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第六十六章 越前の牙

第六十六章 越前の牙


 翌朝。


 空は薄曇りだった。


 夜の雨が山肌を濡らし、北へ向かう街道には深い轍が残っている。


 宗一郎は馬上から周囲を見渡していた。


 右手には低い丘。


 左手には川。


 川幅はそれほど広くない。


 だが、雨で水量が増している。


 街道は川沿いを進み、その先で二つに分かれていた。


 一方は北へ。


 もう一方は山裾を回って東へ抜ける。


「ここです」


 斥候が言った。


「昨日、敵が街道を外れた場所は」


 宗一郎は頷いた。


「悪くない」


「何がです?」


 半兵衛が尋ねる。


「敵にとっても、俺たちにとっても」


 宗一郎は地形を見た。


 丘。


 川。


 街道。


 そして、その先に開けた平地。


「ここなら、大軍が一気に広がれない」


「川と丘があるからですな」


「そう」


 宗一郎は地図を広げた。


「敵が千なら、千人全員を同時に戦わせる必要はない」


「むしろ」


 半兵衛が続ける。


「狭い場所で前後が詰まる」


「その通り」


 宗一郎は地図の上に小石を置いた。


「問題は、敵がここを選んだ理由だ」


「こちらを誘い込むため」


「それだけじゃない」


 宗一郎は北を見た。


「向こうにも、この地形を使う理由がある」


     ◆


 午前。


 北の街道。


 朝倉・門徒連合軍。


 その数、およそ千五百。


 昨日までとは明らかに違っていた。


 朝倉の旗。


 一向宗の旗。


 そして、それぞれの村や寺を示す小旗。


 兵の姿も一様ではない。


 甲冑を着た武士。


 簡素な胴丸を着た地侍。


 槍だけを持った門徒。


 弓を持つ農民。


 鉄砲を担いだ者。


 寄せ集めに見える。


 しかし。


 その中央には、戦場を知る者たちがいた。


「織田は来る」


 朝倉旧臣の男が言った。


「高槻もいる」


 隣の僧が尋ねる。


「高槻を恐れるのか?」


「恐れているのではない」


 男は答えた。


「警戒している」


「同じことでは?」


「違う」


 男は丘を見た。


「奴は兵の数だけで戦わない」


「昨日もそうだった」


「だから、今日は数で押す」


 僧が笑う。


「それなら簡単だ」


「簡単ではない」


 男は首を振った。


「だからこそ、ここを選んだ」


 川。


 丘。


 狭い街道。


 そして、その先の平地。


「鉄砲を撃たれても、横へ広がれないようにする」


「ならば、どうする?」


「最初から一気に突っ込まない」


 男は指を三本立てた。


「第一陣が受ける」


「第二陣が押す」


「第三陣が横から回る」


 僧が頷く。


「高槻が中央を見るなら、脇を噛む」


「そういうことだ」


 そして。


 朝倉の旗が上がった。


     ◆


「来た」


 高槻陣。


 物見櫓から声が飛んだ。


「敵、大軍!」


「旗、多数!」


「朝倉!」


「門徒!」


 宗一郎は望遠鏡を目に当てた。


 遠く。


 丘の向こうから旗が現れる。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 やがて、それは数え切れないほどになった。


「……多いな」


 半兵衛が言った。


「正確な数は?」


「千五百前後」


 宗一郎は望遠鏡を下ろした。


「昨日の三倍」


「正面から来ますか」


「来る」


 宗一郎は即答した。


「ただし、全部が正面じゃない」


「分かりますか?」


「旗の間隔を見る」


 宗一郎は指差した。


「中央だけ密集している」


 左右の旗は、少し離れている。


「中央が本隊」


「両翼は?」


「回り込む」


 半兵衛が頷く。


「ならばこちらも」


「いや」


 宗一郎は首を振った。


「左右を同じ厚さにする必要はない」


「では?」


「敵が来るところを限定する」


 宗一郎は命令を出した。


「丹羽隊を中央後方」


「柴田隊を右」


「明智隊を左」


「滝川隊は丘の裏」


「秀吉隊は予備」


 そして。


「俺は中央にいる」


 半兵衛が宗一郎を見る。


「信長様は?」


「後方に来る」


 その言葉が終わった直後だった。


 騎馬の一団が現れた。


 中央。


 織田信長。


「宗一郎」


「はい」


 信長は敵を見た。


「随分と集めたな」


「千五百ほどです」


「朝倉と門徒が一つになったか」


「正確には」


 宗一郎は答えた。


「一つになったように見せています」


 信長が笑った。


「違うか」


「目的が同じではありません」


「朝倉は越前を取り戻したい」


「門徒は織田を越前から追い出したい」


「ならば、利害は一致している」


「今は」


 宗一郎は強調した。


「今は、です」


 信長は敵を見据えた。


「ならば、その間に叩く」


「はい」


 宗一郎は地図を示した。


「ただし、義景を追うのはまだです」


 信長の目が細くなった。


「……義景」


「朝倉の旗がある以上、どこかにいる可能性があります」


「生きていると?」


「まだ確認できていません」


「だが、いると考える」


「はい」


 信長はしばらく黙った。


 そして。


「よい」


 短く答えた。


「敵を潰す」


     ◆


 昼前。


 最初の銃声が響いた。


 ――パンッ!


 朝倉側の前列が止まる。


 しかし。


 倒れた兵の後ろから、さらに兵が出てくる。


 ――パンッ!


 ――パンッ!


 高槻の鉄砲隊が連続して撃つ。


 前列。


 後列。


 撃った者が下がり、次の列が前へ出る。


 火縄銃の弱点である再装填の時間を、隊列そのものが補っていく。


 だが。


 敵も学習していた。


「盾!」


 朝倉側から声が飛ぶ。


 門徒たちが板盾を前へ出した。


 銃弾が盾を叩く。


 ――ドンッ!


 一枚が砕ける。


 男が倒れる。


 だが、隣の者がすぐに盾を寄せる。


「進め!」


 門徒が進む。


「撃て!」


 高槻側が撃つ。


 距離が縮まる。


 百五十。


 百。


 八十。


 銃声がさらに激しくなる。


 煙が街道を覆う。


 風が弱い。


 煙が逃げない。


「見えません!」


「旗を見ろ!」


「前の味方が見えない!」


「音を聞け!」


 鉄砲隊の後ろから太鼓が鳴る。


 ――ドン。


 ――ドン。


 一定の間隔。


 撃つ。


 下がる。


 次が撃つ。


 しかし。


 敵の勢いは止まらない。


「槍!」


 高槻隊の前列が槍を構えた。


 朝倉側も槍を構える。


 そして。


 両軍がぶつかった。


 ――ガッ!


 槍の穂先が盾に食い込む。


 別の槍が肩を突く。


 男が倒れる。


 その横から門徒が斬り込む。


「押せ!」


「退くな!」


 街道が一気に戦場になった。


     ◆


 宗一郎は丘の上から戦場を見ていた。


「中央は予定通り」


 半兵衛が言う。


「いや」


 宗一郎は首を振った。


「違う」


「何が?」


「敵が押しすぎている」


 半兵衛が目を凝らす。


「……確かに」


「中央の兵が前に出すぎている」


 宗一郎は敵の左翼を見た。


「こっちを見ろ」


 そこには。


 朝倉側の兵が少しずつ丘の方へ動いていた。


「囮ですか?」


「そう」


 宗一郎は即座に理解した。


「中央で押して、こちらを引きつける」


「その間に左翼が丘を取る」


「そういうこと」


 宗一郎は伝令を呼んだ。


「明智隊へ」


「はっ」


「丘の頂上を取らせるな」


「承知」


「ただし、前へ出すぎるな」


「はい」


「丘の斜面を使え」


 伝令が走る。


 宗一郎はさらに別の伝令を呼んだ。


「滝川隊へ」


「はっ」


「敵左翼の後ろへ回れ」


「攻撃しますか?」


「まだだ」


「では?」


「見せろ」


「何を?」


「騎馬を」


 伝令が頷く。


 滝川隊が丘の裏から姿を見せる。


 朝倉側の兵が気づいた。


「騎馬!」


「横から来るぞ!」


 敵の左翼が止まる。


 その瞬間。


 中央の圧力が少し弱まった。


「今です」


 宗一郎が言った。


「丹羽隊、前へ」


 中央後方から槍隊が進む。


 鉄砲隊の間を抜ける。


 そして。


 敵中央の横腹へ槍を突き込んだ。


「押せ!」


 高槻兵が押す。


 朝倉側が一歩下がる。


 二歩。


 だが。


「退くな!」


 朝倉旧臣が叫んだ。


「ここで退けば織田に踏み込まれる!」


 門徒たちが踏み止まる。


「南無阿弥陀仏!」


 声が重なる。


 一人。


 二人。


 十人。


 百人。


 恐怖を押し殺すように、門徒が前へ出る。


 その声に押されるように、朝倉兵も戻ってきた。


 再び槍がぶつかった。


     ◆


「強い」


 信長が呟いた。


 隣の宗一郎が頷く。


「数だけではありません」


「分かっている」


 信長の目は戦場から離れない。


「門徒が崩れぬ」


「信仰だけじゃない」


 宗一郎は答えた。


「後ろに寺がある」


「寺?」


「戻れる場所がある兵は、逃げにくい」


 信長が黙った。


 宗一郎は続ける。


「しかも、朝倉旧臣が前にいる」


「門徒だけなら、もっとばらける」


「朝倉の武士が戦線を繋いでいる」


 信長が敵旗を見る。


「なるほど」


 その時。


 敵の右翼が動いた。


「来ました」


 宗一郎が言う。


「こちらの左翼へ」


 朝倉側の右翼が川沿いを進み始めた。


 川と街道の間。


 そこは狭い。


 しかし、高槻側も兵を置いている。


「明智に任せるか?」


 信長が聞いた。


「まだです」


「なぜだ」


「敵の右翼は、本命ではない」


 宗一郎は目を細めた。


「本命は中央です」


「ならば?」


「中央を押し返す」


 信長が笑った。


「儂にやれということか」


「信長様が決めてください」


 宗一郎は答えた。


「俺は、ここが今一番危険だと判断します」


 信長は即座に決めた。


「柴田を中央へ」


「はい」


「丹羽と合わせろ」


「承知」


 伝令が走る。


 柴田隊が動いた。


 その瞬間。


 戦場の中央に新たな圧力が加わった。


「織田の旗だ!」


「柴田だ!」


「押し返せ!」


 柴田勝家自身が前へ出る。


「退くな!」


 槍を掲げる。


「一歩ずつ進め!」


 高槻兵が押す。


 朝倉側も負けない。


 槍がぶつかる。


 刀が閃く。


 人が倒れる。


 誰かが叫ぶ。


「押せ!」


「押し返せ!」


「南無阿弥陀仏!」


「織田を止めろ!」


 戦場は怒号と銃声で満たされた。


     ◆


 しかし。


 宗一郎は異変に気づいた。


「……おかしい」


 半兵衛を見る。


「何がです?」


「敵の右翼」


 川沿い。


 そこにいた敵が、少しずつ後退している。


「押されている?」


「違う」


 宗一郎は首を振った。


「退いている」


「なぜ?」


「分からない」


 宗一郎は望遠鏡を覗く。


 その先。


 川上。


 小さな山道。


 そこから。


 旗が出てきた。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


「……別働隊」


 半兵衛が息を呑む。


「こちらの後ろへ?」


「いや」


 宗一郎は地図を見る。


「兵站」


 その言葉と同時に伝令が駆け込んできた。


「高槻殿!」


「言え!」


「後方の荷駄隊より急報!」


 宗一郎の顔が変わる。


「襲撃されたか?」


「はい!」


「規模は?」


「分かりません!」


「被害は?」


「薬箱が二つ。火薬一箱。馬三頭を失っています!」


 宗一郎は目を閉じた。


 敵の狙いが分かった。


「……中央の戦は囮だった」


 半兵衛が呟く。


「本当に狙っていたのは」


「兵站」


 宗一郎は地図を見た。


 そして。


「違う」


「え?」


「兵站だけじゃない」


 地図上で、敵の移動経路を繋ぐ。


 昨日。


 橋。


 川下。


 今日。


 中央。


 右翼。


 別働隊。


「俺たちを戦場に縛りつけた」


 宗一郎が言った。


「その間に、別の目的を果たした」


「何でしょう?」


 半兵衛が尋ねる。


 宗一郎は北を見る。


「人だ」


「人?」


「荷を奪うだけなら、火薬と薬を狙う必要はない」


「では」


「誰かを連れ出した」


 その瞬間。


 宗一郎の脳裏に、昨日の地図が浮かんだ。


 寺。


 山道。


 鐘。


 朝倉の旗。


 そして。


 義景。


「朝倉義景が、どこかへ移された」


 半兵衛が息を呑んだ。


「証拠は?」


「まだない」


 宗一郎は戦場を見る。


「だから追わない」


「では?」


「まず、この戦を終わらせる」


 宗一郎は伝令を呼んだ。


「全部隊へ伝えろ」


「はっ!」


「敵を深追いするな」


「しかし――」


「退路を切る必要もない」


 宗一郎は言った。


「ここで敵を壊す」


 そして。


「ただし、追わない」


 伝令が走った。


 宗一郎は信長を見る。


「信長様」


「分かっている」


 信長は戦場を見ていた。


「儂も、ここで終わらせる」


     ◆


 夕刻。


 朝倉・門徒連合軍は、少しずつ後退を始めた。


 織田軍は追わない。


 柴田が最後まで前線を押さえ、丹羽が隊列を整える。


 明智は川沿いの敵を退かせる。


 滝川は騎馬を丘の裏に置いたまま、敵の退路を監視する。


 秀吉は乱れた部隊をまとめ、負傷者を後送する。


 敵は潰走していない。


 旗を保ったまま、山道へ消えていく。


 だが。


 戦場には、数百の死傷者が残った。


 高槻側も無傷ではない。


 倒れた兵を運ぶ。


 折れた槍を拾う。


 火縄銃を確認する。


 濡れた火薬を捨てる。


 弾薬箱を数える。


 戦は終わった。


 しかし。


 宗一郎は勝ったという感覚を持てなかった。


「負けではありません」


 半兵衛が言う。


「分かっています」


「では」


「でも、敵は目的を果たした」


 宗一郎は北の山を見た。


「朝倉義景が生きているなら」


「はい」


「敵は、義景を旗にする」


 半兵衛が頷く。


「朝倉旧臣にとっては、最後の柱」


「門徒にとっても使える」


「そして」


 宗一郎は静かに続けた。


「義景自身も、それを利用するだろう」


 遠く。


 山の向こうから鐘が鳴った。


 ――ゴォン。


 一度。


 宗一郎は振り返った。


 返事はない。


 だが。


 しばらくして。


 別の山から鐘が鳴った。


 ――ゴォン。


 さらに遠く。


 もう一つ。


 ――ゴォン。


 宗一郎は目を細めた。


「逃げたんじゃない」


 半兵衛が聞く。


「何がです?」


「移動したんだ」


「どこへ?」


 宗一郎は北を見た。


「俺たちが、まだ知らない場所へ」


 そして。


「そこが、次の戦場になる」


 その夜。


 高槻の情報網から、別々の場所で同じ報告が届いた。


『朝倉旧臣、北へ』


『門徒、北へ』


『寺より大量の兵糧搬出』


 そして最後の一報。


『朝倉の旗、三本のうち一本、所在不明』


 宗一郎は報告書を置いた。


 三本の旗。


 二本は確認されている。


 一つだけ。


 消えた。


「……義景だ」


 まだ断定はできない。


 だが。


 宗一郎は、初めてその名を戦場の中心に置いた。


 朝倉義景。


 そして。


 一向宗。


 この二つが結びついた瞬間。


 越前の戦は、ただの残党狩りではなくなった。


 それは。


 織田信長と越前の門徒勢力との、本格的な戦いの始まりだった。

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