第七十章 仏敵
第七十章 仏敵
夕暮れの街道。
朝倉義景が倒れた後も、しばらく誰も動かなかった。
風だけが吹いている。
義景の身体の横には、倒れた朝倉の旗。
だが、そのうち一本だけがない。
宗一郎は北を見ていた。
「……行かせましたな」
半兵衛が尋ねる。
「はい」
「追わないのですか?」
「追わない」
宗一郎は答えた。
「今は」
信長が振り返る。
「何故だ」
宗一郎は、義景の遺体を見る。
「最後の言葉です」
「娘を頼む、か」
「はい」
信長は黙った。
義景が死ぬ直前。
娘のことを頼んだ。
それだけではない。
宗一郎には、あの言葉の裏にあるものが見えていた。
朝倉義景は、自分の死を悟っていた。
だからこそ。
娘の行く末を案じた。
そして――
その娘が嫁いでいる場所を知っていた。
「本願寺」
宗一郎が呟いた。
信長の目が細くなる。
「教如の妻だな」
「はい」
「そして」
宗一郎は北へ消えた旗を見る。
「その二人の間には、子がいる」
信長はしばらく黙っていた。
やがて。
「朝倉の血が、本願寺に残る」
「そういうことです」
「だから義景は、旗を逃がした」
「おそらく」
宗一郎は頷いた。
「自分が死んでも、朝倉の名を残すためだけではない」
「娘と、その子を守るため」
信長は義景を見た。
「……最後まで父親だったか」
その声には、わずかな苦さがあった。
「だが」
信長は刀を収める。
「それならば、なおさら本願寺は利用するだろう」
「はい」
宗一郎は答えた。
「朝倉の血を」
「そして、義景を殺した織田信長を」
二人の視線が重なった。
「敵にする」
信長が言った。
「その通りです」
---
翌日。
一乗谷。
織田軍の本陣。
義景の遺体は静かに運ばれ、朝倉家の最後を確認するための処置が進められていた。
だが、宗一郎は戦勝の空気を感じていなかった。
地図の前に立っている。
越前。
北へ伸びる街道。
寺。
村。
そして、その先にある本願寺との繋がり。
「朝倉は滅びた」
柴田勝家が言った。
「ならば残党を掃討すればよい」
宗一郎は首を横に振った。
「残党だけなら、それで終わります」
「ならば何がある?」
「本願寺です」
勝家が黙る。
宗一郎は続けた。
「義景の娘が教如殿に嫁いでいる」
「そして子もいる」
「つまり、本願寺には朝倉の血がある」
明智光秀が静かに口を開いた。
「朝倉の血を旗にできる」
「はい」
「しかも」
光秀は続ける。
「その父を討ったのが織田信長」
宗一郎は頷いた。
「そこが問題です」
信長は黙って地図を見ていた。
「儂を仏敵にするか」
「おそらく」
「比叡山の件もある」
宗一郎は顔を上げた。
「延暦寺焼き討ち」
信長が頷く。
「本願寺にとって、これほど使いやすい材料はない」
宗一郎は言った。
「信長様は武力で寺を討った」
「そして、今度は朝倉義景を討った」
「その義景の娘は、本願寺の教如殿の妻」
「さらに、その子供には朝倉の血が流れている」
宗一郎は一つずつ指を折る。
「これを繋げれば」
信長が言った。
「儂は、仏敵になる」
「はい」
しばらく沈黙が続いた。
信長は笑わなかった。
「ならば」
低い声だった。
「本願寺は、儂に仏罰を下すというわけか」
「そうなるでしょう」
信長は北を見た。
「面白い」
宗一郎が眉を上げる。
「信長様?」
「儂が何をしても、仏敵と呼ぶのだろう」
「……」
「ならば」
信長は言った。
「こちらも覚悟を決めるしかない」
---
その頃。
石山本願寺。
顕如のもとへ、越前から急使が到着していた。
「申し上げます」
「言え」
「朝倉義景様が討たれました」
顕如は目を閉じた。
「信長に?」
「はい」
しばらく沈黙。
「娘は」
「無事です」
「孫は」
「こちらにおります」
顕如の視線が、部屋の奥へ向いた。
そこには幼い子供がいた。
朝倉義景の娘が産んだ子。
顕如にとって孫。
教如にとって我が子。
そして。
朝倉の血を継ぐ者。
顕如はその子をしばらく見つめた。
「義景は」
急使が答える。
「最後まで娘のことを案じていたようです」
顕如の顔が僅かに動いた。
「そうか」
その時。
襖の向こうから声がした。
「父上」
教如だった。
「入れ」
教如が入ってくる。
「義父が討たれたと聞きました」
「ああ」
顕如は答えた。
「信長に討たれた」
教如の顔から血の気が引いた。
拳が握られる。
「……信長」
「そうだ」
「義父は」
「最後まで、お前の妻を案じていた」
教如は目を伏せた。
妻の顔が浮かぶ。
父を失った妻。
その妻が産んだ子。
朝倉の血を引く我が子。
教如の拳がさらに強く握られた。
「父上」
「何だ」
「私は」
教如は顔を上げた。
「信長を許せません」
顕如は黙っている。
「義父を殺した」
「そして」
教如は続けた。
「比叡山を焼いた」
顕如の目が細くなった。
「そうだ」
「僧を殺し、寺を焼き」
「今度は朝倉の当主まで討った」
教如の声が震える。
「これを放っておけば、次は本願寺です」
顕如は答えなかった。
だが、その言葉を否定もしなかった。
---
その日の夜。
本願寺の重臣と僧たちが集められた。
部屋には重い空気が漂っていた。
顕如が中央に座る。
「朝倉義景が討たれた」
誰も口を挟まない。
「そして、朝倉の血はここにある」
顕如は奥にいる孫を見る。
「教如の妻」
「その子」
「どちらも朝倉の血を継いでいる」
僧たちの間にざわめきが起きた。
顕如は続ける。
「織田信長は、比叡山延暦寺を焼いた」
「そして今、朝倉義景を討った」
「その娘を悲しませ、その子から祖父を奪った」
顕如の声が低くなる。
「このまま黙っていることが、本当に仏門の務めなのか」
一人の僧が言った。
「信長は仏敵です」
別の僧も続く。
「仏敵を放置すれば、門徒の信仰そのものが踏みにじられます」
「ならばどうする」
顕如が問う。
部屋が静かになる。
やがて。
「仏罰を」
その言葉が落ちた。
誰も笑わなかった。
顕如は目を閉じる。
「信長を仏敵と定める」
教如が顔を上げた。
顕如は続けた。
「比叡山を焼いた者」
「朝倉義景を討った者」
「そして、仏門に刃を向ける者」
「織田信長に」
一語ずつ。
はっきりと。
「仏罰を下す」
その瞬間。
部屋の空気が変わった。
単なる朝倉の仇討ちではない。
本願寺が、織田信長を敵として明確に位置づけた瞬間だった。
---
教如が一歩前へ出る。
「父上」
「何だ」
「私を越前へ」
顕如は息子を見る。
「何をする」
「朝倉の旗を集めます」
「そして?」
教如は答えた。
「門徒を集めます」
「何のために?」
教如の目には迷いがなかった。
「仏敵と戦うためです」
顕如はしばらく息子を見つめた。
「義父の仇を討つためだけではないのか」
教如は一瞬黙った。
だが。
「それだけではありません」
「妻と子を守るためです」
そして。
「本願寺を守るためです」
顕如は頷いた。
「ならば行け」
「ただし」
教如が顔を上げる。
「怒りだけで戦うな」
「怒りは門徒を集める」
「だが、怒りだけでは軍を動かせない」
「仏敵という大義を示せ」
教如は頭を下げた。
「承知しました」
---
翌朝。
越前北部。
朝倉の旗が再び掲げられた。
一本。
二本。
三本。
それを見た村人が集まる。
朝倉の旧臣。
農民。
門徒。
そして僧。
一人の僧が声を上げた。
「朝倉の血は絶えていない!」
別の者が叫ぶ。
「本願寺に残っている!」
さらに声が重なる。
「義景様の仇を討て!」
「信長を許すな!」
「仏敵を討て!」
鐘が鳴る。
――ゴォン。
山の向こうから返事が来る。
――ゴォン。
さらに遠く。
――ゴォン。
一つの寺。
二つの寺。
三つ。
やがて、その数は数え切れなくなった。
人が集まる。
米が集まる。
槍が集まる。
鉄砲まで集まり始める。
そして、その中心に。
朝倉の旗。
その隣に、本願寺の旗。
やがて。
一人の僧が姿を現した。
教如だった。
「皆、聞け!」
声が響く。
人々が振り返る。
教如は朝倉の旗を見た。
そして静かに言った。
「この旗は、朝倉のためだけにあるのではない」
ざわめき。
「この旗の下にいる者の家族を守るためにある」
「寺を守るためにある」
「信仰を守るためにある」
教如は拳を握る。
「そして」
「我らの前に立つ織田信長は」
一度、言葉を止めた。
「比叡山を焼いた」
「朝倉義景を討った」
「仏門に刃を向けた者だ」
人々の間から声が上がる。
「仏敵!」
「仏敵だ!」
「信長は仏敵!」
教如はその声を聞いた。
そして。
「ならば」
静かに言った。
「我らは、仏敵に屈しない」
歓声が上がった。
「南無阿弥陀仏!」
「南無阿弥陀仏!」
声が山へ響いていく。
その中には。
死を恐れる者もいる。
家族を守りたい者もいる。
朝倉の再興を願う者もいる。
そして。
本当に信仰のために死を恐れなくなっている者もいる。
それらが一つに混ざり始めていた。
---
同じ頃。
織田陣。
宗一郎のもとへ報告が届いた。
「北で人が集まっています」
「旗は?」
「朝倉」
「他には?」
伝令が答える。
「本願寺の旗です」
宗一郎は目を閉じた。
「……来たか」
半兵衛が言う。
「教如でしょうな」
「そうだろう」
「本願寺が前面に出る」
宗一郎は地図を見る。
越前。
その北。
寺。
街道。
山。
そして、そのさらに西。
石山。
「信長様には?」
「すでに報告を」
「何と?」
「本願寺が信長様を仏敵と定めた可能性が高い、と」
宗一郎は頷いた。
「可能性ではない」
半兵衛が見る。
「もう決めたと思う」
「なぜ?」
宗一郎は北を見た。
「朝倉義景を討った」
「比叡山を焼いた」
「そして、その朝倉の血が本願寺にある」
「これ以上ない理由になる」
半兵衛は沈黙した。
宗一郎は刀を取った。
「ここからだ」
「何が?」
「朝倉との戦は終わった」
「だが」
宗一郎は地図を指した。
「本願寺との戦が始まる」
さらに。
「いや」
首を振る。
「正確には、本願寺が直接軍を出す前の戦いが始まる」
半兵衛が理解した。
「門徒を相手にする」
「そうだ」
「寺を拠点にして」
「鐘で人を集め」
「朝倉の旗で心を繋ぐ」
宗一郎は頷いた。
「そして、一度潰しても別の場所から湧いてくる」
半兵衛が呟く。
「蟻地獄……」
「そうなる」
宗一郎は静かに言った。
「だから、力だけでは勝てない」
遠くで鐘が鳴った。
――ゴォン。
宗一郎はその音を聞いた。
「まず、あの鐘が何を意味しているのか」
「誰が命令を出しているのか」
「どの寺が中心なのか」
「そこから潰す」
半兵衛が尋ねる。
「寺を?」
「違う」
宗一郎は首を振った。
「仕組みを」
その目には、戦場に向かう武将とは違う冷静さがあった。
「本願寺が作ろうとしているのは、軍じゃない」
「人を戦わせる仕組みだ」
そして。
「ならば、こちらも仕組みで戦う」
越前の山々に、また鐘が鳴った。
――ゴォン。
その音の向こう。
教如は朝倉の旗を見ていた。
妻の父を討った信長。
比叡山を焼いた信長。
仏敵となった信長。
教如の胸には、義父への怒りと、妻への思いがあった。
そして、そのすべてが。
本願寺の大きな流れへと飲み込まれ始めていた。
越前の戦は。
朝倉義景の死によって終わったのではない。
その死によって。
次の戦が始まった。




