第七十七章 禁裏の奥
第七十七章 禁裏の奥
京には、戦とは違う匂いがあった。
越前では。
鐘が鳴れば兵が動いた。
旗が上がれば槍が集まった。
鉄砲が鳴れば人が死んだ。
だが。
京では違う。
一通の書状。
一度の訪問。
宴席で交わされる何気ない一言。
公家の屋敷へ運ばれる贈り物。
それだけで。
千の兵より大きく。
天下が動くことがある。
そして今。
その見えない戦が。
始まっていた。
◆
足利義昭の館。
義昭は苛立っていた。
「もう京へ入っただと?」
「はっ」
家臣が頭を下げる。
「織田信長、昨夜のうちに近江を抜け、本日早朝には京へ」
「早すぎる!」
扇が畳を打った。
越前。
朝倉。
一向一揆。
信長は北に縛られるはずだった。
だからこそ。
動いた。
本願寺から使者が来た。
諸国にも書状が飛んだ。
義昭もまた。
信長から離れつつある者たちへ手を伸ばした。
だが。
信長は戻ってきた。
それも。
こちらが形を整えるより早く。
「高槻も一緒か」
「高槻宗一郎も入京しております」
義昭の顔がさらに険しくなった。
「あの男か」
宗一郎。
信長の家臣でありながら。
どこか武士らしくない男。
商人のように金を見る。
職人のように道具を見る。
僧のように人を見る。
そして。
戦場では。
武将以上に戦の仕組みを見る。
義昭には。
得体の知れない男だった。
「信長だけならまだよい」
義昭が呟く。
「あの男が側にいるのが気に入らぬ」
家臣は答えない。
やがて。
義昭が尋ねた。
「公家への話は」
「進めております」
「何人だ」
家臣が数名の名を挙げる。
義昭は頷く。
朝廷。
武力はない。
だが。
権威がある。
征夷大将軍である自分ですら。
帝を無視することはできない。
まして。
信長ならば。
なおさら。
「信長は強くなりすぎた」
義昭が言った。
「帝も、そう思われるはずだ」
家臣が僅かに顔を上げる。
義昭は続けた。
「織田が天下を握れば」
「次に邪魔になるものは何だ」
幕府。
寺社。
公家。
そして。
朝廷。
そう思わせればいい。
事実である必要はない。
恐れさせればいい。
「公家たちへ伝えよ」
「信長は、武家だけを従える男ではない」
「いずれ朝廷にも手を伸ばす」
「そう囁け」
「はっ」
義昭の目が細くなった。
「余は将軍だ」
「信長の家臣ではない」
◆
石山本願寺。
顕如は。
義昭より静かだった。
机の上には。
何通もの書状。
宛先は大名だけではない。
寺院。
商人。
有力な門徒。
そして。
京の公家。
教如がその一つを見る。
「朝廷まで動かすのですか」
顕如は首を横に振った。
「動かすのではない」
「では?」
「考えさせる」
教如は父を見る。
顕如が一通の書状を手に取った。
「信長は比叡山を焼いた」
別の一通。
「朝倉を滅ぼした」
さらに。
「越前へ兵を入れた」
「次は石山」
顕如は書状を置く。
「では、その次は?」
教如が黙る。
「京」
「公家」
「禁裏」
顕如は静かに言った。
「そう考える者が出ればよい」
教如の目が細くなる。
「信長が朝廷を害する、と?」
「我らがそう断じる必要はない」
顕如は答えた。
「疑念だけでよい」
「人は」
「恐れているものについては」
「自分で理由を作る」
教如は。
越前での敗北を思い出した。
父は。
兵を動かしていない。
だが。
戦っている。
自分とは違う方法で。
「将軍も同じことを?」
「義昭殿は義昭殿で動く」
顕如は言った。
「目的は同じでも」
「我らは同じではない」
教如が問う。
「信長を倒すという目的は同じでは?」
顕如は息子を見る。
「信長が倒れた後」
「将軍と本願寺が同じ天下を望むと思うか」
教如は答えられなかった。
「敵の敵は」
顕如が静かに言った。
「味方とは限らぬ」
そして。
「使者を京へ」
「はい」
「ただし」
顕如は付け加えた。
「金を渡すだけの真似はするな」
「寺領」
「旧来の秩序」
「公家の権威」
「それぞれが失いたくないものを探れ」
教如は頭を下げた。
「承知しました」
顕如は目を閉じた。
信長。
高槻宗一郎。
越前では。
兵で勝てなかった。
ならば。
戦場を変える。
京へ。
◆
数日後。
京。
ある公家の屋敷。
夜。
二人の男が向かい合っていた。
一人は公家。
もう一人は僧形。
灯火は一つ。
「信長殿が朝廷へ刃を向けるなど」
公家が言う。
「さすがに考えすぎではないか」
僧は否定しなかった。
「そうであれば」
「それに越したことはございません」
「ならば何故来た」
「念のためにございます」
僧は頭を下げる。
「比叡山も」
「最初から焼かれるとは思っておりませんでした」
公家の顔が僅かに動く。
「朝倉も」
「長く続いた家でございました」
「それが消えた」
沈黙。
「信長殿は」
僧が続ける。
「古きものだからという理由で残す方ではございませぬ」
それだけ言って。
僧は立ち上がった。
「では」
「待て」
公家が呼び止める。
僧が振り返る。
「本願寺は」
公家が尋ねる。
「朝廷に何を望んでいる」
僧は微笑んだ。
「何も」
「ただ」
「帝の御代が末永く続くことを」
頭を下げる。
そして。
去った。
残された公家は。
長い間。
動かなかった。
◆
別の屋敷。
こちらには。
将軍家に近い者が訪れていた。
話は似ている。
だが。
少し違う。
「幕府なくして」
「武家の秩序が保てましょうか」
「信長殿は」
「将軍を支えるために上洛したはず」
「それが今では」
「どちらが主なのか」
答えは求めない。
ただ。
疑問を置いていく。
本願寺。
将軍。
それぞれの手が。
別々の場所から。
朝廷へ伸びていた。
◆
だが。
彼らは。
一つだけ間違えていた。
禁裏にいるのは。
何も知らぬ帝ではなかった。
◆
禁裏。
夜。
帝の前には。
数枚の紙が置かれていた。
誰が。
誰を訪ねたか。
どこの寺から使者が入ったか。
将軍家の者が。
どの公家と会ったか。
石山から何が届いたか。
すべてではない。
だが。
十分だった。
側近が頭を下げている。
帝は一枚を読む。
「義昭か」
「はい」
もう一枚。
「こちらは石山」
「御意」
帝は紙を置いた。
「同じようで」
「違うな」
側近が顔を上げる。
「と申されますと」
「義昭は」
帝が言った。
「己の地位を取り戻したい」
「将軍として」
「信長の上に立ちたい」
「では顕如は?」
帝は少し考えた。
「信長の力そのものを削りたい」
「幕府を守るためではない」
「本願寺を守るため」
側近は黙る。
帝は庭を見る。
「そして」
「双方とも」
声が少し低くなる。
「朕を使えると思っている」
側近の身体が僅かに強張った。
「主上……」
「怒ってはおらぬ」
帝は静かに言った。
「政とはそういうものだ」
朝廷。
帝。
権威。
利用したい者が現れるのは当然。
帝自身。
それを理解していた。
だが。
利用されることと。
利用させることは。
違う。
「信長は?」
帝が尋ねる。
「すでに京へ入っております」
「越前から何日だ」
側近が答える。
帝は僅かに笑った。
「速い」
「はい」
「誰が戻るべきだと進言した」
「確証はございませぬが」
側近が答える。
「高槻宗一郎ではないかと」
帝の目が止まる。
「また、あの男か」
高槻宗一郎。
最近。
妙に耳へ入る名前。
鉄砲。
火薬。
薬。
学問。
兵站。
商い。
そして。
越前。
「面白い」
帝が呟く。
側近には。
その言葉の意味が分からない。
だが。
帝には。
別の意味があった。
――お前は。
――どこまで知っている。
帝は宗一郎の報告を読むたび。
奇妙な違和感を覚えていた。
知識が多い。
というだけではない。
先を読む。
というだけでもない。
時折。
まるで。
「起こるはずだったこと」を知っているように動く。
帝には。
その感覚が分かった。
何故なら。
自分も。
そうだからだ。
だが。
まだ。
断定できない。
偶然かもしれない。
天才なのかもしれない。
あるいは。
自分とは全く違う理由なのかもしれない。
だから。
会う必要がある。
いずれ。
誰にも知られず。
二人で。
帝はそう思った。
◆
「主上」
側近が尋ねる。
「将軍家と石山の動き」
「いかがなされますか」
帝は答えなかった。
代わりに尋ねる。
「信長は朝廷に何か求めてきたか」
「いいえ」
「官位は」
「此度の件では何も」
「本願寺を朝敵とせよとは?」
「申しておりませぬ」
帝は少し考えた。
義昭は。
朝廷を使おうとしている。
顕如も。
使おうとしている。
信長は。
今のところ。
使おうとしていない。
それだけで。
信長を信用する理由にはならない。
だが。
差ではある。
「見よ」
帝が言った。
「何をでしょう」
「信長を」
「……」
「義昭も」
「顕如も」
「高槻も」
帝は庭を見る。
「まだ何も決めぬ」
「誰が善か」
「誰が悪か」
「そんな幼い話ではない」
国にとって。
何を残す者か。
何を壊す者か。
何を作る者か。
それを見る。
帝の目には。
側近の知らない景色があった。
遥か未来。
閉ざされた国。
開国。
戦争。
焼けた都市。
そして。
二つの閃光。
広島。
長崎。
帝は目を閉じた。
歴史とは。
一人の人間が変えられるほど。
単純なものではない。
それでも。
分岐点はある。
本能寺。
あの日。
信長が死ぬ。
それが。
帝の知っている歴史。
だが、まだその時は来ていない。
信長は生きている。
そして。
本来いるはずのない男が。
その隣にいる。
高槻宗一郎。
――もし。
帝は考える。
――この男も。
そこで思考を止めた。
まだ早い。
◆
翌日。
信長の京屋敷。
宗一郎は。
山積みになった報告を前にしていた。
「……多い」
半兵衛が笑う。
「越前より大変そうだな」
「鉄砲で撃てる敵の方が楽だよ」
「物騒なことを言うな」
「本気で言ってる」
宗一郎は紙を一枚取る。
将軍家。
本願寺。
公家。
寺社。
商人。
あらゆる場所で。
人が動いている。
「宗一郎」
信長が入ってきた。
「はい」
「朝廷から呼び出しだ」
宗一郎の手が止まった。
「誰を?」
「儂だ」
「信長様だけ?」
「ああ」
宗一郎は少し考える。
「行くんですか」
信長が宗一郎を見る。
「行かぬ理由があるか」
「ありません」
「ならば行く」
信長は踵を返しかけた。
「信長様」
「何だ」
「一つだけ」
信長が振り返る。
「朝廷の中にも」
宗一郎は言った。
「本願寺と将軍の手が入っています」
信長の目が細くなる。
「分かっておる」
「なら」
「だから行く」
信長は答えた。
「逃げれば」
「疑いを認めることになる」
宗一郎は。
少し笑った。
「そうですね」
信長が出ていく。
宗一郎はその背中を見る。
そして。
何故か。
嫌な予感ではない。
別の感覚があった。
何かが。
変わろうとしている。
◆
禁裏。
帝は。
信長が来るという報告を受けていた。
「来るか」
「はい」
側近が答える。
帝は立ち上がる。
「よい」
「会おう」
「主上御自ら?」
「何か問題か」
「いえ」
帝は歩き出す。
だが。
途中で止まった。
「それから」
「はい」
「高槻宗一郎について」
側近を見る。
「さらに調べよ」
「どこまで」
帝は少し考えた。
「生まれから」
「何を学び」
「誰と会い」
「何を作り」
「何を信長へ話したか」
「可能な限り」
側近が頭を下げる。
「承知いたしました」
帝は再び歩き出す。
まだ。
婚姻の話はない。
鷹司の名も。
信長の娘の名も。
この時点では。
何一つ。
動いていない。
だが。
後に。
織田家と皇室を。
そして。
この国の未来そのものを結びつける縁は。
ここから始まる。
まず。
帝が信長を見る。
次に。
高槻宗一郎を見る。
そして。
この二人が。
自分の知る未来とは違う国を。
本当に作れる者なのか。
それを確かめた後。
帝は。
一つの決断をすることになる。
武家の娘を。
公家の家へ入れ。
その家から。
禁裏へ迎える。
前例と格式。
政治と血。
そして。
未来。
そのすべてを繋ぐ婚姻。
だが。
それはまだ。
少し先の話である。
今は。
織田信長が。
帝の前へ向かっている。
そして。
禁裏の奥では。
未来を知る一人の帝が。
静かに。
その男を待っていた。




