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第七十三章 本願寺の罠

第七十三章 本願寺の罠


越前の朝は、鐘の音から始まった。


一つ。


二つ。


三つ。


山の向こうから聞こえた鐘に、別の寺が応じる。


また別の寺。


まるで山そのものが鳴っているようだった。


高槻陣では、兵たちが無言で武具を整えていた。


昨日までとは違う。


朝倉の旗を追う戦ではない。


敵は、どこにいるのか分からない。


寺にいる。


村にいる。


山にいる。


そして、その背後には石山本願寺がいる。


宗一郎は地図を広げた。


「北の寺を三つ押さえます」


半兵衛が頷く。


「一気に潰すのか?」


「いや」


「またか」


柴田勝家が口を挟んだ。


「また待つのか、宗一郎」


宗一郎は勝家を見る。


「待ちます」


「敵は鐘を鳴らして兵を集めているぞ」


「分かっています」


「ならば、今のうちに叩けばいい」


勝家の声には苛立ちが混じっていた。


「敵が集まる前に潰す。それが戦ではないのか」


宗一郎は首を振った。


「敵が集まる場所を間違えさせる方が早い」


「何?」


「本願寺は、こちらを攻めさせたい」


宗一郎は地図を指した。


「だから、弱い場所を見せてくる」


勝家は黙った。


「それが罠だと言うのか」


「可能性が高い」


「ならば、いつまで待つ?」


「敵が焦れるまで」


勝家が鼻を鳴らした。


「敵ではなく、味方が焦れているぞ」


その言葉に、半兵衛が苦笑する。


宗一郎も苦笑した。


「分かっています」


「ならば――」


「勝家」


低い声が響いた。


信長だった。


「宗一郎に任せよ」


勝家は不満そうに頭を下げた。


「……承知」


信長は宗一郎を見る。


「だが、儂も出る」


「信長様が?」


「ああ」


信長は地図を見る。


「本願寺が儂を仏敵と呼ぶなら、その敵がどれほどのものか、この目で見ておきたい」


宗一郎は少し黙った。


「危険です」


「だから行く」


信長は笑った。


「お前が前に出るなと言えば、余計に出たくなる」


「困った方ですね」


「今さらだ」


---


昼前。


織田軍は動いた。


先頭は柴田隊。


その後ろに高槻隊。


さらに信長直属の兵。


明智隊は西側から進み、敵の退路を探る。


宗一郎は馬上から周囲を見ていた。


田。


小さな村。


その奥に寺。


さらに山。


越前とは違い、大坂周辺の地形は開けた場所と低い丘が入り混じる。


正面から見れば敵陣は近い。


だが、道を一本外れれば視界が切れる。


そして寺や村が、そのまま砦になる。


「高槻様」


伝令が来た。


「北の寺に敵兵」


「数は?」


「三百ほど」


宗一郎は地図を見る。


「動きは?」


「こちらを見ているだけです」


「攻撃は?」


「ありません」


宗一郎は眉を寄せた。


「……見せているな」


そこへ勝家が来た。


「三百だそうだな」


「はい」


「ならば行く」


「待ってください」


「またか!」


勝家が声を荒らげる。


「三百しかいない!」


「だからです」


宗一郎は寺を指した。


「三百しかいないように見せている」


「ならば、さらに多いと?」


「分かりません」


「分からぬ、分からぬでは戦にならぬ!」


勝家は馬を進めた。


「柴田隊、前へ!」


「勝家殿!」


宗一郎が呼ぶ。


だが、勝家は止まらなかった。


「敵が少ないなら、少ないうちに叩く!」


槍隊が進む。


その後ろから鉄砲隊。


織田軍が一斉に動いた。


宗一郎は顔をしかめた。


「……やられた」


半兵衛が見る。


「罠か?」


「たぶん」


「救援する?」


宗一郎は一瞬だけ迷った。


「する」


信長が聞いた。


「勝家を助けるのか?」


「はい」


「罠だと分かっていて?」


「勝家隊を潰されれば、敵は次にこちらへ来ます」


信長が頷く。


「ならば行くぞ」


「信長様まで?」


「儂が出る」


信長は槍を手に取った。


「勝家を見捨てる織田ではない」


宗一郎はため息をついた。


「分かりました」


「何だ、その顔は」


「また私が信長様を止める仕事が増えそうだと思っただけです」


信長が笑う。


「ならば、しっかり務めよ」


---


柴田隊は寺へ迫った。


敵は動かない。


門が開いている。


兵も少ない。


「ほら見ろ!」


勝家が叫んだ。


「敵は怯えている!」


柴田隊が門へ入った。


十人。


二十人。


五十人。


寺の境内へ兵が流れ込む。


その瞬間だった。


鐘が鳴った。


――ゴォン!


勝家が振り返る。


「……何だ?」


二度。


――ゴォン!


三度。


――ゴォン!


寺の裏手。


さらに左右の村。


山の陰。


一斉に人影が現れた。


「敵!」


「左右から来るぞ!」


「門を閉めろ!」


遅かった。


寺へ入った柴田隊の後ろで、木戸が閉じられた。


「しまった!」


斜面から鉄砲が鳴る。


――パンッ!


――パンッ!


――パンッ!


弾丸が寺の境内へ飛び込む。


兵が倒れる。


「盾!」


柴田隊が盾を構える。


しかし敵は正面だけではない。


寺の屋根。


土塀。


裏手の畑。


すべてから矢と鉄砲が飛んでくる。


「勝家様!」


「押し戻せ!」


勝家が怒鳴る。


「門を開けろ!」


兵が門へ走る。


だが、その前に槍衾が現れた。


「南無阿弥陀仏!」


門徒が叫ぶ。


「仏敵を討て!」


槍が突き出される。


「くそっ!」


勝家が刀を抜いた。


「押せ!」


柴田隊がぶつかる。


だが、寺の門は狭い。


後ろから兵が来ても、前へ出られない。


倒れた者を跨いで進むしかない。


勝家が槍を弾く。


別の槍が脇から来る。


身を捻る。


肩をかすめた。


「ぐっ!」


勝家が踏み込む。


刀を振る。


門徒が倒れる。


だが、その背後からまた別の者が現れる。


「何人いる!」


勝家が叫ぶ。


返事の代わりに鐘が鳴った。


――ゴォン!


その音を聞いた門徒が一斉に前へ出る。


「仏敵を討て!」


「極楽へ行くぞ!」


勝家の顔が険しくなる。


「……死を恐れていない」


---


その時。


寺の外から銃声が響いた。


――パンッ!


門徒が振り返る。


続けて。


――パンッ!


――パンッ!


高槻隊の鉄砲だった。


「高槻だ!」


「織田の援軍!」


宗一郎が前へ出る。


「撃ち方止め!」


煙が晴れる。


「槍隊、中央!」


高槻兵が一斉に進む。


盾を並べる。


槍を揃える。


門徒の槍とぶつかった。


「押せ!」


「一歩ずつ!」


宗一郎は後方から指示を飛ばす。


「右へ寄せろ!」


兵が動く。


「左、開けるな!」


別の兵が詰める。


寺の門前で、二つの槍衾がぶつかった。


押す。


押し返される。


また押す。


足元には土と血が混じっている。


「勝家!」


宗一郎が叫ぶ。


「生きています!」


「ならば、そこから動くな!」


「何だと!」


「今から道を開ける!」


勝家は歯を食いしばった。


「……分かった!」


宗一郎は周囲を見た。


敵は寺だけではない。


北側の林。


西側の村。


そして寺の裏。


「半兵衛」


「何だ」


「本命はここじゃない」


「やはりか」


「この寺を餌にしている」


その瞬間。


伝令が駆けてきた。


「宗一郎様!」


「何だ!」


「西側から敵が出ました!」


宗一郎の顔が変わる。


「どこへ?」


「信長様の陣へ向かっています!」


宗一郎が振り返る。


遠く。


信長の旗。


その周囲で煙が上がっている。


「……本命は信長様か」


半兵衛が息を呑んだ。


「宗一郎!」


信長の近習が駆けてくる。


「本願寺勢が西から回り込みました!」


宗一郎は即座に判断した。


「勝家をここから出す」


「どうする?」


「正面を突破する」


半兵衛が目を見開く。


「この人数で?」


「違う」


宗一郎は後ろを見る。


「信長様が来る」


---


信長は前線にいた。


本願寺側の兵が左右から迫っている。


「殿!」


蘭丸が叫ぶ。


「右手から鉄砲!」


信長が身を伏せる。


――パンッ!


弾が兜の横を抜ける。


「近いな」


信長は笑った。


「近いどころではありません!」


「ならば、こちらも近づく」


信長が槍を構えた。


「前へ!」


織田兵が動く。


本願寺勢も突っ込んでくる。


「南無阿弥陀仏!」


「仏敵を討て!」


槍がぶつかった。


信長が自ら槍を振る。


一人。


二人。


敵が倒れる。


だが、さらに後ろから門徒が来る。


信長の周囲は瞬く間に戦場となった。


「殿、下がってください!」


「下がらぬ!」


信長は叫んだ。


「この程度で退けば、奴らが勢いづく!」


その時。


一発の銃声。


――パンッ!


信長の足元の土が跳ねた。


「殿!」


二発目。


――パンッ!


信長の足を弾がかすめた。


「……!」


信長が一瞬だけ体勢を崩す。


蘭丸が支える。


「信長様!」


「離せ!」


信長は立ち上がった。


「まだ立てる!」


そして前を睨む。


「本願寺め……」


その目に怒りが宿った。


「儂を仏敵と呼ぶなら」


信長は槍を握り直す。


「その仏敵が、ここにいるぞ!」


---


その声を聞いた本願寺勢の動きが、一瞬止まった。


だが。


後方から鐘が鳴る。


――ゴォン!


門徒たちが再び前へ出る。


「信長を討て!」


「仏敵を討て!」


信長の周囲に敵が殺到する。


宗一郎は遠くからそれを見た。


「信長様!」


「行くぞ!」


宗一郎が叫ぶ。


高槻隊が進む。


柴田隊も寺から抜け出し始める。


「勝家!」


「分かっている!」


勝家が血に濡れた刀を握る。


「今度こそ、借りを返す!」


「まだ追うな!」


宗一郎が怒鳴る。


「敵を追えば、また罠に入る!」


勝家が一瞬止まった。


だが、その顔には明らかな苛立ちがあった。


「……分かった!」


高槻隊が信長のもとへ近づく。


本願寺勢はなおも押してくる。


宗一郎は地形を見る。


寺。


村。


林。


川。


敵は三方向。


だが、北側だけが薄い。


「半兵衛」


「分かっている」


「敵は、そこへ逃げるように見せている」


「ならば?」


宗一郎は答えた。


「逃がす」


半兵衛が驚く。


「逃がす?」


「そうだ」


宗一郎は信長を見る。


「信長様を中心に陣を固める」


「敵を追わない」


「敵がこちらを追ってくる形にする」


宗一郎は低く言った。


「本願寺の門徒は、勝つことより信長を討つことに熱くなっている」


「ならば、その熱を利用する」


信長がこちらを見る。


「宗一郎!」


「はい!」


「何を考えている!」


「勝つ方法です!」


信長が笑った。


「ならば任せる!」


宗一郎は前を見る。


敵はまだ多い。


だが。


その勢いは、すでに統制を失い始めていた。


宗一郎は静かに命じた。


「第一列、下がれ」


「第二列、前へ」


「鉄砲は撃つな」


兵が驚く。


「撃たないのですか?」


「まだだ」


宗一郎は敵を見る。


「もっと近づける」


本願寺勢が押し寄せる。


あと二十間。


十五間。


十間。


宗一郎は手を上げた。


「まだ」


勝家が苛立つ。


「宗一郎!」


「まだです!」


敵がさらに近づく。


「今!」


宗一郎の手が振り下ろされた。


「撃て!」


――パンッ!


一斉射。


本願寺勢の前列が崩れる。


だが宗一郎は追わせない。


「槍隊、前へ!」


織田軍が押し返す。


しかし追撃はしない。


敵は混乱しながら後退した。


宗一郎はそれを見ていた。


「……よし」


半兵衛が尋ねる。


「何が?」


「本願寺側も、戦い方が変わった」


「どういう意味だ?」


「朝倉の残党ではない」


宗一郎は答えた。


「信仰で戦う軍だ」


そして遠くの寺を見る。


「だから、倒すだけでは終わらない」


信長が近づいてきた。


足を引きずっている。


「宗一郎」


「はい」


「奴らは、儂を本気で殺しに来ていた」


「そうでしょうね」


信長は寺の方を見る。


「本願寺は儂を敵と定めた」


「はい」


「ならば」


信長の声が低くなる。


「こちらも、本願寺を敵とする」


宗一郎は頷いた。


だが、その目は戦場の外を見ていた。


今回の戦いは勝った。


しかし。


本願寺はまだ動き始めたばかりだ。


そして宗一郎には分かっていた。


今日の敵は、目の前の門徒ではない。


その門徒を集める鐘。


鐘を鳴らす寺。


寺を繋ぐ人間。


そして、そのすべての奥にいる――


石山本願寺。


宗一郎は地図を広げた。


「次は、こちらから罠を仕掛けます」


信長が笑った。


「ようやく、お前から攻める気になったか」


「いえ」


宗一郎は首を振った。


「攻めるのではありません」


「敵が、自分から出てくる場所を作ります」


信長はその言葉を聞き、静かに笑った。


「なるほど」


戦いは、まだ始まったばかりだった。

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