第七十八章 帝、信長を問う
第七十八章 帝、信長を問う
禁裏。
信長は、一人で歩いていた。
正確には。
案内する公家が前にいる。
供の者は途中で止められた。
刀も預けた。
蘭丸もいない。
宗一郎もいない。
ここから先は。
織田家当主としてではなく。
一人の臣下として。
帝の前へ出る。
信長は何も言わなかった。
長い廊下。
庭。
白砂。
風に揺れる木々。
戦場とは違う静けさ。
だが。
信長には分かっていた。
ここも戦場だ。
しかも。
越前より厄介な戦場。
やがて。
案内の公家が止まった。
「こちらにて」
信長は頭を下げた。
「承知」
襖が開く。
その向こうに。
帝がいた。
◆
「織田信長」
「はっ」
信長は深く頭を下げた。
「面を上げよ」
「は」
信長が顔を上げる。
初めて。
二人の視線が交わった。
帝は思った。
――これが。
織田信長。
未来の歴史では。
天下統一を目前にして。
本能寺で死ぬ男。
後世では。
革新者とも。
破壊者とも。
暴君とも。
英雄とも呼ばれる。
だが。
目の前にいるのは。
教科書の中の人物ではない。
生きている。
呼吸している。
考えている。
そして。
未来を知らない。
帝は。
奇妙な感覚を覚えた。
歴史上の人物と会う。
そんな感動は。
とうの昔に捨てた。
今の自分は。
この時代の帝なのだ。
「越前から戻ったそうだな」
「は」
「早かった」
「京に動きありと聞きましたゆえ」
「誰からだ」
「家臣にございます」
帝の目が僅かに細くなる。
「高槻宗一郎か」
信長の表情は変わらなかった。
だが。
一瞬。
間があった。
帝は見逃さなかった。
「宗一郎をご存じにございますか」
「名は聞いておる」
帝はそれ以上追わない。
「越前はどうした」
「柴田勝家に任せました」
「一向一揆は」
「まだ終わっておりませぬ」
「ならば何故戻った」
信長は答えた。
「越前の敵より」
「京で動く者の方が厄介と判断いたしました」
帝の口元が僅かに動く。
「誰のことだ」
「さて」
信長は頭を下げた。
「それを申し上げれば」
「臣が朝廷に讒言することになりましょう」
帝が笑った。
小さな笑い。
「慎重だな」
「臣は元来、慎重にございます」
帝は信長を見た。
「その言葉を信じる者は少なかろう」
信長も僅かに笑った。
◆
しばらく。
二人の間に沈黙があった。
先に口を開いたのは帝だった。
「信長」
「は」
「そなた」
声が変わった。
「天下をどうするつもりだ」
信長の目が僅かに動いた。
官位。
将軍。
本願寺。
越前。
そんな話ではない。
「天下、にございますか」
「そうだ」
帝は言った。
「朝倉を滅ぼした」
「浅井を退けた」
「比叡山と戦った」
「武田とも刃を交えた」
「今度は本願寺」
一つずつ。
信長の戦を並べる。
「そなたの敵は」
「次々と消えていく」
帝は信長を見る。
「最後に何が残る」
信長はすぐには答えなかった。
「そなた自身か」
沈黙。
「それとも」
帝の声が低くなる。
「織田という名だけが残るのか」
信長は。
帝を見た。
普通なら。
答えは決まっている。
天下静謐。
朝廷への忠誠。
将軍を支える。
美しい言葉はいくらでもある。
だが。
信長は。
それを言わなかった。
「恐れながら」
「申せ」
「臣は」
一度。
言葉を選ぶ。
「織田家を残すためだけに戦っているわけではございませぬ」
帝の目が変わった。
「では?」
「終わらせるためにございます」
「何を」
「戦を」
帝は黙った。
信長は続ける。
「臣が生まれる前から」
「国は争っております」
「父が戦い」
「子が戦い」
「兄弟が争い」
「寺が兵を持ち」
「公家が武家を頼り」
「武家が朝廷の名を使う」
信長は顔を上げた。
「誰も」
「終わらせぬ」
帝の指が。
僅かに止まった。
「ならば」
信長は言った。
「臣が終わらせます」
「そなたが天下を取る、と?」
「必要ならば」
側に控えていた公家の顔色が変わった。
だが。
帝は動かなかった。
「必要でなければ?」
「取りませぬ」
帝の眉が僅かに動く。
「欲しくないのか」
「天下という物が何か」
「臣にはまだ分かりませぬ」
信長は言った。
「将軍になれば天下が治まるなら」
「義昭様がおられます」
鋭い。
帝は何も言わない。
「関白になれば治まるなら」
「公家がおられます」
「帝になれば治まるなら」
そこで。
信長は頭を下げた。
「恐れながら」
「すでに主上がおられます」
部屋の空気が凍った。
帝だけが。
静かだった。
「続けよ」
「は」
信長は顔を上げる。
「肩書だけで戦が終わるなら」
「とっくに終わっております」
帝は。
目の前の男を見る。
――そうか。
この男は。
王になりたいのではない。
少なくとも。
今は。
国の仕組みそのものを。
壊して。
作り直そうとしている。
それが正しいかどうか。
帝にはまだ判断できない。
だが。
未来を知る者として。
理解できる部分があった。
◆
「では」
帝が尋ねた。
「寺はどうする」
信長の目が細くなる。
「本願寺のことにございますか」
「本願寺だけではない」
「寺社すべてだ」
信長は少し考えた。
「祈る者は」
「祈ればよろしい」
帝は黙って聞く。
「学ぶ者は学べばよい」
「病人を救う者は救えばよい」
「だが」
信長の声が変わった。
「槍を持ち」
「城を築き」
「領地を支配し」
「兵を動かすなら」
「武家と同じにございます」
帝の目が細くなる。
「だから討つ?」
「敵となれば」
「討ちます」
迷いがない。
帝は尋ねる。
「女子供もか」
信長の目が動いた。
比叡山。
過去。
そして。
越前。
しばらく。
答えなかった。
「以前の臣なら」
信長が言った。
「区別しなかったかもしれませぬ」
帝は何も言わない。
「今は?」
「分けます」
「何故変わった」
信長は少し笑った。
「うるさい家臣がおりますゆえ」
帝の脳裏に。
一人の名が浮かんだ。
「高槻か」
「……」
今度は。
信長が明らかに黙った。
帝が笑った。
「分かりやすいな」
「恐れ入ります」
「そなたが素直に人の言うことを聞くとは思わなかった」
「聞いてはおりませぬ」
「では?」
「考えて」
信長が答える。
「使えるものだけ使っております」
帝は笑った。
「なるほど」
◆
だが。
次の問いは。
重かった。
「信長」
「は」
「朝廷をどうする」
信長の表情が消えた。
外では。
義昭が囁いている。
信長はいずれ朝廷を脅かす。
本願寺も。
同じ疑念を公家へ撒いている。
帝は。
噂ではなく。
本人に聞いた。
信長は。
しばらく考えた。
そして。
「残っていただきます」
帝の目が動く。
「残す?」
「違いますな」
信長はすぐに言い直した。
「失礼いたしました」
頭を下げる。
「臣が残すものではございませぬ」
帝は黙っている。
「朝廷は」
信長が言った。
「臣より遥か以前からあり」
「臣が死んだ後も」
「残るべきものにございます」
帝の視線が。
鋭くなる。
「何故だ」
「国が」
信長は答えた。
「織田家の物ではないからです」
その言葉で。
帝の中に。
何かが動いた。
◆
遠い未来。
帝は知っている。
国とは。
一人の武将の物ではない。
一つの家の物でもない。
そして。
皇室だけの物でもない。
人が生き。
積み重ね。
受け渡していくもの。
目の前の信長が。
同じ意味で言ったのかは分からない。
だが。
少なくとも。
「自分が国そのものになる」
そう考えてはいない。
――本能寺で。
この男は死ぬ。
帝は思った。
――このままなら。
だが。
本当に。
死なせてよいのか。
歴史を。
知っているからこそ。
帝は知っている。
信長の死後。
秀吉。
そして家康。
江戸幕府。
鎖国。
開国。
近代化。
戦争。
広島。
長崎。
もちろん。
本能寺一つが。
すべてを生んだわけではない。
そんな単純な歴史ではない。
だが。
大きな分岐点であることは。
間違いなかった。
そして。
目の前には。
その分岐点より前の信長がいる。
◆
「信長」
「は」
「最後に一つ」
帝が言った。
「そなた」
「何を恐れている」
信長が。
初めて答えに詰まった。
「恐れ、にございますか」
「人は皆、何かを恐れる」
帝は言った。
「死か」
「裏切りか」
「敗北か」
「家の滅亡か」
「そなたは何だ」
信長は長く黙った。
やがて。
「元に戻ることにございます」
帝の目が止まる。
「元?」
「昨日まで殺し合っていた者が」
「明日も殺し合う」
「父が死ねば子が槍を持つ」
「一つ終われば」
「また別の戦が始まる」
信長は言った。
「臣が死んだ後」
「すべてが元へ戻る」
「それが」
一度だけ。
言葉を切った。
「一番、気に入りませぬ」
帝は。
何も言わなかった。
だが。
心の中で。
答えが一つ。
生まれ始めていた。
――ならば。
――一代で終わらせてはならない。
信長が死んでも。
戻らない仕組み。
武力だけではない。
権威。
制度。
血。
それらを。
結ばなければならない。
しかし。
まだ早い。
◆
「よい」
帝が言った。
「本日は下がれ」
信長が頭を下げる。
「は」
「信長」
「は」
「石山を討つのか」
信長は答える。
「向こうが兵を捨てぬ限り」
「戦います」
「そうか」
帝はそれ以上言わなかった。
信長が退出する。
襖が閉まる。
足音が遠ざかる。
長い沈黙。
側近がようやく口を開いた。
「主上」
「何だ」
「いかがでございましたか」
帝は答えなかった。
庭を見る。
やがて。
「危険な男だ」
側近の顔が強張る。
だが。
帝は続けた。
「だからこそ」
「使い道がある」
「使う……のでございますか」
帝が側近を見る。
「違う」
少し笑う。
「今のは言い方が悪かった」
帝は立ち上がった。
「共に使えるかを見る」
「何を」
「時間を」
側近には。
意味が分からなかった。
◆
その夜。
足利義昭の館。
「信長が帝に会った?」
「はっ」
義昭の顔が変わった。
「何を話した」
「分かりませぬ」
「調べろ!」
扇が畳を打つ。
「公家どもに聞け!」
「はっ!」
義昭は立ち上がる。
焦り。
信長が。
自分を飛び越えて。
帝と直接繋がる。
それだけは。
許せなかった。
「余は将軍だ」
また。
その言葉が出た。
だが。
以前より。
弱かった。
◆
石山。
顕如も同じ報告を受けていた。
「信長が禁裏へ?」
「はい」
「帝御自らお会いになったと」
教如が尋ねる。
「まずいのですか」
顕如はすぐには答えなかった。
「分からぬ」
「なら」
「分からぬからまずい」
顕如は立ち上がった。
「朝廷への働きかけを強めますか」
教如が尋ねる。
「いや」
顕如は首を横に振った。
「一度止める」
教如が驚く。
「何故です」
「押しすぎた」
顕如は言った。
「帝がこちらの意図を察している可能性がある」
「では」
「公家を見る」
顕如の目が鋭くなる。
「誰が信長に近づく」
「誰が離れる」
「帝が誰を呼ぶ」
「そこから読む」
教如は。
父の慎重さを。
改めて思い知った。
◆
そして。
禁裏。
深夜。
帝はまだ起きていた。
机の上。
高槻宗一郎についての報告が増えている。
帝は読む。
石鹸。
薬。
火薬。
鉄砲。
学校。
食事。
身分を問わない教育。
負傷兵の救護。
情報の整理。
そして。
戦場で。
敵兵まで治療することがある。
帝は一枚ずつ読む。
やはり。
おかしい。
一つなら。
天才で済む。
二つなら。
奇才。
だが。
分野が広すぎる。
そして何より。
発想が。
この時代の人間のものではない。
帝は紙を置いた。
「呼べ」
側近が顔を上げる。
「どなたを」
帝は答えた。
「高槻宗一郎」
側近が息を呑む。
「正式に召されますか」
「いや」
帝は即答した。
「表から呼ぶな」
「では」
「誰にも知られぬように」
帝は言った。
「信長にも」
側近が驚いた。
「信長殿にも、でございますか」
「ああ」
帝の目が。
静かに細くなる。
「二人で話したい」
「何をお尋ねに」
帝は答えなかった。
だが。
心の中では。
一つだけ。
質問が決まっていた。
高槻宗一郎。
もし。
お前が。
朕と同じ場所から来た人間なら。
この言葉を。
知っているはずだ。
帝は紙へ。
二文字を書いた。
側近には。
意味の分からない文字。
いや。
文字そのものは読める。
だが。
何故それを書くのかが。
分からない。
――平成。
帝は。
その二文字を見つめた。
そして。
静かに紙を伏せた。
まだ。
答えを求める時ではない。
だが。
その時は。
もう。
すぐそこまで来ていた。




