告が並んでいる。


本願寺の使僧。


将軍家の使者。


公家屋敷への出入り。


商人の動き。


米の値。


船の数。


宗一郎が見ているのは。


軍勢だけではない。


「……顕如が止まった」


宗一郎が呟いた。


向かいに座る半兵衛が顔を上げる。


「止まった?」


「朝廷への働きかけ」


「失敗したからでは?」


「違う」


宗一郎は一枚の紙を置いた。


「失敗したなら別の手を打つ」


「でも急に静かになった」


半兵衛が考える。


「何かを見ている?」


「たぶん」


宗一郎は頷いた。


「帝が誰を呼ぶか」


「誰が信長様に近づくか」


「朝廷の空気がどちらへ動くか」


半兵衛が苦笑する。


「石山の顕如という男」


「厄介だな」


「うん」


宗一郎も笑った。


「戦場に出てこない相手は嫌いだ」


「お前が言うか」


「俺はちゃんと出てる」


「出すぎだ」


その時だった。


廊下の向こうから。


小さな足音。


宗一郎と半兵衛が同時に口を閉じた。


襖の外。


「高槻様」


聞き慣れない声。


「何者です」


半兵衛が立つ。


「禁裏より参りました」


宗一郎の顔から。


笑みが消えた。


     ◆


男は。


身なりこそ地味だった。


だが。


言葉遣い。


姿勢。


目。


普通の使者ではない。


宗一郎は男を見る。


「書状は?」


「ございません」


半兵衛の目が鋭くなる。


「書状もなく禁裏の名を使うか」


「証はこちらに」


男が小さな品を示した。


宗一郎には分からない。


だが。


半兵衛の表情が変わった。


「……本物か」


男は何も言わない。


「用件は?」


宗一郎が尋ねた。


「お越しいただきたい」


「どこへ」


男は一瞬だけ宗一郎を見る。


「申し上げられませぬ」


半兵衛が宗一郎を見る。


「行くな」


即答だった。


宗一郎もそう思う。


今。


京には。


義昭。


本願寺。


朝廷。


いくつもの思惑が絡んでいる。


「誰の命令です」


宗一郎が尋ねる。


男は答えなかった。


代わりに。


「お一人で」


そう言った。


半兵衛の目がさらに鋭くなる。


「なおさら駄目だ」


「半兵衛」


「駄目だ」


「まだ何も言ってない」


「顔に書いてある」


宗一郎は困ったように笑った。


だが。


使者が一言。


「主上がお待ちです」


笑みが消えた。


半兵衛も。


黙った。


     ◆


「信長様には?」


宗一郎が尋ねる。


「お知らせしないようにとの仰せ」


宗一郎の眉が動く。


半兵衛が低く言う。


「宗一郎」


「うん」


「危険だ」


「分かってる」


「なら」


「でも」


宗一郎は使者を見る。


帝が。


信長にも秘密で。


自分を呼ぶ。


理由。


思い当たらない。


いや。


ありすぎる。


高槻。


技術。


軍事。


本願寺。


将軍。


あるいは。


信長について。


「行く」


半兵衛が目を閉じた。


「言うと思った」


「ごめん」


「謝るなら行くな」


「それは無理」


半兵衛が宗一郎を見る。


「なら一つ約束しろ」


「何?」


「余計なことを喋るな」


宗一郎が笑う。


「俺を何だと思ってる」


「未来のことを信長様に全部話した男」


「……」


「しかも儂にも話した」


「……気をつけます」


「不安しかない」


     ◆


宗一郎は。


目立たぬ衣に替えた。


刀は持たない。


供もない。


裏口から出る。


京の夜。


月は雲に隠れていた。


使者は。


大通りを使わなかった。


細い道。


屋敷の裏。


寺の脇。


何度も道を変える。


尾行を警戒している。


宗一郎は気づいた。


――相当慎重だ。


やがて。


小さな門。


そこから先は。


宗一郎にも分かった。


禁裏。


心臓が。


少し速くなる。


戦場とは違う。


恐怖でもない。


緊張。


この時代に来て。


織田信長に会った。


竹中半兵衛に会った。


武田信玄とも戦った。


歴史の中の人間が。


生きている。


だが。


帝は。


意味が違う。


門を潜る。


長い廊下。


庭。


そして。


小さな部屋。


「こちらで」


使者が止まる。


「お待ちください」


襖が閉まった。


宗一郎は。


一人になった。


     ◆


しばらくして。


足音。


宗一郎は姿勢を正す。


襖が開いた。


入ってきた人物を見て。


すぐに頭を下げた。


「高槻宗一郎にございます」


「面を上げよ」


昨日。


信長と話した帝。


だが。


今日は。


側近すらいない。


本当に。


二人だけ。


宗一郎が顔を上げる。


帝は座る。


「近う」


「は」


宗一郎は少し前へ出た。


帝が見る。


長い。


視線。


宗一郎は居心地が悪くなる。


「……何か」


「いや」


帝は言った。


「思っていたより普通だ」


宗一郎は。


一瞬。


言葉を失った。


「は?」


帝の口元が僅かに動いた。


「もっと奇妙な男かと思っていた」


「よく言われます」


答えてから。


宗一郎は気づいた。


――いや。


帝に何言ってるんだ、俺。


帝は笑った。


ほんの少し。


「信長が気に入るわけだ」


宗一郎は頭を下げる。


「恐れ入ります」


     ◆


帝は。


いきなり本題には入らなかった。


「高槻」


「は」


「そなたは何者だ」


宗一郎の心臓が。


一度。


強く鳴った。


だが。


表情は変えない。


「織田家家臣にございます」


「それは知っておる」


「元は商人でございます」


「それも知っておる」


帝は一枚の紙を置いた。


「石鹸」


宗一郎の目が僅かに動く。


「火薬」


もう一枚。


「薬」


さらに。


「鉄砲」


「学校」


「兵站」


「情報」


「測量」


「望遠鏡」


宗一郎は。


黙った。


「そなた」


帝が尋ねる。


「一体どこで学んだ」


来た。


宗一郎は思った。


いつか。


誰かに聞かれると思っていた。


信長には話した。


半兵衛にも。


だが。


帝に話してよいのか。


「様々な者から」


「嘘だな」


即答だった。


宗一郎の目が動く。


帝は続ける。


「一人の人間が」


「それほど異なる知識を」


「偶然持つものか」


「……」


「しかも」


帝は一枚の報告を取る。


「そなたが作ったものより」


「そなたが作ろうとしている仕組みの方がおかしい」


宗一郎の目が細くなる。


「仕組み?」


「身分を問わず学ばせる」


「食事を与える」


「能力で人を使う」


「負傷兵を敵味方で分けない」


「情報に出所と日付を付ける」


「分からぬものを、分からぬまま残す」


帝は宗一郎を見る。


「これは」


「知識ではない」


「考え方だ」


宗一郎は。


返す言葉を失った。


そこまで。


見ていたのか。


     ◆


「高槻」


帝が尋ねる。


「何故」


「そのような国を作ろうとする」


宗一郎は考えた。


そして。


「国を作ろうなどとは」


「思っておりません」


「では?」


「少し」


宗一郎は言った。


「マシにしたいだけです」


帝の目が僅かに動く。


「マシ?」


「はい」


「昨日より」


「今日」


「今日より」


「明日」


「腹を空かせる子供が少し減る」


「病気で死ぬ人が少し減る」


「意味のない戦で死ぬ人が少し減る」


宗一郎は言った。


「そのくらいです」


帝は。


じっと宗一郎を見る。


「そのくらい?」


「俺一人でできることなんて」


宗一郎は苦笑した。


「その程度です」


帝は思った。


――やはり。


言葉が。


違う。


この時代の人間なら。


天下泰平。


民草の安寧。


仏の慈悲。


主君への忠義。


そう表現する。


だが。


この男は。


「昨日より今日」


「今日より明日」


改善。


積み重ね。


まるで。


近代の人間だ。


     ◆


帝は。


話を変えた。


「信長をどう思う」


宗一郎が少し困る。


「難しい質問ですね」


「答えよ」


「怖い人です」


帝が笑う。


「それだけか」


「短気です」


「うむ」


「人の話を聞きません」


「それは想像できる」


「すぐ自分で前へ出ます」


帝は昨日の信長を思い出した。


「それも分かる」


宗一郎は少し笑った。


「でも」


帝が見る。


「何だ」


「変われる人です」


帝の表情が変わった。


「変われる?」


「はい」


「間違えない人じゃありません」


「むしろ」


「かなり間違えます」


「本人の前で言えるか」


「言ったことあります」


帝は。


声を出して笑いそうになった。


宗一郎は続ける。


「でも」


「間違えた時」


「本当に必要なら」


「次は変える」


「だから」


「俺は信長様についています」


帝は静かに尋ねる。


「忠義か」


宗一郎は考えた。


「それもあります」


「他には」


「可能性です」


帝の目が止まった。


「この国を」


宗一郎が言った。


「変えられる可能性」


沈黙。


二人の間に。


長い沈黙が落ちた。


     ◆


帝は思った。


ほぼ。


間違いない。


だが。


最後に。


確かめる。


「高槻」


「はい」


「変な質問をする」


宗一郎が僅かに身構える。


帝は何気ない声で言った。


「そなた」


「元号についてどう思う」


宗一郎が。


一瞬。


戸惑った。


「元号……ですか?」


「そうだ」


「特に何も」


「好きな元号はあるか」


宗一郎の眉が僅かに動く。


「好きな?」


「例えば」


帝は。


宗一郎から目を離さない。


「弘治」


「永禄」


「元亀」


そこで。


一度。


言葉を切った。


そして。


まるで。


何でもない言葉のように。


言った。


「平成」


時間が。


止まった。


宗一郎は。


動かなかった。


呼吸も。


一瞬。


止まった。


頭の中で。


言葉だけが響く。


――平成。


あり得ない。


この時代に。


存在しない。


存在してはいけない。


元号。


宗一郎は。


ゆっくり。


帝を見る。


帝も。


宗一郎を見ていた。


何も言わない。


宗一郎の喉が。


僅かに動く。


「……今」


帝は答えない。


「何と」


宗一郎が尋ねる。


帝は。


もう一度言った。


「平成」


間違いない。


聞き間違いではない。


宗一郎の背中に。


冷たいものが走った。


「何故……」


それしか。


言葉が出なかった。


帝の目が。


変わった。


確信。


「やはり」


宗一郎の目が見開かれる。


「……やはり?」


帝は。


ゆっくり息を吐いた。


そして。


この時代では。


絶対に出ないはずの問いを口にした。


「西暦で」


宗一郎の顔から。


完全に表情が消えた。


「何年から来た」


     ◆


宗一郎は。


何も答えられなかった。


帝。


この国の頂点。


その人間が。


自分と同じ。


未来を知っている。


いや。


まだ。


分からない。


宗一郎は。


必死に考える。


罠?


誰かから聞いた?


信長?


あり得ない。


信長は。


平成という言葉を知らない。


半兵衛も知らない。


自分は。


二人に未来から来たことは話した。


だが。


元号までは。


「答えぬか」


帝が言った。


宗一郎は。


ようやく声を出した。


「その前に」


帝の眉が僅かに上がる。


宗一郎は。


自分でも。


とんでもないことを言っていると分かっていた。


だが。


聞かずにはいられない。


「陛下は」


一度。


息を吸う。


「何年から」


「来られたのですか」


沈黙。


帝の口元が。


僅かに。


笑った。


その瞬間。


宗一郎は悟った。


――本物だ。


帝は。


未来を知っている。


     ◆


だが。


帝は答えなかった。


代わりに。


「そなたからだ」


「……ずるくないですか」


言ってから。


宗一郎は。


両手で顔を覆いたくなった。


――帝に何言ってるんだ俺。


だが。


帝は笑った。


今度は。


明らかに。


「本当に信長の家臣だな」


「関係あります?」


「ある気がする」


一瞬。


部屋の空気が。


変わった。


帝と家臣。


主上と臣下。


ではなく。


同じ秘密を抱えた。


二人の人間。


だが。


次の瞬間。


帝の表情が戻った。


「高槻宗一郎」


「……はい」


「このことは」


「誰にも言うな」


宗一郎も表情を戻す。


「主上のことは?」


「そうだ」


「信長様にも?」


「まだだ」


宗一郎は考えた。


「俺が未来から来たことは」


「信長様と半兵衛は知っています」


帝の目が動く。


「竹中半兵衛も?」


「はい」


「他には」


「いません」


帝は少し考えた。


「ならば」


「その二人にも」


「朕のことは言うな」


宗一郎は頭を下げる。


「承知しました」


帝は。


宗一郎を見た。


「そして」


「はい」


「もう一つ」


声が低くなる。


「本能寺」


宗一郎の身体が。


硬直した。


帝は。


それを見た。


「やはり知っているな」


宗一郎は。


答えられない。


帝が続ける。


「天正十年」


「六月二日」


宗一郎は。


完全に理解した。


偶然ではない。


帝は。


歴史を知っている。


しかも。


かなり詳しく。


「明智光秀」


帝が言う。


宗一郎が顔を上げた。


「陛下」


「何だ」


「その話は」


宗一郎の声が。


真剣になる。


「ここでは」


「しない方がいい」


帝の目が細くなる。


「何故だ」


「歴史は」


宗一郎が言った。


「もう変わり始めています」


帝は黙る。


「俺がいる」


「半兵衛が生きている」


「浅井も」


「朝倉も」


「武田との戦も」


「俺が知っていた歴史と違う」


「だから」


宗一郎は言った。


「光秀が」


「同じことをするとは限りません」


帝は。


長く宗一郎を見る。


そして。


小さく頷いた。


「同感だ」


宗一郎は。


少し驚いた。


「未来は」


帝が言った。


「答えではない」


宗一郎の目が。


僅かに大きくなる。


帝は続けた。


「警告に過ぎぬ」


宗一郎は。


息を止めた。


自分が。


何度も考えてきたこと。


ほとんど。


同じ言葉。


二人は。


しばらく。


何も言わなかった。


     ◆


その夜。


禁裏を出た宗一郎は。


一人で京の道を歩いていた。


頭の中が。


まとまらない。


帝が。


転生者。


未来を知っている。


しかも。


本能寺まで。


「……嘘だろ」


思わず呟く。


だが。


嘘ではない。


平成。


西暦。


本能寺。


あれを。


この時代の人間が。


偶然口にするはずがない。


宗一郎は夜空を見る。


この世界で。


自分だけだと思っていた。


違った。


もう一人。


いた。


それも。


よりによって。


帝。


宗一郎は。


頭を抱えた。


「重すぎるって……」


その時。


暗がりから。


声。


「何が重いんだ?」


宗一郎が飛び上がった。


「うわっ!」


竹中半兵衛だった。


「半兵衛!?」


「遅い」


「待ってたの?」


「当然だ」


半兵衛が宗一郎を見る。


「何を話した」


宗一郎の口が。


止まる。


帝との約束。


誰にも言うな。


信長にも。


半兵衛にも。


「……言えない」


半兵衛の目が細くなった。


「ほう」


「本当に言えない」


「宗一郎」


「すまん」


半兵衛は。


しばらく宗一郎を見る。


そして。


ため息をついた。


「分かった」


宗一郎が驚く。


「聞かないのか?」


「帝との話だろう」


「うん」


「なら聞かぬ」


半兵衛は歩き出した。


宗一郎も隣を歩く。


しばらく。


無言。


やがて。


半兵衛が言った。


「ただし」


「何?」


「お前」


「顔に出すぎだ」


宗一郎が止まる。


「そんなに?」


「何かとんでもないものを見た顔をしている」


宗一郎は。


顔を押さえた。


半兵衛が笑う。


「信長様に会う前に直せ」


「努力する」


二人は。


夜の京を歩いた。


     ◆


その頃。


禁裏。


帝は。


一人。


宗一郎が座っていた場所を見ていた。


「やはり」


同じだった。


未来から来た。


ただし。


自分とは。


少し違う。


宗一郎は。


歴史を変えることを。


恐れていない。


帝は。


長い間。


恐れていた。


未来を知るからこそ。


下手に変えれば。


もっと悪い未来になるかもしれない。


そう思っていた。


だが。


もう。


歴史は変わっている。


なら。


選ばなければならない。


帝は立ち上がった。


窓の外。


京の夜を見る。


「織田信長」


「高槻宗一郎」


二人。


そして。


自分。


もし。


三つの力が。


同じ方向を向けば。


歴史は。


大きく変わる。


だが。


武力だけでは駄目だ。


信長が死ねば。


終わる国では。


意味がない。


制度。


権威。


次代。


血。


帝の頭の中に。


一つの構想が。


初めて。


はっきりと形を取り始めた。


だが。


まだ。


名前はない。


まだ。


誰にも話さない。


帝は。


静かに目を閉じた。


まず。


宗一郎と。


もう一度話す。


未来について。


この国について。


そして。


信長について。


その上で。


決める。


後に。


朝廷と織田を。


単なる主従ではなく。


血で結ぶことになる決断。


その最初の一歩が。


この夜。


踏み出されていた。

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