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第七十六章 石山からの手

第七十六章 石山からの手


越前での大規模な戦いから、五日。


鐘の音は減っていた。


消えたわけではない。


だが。


織田軍の前に、数千の門徒がまとまって姿を現すことはなくなった。


朝倉の旗を失った影響は大きかった。


朝倉旧臣の中には山へ逃げた者もいる。


武器を捨てた者もいる。


村へ戻った者もいる。


それでも――


宗一郎は勝ったとは思っていなかった。


むしろ。


嫌な静けさだった。


「静かすぎる」


宗一郎は地図を見ながら呟いた。


半兵衛が隣に座っている。


「敵が負けたからでは?」


「だったらいいんだけど」


宗一郎は越前ではなく、畿内を見ていた。


「顕如が何もしないはずがない」


「教如は負けた」


「だからだよ」


宗一郎は指を石山へ置いた。


「教如が負けたから、次は顕如が動く」


その時。


陣幕の外が騒がしくなった。


「高槻様!」


伝令だった。


泥だらけ。


馬を潰すほど走ってきたのだろう。


「近江より急報!」


宗一郎と半兵衛が同時に立った。


「何があった?」


「本願寺の使僧が各地へ入っております!」


宗一郎の顔から表情が消えた。


「どこへ?」


「近江」


「伊勢」


「河内」


「紀伊」


伝令が息を吸う。


「それだけではありません」


「まだあるのか」


「各地の反織田勢力にも、書状が渡っているとのこと!」


半兵衛が宗一郎を見る。


宗一郎は地図へ視線を落とした。


「……来た」


「何が?」


「第二幕だ」


     ◆


同じ頃。


石山本願寺。


顕如は静かに報告を聞いていた。


「越前より戻った者、およそ三千」


「加賀へ退いた者は不明」


「朝倉旧臣の一部は離脱」


「越前南部の寺院では、織田への恭順を申し出る動きもございます」


僧の一人が悔しそうに言う。


「このままでは越前を失います」


顕如は答えた。


「失えばよい」


教如が顔を上げた。


「父上」


「越前一国と本願寺」


「どちらが大切だ」


教如は黙る。


「土地に執着すれば信長と同じ戦をすることになる」


顕如は言った。


「城を守り」


「道を守り」


「領地を守る」


「それでは織田に勝てぬ」


教如が尋ねる。


「では、何を守るのです」


顕如は答えた。


「繋がりだ」


教如の目が動いた。


「信長には城がある」


「兵がいる」


「家臣がいる」


「高槻には鉄砲があり、兵站があり、情報網がある」


「ならば我らは」


顕如は周囲を見た。


「人と人との繋がりで戦う」


寺。


門徒。


商人。


船。


村。


国境を越える信仰。


「信長は越前で、一つの軍を倒した」


顕如は静かに言った。


「ならば次は」


「軍そのものを作らなければよい」


教如が理解する。


「各地で同時に動かす……」


「そうだ」


「信長が一万を送れば、別の場所で千が立つ」


「そこへ兵を送れば、また別の場所で立つ」


「織田が強ければ強いほど」


顕如の目が鋭くなった。


「広い領地そのものが弱点になる」


教如は父を見つめた。


越前で自分がしたこととは違う。


自分は兵を集めた。


父は。


兵を散らそうとしている。


「そしてもう一つ」


顕如が言った。


「信長の敵は、本願寺だけではない」


その前には。


すでに何通もの書状がなかった。


送り出された後だった。


     ◆


越前。


信長の本陣。


主要な将が再び集められた。


宗一郎が地図を広げる。


「石山が動きました」


信長は黙っている。


「使僧が各地へ出ています」


勝家が鼻を鳴らした。


「ならば石山を攻めればよい」


光秀が首を横に振る。


「越前から大坂まで兵を動かす間に、何が起きるか分からぬ」


「では放っておくのか」


「そうは言っていない」


秀吉が地図を覗き込む。


「宗一郎殿」


「何です?」


「本願寺は何をするつもりじゃ」


宗一郎は答えなかった。


代わりに。


石山から線を引いた。


近江。


伊勢。


紀伊。


河内。


さらに。


各地へ。


信長がその線を見る。


「包囲網か」


宗一郎が頷いた。


「おそらく」


かつて。


信長を囲んだ敵がいた。


朝倉。


浅井。


比叡山。


本願寺。


武田。


そして将軍家。


それぞれ目的は違った。


だが。


織田信長を倒すという一点で。


繋がった。


「もう一度やるつもりか」


信長の声が低くなる。


「以前と同じではありません」


宗一郎が答える。


「何が違う」


「中心が本願寺です」


宗一郎は石山を指した。


「そして顕如は、全員を一つの軍にしようとはしない」


「……」


「別々に戦わせる」


勝家が眉を寄せる。


「それの何が怖い」


「全部です」


宗一郎は即答した。


「我々は敵の大軍がどこにいるかなら調べられる」


「でも」


「村で十人が武器を持った」


「寺に百人が集まった」


「港で船が米を運んだ」


「別の国で誰かが兵を集めた」


「それが同時に起きたら?」


誰も答えない。


「織田軍は強い」


宗一郎は続けた。


「でも分身はできません」


信長が笑った。


「ならば、どうする」


宗一郎は答えた。


「戻ります」


「どこへ」


「畿内へ」


勝家が声を上げた。


「越前を捨てるのか!」


「捨てません」


「ならば誰が残る」


宗一郎は勝家を見た。


「勝家殿です」


「儂?」


「はい」


勝家の目が大きくなる。


宗一郎は地図の越前を指した。


「ここを任せられるのは勝家殿です」


「一向一揆はまだ残っているぞ」


「だからです」


宗一郎は勝家をまっすぐ見る。


「ただし」


「追わないでください」


天幕が静まり返った。


秀吉が下を向いた。


肩が震えている。


勝家がゆっくり秀吉を見る。


「猿」


「笑っとりませぬ」


「顔を上げろ」


「嫌です」


信長が笑った。


「勝家」


「はっ」


「越前を任せる」


勝家の表情が変わった。


「殿」


「寺を焼いて回る必要はない」


信長は宗一郎を見る。


そして。


「武器を持つ者と、持たぬ者を分けろ」


宗一郎が僅かに驚いた。


以前の信長なら。


言わなかったかもしれない。


「恭順する村は残せ」


「武器を捨てた門徒も殺すな」


「だが」


信長の声が低くなる。


「再び兵を集める者は叩け」


勝家が頭を下げた。


「承知」


宗一郎は何も言わなかった。


信長は変わっている。


甘くなったわけではない。


敵を見分けるようになった。


それだけだった。


だが。


その違いは大きかった。


     ◆


軍議が終わろうとした時だった。


外から声。


「急報!」


信長が振り返る。


「入れ」


伝令が入る。


「岐阜より!」


宗一郎の胸がざわついた。


「何があった」


「不審な使者が捕らえられました」


「誰の使者だ」


「本願寺です」


全員の顔が変わる。


「宛先は?」


伝令が躊躇する。


「言え」


信長の声。


伝令が頭を下げた。


「徳川方にございます」


宗一郎の目が細くなった。


「家康……」


信長は宗一郎を見た。


二人の間に。


一瞬だけ沈黙が流れる。


宗一郎は以前から。


家康を警戒している。


だが。


警戒と証拠は違う。


「書状は?」


信長が尋ねる。


「ございます」


伝令が差し出す。


信長は受け取った。


開く。


読む。


そして。


宗一郎へ渡した。


「読め」


宗一郎は書状を読む。


そこに。


露骨な同盟の言葉はなかった。


信長を討て。


とも書いていない。


もっと巧妙だった。


――三河・遠江の安寧。


――門徒の保護。


――相互不侵害。


――織田の戦が拡大した際の協議。


宗一郎は眉を寄せた。


「上手い」


勝家が聞く。


「何がだ」


「これだけでは家康を敵とは言えない」


「本願寺から書状を受け取ったのだぞ」


「受け取る前に捕まっています」


宗一郎は首を振った。


「それに」


「本願寺が勝手に送っただけかもしれない」


信長が宗一郎を見る。


「家康を疑うか」


宗一郎はすぐには答えなかった。


未来。


自分の知っている歴史では。


最後に天下を取った男。


徳川家康。


だが。


その未来はもう。


大きく変わっている。


「疑っています」


宗一郎は答えた。


「ですが」


信長を見る。


「今は敵ではありません」


「今は、か」


「はい」


信長が笑った。


「お前らしい」


宗一郎は書状を畳んだ。


「この書状の怖いところは、家康が裏切ることじゃない」


「何だ」


「顕如が」


宗一郎は地図を見る。


「織田と少しでも距離のある者、全員に手を伸ばし始めたことです」


光秀が静かに言った。


「ならば時間がない」


「はい」


宗一郎が答える。


「越前に留まれば留まるほど」


「石山の手が伸びる」


信長が立ち上がった。


決断は早かった。


「明朝」


全員が信長を見る。


「儂は畿内へ戻る」


「勝家」


「はっ!」


「越前は任せる」


「命に代えましても」


「死ぬな」


勝家が顔を上げる。


信長は平然としている。


「越前を守るために、お前を失っては割に合わぬ」


「……はっ」


「丹羽」


「はっ」


「兵站を整えろ」


「承知」


「滝川」


「はっ」


「先行して道を見ろ」


「承知」


「光秀」


「ここに」


「近江と京を調べろ」


「御意」


「秀吉」


「はっ!」


「儂と来い」


秀吉が頭を下げる。


そして。


「宗一郎」


「はい」


信長は地図を指した。


石山。


「帰ったら」


宗一郎を見る。


「顕如の手を切る」


宗一郎は首を横に振った。


「切るだけでは駄目です」


「では?」


「こちらも繋ぎます」


信長の目が細くなる。


「何を」


「人を」


宗一郎は言った。


「本願寺が信仰で人を繋ぐなら」


「こちらは」


少し考える。


「暮らしで繋ぐ」


勝家が首を傾げる。


「暮らし?」


「はい」


「米が食える」


「商売ができる」


「田畑を守れる」


「子供が学べる」


「病気になれば治療を受けられる」


「武器を持たなくても生きていける」


宗一郎は地図を見た。


「本願寺と戦うからといって」


「門徒全員を敵にしたら負けです」


信長は黙って聞いている。


「信仰を捨てろとは言わない」


「寺へ行くなとも言わない」


「ただ」


宗一郎は言った。


「戦わなくても暮らせる場所を作る」


半兵衛が小さく笑った。


「高槻でやったことか」


「そうです」


信長が尋ねる。


「戦場で学校を作る気か」


「違います」


宗一郎は笑った。


「戦場そのものを減らします」


信長はしばらく宗一郎を見る。


やがて。


「面白い」


一言だけ言った。


だが。


その時だった。


また。


伝令。


今度は近江方面からだった。


「申し上げます!」


「何だ」


「京より急報!」


光秀が振り返る。


「将軍家周辺に動きがございます!」


天幕の空気が変わった。


信長の笑みが消える。


「詳しく言え」


「石山本願寺の使者が――」


伝令が息を整える。


「足利義昭様に近い者と接触したとの報せ!」


宗一郎が目を閉じた。


「やっぱり……」


信長が低く言う。


「将軍までか」


宗一郎は地図を見た。


本願寺。


将軍。


各地の門徒。


そして。


まだ態度の分からない諸大名。


点が。


繋がり始めている。


だが。


宗一郎は地図を見ながら、ふと気づいた。


「待ってください」


信長が見る。


「何だ」


「これ」


宗一郎は石山から伸びる線を見る。


「顕如は、信長様の敵だけに書状を送っているんじゃない」


「どういう意味だ」


「味方にも送っている」


全員が宗一郎を見る。


「徳川がそうです」


「敵に寝返らせる必要なんてない」


「疑わせればいい」


信長の表情が変わった。


宗一郎は続ける。


「徳川を疑う」


「将軍を疑う」


「家臣を疑う」


「寺を疑う」


「商人を疑う」


「そうやって」


拳を握る。


「織田の中から繋がりを壊す」


半兵衛が息を呑んだ。


「戦わずに?」


「そう」


宗一郎は石山を睨んだ。


「これが顕如の本当の狙いだ」


信長は黙っていた。


やがて。


笑った。


だが。


楽しそうな笑いではない。


「上等だ」


信長が立ち上がる。


「疑わぬ」


勝家たちが顔を上げる。


「家康が裏切れば、その時討つ」


「義昭が敵となれば、その時戦う」


「だが」


信長は周囲の家臣を見る。


「顕如の書状一枚で、儂が味方を疑うと思うな」


宗一郎は信長を見る。


信長は続けた。


「明朝を待たぬ」


「今夜出る」


丹羽が驚く。


「殿、兵は疲れております」


「全軍ではない」


「動ける者だけで先に戻る」


そして。


信長は宗一郎を見る。


「石山が手を伸ばすなら」


刀を取った。


「その手より先に」


「儂が京へ入る」


     ◆


その夜。


越前の街道を。


松明の列が南へ動き始めた。


先頭。


滝川一益。


中央。


織田信長。


宗一郎。


秀吉。


後方を丹羽がまとめる。


柴田勝家は。


街道脇に立って見送っていた。


「宗一郎!」


呼ばれて。


宗一郎が振り返る。


「何です?」


勝家が腕を組む。


「儂は追わんぞ!」


宗一郎は一瞬黙った。


そして笑った。


「誰も聞いてませんよ!」


「貴様!」


久しぶりに。


周囲から笑いが起きた。


だが。


その笑いも。


長くは続かなかった。


彼らが向かう先は。


京。


そして石山。


そこで待っているのは。


越前のような戦ではない。


兵だけを倒せば終わる戦でもない。


将軍。


大名。


寺。


商人。


門徒。


国。


人。


あらゆるものが絡み合う戦。


宗一郎は馬上から夜空を見た。


――ここからだ。


自分の知る歴史でも。


織田信長を最も長く苦しめた敵の一つ。


石山本願寺。


だが。


歴史はすでに変わっている。


信玄はまだ生きている。


浅井は史実とは違う形で終わった。


朝倉義景も。


自らの娘と孫の未来を案じながら死んだ。


そして。


高槻という。


本来存在しない力がある。


なら。


この戦いも。


史実通りにはならない。


その時。


前方から馬が飛んできた。


「殿!」


滝川の先行隊だった。


「何だ!」


「近江方面より兵が動いております!」


信長が馬を止める。


「誰だ」


伝令が答える。


「将軍家に近い武勢!」


一瞬。


静寂。


「数は!」


「およそ二千!」


宗一郎の目が鋭くなる。


「進路は?」


「京へ!」


信長と宗一郎が顔を見合わせた。


もう。


書状の段階ではなかった。


誰かが。


実際に兵を動かした。


信長が馬の手綱を握る。


「全軍!」


夜の街道に声が響いた。


「速度を上げろ!」


馬が動く。


兵が走る。


松明が揺れる。


宗一郎も馬を進めた。


越前で一つの戦を終えた、その夜。


次の戦は。


すでに京で。


始まっていた。

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