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第七十五章 越前大乱

第七十五章 越前大乱


石山本願寺。


越前から届いた報せを読み終えた顕如は、しばらく何も言わなかった。


広間には教如をはじめ、幾人もの僧が集まっている。


報告は一つではない。


織田信長が越前にいる。


柴田勝家もいる。


明智光秀。


滝川一益。


丹羽長秀。


羽柴秀吉。


そして――


高槻宗一郎。


織田の主だった将が集まっている。


顕如は報告書を畳んだ。


「信長は越前から退くつもりがない」


教如が答える。


「ならば好都合です」


「何故だ」


「越前で討てます」


顕如は息子を見る。


「討てると思うか」


「……」


「信長は朝倉を滅ぼした」


「武田とも戦った」


「比叡山を敵に回すことも恐れなかった」


「そして今」


顕如は報告書へ視線を落とす。


「高槻宗一郎が側にいる」


教如の表情が僅かに動く。


高槻宗一郎。


越前から届く報告には、何度もその名が出ていた。


鉄砲。


兵站。


情報。


負傷者の救護。


そして何より。


門徒を皆殺しにしない。


武器を捨てた者には道を開ける。


寺そのものより、人と物と情報の繋がりを狙う。


これまで本願寺が戦ってきた武将とは、明らかに違った。


「高槻を討ちます」


教如が言った。


顕如は首を横に振った。


「違う」


「父上?」


「信長も、高槻も」


顕如は越前の地図を広げた。


「討てるなら討てばよい」


「だが、それだけを狙うな」


指が越前に置かれる。


「縛れ」


教如が眉を寄せる。


「縛る?」


「信長を越前に縛りつける」


顕如の指が南へ動く。


近江。


畿内。


そして織田領。


「信長が越前で戦い続ければ、その分だけ他が薄くなる」


「兵糧を使う」


「火薬を使う」


「兵が疲れる」


「国元から兵を補充しなければならなくなる」


顕如は教如を見る。


「一度の戦で信長を倒す必要はない」


「十度」


「二十度」


「百度」


「戦わせればよい」


教如は黙った。


「越前を蟻地獄にするのですか」


「そうだ」


顕如は静かに答えた。


「そして」


越前の北。


加賀を指す。


「門徒は越前だけにいるのではない」


     ◆


その夜。


教如は妻の部屋を訪れた。


義景の娘は、幼い子を寝かしつけていた。


教如を見る。


「越前へ行かれるのですか」


教如は少し黙った。


「ああ」


「父のためですか」


「それだけではない」


教如は妻の隣へ座った。


眠る子供を見る。


この子には。


自分の血と。


朝倉の血が流れている。


「信長は義父上を討った」


妻の指が僅かに震える。


「だが」


教如は続ける。


「父上は、仇討ちだけで兵を動かしてはならぬと言われた」


妻は答えなかった。


「それでも」


教如は妻を見る。


「私は忘れぬ」


「あなたの父を殺したのが誰なのか」


妻が顔を上げる。


「ならば」


静かな声だった。


「父の旗を持って行ってください」


教如の目が動く。


部屋の隅。


畳まれた旗があった。


朝倉の三盛木瓜。


義景から逃された旗の一本だった。


妻は言った。


「父が最後に残したものです」


「これを?」


「はい」


「朝倉の者たちに見せてください」


教如は旗を手に取った。


「父は死んだ」


妻は眠る子を見る。


「でも」


「朝倉の血は、まだここにあります」


教如は何も言わなかった。


ただ。


旗を強く握った。


     ◆


三日後。


越前。


宗一郎の予想を超える速さで、人が集まっていた。


丘の上から見下ろす。


「……多いな」


宗一郎が呟く。


半兵衛が隣で答えた。


「一万を超えているでしょう」


「もっといる」


「見えますか?」


「見えるんじゃない」


宗一郎は街道を指した。


「まだ入ってきている」


列が途切れない。


北から。


東から。


山から。


村から。


槍を持つ者。


弓を持つ者。


鉄砲を持つ者。


鎌。


鉈。


竹槍。


武器すら持たず、荷を背負っている者もいる。


戦う者だけではない。


米を運ぶ者。


水を運ぶ者。


負傷者を運ぶ者。


鐘を運ぶ者。


僧。


農民。


地侍。


そして。


朝倉旧臣。


宗一郎の顔が険しくなる。


「軍になっている」


半兵衛が頷く。


「門徒の集まりではありませんね」


「ああ」


前列。


槍を持った者。


中列。


弓と鉄砲。


後方。


荷駄。


完全ではない。


だが。


明らかに誰かが配置している。


「元朝倉の武将がいるな」


「でしょうね」


宗一郎は息を吐いた。


「本願寺だけじゃ、こんな陣形にはならない」


その時。


遠くで旗が上がった。


本願寺。


そして。


その隣。


朝倉。


宗一郎の目が細くなる。


「来た」


「教如ですか?」


「たぶん」


     ◆


織田本陣。


信長が床几に座っていた。


足の傷はまだ完全には治っていない。


だが。


鎧を着ている。


勝家が敵陣を見る。


「多いな」


秀吉が言う。


「二万はおるのでは?」


丹羽長秀が首を横に振った。


「戦える者だけなら、そこまではいない」


「それでも多い」


光秀が地形を見る。


「正面は湿地」


「右に川」


「左に低い丘」


「敵は数を広げにくい場所を選んでいる」


勝家が言った。


「ならば正面を破る」


宗一郎が即座に返した。


「駄目です」


勝家が振り返る。


「今度は何だ」


「敵が正面へ兵を集めています」


「だから破る」


「それを待っています」


「また待つのか!」


宗一郎が勝家を見る。


「昨日、何を学んだんです?」


「……」


秀吉が視線を逸らす。


勝家が睨む。


「猿、笑ったか」


「笑っておりませぬ!」


信長が手を上げた。


「黙れ」


全員が静かになる。


信長は敵陣を見た。


「宗一郎」


「はい」


「どう見る」


宗一郎は答えた。


「敵は我々に勝つ必要がありません」


「何?」


「今日、我々を倒す必要がない」


宗一郎は地図を置く。


「時間を使わせればいい」


「兵糧を使わせる」


「火薬を使わせる」


「兵を疲れさせる」


信長の目が細くなる。


「顕如か」


「おそらく」


「儂を越前に縛るつもりか」


「はい」


信長が笑った。


「ならば」


立ち上がる。


「今日で終わらせればよい」


宗一郎が信長を見る。


「簡単に言いますね」


「難しいのか」


「難しいですよ」


「ならば、お前が考えろ」


「結局それですか」


信長は笑った。


「そのために連れてきた」


宗一郎は敵陣を見る。


しばらく黙る。


そして。


「一日ください」


「一日?」


「今日、決着をつけます」


勝家が宗一郎を見る。


「策があるのか」


「あります」


宗一郎は答えた。


「ただし」


信長を見る。


「信長様にも働いてもらいます」


信長の口元が上がった。


「言え」


     ◆


正午。


織田軍が動いた。


最初に出たのは――


信長だった。


織田木瓜の旗。


直属兵。


その姿を見た一向一揆軍がざわめく。


「信長だ!」


「仏敵!」


「仏敵が出たぞ!」


鐘が鳴る。


――ゴォン!


敵陣が動く。


朝倉旧臣が叫ぶ。


「まだ動くな!」


だが。


門徒たちの一部が前へ出る。


信長。


比叡山を焼いた男。


義景を討った男。


仏敵。


目の前にいる。


「南無阿弥陀仏!」


数百が前へ出た。


だが。


信長は進まない。


馬上。


ただ立っている。


「殿」


蘭丸が言う。


「宗一郎様から、絶対に追うなと」


「分かっておる」


「昨日もそう言って前へ出ました」


「今日は約束する」


「本当ですか?」


「蘭丸」


「はい」


「お前まで宗一郎に似てきたな」


蘭丸は困った顔をした。


その時。


一向一揆軍が迫る。


五十間。


四十間。


信長は動かない。


三十間。


「殿」


「まだだ」


二十間。


門徒の顔が見える。


十五間。


信長が手を上げる。


その瞬間。


左右から鉄砲隊が現れた。


高槻隊。


三列。


「撃て!」


――ドンッ!


硝煙。


一向一揆軍の前列が倒れる。


だが。


宗一郎は二射目を命じなかった。


「下がれ!」


高槻隊が後退する。


信長も退く。


「逃げたぞ!」


「信長が逃げる!」


門徒たちが追う。


朝倉旧臣が叫ぶ。


「待て!」


だが止まらない。


「追うな!」


鐘が鳴る。


だが。


前へ出た者には聞こえない。


怒号。


銃声。


足音。


宗一郎は丘の上から見ていた。


「食いついた」


半兵衛が言う。


「まだ一部です」


「分かってる」


宗一郎は待つ。


信長が退く。


一向一揆軍が追う。


五百。


千。


千五百。


そして。


朝倉の旗が動いた。


「今だ」


宗一郎が言った。


     ◆


右。


滝川一益。


「旗が動いたぞ!」


騎馬が走る。


敵へではない。


川上へ。


一向一揆軍の背後にある渡し。


そこへ向かう。


左。


明智光秀。


「前進」


丘の裏から兵が現れる。


敵の左翼を圧迫する。


中央。


柴田勝家。


待っていた。


昨日までなら。


真っ先に突っ込んでいた。


今日は違う。


「まだだ」


家臣が驚く。


「勝家様?」


「まだだと言っておる!」


敵がさらに前へ。


信長を追う。


その側面が。


勝家の目の前を通る。


勝家の手が震える。


「……まだか、宗一郎」


高台。


宗一郎が旗を振った。


勝家の目が輝く。


「来た!」


槍を上げる。


「柴田隊!」


兵たちが構える。


「今度は追うのではない!」


勝家が吠えた。


「ぶち抜け!」


「おおおおお!」


柴田隊が横から突撃した。


一向一揆軍の側面。


そこへ。


槍衾が叩き込まれた。


「押せ!」


勝家自身が先頭にいる。


槍を弾く。


突く。


押す。


敵が崩れる。


「横から来た!」


「柴田だ!」


「陣を戻せ!」


だが。


戻れない。


後ろから味方が押してくる。


前には信長。


横には柴田。


さらに。


丘から明智。


「包まれた!」


誰かが叫ぶ。


それでも。


一向一揆軍は崩れなかった。


「南無阿弥陀仏!」


僧が鐘を鳴らす。


――ゴォン!


「退くな!」


「仏敵を討て!」


門徒が柴田隊へ向きを変える。


槍がぶつかる。


一人。


二人。


柴田兵が倒れる。


勝家の頬を槍が掠めた。


血が飛ぶ。


「勝家様!」


「構うな!」


勝家が槍を掴む。


引く。


相手が体勢を崩す。


刀。


一閃。


「押せ!」


凄まじい圧力だった。


だが。


敵も退かない。


     ◆


中央。


信長が振り返った。


「宗一郎!」


遠く。


高台の宗一郎が旗を上げる。


信長が笑う。


「反転!」


織田直属隊が一斉に止まった。


そして。


前へ。


追っていた門徒たちが驚く。


逃げていたはずの信長が。


戻ってくる。


「今度はこちらの番だ!」


信長が槍を上げる。


「押せ!」


織田軍が激突した。


槍。


槍。


槍。


人と人がぶつかる。


鉄砲を撃つ距離ではない。


刀。


槍。


盾。


泥。


血。


一向一揆軍の男が信長へ飛び込む。


「仏敵!」


信長が槍を払う。


横から近習が突く。


倒れる。


さらに一人。


「義景様の仇!」


その言葉に。


信長の動きが一瞬止まった。


元朝倉兵だった。


「そうか」


信長が男を見る。


「ならば来い」


男が槍を突く。


信長がかわす。


懐へ。


刀が走った。


男が倒れる。


信長は一瞬だけその男を見る。


「義景のところへ行け」


そして。


前を向いた。


     ◆


戦場の後方。


教如が見ていた。


朝倉の旗が隣にある。


「押されています」


僧が言う。


教如は答えない。


「教如様」


「まだだ」


「しかし!」


教如は信長の旗を見る。


義父を討った男。


妻を泣かせた男。


「まだ兵はいる」


後方。


さらに数千。


加賀から来た門徒。


教如が手を上げる。


「鐘を鳴らせ」


「増援を入れますか?」


「ああ」


巨大な鐘が鳴った。


――ゴォォォン!


その音が戦場を覆う。


後方から新たな門徒が動く。


千。


さらに千。


宗一郎が高台からそれを見た。


「来た」


半兵衛が青ざめる。


「まだいる」


「分かってる」


「予定より多い」


「それも分かってる」


宗一郎は歯を食いしばった。


戦場へ新しい兵が入ってくる。


信長。


勝家。


光秀。


三方向から押していた織田軍。


その前へ。


新しい波。


「宗一郎」


半兵衛が言う。


「このままだと押し返される」


宗一郎は地図を見る。


残っている兵。


丹羽。


秀吉。


そして。


高槻の予備隊。


宗一郎は決断した。


「秀吉を出す」


     ◆


秀吉は命令を聞いた。


「どこへ?」


伝令が答える。


「敵後方」


「後方?」


「朝倉の旗を狙え、と」


秀吉の顔から笑みが消えた。


「……なるほど」


兵を見る。


「行くぞ」


「正面では?」


「馬鹿」


秀吉は笑った。


「正面は勝家様に任せりゃええ」


そして。


「わしらは」


朝倉の旗を見る。


「戦の理由を奪う」


秀吉隊が動いた。


正面ではない。


田の畦。


林。


小川。


戦場の外側を大きく回る。


泥に足を取られる。


旗を伏せる。


声を出さない。


敵の荷駄隊が気づいた時には。


遅かった。


「織田だ!」


「敵!」


秀吉が叫ぶ。


「荷は焼くな!」


兵が驚く。


「奪うだけだ!」


「旗を探せ!」


そして。


見つけた。


朝倉の旗。


数十人の旧臣が守っている。


「来たぞ!」


槍が並ぶ。


秀吉は正面から行かない。


兵を二つに分ける。


右。


左。


「回れ!」


朝倉旧臣が対応する。


その瞬間。


中央が薄くなる。


秀吉が走った。


「今じゃ!」


中央。


二十人。


一気に入る。


槍がぶつかる。


一人が倒れる。


二人。


秀吉の兵も倒れる。


だが。


旗まで。


十間。


五間。


「旗を守れ!」


朝倉旧臣が叫ぶ。


一人の若武者が旗の前へ立った。


「これは義景様の旗だ!」


秀吉が止まる。


「分かっとる」


「ならば退け!」


「退けん」


秀吉は静かに言った。


「死んだ殿様の旗で」


周囲を見る。


「生きとる者を死なせすぎじゃ」


若武者が槍を構える。


「黙れ!」


突く。


秀吉が避ける。


家臣が槍を払う。


若武者が倒れる。


旗手が逃げようとする。


「取れ!」


兵が飛びつく。


旗が傾く。


朝倉の三盛木瓜が。


地面へ落ちた。


     ◆


戦場。


最初に気づいたのは。


元朝倉兵だった。


「旗が……」


振り返る。


ない。


「朝倉の旗がない!」


声が広がる。


「旗が落ちた!」


「朝倉が!」


教如が立ち上がった。


「何だと!」


遠く。


秀吉隊。


そして。


倒れた朝倉の旗。


教如の顔色が変わった。


「取り返せ!」


だが。


遅い。


宗一郎も見た。


「秀吉殿、やった」


半兵衛が言う。


「敵が揺れます」


「ああ」


宗一郎は旗を上げる。


「全軍」


そして。


振り下ろした。


「押せ!」


     ◆


信長が叫ぶ。


「押せ!」


勝家。


「押し潰せ!」


光秀。


「隊列を崩すな!」


丹羽。


「前列を交代!」


滝川。


「渡しを閉じたぞ!」


秀吉。


「朝倉の旗は取った!」


一斉に。


織田軍が前へ出た。


門徒たちはなお戦う。


だが。


朝倉旧臣の一部が崩れた。


そこから穴が開く。


一つ。


二つ。


三つ。


軍というものは。


全員が同時に崩れるのではない。


小さな穴ができる。


隣がそれを見る。


不安が広がる。


そして。


ある瞬間。


崩壊する。


「退け!」


誰かが叫んだ。


「逃げろ!」


門徒が走る。


僧が止める。


「退くな!」


だが。


止まらない。


教如が叫ぶ。


「まだ戦える!」


それでも。


人の流れは戻らなかった。


一万を超える集団が。


一度に後ろへ動き始める。


それは退却ではない。


濁流だった。


     ◆


「追いますか!」


勝家が叫ぶ。


宗一郎は即答した。


「追わない!」


勝家が振り返る。


一瞬。


昔の勝家なら。


命令を無視していたかもしれない。


だが。


今日は。


「……承知!」


槍を上げる。


「追うな!」


柴田隊が止まる。


信長も追撃を命じなかった。


ただ。


逃げていく門徒たちを見る。


宗一郎が信長の横へ来た。


「終わりました」


信長が首を横に振る。


「いや」


「はい」


宗一郎も分かっていた。


今日の戦には勝った。


だが。


本願寺には勝っていない。


     ◆


夕暮れ。


戦場。


朝倉の旗が信長の前へ運ばれてきた。


秀吉が頭を下げる。


「殿」


「取ったか」


「はい」


信長は旗を見る。


義景。


最後の戦。


娘を頼むと言った男。


その旗が。


今は泥に汚れている。


信長はしばらく黙った。


「燃やすな」


秀吉が顔を上げる。


「よろしいので?」


「ああ」


宗一郎も信長を見る。


信長は旗から目を離さない。


「これは朝倉の旗だ」


「本願寺の旗ではない」


静かな声だった。


「義景は死んだ」


「ならば」


信長は言った。


「死者まで利用させる必要はない」


宗一郎は何も言わなかった。


やがて。


信長が尋ねる。


「教如は?」


滝川の伝令が答えた。


「逃れました」


信長の目が細くなる。


「石山へ?」


「分かりません」


宗一郎が北を見る。


「戻るでしょう」


「何故分かる」


「今日で教如も理解したはずです」


「何を」


宗一郎は答えた。


「門徒の数だけでは、信長様を倒せない」


信長が笑う。


「ならば次は?」


宗一郎は石山の方角を見る。


「顕如が出てきます」


     ◆


同じ頃。


敗走する一向一揆軍。


教如は馬上で振り返っていた。


遠く。


朝倉の旗はもう見えない。


拳が震える。


「義父上……」


その隣で老僧が言った。


「教如様」


「何だ」


「石山へ戻りましょう」


教如は答えない。


「このままでは」


「分かっている!」


怒声。


だが。


すぐに。


教如は目を閉じた。


怒りでは勝てない。


父が言った言葉。


今。


ようやく意味が分かった。


信長は強い。


だが。


それ以上に。


高槻宗一郎。


あの男が。


戦場そのものを変えてくる。


「戻る」


教如が言った。


「石山へ」


そして。


「父上に伝える」


老僧が尋ねる。


「何と?」


教如は振り返った。


「越前だけでは」


「信長は倒せない」


     ◆


石山本願寺。


数日後。


顕如の前に。


泥だらけの教如が座っていた。


朝倉の旗はない。


顕如は何も責めなかった。


「負けたか」


「はい」


「信長は?」


「生きています」


「高槻は?」


「生きています」


顕如は目を閉じた。


「そうか」


教如が拳を畳につける。


「父上」


「何だ」


「次は私に――」


「ならぬ」


教如が顔を上げる。


顕如の声は静かだった。


「次は」


目を開く。


「儂がやる」


教如の表情が変わった。


「父上が?」


「ああ」


顕如は立ち上がる。


そして。


石山本願寺の外を見る。


巨大な寺内町。


堀。


土塁。


門。


倉。


船。


そして。


数え切れない門徒。


「信長は越前で我らの戦い方を見た」


「ならば」


顕如は静かに言った。


「次はこちらが」


「織田の戦い方を壊す」


教如が尋ねる。


「どのように」


顕如は答えなかった。


代わりに。


一通の書状を取り出した。


宛先は。


越前でも。


加賀でもない。


畿内。


そして。


さらに別の国々へ。


一通ではない。


何通もある。


教如が息を呑む。


「父上……これは」


顕如は静かに言った。


「信長が強いなら」


一通目を置く。


「一人で戦わなければよい」


二通目。


三通目。


四通目。


「織田を敵とする者は」


「我らだけではない」


石山本願寺から。


使者が走り始めた。


越前での戦いは。


織田の勝利に終わった。


だが。


宗一郎が最も恐れていた戦いは。


この瞬間。


石山から。


静かに始まろうとしていた。

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