第六十九章 朝倉の旗
第六十九章 朝倉の旗
「ここまでだ」
信長の声が、谷間に響いた。
朝倉義景は馬上で動かなかった。
周囲には、朝倉の兵。
だが、その数はもう多くない。
前には滝川一益。
後ろからは信長。
左右は山と川。
逃げ道は塞がれていた。
それでも朝倉兵は、義景の前に立った。
「義景様には指一本触れさせぬ!」
一人の武士が槍を構える。
その声に、周囲の兵も槍を揃えた。
十人。
二十人。
三十人。
最後まで残った者たちだった。
宗一郎は、その姿を見ていた。
「信長様」
「何だ」
「まだ戦うつもりです」
「分かっている」
信長は刀を抜いた。
「だからこそ、儂が終わらせる」
義景が初めて口を開いた。
「信長……」
声は震えていた。
だが、完全に折れているわけではない。
「なぜ、ここまで追う」
信長は義景を見た。
「分かっているだろう」
「……」
「儂は、お前を許すつもりはない」
義景の顔が歪んだ。
「宇佐山のことか」
「それだけではない」
信長の声が低くなる。
「儂の家臣を殺した」
「互いに戦ったのだ」
「そうだ」
信長は頷いた。
「だから、戦の決着をつける」
義景は何も言わなかった。
しばらくして。
小さく息を吐いた。
「……ならば、最後まで朝倉であろう」
その言葉を聞いた武士たちが、槍を握り直した。
「義景様をお守りせよ!」
「行け!」
朝倉兵が一斉に動いた。
◆
最初に動いたのは滝川隊だった。
「構え!」
弓兵が前へ出る。
朝倉兵は狭い街道を一気に駆けた。
正面には織田。
左右は山と川。
だからこそ、速度を落とせば終わる。
「突破するぞ!」
「義景様を通せ!」
先頭の武士が盾を構える。
弓が飛ぶ。
一本が肩に刺さった。
男はよろめいた。
だが、止まらない。
「進め!」
さらに矢が飛ぶ。
一人。
二人。
朝倉兵が倒れる。
それでも後ろの兵が前へ出る。
「撃て!」
鉄砲が鳴った。
――パンッ!
狭い谷間に銃声が反響する。
朝倉兵の列が崩れた。
しかし、完全には止まらない。
槍を持った武士が、煙の中から飛び出した。
「織田め!」
槍が滝川兵の盾を叩く。
――ガンッ!
盾が大きく揺れる。
その隙間から別の槍が突き出された。
「左!」
滝川兵が叫ぶ。
槍を受け流し、刀で柄を叩き折る。
その瞬間、横から朝倉兵が斬り込んできた。
刃が鎧を擦った。
「ぐっ!」
滝川兵が膝をつく。
だが後ろから別の兵が出る。
「下がれ!」
「まだやれる!」
「いいから下がれ!」
戦列は崩れない。
一人が傷つけば、後ろの一人が埋める。
朝倉側も同じだった。
だが、数が違う。
そして何より。
朝倉兵には、もう逃げる場所がなかった。
◆
「信長様」
宗一郎が言った。
「中央が薄くなっています」
「義景の周囲か」
「はい」
宗一郎は谷を見た。
「敵は突破することより、義景を逃がすことを優先しています」
「ならば」
信長は刀を握る。
「そこを断つ」
「お供します」
「来い」
二人は前へ出た。
その瞬間、朝倉の武士が二人、信長の前へ立った。
「織田信長!」
「ここから先へは行かせぬ!」
一人目が斬り込む。
信長が受ける。
刃と刃がぶつかった。
――キィン!
二撃目。
三撃目。
武士は力任せに押し込む。
信長は受け続けない。
一歩横へずれた。
相手の刃が空を切る。
その瞬間。
信長の刀が相手の脇へ入った。
男が膝をつく。
もう一人が叫びながら突っ込んでくる。
「殿!」
宗一郎が前へ出る。
槍が宗一郎へ向かって伸びる。
宗一郎は身体を捻ってかわした。
槍先が肩をかすめる。
「……!」
痛みを無視して、槍の柄を掴む。
引く。
武士の身体が前へ崩れた。
信長の刀が、その肩口へ入った。
男が倒れる。
「行くぞ」
信長は義景だけを見ていた。
◆
その時だった。
「義景様!」
一人の朝倉兵が叫んだ。
「こちらへ!」
谷の奥。
小さな沢へ続く細道があった。
一見すれば、ただの獣道。
だが、その先は山へ続いている。
義景を逃がすために残していた最後の道だった。
宗一郎が気づいた。
「信長様!」
「分かっている!」
信長が走る。
だが、朝倉兵が立ちはだかる。
「行かせぬ!」
「邪魔をするな!」
信長が斬り込む。
一人。
二人。
三人。
道幅が狭い。
大軍では戦えない。
だからこそ、朝倉兵は一人ずつ命を使った。
一人が倒れる。
その隙間を別の兵が埋める。
「義景様!」
「お逃げください!」
「我らが止めます!」
義景が振り返る。
「お前たち……」
「早く!」
義景は馬首を山へ向けた。
だが。
「逃がさない!」
宗一郎が叫んだ。
滝川隊の一部が先回りしていた。
獣道の先。
そこには高槻兵が待っている。
義景の馬が止まった。
前にも敵。
後ろにも敵。
義景はゆっくりと馬を降りた。
そして。
自分の周囲を見た。
最後まで残った朝倉兵。
血に濡れた槍。
折れた刀。
倒れた仲間。
「……終わったか」
誰も答えなかった。
◆
信長が歩いてくる。
義景はその姿を見た。
「信長」
「義景」
二人の距離が縮まる。
宗一郎は少し離れて見ていた。
これは、信長自身の決着だ。
自分が口を挟むべきではない。
信長は刀を下げた。
「最後に言うことはあるか」
義景はしばらく黙った。
そして。
「娘を……」
信長の目が動く。
「娘?」
「頼む」
義景の声は弱かった。
「朝倉の血を……絶やさないでくれ」
宗一郎は、その言葉に引っかかった。
だが、義景は続けた。
「娘は……本願寺に嫁いでいる」
信長の表情が変わった。
宗一郎も息を止める。
「教如の妻だ」
――教如。
その名を、宗一郎は知っている。
本願寺。
そして、その後継を巡る大きな流れ。
だが、この世界ではすでに。
朝倉義景の娘が教如の妻となっている。
そして、その間には子がいる。
義景の孫。
朝倉の血を引く子供が、本願寺にいる。
義景は言った。
「もし……私が死んでも」
一度、息を整える。
「娘と、その子だけは……」
信長は黙っていた。
その顔に怒りが浮かんでいるわけではない。
ただ。
「……そうか」
それだけだった。
義景は目を閉じた。
そして、ゆっくりと腰の刀へ手を伸ばした。
信長が止めなかった。
「朝倉義景」
信長の声が響く。
「最後まで、朝倉であれ」
義景は小さく笑った。
「……承知した」
◆
しばらくして。
谷に静寂が戻った。
朝倉義景は死んだ。
朝倉家の当主として。
信長自身の手によって、その生涯を終えた。
史実では一族の離反と追撃の果てに自害へ追い込まれる流れだが、この世界では信長自身が追撃を指揮し、最後まで義景を追い詰めた。
信長は刀を納めた。
「……終わった」
宗一郎は答えなかった。
視線は、朝倉の旗へ向いている。
一本。
血に濡れながらも、まだ立っている。
「信長様」
「何だ」
「朝倉は、これで終わったのでしょうか」
信長は旗を見た。
「当主は死んだ」
「はい」
「だが」
宗一郎は続けた。
「旗は残っています」
信長は黙った。
その意味を理解した。
朝倉という名前。
朝倉の血。
朝倉に恨みを持つ者。
朝倉を再興したい者。
そして。
「本願寺……か」
信長が呟いた。
宗一郎は頷く。
「教如の妻が、義景様の娘なら」
「その子も朝倉の血を引く」
「はい」
「そして、本願寺には顕如がいる」
宗一郎の表情が険しくなる。
「ならば、今回の戦は」
「終わっていない」
信長が言った。
「形を変えるだけだ」
◆
同じ頃。
摂津。
石山本願寺。
顕如のもとへ、一人の使者が入った。
「申し上げます」
「何です」
「越前より」
顕如の前に、折り畳まれた旗が置かれた。
朝倉の旗。
泥と血に汚れている。
顕如はそれを見た。
しばらく何も言わない。
その後ろには、教如がいた。
「……義父上」
教如の声が震えていた。
顕如は答えない。
教如は旗を見つめる。
朝倉。
妻の父。
自分の妻の父が死んだ。
「義景様が……」
「亡くなられました」
使者が答える。
教如の手が震えた。
だが、その顔から悲しみだけが消えていった。
代わりに。
怒りが浮かぶ。
「誰に」
使者は答えた。
「織田信長に」
教如の拳が握られた。
「仏敵……」
小さな声だった。
「信長は、父上を討った」
顕如は息子を見る。
教如は続けた。
「妻は父を失った」
その言葉には、個人的な怒りがあった。
そして。
その怒りは、やがて宗教的な言葉へ変わる。
「ならば」
教如は朝倉の旗を掴んだ。
「仏敵を討つ」
顕如はすぐには答えなかった。
教如の妻。
その腹に宿る、あるいはすでに生まれた子。
朝倉の血を引く孫。
そして越前には、まだ朝倉を慕う者がいる。
一向の門徒もいる。
「……教如」
「はい」
「これは、お前一人の仇討ちではない」
顕如の声は静かだった。
「分かっております」
「ならば、感情だけで動くな」
教如は顔を上げた。
顕如は朝倉の旗を見た。
「この旗を掲げれば」
「越前の者が集まる」
「朝倉の旧臣も」
「門徒も」
「そして、信長を仏敵と見る者も」
教如は頷いた。
「それならば」
顕如は言った。
「この旗は、まだ死んでいない」
教如の目が変わった。
◆
その夜。
越前。
焼け残った寺の鐘が鳴った。
――ゴォン。
一度。
さらに遠く。
――ゴォン。
別の寺が応える。
そしてまた。
山の奥から鐘。
一つ。
二つ。
三つ。
宗一郎はそれを聞いていた。
「……始まったな」
半兵衛が隣に立つ。
「何がだ」
「戦が変わる」
宗一郎は遠くを見る。
これまでの敵は、朝倉だった。
だが。
これからは違う。
城を落とせば終わる戦ではない。
当主を討てば終わる戦でもない。
一つの寺を落とせば、別の寺から鐘が鳴る。
一人の門徒を倒せば、その家族が次の兵になる。
そして。
「仏敵と戦って死ねば、極楽へ行ける」
宗一郎は低く呟いた。
半兵衛が顔を向ける。
「それが?」
「これからの戦を厄介にする」
宗一郎は答えた。
「敵が死を恐れなくなる」
「……」
「いや」
宗一郎は首を振った。
「正確には、死を恐れないよう教えられる」
遠くでまた鐘が鳴った。
「城なら囲める」
宗一郎は言った。
「兵なら倒せる」
そして。
「だが、信仰そのものを兵にしたら」
半兵衛が続けた。
「蟻地獄になる」
宗一郎は頷いた。
「入れば抜けられない」
その時。
別の伝令が駆けてきた。
「宗一郎様!」
「何だ」
「越前北部から報告です」
「言え」
「朝倉の旗が、寺に掲げられました」
宗一郎の目が細くなる。
「どこだ」
「一つではありません」
「……」
「二つ」
「三つ」
伝令は息を整えた。
「さらに増えています」
宗一郎は山の向こうを見る。
朝倉義景は死んだ。
だが。
朝倉の旗は死んでいない。
そしてその旗の向こうには。
本願寺。
顕如。
教如。
そして、義景の血を引く孫。
新しい戦が、静かに始まろうとしていた。




