↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
81/94

第七十七章 禁裏の奥

第七十七章 禁裏の奥


京には、戦とは違う匂いがあった。


越前では。


鐘が鳴れば兵が動いた。


旗が上がれば槍が集まった。


鉄砲が鳴れば人が死んだ。


だが。


京では違う。


一通の書状。


一度の訪問。


宴席で交わされる何気ない一言。


公家の屋敷へ運ばれる贈り物。


それだけで。


千の兵より大きく。


天下が動くことがある。


そして今。


その見えない戦が。


始まっていた。


     ◆


足利義昭の館。


義昭は苛立っていた。


「もう京へ入っただと?」


「はっ」


家臣が頭を下げる。


「織田信長、昨夜のうちに近江を抜け、本日早朝には京へ」


「早すぎる!」


扇が畳を打った。


越前。


朝倉。


一向一揆。


信長は北に縛られるはずだった。


だからこそ。


動いた。


本願寺から使者が来た。


諸国にも書状が飛んだ。


義昭もまた。


信長から離れつつある者たちへ手を伸ばした。


だが。


信長は戻ってきた。


それも。


こちらが形を整えるより早く。


「高槻も一緒か」


「高槻宗一郎も入京しております」


義昭の顔がさらに険しくなった。


「あの男か」


宗一郎。


信長の家臣でありながら。


どこか武士らしくない男。


商人のように金を見る。


職人のように道具を見る。


僧のように人を見る。


そして。


戦場では。


武将以上に戦の仕組みを見る。


義昭には。


得体の知れない男だった。


「信長だけならまだよい」


義昭が呟く。


「あの男が側にいるのが気に入らぬ」


家臣は答えない。


やがて。


義昭が尋ねた。


「公家への話は」


「進めております」


「何人だ」


家臣が数名の名を挙げる。


義昭は頷く。


朝廷。


武力はない。


だが。


権威がある。


征夷大将軍である自分ですら。


帝を無視することはできない。


まして。


信長ならば。


なおさら。


「信長は強くなりすぎた」


義昭が言った。


「帝も、そう思われるはずだ」


家臣が僅かに顔を上げる。


義昭は続けた。


「織田が天下を握れば」


「次に邪魔になるものは何だ」


幕府。


寺社。


公家。


そして。


朝廷。


そう思わせればいい。


事実である必要はない。


恐れさせればいい。


「公家たちへ伝えよ」


「信長は、武家だけを従える男ではない」


「いずれ朝廷にも手を伸ばす」


「そう囁け」


「はっ」


義昭の目が細くなった。


「余は将軍だ」


「信長の家臣ではない」


     ◆


石山本願寺。


顕如は。


義昭より静かだった。


机の上には。


何通もの書状。


宛先は大名だけではない。


寺院。


商人。


有力な門徒。


そして。


京の公家。


教如がその一つを見る。


「朝廷まで動かすのですか」


顕如は首を横に振った。


「動かすのではない」


「では?」


「考えさせる」


教如は父を見る。


顕如が一通の書状を手に取った。


「信長は比叡山を焼いた」


別の一通。


「朝倉を滅ぼした」


さらに。


「越前へ兵を入れた」


「次は石山」


顕如は書状を置く。


「では、その次は?」


教如が黙る。


「京」


「公家」


「禁裏」


顕如は静かに言った。


「そう考える者が出ればよい」


教如の目が細くなる。


「信長が朝廷を害する、と?」


「我らがそう断じる必要はない」


顕如は答えた。


「疑念だけでよい」


「人は」


「恐れているものについては」


「自分で理由を作る」


教如は。


越前での敗北を思い出した。


父は。


兵を動かしていない。


だが。


戦っている。


自分とは違う方法で。


「将軍も同じことを?」


「義昭殿は義昭殿で動く」


顕如は言った。


「目的は同じでも」


「我らは同じではない」


教如が問う。


「信長を倒すという目的は同じでは?」


顕如は息子を見る。


「信長が倒れた後」


「将軍と本願寺が同じ天下を望むと思うか」


教如は答えられなかった。


「敵の敵は」


顕如が静かに言った。


「味方とは限らぬ」


そして。


「使者を京へ」


「はい」


「ただし」


顕如は付け加えた。


「金を渡すだけの真似はするな」


「寺領」


「旧来の秩序」


「公家の権威」


「それぞれが失いたくないものを探れ」


教如は頭を下げた。


「承知しました」


顕如は目を閉じた。


信長。


高槻宗一郎。


越前では。


兵で勝てなかった。


ならば。


戦場を変える。


京へ。


     ◆


数日後。


京。


ある公家の屋敷。


夜。


二人の男が向かい合っていた。


一人は公家。


もう一人は僧形。


灯火は一つ。


「信長殿が朝廷へ刃を向けるなど」


公家が言う。


「さすがに考えすぎではないか」


僧は否定しなかった。


「そうであれば」


「それに越したことはございません」


「ならば何故来た」


「念のためにございます」


僧は頭を下げる。


「比叡山も」


「最初から焼かれるとは思っておりませんでした」


公家の顔が僅かに動く。


「朝倉も」


「長く続いた家でございました」


「それが消えた」


沈黙。


「信長殿は」


僧が続ける。


「古きものだからという理由で残す方ではございませぬ」


それだけ言って。


僧は立ち上がった。


「では」


「待て」


公家が呼び止める。


僧が振り返る。


「本願寺は」


公家が尋ねる。


「朝廷に何を望んでいる」


僧は微笑んだ。


「何も」


「ただ」


「帝の御代が末永く続くことを」


頭を下げる。


そして。


去った。


残された公家は。


長い間。


動かなかった。


     ◆


別の屋敷。


こちらには。


将軍家に近い者が訪れていた。


話は似ている。


だが。


少し違う。


「幕府なくして」


「武家の秩序が保てましょうか」


「信長殿は」


「将軍を支えるために上洛したはず」


「それが今では」


「どちらが主なのか」


答えは求めない。


ただ。


疑問を置いていく。


本願寺。


将軍。


それぞれの手が。


別々の場所から。


朝廷へ伸びていた。


     ◆


だが。


彼らは。


一つだけ間違えていた。


禁裏にいるのは。


何も知らぬ帝ではなかった。


     ◆


禁裏。


夜。


帝の前には。


数枚の紙が置かれていた。


誰が。


誰を訪ねたか。


どこの寺から使者が入ったか。


将軍家の者が。


どの公家と会ったか。


石山から何が届いたか。


すべてではない。


だが。


十分だった。


側近が頭を下げている。


帝は一枚を読む。


「義昭か」


「はい」


もう一枚。


「こちらは石山」


「御意」


帝は紙を置いた。


「同じようで」


「違うな」


側近が顔を上げる。


「と申されますと」


「義昭は」


帝が言った。


「己の地位を取り戻したい」


「将軍として」


「信長の上に立ちたい」


「では顕如は?」


帝は少し考えた。


「信長の力そのものを削りたい」


「幕府を守るためではない」


「本願寺を守るため」


側近は黙る。


帝は庭を見る。


「そして」


「双方とも」


声が少し低くなる。


「朕を使えると思っている」


側近の身体が僅かに強張った。


「主上……」


「怒ってはおらぬ」


帝は静かに言った。


「政とはそういうものだ」


朝廷。


帝。


権威。


利用したい者が現れるのは当然。


帝自身。


それを理解していた。


だが。


利用されることと。


利用させることは。


違う。


「信長は?」


帝が尋ねる。


「すでに京へ入っております」


「越前から何日だ」


側近が答える。


帝は僅かに笑った。


「速い」


「はい」


「誰が戻るべきだと進言した」


「確証はございませぬが」


側近が答える。


「高槻宗一郎ではないかと」


帝の目が止まる。


「また、あの男か」


高槻宗一郎。


最近。


妙に耳へ入る名前。


鉄砲。


火薬。


薬。


学問。


兵站。


商い。


そして。


越前。


「面白い」


帝が呟く。


側近には。


その言葉の意味が分からない。


だが。


帝には。


別の意味があった。


――お前は。


――どこまで知っている。


帝は宗一郎の報告を読むたび。


奇妙な違和感を覚えていた。


知識が多い。


というだけではない。


先を読む。


というだけでもない。


時折。


まるで。


「起こるはずだったこと」を知っているように動く。


帝には。


その感覚が分かった。


何故なら。


自分も。


そうだからだ。


だが。


まだ。


断定できない。


偶然かもしれない。


天才なのかもしれない。


あるいは。


自分とは全く違う理由なのかもしれない。


だから。


会う必要がある。


いずれ。


誰にも知られず。


二人で。


帝はそう思った。


     ◆


「主上」


側近が尋ねる。


「将軍家と石山の動き」


「いかがなされますか」


帝は答えなかった。


代わりに尋ねる。


「信長は朝廷に何か求めてきたか」


「いいえ」


「官位は」


「此度の件では何も」


「本願寺を朝敵とせよとは?」


「申しておりませぬ」


帝は少し考えた。


義昭は。


朝廷を使おうとしている。


顕如も。


使おうとしている。


信長は。


今のところ。


使おうとしていない。


それだけで。


信長を信用する理由にはならない。


だが。


差ではある。


「見よ」


帝が言った。


「何をでしょう」


「信長を」


「……」


「義昭も」


「顕如も」


「高槻も」


帝は庭を見る。


「まだ何も決めぬ」


「誰が善か」


「誰が悪か」


「そんな幼い話ではない」


国にとって。


何を残す者か。


何を壊す者か。


何を作る者か。


それを見る。


帝の目には。


側近の知らない景色があった。


遥か未来。


閉ざされた国。


開国。


戦争。


焼けた都市。


そして。


二つの閃光。


広島。


長崎。


帝は目を閉じた。


歴史とは。


一人の人間が変えられるほど。


単純なものではない。


それでも。


分岐点はある。


本能寺。


あの日。


信長が死ぬ。


それが。


帝の知っている歴史。


だが、まだその時は来ていない。


信長は生きている。


そして。


本来いるはずのない男が。


その隣にいる。


高槻宗一郎。


――もし。


帝は考える。


――この男も。


そこで思考を止めた。


まだ早い。


     ◆


翌日。


信長の京屋敷。


宗一郎は。


山積みになった報告を前にしていた。


「……多い」


半兵衛が笑う。


「越前より大変そうだな」


「鉄砲で撃てる敵の方が楽だよ」


「物騒なことを言うな」


「本気で言ってる」


宗一郎は紙を一枚取る。


将軍家。


本願寺。


公家。


寺社。


商人。


あらゆる場所で。


人が動いている。


「宗一郎」


信長が入ってきた。


「はい」


「朝廷から呼び出しだ」


宗一郎の手が止まった。


「誰を?」


「儂だ」


「信長様だけ?」


「ああ」


宗一郎は少し考える。


「行くんですか」


信長が宗一郎を見る。


「行かぬ理由があるか」


「ありません」


「ならば行く」


信長は踵を返しかけた。


「信長様」


「何だ」


「一つだけ」


信長が振り返る。


「朝廷の中にも」


宗一郎は言った。


「本願寺と将軍の手が入っています」


信長の目が細くなる。


「分かっておる」


「なら」


「だから行く」


信長は答えた。


「逃げれば」


「疑いを認めることになる」


宗一郎は。


少し笑った。


「そうですね」


信長が出ていく。


宗一郎はその背中を見る。


そして。


何故か。


嫌な予感ではない。


別の感覚があった。


何かが。


変わろうとしている。


     ◆


禁裏。


帝は。


信長が来るという報告を受けていた。


「来るか」


「はい」


側近が答える。


帝は立ち上がる。


「よい」


「会おう」


「主上御自ら?」


「何か問題か」


「いえ」


帝は歩き出す。


だが。


途中で止まった。


「それから」


「はい」


「高槻宗一郎について」


側近を見る。


「さらに調べよ」


「どこまで」


帝は少し考えた。


「生まれから」


「何を学び」


「誰と会い」


「何を作り」


「何を信長へ話したか」


「可能な限り」


側近が頭を下げる。


「承知いたしました」


帝は再び歩き出す。


まだ。


婚姻の話はない。


鷹司の名も。


信長の娘の名も。


この時点では。


何一つ。


動いていない。


だが。


後に。


織田家と皇室を。


そして。


この国の未来そのものを結びつける縁は。


ここから始まる。


まず。


帝が信長を見る。


次に。


高槻宗一郎を見る。


そして。


この二人が。


自分の知る未来とは違う国を。


本当に作れる者なのか。


それを確かめた後。


帝は。


一つの決断をすることになる。


武家の娘を。


公家の家へ入れ。


その家から。


禁裏へ迎える。


前例と格式。


政治と血。


そして。


未来。


そのすべてを繋ぐ婚姻。


だが。


それはまだ。


少し先の話である。


今は。


織田信長が。


帝の前へ向かっている。


そして。


禁裏の奥では。


未来を知る一人の帝が。


静かに。


その男を待っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。