第六十七章 山道の旗
第六十七章 山道の旗
夜が明けた。
高槻陣には、昨夜から灯りが絶えなかった。
兵たちが眠っていないわけではない。
交代で休ませている。
だが、完全に陣を静かにすることはできなかった。
敵がどこにいるか分からない。
それが、一番厄介だった。
「報告をまとめました」
半兵衛が帳面を差し出した。
宗一郎は受け取る。
「昨日確認した敵の旗は?」
「朝倉二本。一向宗の大旗が三本。その他、寺や村を示す小旗が多数」
「義景の旗は?」
「確認できていません」
「兵糧の動きは?」
「北へ向かっているものが多い」
宗一郎は眉を寄せた。
「北だけ?」
「一部は東です」
「東……」
地図を見る。
北へ向かえば山地。
東へ進めば、山間を抜けて別の街道へ出られる。
「義景を隠すなら、北だけとは限らない」
「そうですな」
半兵衛が頷いた。
「むしろ、北へ向かったと思わせて東へ抜ける」
「可能性はあります」
宗一郎は地図の上に石を置いた。
「ただし、今追えば敵の思う壺だ」
「では、どうする?」
宗一郎は少し考えた。
「敵が守ろうとしている場所を見る」
「場所?」
「昨日の戦で、敵は兵站を狙った」
「はい」
「でも、荷だけを狙ったわけじゃない」
宗一郎は地図を指した。
「この山道」
半兵衛が覗き込む。
「ここですか」
「ここを通ると、主街道を使わずに北と東を繋げられる」
「つまり」
「人を隠して動かせる」
半兵衛の表情が変わった。
「義景を?」
「それもある」
宗一郎は答えた。
「だが、もっと重要なのは兵そのものだ」
「兵を集める?」
「そう」
宗一郎は立ち上がった。
「ここを押さえる」
◆
午前。
高槻隊は二手に分かれた。
第一隊。
柴田勝家。
歩兵八百。
第二隊。
明智光秀。
歩兵六百。
さらに滝川一益の騎馬隊が後方を回る。
宗一郎は中央。
信長は少し後ろ。
全軍を見渡せる位置にいた。
「山道は狭い」
宗一郎が言った。
「一度に入れる兵は多くありません」
信長が地図を見る。
「ならば、柴田を先に入れるか」
「はい」
「敵が待っていたら?」
「無理に進ませません」
信長が宗一郎を見る。
「敵を引き出す?」
「そうです」
「どうやって?」
「こちらから、少しだけ隙を見せます」
信長が笑った。
「囮か」
「正確には、敵に攻めさせる」
「攻めてくれば」
「位置が分かる」
「なるほど」
信長は即座に決めた。
「やれ」
◆
山道。
柴田隊が進む。
道幅は狭い。
右側は急な斜面。
左側は木々の向こうに沢がある。
足元は湿っている。
馬は使いにくい。
槍を持つ兵が一列になって進む。
「止まるな!」
先頭から声が飛ぶ。
しかし。
山道の先には、何も見えない。
静かだった。
鳥の声。
木の葉の音。
沢の水音。
それだけ。
「敵はいないのか?」
兵の一人が呟く。
その瞬間。
――ヒュッ。
矢が飛んだ。
「伏せろ!」
一本。
二本。
十本。
木々の間から矢が降る。
兵が倒れる。
「敵だ!」
「盾!」
盾が上がる。
しかし。
敵は姿を見せない。
「どこだ!」
「上だ!」
斜面の上。
朝倉兵と門徒が身を伏せていた。
「撃て!」
鉄砲が鳴る。
――パンッ!
柴田隊の前列が崩れる。
だが。
「怯むな!」
勝家の声が響いた。
「盾を上げろ!」
兵が盾を重ねる。
「前へ!」
一歩。
二歩。
山道を進む。
しかし。
上から石が落ちてきた。
――ゴロゴロッ!
「退け!」
間に合わない。
兵が一人、足を取られて倒れた。
その上へ石が転がる。
「助けろ!」
後ろの兵が手を伸ばす。
そこへ槍。
木の陰から門徒が飛び出した。
「敵!」
槍と槍がぶつかった。
狭い山道では、長い槍が扱いにくい。
刀を抜く者。
槍を捨てる者。
盾で押す者。
兵が密集する。
「前へ出ろ!」
勝家が怒鳴る。
「ここで止まれば全員死ぬぞ!」
柴田隊が押す。
門徒も押し返す。
斜面。
沢。
山道。
逃げ場がない。
兵が一人、斜面から転げ落ちた。
「うわあっ!」
木にぶつかる。
動かない。
別の兵がそれを見て足を止めた。
「見るな!」
勝家が怒鳴る。
「前を見ろ!」
戦場では、一瞬の躊躇が命取りになる。
柴田隊がさらに進む。
だが。
「鉄砲!」
敵の一斉射撃。
――パンッ!
――パンッ!
――パンッ!
煙が山道を覆う。
勝家は腕を上げた。
「止まれ!」
兵が止まる。
無理に進めば、敵の射撃を受け続ける。
勝家は周囲を見た。
「……高槻の言った通りか」
敵はここを戦場として選んでいる。
勝家は伝令を呼んだ。
「高槻へ!」
「はっ!」
「敵は山道の上!」
「承知!」
「俺はここを押さえる!」
伝令が走る。
◆
後方。
宗一郎は報告を聞いた。
「柴田隊、接敵」
「敵の位置は?」
「山道の斜面」
「数は?」
「不明」
「鉄砲は?」
「確認しました」
宗一郎は地図を見た。
「……予想通り」
半兵衛が言う。
「ここを守るつもりですな」
「そう」
「ならば、正面から崩す?」
「いや」
宗一郎は首を振った。
「山道を取る必要はない」
「では?」
「斜面の上を取る」
宗一郎は光秀を見る。
「明智隊を東へ回してください」
「山を回る?」
「はい」
「かなり時間がかかります」
「構わない」
宗一郎は地図を指す。
「この沢」
「……」
「沢沿いを進めば、斜面の裏へ回れる」
光秀が地図を見つめる。
「しかし、道が悪い」
「だから敵も警戒していない」
「なるほど」
「ただし、無理はさせない」
光秀が頷いた。
「承知した」
◆
山道では。
柴田隊が動けずにいた。
敵の鉄砲。
弓。
そして地形。
前へ出れば撃たれる。
退けば追撃される可能性がある。
勝家は苛立っていた。
そこへ。
「柴田様!」
伝令。
「高槻殿より!」
「何だ!」
「そのまま押さえよとのこと!」
勝家が眉を寄せる。
「攻めるな?」
「はい」
「……分かった」
勝家は敵を見る。
「ならば、ここを動かさん」
柴田隊は盾を並べた。
槍を立てる。
鉄砲隊を後ろに置く。
敵が撃てば盾の後ろへ隠れる。
撃ち返す。
そして。
待つ。
戦場が膠着した。
◆
その頃。
山の裏。
明智隊。
光秀は足元を見ながら進んでいた。
道ではない。
獣道。
木の根。
濡れた土。
急斜面。
兵が一人、足を滑らせた。
「大丈夫か!」
「はい!」
「声を抑えろ」
光秀が言う。
「敵に気づかれる」
兵たちは黙々と進んだ。
やがて。
斜面の向こうに人影が見えた。
「……いた」
敵だ。
しかも。
こちらを見ていない。
光秀は手を上げた。
兵が止まる。
指で合図。
鉄砲隊が構える。
そして。
――パンッ!
山の裏から銃声が響いた。
「敵!」
門徒たちが振り返る。
混乱。
その瞬間。
柴田隊が動いた。
「今だ!」
勝家が叫ぶ。
「押せ!」
正面から槍隊が進む。
上から攻めていた敵は、前と後ろから挟まれた。
「退け!」
「どこへ!」
「沢へ!」
だが、沢は足場が悪い。
何人も転ぶ。
柴田隊が斜面を上る。
鉄砲隊が短い間隔で撃つ。
敵が一人倒れる。
二人。
三人。
それでも門徒は逃げない。
「南無阿弥陀仏!」
叫びながら槍を突き出す。
柴田兵も受ける。
刀がぶつかる。
槍が折れる。
盾が割れる。
斜面の上は、足場が悪く、誰も思うように動けない。
敵の一人が柴田兵の脇腹へ槍を突き込んだ。
「ぐっ!」
兵が倒れる。
隣の兵が槍を叩き落とす。
「仲間をやらせるな!」
そのまま押し倒す。
別の門徒が斬り込む。
刀が肩を切る。
血が土へ落ちる。
しかし。
光秀隊が横から押し込んだ。
「ここを取れ!」
敵が崩れる。
やがて。
朝倉の旗が斜面から下がった。
「退け!」
敵が山道の奥へ逃げ始める。
柴田は追おうとした。
「追撃する!」
だが。
「柴田様!」
光秀が止めた。
「深追いは危険です!」
「……」
勝家は山道の奥を見る。
その先はさらに狭くなっている。
そして、両側は山。
敵が待ち伏せしている可能性は高い。
「……分かった」
勝家が槍を下ろした。
「ここまでだ」
敵を追わない。
戦場を取る。
それだけで止める。
◆
夕刻。
山道は織田側の手に落ちた。
しかし。
宗一郎は喜ばなかった。
「敵は逃げた?」
「はい」
半兵衛が答える。
「ただし、死体をほとんど残していません」
「連れて帰ったか」
「負傷者も」
「……」
宗一郎は斜面を見る。
そこには敵味方の血が残っている。
だが、敵の死体は少ない。
「組織されている」
半兵衛が頷く。
「普通なら、ここまで崩れればもっと残る」
「でも残らない」
「誰かが撤退を指揮している」
宗一郎は山道の先を見る。
その時。
遠くから馬の蹄が聞こえた。
伝令だった。
「高槻殿!」
「何だ」
「北側の見張りより報告!」
「言え」
「山道のさらに奥で、大規模な人の移動を確認!」
「どれくらいだ?」
「正確には分かりません!」
「旗は?」
「朝倉の旗が一つ!」
宗一郎の目が鋭くなった。
「他には?」
「寺の旗が多数」
「……」
半兵衛が宗一郎を見る。
「一本だけ」
「そうだ」
宗一郎は地図を広げた。
「三本あった朝倉の旗」
指を一本立てる。
「二本は戦場に出ている」
もう一本。
「一つだけ、消えた」
宗一郎は山道の先を見る。
「義景が動いている」
半兵衛が息を呑む。
「確証は?」
「ない」
宗一郎は答えた。
「だから、まだ断定しない」
「しかし」
「追う」
半兵衛が顔を上げる。
「追うのですか?」
「今度は違う」
宗一郎は地図を指した。
「山道をそのまま追うんじゃない」
「では?」
「出口を押さえる」
宗一郎は周囲の地形を見た。
「敵が北へ逃げるなら、山を抜ける道は限られる」
「そこで待つ」
「そう」
「挟撃ですな」
「いや」
宗一郎は首を振った。
「逃げ道を全部塞ぐんじゃない」
「一つだけ残す」
半兵衛が目を見開く。
「逃がす?」
「そう」
宗一郎は静かに言った。
「敵が自分から選んだ道を通らせる」
「その先で」
「中心を探す」
そして。
宗一郎は北を見た。
「義景が本当にいるなら」
その声は低かった。
「必ず誰かが、義景を守っている」
夕暮れの山に。
また鐘が鳴った。
――ゴォン。
一度。
宗一郎は目を閉じる。
続いて。
遠くから鐘が返ってきた。
――ゴォン。
さらに。
――ゴォン。
宗一郎は地図に一本の線を引いた。
「次は、この線だ」
それは山道の先。
寺へ続く道だった。
そしてその先には。
まだ織田軍が踏み込んでいない、深い山間が広がっていた。




