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第七十二章 焦り

第七十二章 焦り


朝。


越前北部。


山の寺から鳴った鐘が、また一つ響いた。


――ゴォン。


その音を聞いた門徒たちが、山道へ集まっていく。


だが。


織田軍は動かなかった。


宗一郎は陣幕の中で、地図を見ていた。


越前北部の山々。


細い谷。


沢。


寺。


村。


そして、山から平地へ出る街道。


「敵は来ないのか?」


柴田勝家が苛立ったように言った。


「来ます」


宗一郎は地図から目を離さない。


「いつだ?」


「敵が決めることです」


「こちらが兵を並べて三日になるぞ」


「三日しか経っていません」


「三日も、だ!」


勝家の声が響いた。


半兵衛が苦笑する。


「勝家様」


「何だ」


「宗一郎様は待つことを戦術だと思っています」


「それが気に入らん」


勝家は腕を組んだ。


「敵が山に籠もっているなら、引きずり出せばよい」


宗一郎はようやく顔を上げた。


「それを敵も待っています」


「何?」


「こちらが焦れるのを」


勝家の眉が動く。


「ならば、どうする」


宗一郎は地図を指した。


「何もしません」


「……」


「正確には、何もしていないように見せます」


---


その日の昼。


織田軍は動かなかった。


柴田隊も動かない。


明智隊も動かない。


滝川隊も街道を守るだけ。


ただし。


一つだけ変化があった。


高槻の兵が、街道沿いに小さな柵を作り始めた。


そして、兵站所の米俵を別の場所へ移した。


「兵站を動かす?」


勝家が聞いた。


「はい」


「敵に見せるためか」


「そうです」


宗一郎は答えた。


「兵站を後ろへ下げます」


「退くと思わせる?」


「そうです」


勝家は鼻を鳴らした。


「そんな小細工で出てくるものか」


「出てこなければ、それでもいい」


「何?」


「敵が動かないなら、こちらも損をしない」


宗一郎は地図を叩いた。


「戦わずに済むなら、それが一番です」


勝家は何も言わなかった。


だが、その顔には明らかな不満があった。


---


夕方。


山中。


一向門徒たちが集まっていた。


その中央に、一人の僧がいる。


「織田が退き始めた」


「本当か?」


「兵站を動かしている」


「弱ったのでは?」


「違う」


僧は首を振った。


「罠かもしれぬ」


若い門徒が言う。


「ならば、なぜ退く?」


「こちらを山から出すためだ」


別の男が言う。


「ならば出なければよい」


僧は黙った。


その時。


別の男が入ってきた。


「柴田の兵が動いた」


「何?」


「山道を少し下りた」


僧の目が細くなる。


「本当に?」


「はい」


僧は地図を見た。


「……焦れてきたな」


「攻めますか?」


「まだだ」


僧は答えた。


「柴田だけを引き込め」


「他は?」


「動かすな」


「しかし」


「織田は強い」


僧は静かに言った。


「ならば、強い場所と戦う必要はない」


---


翌朝。


柴田隊が山道へ進んだ。


宗一郎には報告が届いた。


「柴田隊、予定より前進しています」


宗一郎は目を閉じた。


「勝家殿か」


「はい」


半兵衛が言った。


「止めますか?」


宗一郎は少し考えた。


「伝令を送れ」


「何と?」


「深入りするな、と」


「止まりますかね」


宗一郎は苦笑した。


「止まらないだろうな」


---


山道。


柴田勝家は先頭にいた。


「敵が見えん」


「はい」


「ならば進め」


「高槻殿から、深入りするなとの伝令が」


勝家が振り返った。


「戻れと言うのか?」


「いえ」


「ならば進む」


家臣が困った顔をする。


勝家は前を見る。


「敵が山にいるなら、こちらから入らねば何も始まらぬ」


そして。


「儂は、敵に焦らされるために戦場へ来たのではない」


隊列が進んだ。


---


山道は狭かった。


右手は急斜面。


左手には深い谷。


雨の後で道はぬかるんでいる。


兵が一人、足を滑らせた。


「気をつけろ!」


勝家が叫ぶ。


その時だった。


山の上から石が落ちた。


一つ。


二つ。


三つ。


「盾!」


兵が盾を上げる。


だが。


石は盾を狙っていなかった。


道の中央に落ちる。


兵が足を止める。


隊列が詰まる。


その瞬間。


――ドンッ!


鉄砲。


前列の兵が倒れた。


「敵だ!」


「上!」


山の斜面。


木々の間から門徒が現れた。


しかし。


数が少ない。


二十。


いや、三十ほど。


「少ないな」


勝家が笑った。


「押せ!」


柴田隊が前へ出る。


槍が斜面へ突き上げられる。


門徒はすぐに退いた。


「追え!」


勝家が叫ぶ。


「山へ逃げたぞ!」


兵たちが進む。


だが。


その瞬間。


背後で鐘が鳴った。


――ゴォン。


勝家が振り返る。


「……何だ?」


山の反対側。


別の鐘が鳴る。


――ゴォン。


さらに遠く。


――ゴォン。


「まさか……」


勝家の顔から笑みが消えた。


鐘が。


山から山へ繋がっている。


---


その頃。


宗一郎は本陣にいた。


伝令が駆け込む。


「柴田隊、敵と接触!」


「場所は?」


「北山道です」


宗一郎は地図を見る。


「……そこか」


半兵衛が言う。


「誘い込まれたな」


「まだ分からない」


「しかし」


宗一郎は地図上の寺を見た。


「敵の目的は柴田隊を倒すことではない」


「では?」


「位置を知らせることだ」


宗一郎の目が細くなる。


「鐘が鳴った」


「……」


「柴田隊がどこまで進んだか、敵は鐘で知らせている」


半兵衛が息を呑んだ。


「山全体が通信網か」


「そういうことだ」


宗一郎は立ち上がった。


「そして」


「何だ?」


「本命は、柴田隊ではない」


---


山道。


勝家はようやく異変に気づいていた。


「敵が少なすぎる」


家臣が答える。


「逃げた者を追いますか?」


勝家は斜面を見る。


「……いや」


その時。


後方から悲鳴が聞こえた。


「敵襲!」


「何だと!」


勝家が振り返る。


後方。


先ほど通った道に、門徒が現れていた。


「挟まれた?」


「違う!」


勝家が叫ぶ。


「これは後ろを塞いだだけだ!」


前方。


逃げた門徒が再び姿を現した。


左右。


木々の間にも人影。


「……誘導された」


勝家が呟いた。


敵は最初から。


柴田隊を殺すつもりではなかった。


山道へ入れる。


前から少数で攻撃する。


退く。


追わせる。


そして。


後ろを塞ぐ。


完全な包囲ではない。


だが。


隊列を分断するには十分だった。


「槍隊、前へ!」


勝家が叫ぶ。


「鉄砲隊は後ろ!」


兵たちが動く。


だが、狭い山道では隊列を変えるのに時間がかかる。


その間に。


斜面から石が飛んできた。


兵の肩に当たる。


「ぐっ!」


別の場所では矢が飛ぶ。


「盾!」


矢が盾へ突き刺さる。


「押せ!」


勝家が叫ぶ。


「前へ出ろ!」


柴田隊が斜面へ突進する。


門徒が槍を突き出す。


「南無阿弥陀仏!」


槍がぶつかる。


「押し返せ!」


柴田兵が槍を合わせる。


一人を倒す。


二人目。


だが、その背後からまた門徒が現れる。


数が多い。


しかも。


山道の上と下から交互に攻撃してくる。


「勝家様!」


家臣が叫ぶ。


「このままでは隊列が持ちません!」


勝家は歯を食いしばった。


「退くぞ!」


「退く?」


「一度下がる!」


だが。


後方からも敵が出る。


「……」


勝家の顔が険しくなる。


---


本陣。


新しい伝令が来た。


「柴田隊、動きが止まりました!」


宗一郎は地図を見る。


「予想通りだ」


半兵衛が問う。


「救援を出しますか?」


「まだだ」


「ですが、柴田様が危ない」


「分かっている」


宗一郎は別の紙を見る。


「だからこそ、今動けば敵の思う通りになる」


「見捨てるのですか?」


「違う」


宗一郎は地図を指した。


「敵は柴田隊を殺すことが目的じゃない」


「なら何だ?」


「本陣を引きずり出すことだ」


半兵衛が目を細めた。


「……石山本願寺か」


「そうだ」


宗一郎は頷いた。


「本願寺は、戦う場所を選んでいる」


---


山中。


僧が報告を聞いていた。


「柴田隊、動きが止まりました」


「よし」


「追撃しますか?」


「しない」


僧は首を振る。


「まだだ」


「なぜ?」


「柴田勝家は強い」


「ならば、今こそ倒すべきでは?」


「違う」


僧は静かに笑った。


「強い男ほど、救援を求める」


「……」


「そして救援に来る者は」


地図を見る。


「もっと強い」


その指が、本陣の位置へ向く。


「そこを叩く」


---


山道。


勝家は苦戦していた。


敵は正面から決着をつけようとしない。


一歩進めば退く。


追えば横から矢。


止まれば鉄砲。


隊列を整えようとすれば、後ろから槍。


「くそっ!」


勝家が叫ぶ。


「出てこい!」


だが、敵は姿を見せない。


木々。


岩。


斜面。


すべてが敵だった。


そして。


また鐘が鳴る。


――ゴォン。


勝家は顔を上げた。


「……位置を知らせている」


その時。


一人の兵が駆け込んできた。


「勝家様!」


「何だ!」


「西側から別の敵が出ました!」


「数は?」


「多くはありません!」


勝家は理解した。


敵は自分たちを殺すつもりではない。


ただ。


「俺たちをここに縛りつけている……」


その言葉が漏れた。


---


その頃。


宗一郎の本陣。


遠くから。


鐘が聞こえた。


一つ。


二つ。


三つ。


宗一郎は立ち上がった。


「来る」


半兵衛が問う。


「敵が?」


「違う」


宗一郎は西を見る。


「敵が、こちらを見ている」


その直後。


見張りの兵が駆け込んできた。


「高槻殿!」


「何だ!」


「西の沢から敵が出ました!」


宗一郎の目が鋭くなる。


「数は?」


「五十ほど!」


「やはりな」


半兵衛が刀に手をかける。


「柴田隊を囮にして、本陣を狙ってきた」


宗一郎は頷いた。


「だが」


「何だ?」


宗一郎は静かに笑った。


「それも、こちらの予想の中だ」


宗一郎は兵に命じた。


「第一隊、正面を守れ」


「第二隊は沢を塞ぐ」


「鉄砲隊は撃つな」


兵が驚く。


「撃たないのですか?」


「まだだ」


宗一郎は西の山を見た。


「敵に、本陣が弱いと思わせる」


そして。


「十分に近づける」


半兵衛が苦笑した。


「今度はお前が罠を張る番か」


宗一郎は答えた。


「戦は、罠を見抜いた者が勝つとは限らない」


「では?」


「相手に、罠を見抜いたと思わせた者が勝つ」


遠くで。


また鐘が鳴った。


――ゴォン。


宗一郎は刀を抜いた。


「柴田隊を救う」


そして。


「同時に、本願寺の手を一つ潰す」


越前の山々に。


夜の闇が落ち始めていた。


だが。


今度は織田軍が待つ番ではない。


本願寺側が。


自分たちの仕掛けた蟻地獄の底へ、少しずつ引き込まれようとしていた。

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