第六十八章 逃げ道
第六十八章 逃げ道
翌朝。
高槻陣は、夜明け前から動き始めていた。
昨日奪った山道を正面から進む部隊と、沢沿いを回って北側へ出る部隊。
さらに、滝川一益には騎馬を率いさせ、山を抜けた先の街道を押さえさせる。
宗一郎は地図を前に、最後の確認をしていた。
「敵に残す道は、ここだけです」
指先が一本の細い道を示す。
「他は?」
信長が尋ねる。
「柴田隊で山道を押さえます。明智隊は西側。滝川隊が街道へ出る。これで敵が北へ抜けるなら、必ずこの道を使う」
「そして、そこを待つ」
「はい」
信長はしばらく地図を見た。
「義景がいると思うか」
「可能性は高いです」
「断言はせぬか」
「まだ証拠がありません」
宗一郎は答えた。
「ただ、朝倉の旗が三本あった。そのうち一本だけが戦場から消えた。そして、その後に大人数が北へ動いている」
「義景を守るための兵か」
「あるいは、義景を逃がすための兵です」
信長の顔から笑みが消えた。
「……ならば、儂が行く」
宗一郎は信長を見る。
「信長様」
「朝倉義景を討つ」
短い言葉だった。
「これは儂の戦だ」
信長の脳裏に、森可成の姿が浮かんでいた。
宇佐山。
血に染まった城。
帰ってこなかった家臣。
朝倉との戦で失われた者たち。
その一人一人を、信長は忘れていない。
「恒興も」
「池田様ですか?」
信長は頷いた。
「恒興も可成の仇を討ちたいと思っているだろう」
「はい」
「だが、尾張を空にするわけにはいかぬ」
信長は地図を畳んだ。
「儂が討つ」
その声に迷いはなかった。
宗一郎は一礼する。
「では、私も傍に」
信長は宗一郎を見る。
「お前は戦場を見ろ」
「はい」
「儂が前へ出すぎたら止めろ」
「……承知しました」
宗一郎は苦笑した。
「止められるかは分かりませんが」
「そこは命を懸けろ」
「それは困ります」
「何故だ?」
「信長様を止める役目がなくなります」
信長が笑った。
「違いない」
◆
午前。
柴田隊が山道へ入った。
昨日と同じ道。
しかし今日は違う。
敵がいることを知っている。
兵たちは盾を前に出し、鉄砲隊を中央に置いた。
先頭は槍隊。
その後ろに鉄砲。
さらに弓。
狭い道では一度に多くの兵を使えない。
だからこそ、宗一郎は隊列を細かく区切った。
「前が止まったら、後ろは勝手に押すな!」
柴田が怒鳴る。
「この山では、味方同士が詰まる方が敵より怖いぞ!」
兵たちが進む。
昨日、門徒が待ち伏せしていた斜面。
今日は静かだった。
「……妙だな」
勝家が呟く。
あまりにも静かだった。
「敵がいない?」
家臣が尋ねる。
「いや」
勝家は斜面を見上げた。
「いる」
その瞬間。
山の上から石が転がってきた。
「来るぞ!」
石が道へ落ちる。
一つ。
二つ。
三つ。
だが、それは兵を殺すためではなかった。
隊列を止めるため。
そして。
――パンッ!
鉄砲。
前列の兵が倒れた。
「盾!」
盾が上がる。
次の瞬間、斜面から門徒が一斉に駆け下りてきた。
「南無阿弥陀仏!」
「押せ!」
槍が盾にぶつかる。
――ガンッ!
衝撃で兵の腕が痺れる。
別の槍が盾の隙間へ突き込まれる。
「左!」
兵が叫ぶ。
槍を受け流し、横から刀を振る。
門徒が倒れる。
だが、その後ろから二人目、三人目が来る。
狭い山道。
逃げることも、横へ避けることも難しい。
槍と刀が絡み合い、兵が互いの肩を押しながら戦う。
「前へ!」
勝家が叫んだ。
「ここで止まるな!」
柴田隊が押し返す。
敵も引かない。
斜面から下りてくる門徒の数が多い。
「鉄砲隊!」
「撃て!」
――パンッ!
――パンッ!
――パンッ!
煙が山道を覆った。
敵の前列が崩れる。
しかし、その煙の中からまた槍が伸びてくる。
「まだ来るぞ!」
「槍を合わせろ!」
高槻兵が槍を突き出す。
穂先と穂先がぶつかる。
敵の槍を払い、別の兵が踏み込む。
一人。
二人。
門徒が倒れる。
だが、敵は退かない。
その執念に、柴田隊の兵たちも息を呑んだ。
「……こいつら、死ぬ気か」
勝家はその言葉を聞いた。
「違う」
勝家が言う。
「死ぬ気で戦っているんじゃない」
斜面の上を見る。
「死ぬことを恐れなくなっている」
その違いは大きかった。
◆
同じ頃。
西側。
明智光秀は、敵の動きを見ていた。
「妙ですな」
部下が言う。
「柴田隊が攻撃を受けています」
「分かっている」
「援軍を?」
「まだだ」
光秀は山道を見た。
昨日より敵が多い。
しかし。
その割に、後ろが薄い。
「これは時間稼ぎだ」
「時間稼ぎ?」
「柴田隊をここに縛りつけている」
光秀は北を見た。
「その間に別の場所で何かをする」
そこへ伝令が駆け込んだ。
「高槻殿より!」
「言え」
「敵が北へ移動しています」
光秀の目が細くなる。
「やはりな」
「どうしますか?」
「予定通り動く」
光秀は兵を二つに分けた。
「半数はここに残す」
「残すのですか?」
「敵に、我々が動いていないと思わせる」
「では残りは?」
「北へ回る」
◆
北側の山道。
宗一郎と信長は、少数の兵を率いて進んでいた。
森の中。
足元は濡れている。
馬は使わない。
木々の間を縫うように歩く。
信長の横には宗一郎。
さらに蘭丸が控えていた。
「この先か」
信長が尋ねる。
「はい」
宗一郎は小声で答えた。
「ただし、敵がいるとは限りません」
「それは分かっている」
信長は前を見る。
「だが、義景が逃げるなら、この道しかない」
「その通りです」
やがて。
前方から人の声が聞こえた。
宗一郎が手を上げる。
全員が止まる。
しばらく待つ。
声が近づいてくる。
「急げ!」
「荷を捨てるな!」
「旗を守れ!」
宗一郎は信長を見る。
信長も頷いた。
「来たな」
木々の向こう。
朝倉兵が姿を現した。
先頭は護衛。
その中央に、輿が一つ。
宗一郎の目が細くなる。
「……」
信長が一歩前へ出る。
「朝倉義景か!」
森に声が響いた。
朝倉兵が凍りついた。
輿の中から人影が動く。
「織田……」
誰かが呟いた。
信長が刀に手をかける。
「逃がさぬ」
その瞬間。
朝倉側の武士が叫んだ。
「義景様をお守りせよ!」
護衛が一斉に前へ出る。
槍が並んだ。
信長の兵も槍を構える。
宗一郎は周囲を見た。
「信長様!」
「分かっている」
「敵は逃げ道を作ろうとしています」
「ならば塞げ」
「はい!」
戦いが始まった。
森の中では、槍を大きく振れない。
木が邪魔をする。
枝が顔を打つ。
足元は根が張り出している。
それでも朝倉兵は必死だった。
「殿を通せ!」
武士が叫ぶ。
信長の兵が押し込む。
槍と槍がぶつかる。
一本の槍が信長へ伸びた。
「殿!」
蘭丸が反応する。
だが、その前に宗一郎が槍を横から叩き落とした。
「前に出すぎです!」
「分かっている!」
信長が刀を抜いた。
自ら前へ出る。
目の前の武士が斬り込む。
信長は受けた。
刀がぶつかる。
――キィン!
二度。
三度。
武士が踏み込む。
信長が半歩退く。
そして。
相手の懐へ入った。
刀が閃く。
武士が崩れた。
「朝倉の者よ!」
信長の声が森に響く。
「義景を渡せ!」
だが。
返事はなかった。
宗一郎が振り返る。
「……輿がない」
「何?」
先ほどまであった輿が消えている。
宗一郎は周囲を見る。
「囮です!」
その瞬間。
遠くから馬の蹄が聞こえた。
北。
さらに北。
「義景は別の道へ!」
宗一郎が叫ぶ。
信長が舌打ちした。
「逃がしたか!」
「まだです!」
宗一郎は地面を見る。
新しい馬蹄。
しかも、一頭ではない。
「滝川隊が街道を押さえています」
信長の顔が変わる。
「ならば、向こうへ行くしかない」
「はい」
宗一郎は立ち上がった。
「追います」
信長が頷く。
「今度こそ」
刀を握り直す。
「義景を逃がすな」
◆
夕暮れ。
北の街道。
滝川一益の騎馬隊が待っていた。
街道は谷間を通っている。
左は急斜面。
右は川。
大軍が横へ広がれない。
一益は騎馬を二列に分けた。
前列は弓。
後列は鉄砲。
その後ろに槍隊。
「来るぞ」
誰かが言った。
谷の向こうから朝倉兵が現れた。
そして、その中央。
馬に乗った男。
顔は青ざめている。
だが、身なりからしてただの兵ではない。
一益が目を細めた。
「……あれか」
朝倉義景。
その可能性が高かった。
「構えろ!」
朝倉兵が気づく。
「敵だ!」
「突き抜けろ!」
義景を守る兵が一斉に走り出した。
狭い街道。
逃げるにも戦うにも、選択肢は少ない。
滝川隊が弓を放つ。
――ヒュッ!
先頭の兵が倒れる。
「撃て!」
鉄砲。
――パンッ!
――パンッ!
朝倉兵が崩れる。
それでも中央の兵は止まらない。
「義景様を通せ!」
「道を開けろ!」
槍隊がぶつかった。
川沿いの狭い道で、兵が押し合う。
一人が川へ落ちる。
水音。
別の兵が槍を振る。
滝川兵が盾で受ける。
後ろから別の槍が突き出される。
朝倉兵が倒れる。
だが、次の兵が前へ出る。
「押し切れ!」
一益が叫ぶ。
滝川隊の騎馬が左右から回り込む。
狭い場所だからこそ、大きく回る必要はない。
数頭が敵の後方へ回った。
「逃げ道を塞げ!」
朝倉兵の動きが止まった。
前には滝川。
後ろには追ってくる織田本隊。
そして。
川。
山。
残された道は、ほとんどなかった。
その時。
後方から声が響いた。
「朝倉義景!」
信長だった。
義景が振り返る。
顔から血の気が引いた。
信長はゆっくりと前へ出た。
「ここまでだ」
義景は馬上で震えていた。
朝倉家最後の当主。
その目に映ったのは、燃え落ちた一乗谷でも、逃げ散った家臣でもない。
自分を追ってきた織田信長だった。
信長は刀を抜いた。
「可成の仇だ」
静かな声だった。
「ここで決着をつける」
宗一郎は信長の横に立った。
その先に、朝倉義景。
そして義景を守る最後の兵たち。
越前の戦は。
ついに、朝倉家当主そのものへ届こうとしていた。




