第六十三章 旗の下に集う者
第六十三章 旗の下に集う者
翌朝。
越前の空は、低い雲に覆われていた。
一乗谷から北へ伸びる街道。
その道を、一団の兵が進んでいる。
先頭に立つのは、朝倉の旗だった。
数は多くない。
二百にも届かない。
だが、その後ろには昨日まで農民だった者、寺から出てきた門徒、朝倉の旧臣、そして戦慣れした武士たちが混じっている。
寄せ集め。
そう呼ぶこともできる。
しかし――。
寄せ集めだから弱いとは限らない。
戦う理由を一つにしてしまえば、人は驚くほど強くなる。
「止まれ!」
先頭の武士が手を上げた。
街道の先。
木立が続いている。
「何かいる」
兵たちが足を止める。
風が吹く。
木の葉が揺れる。
鳥が一斉に飛び立った。
「……何もいない」
「ならば進め」
先頭が再び動き出す。
だが。
その瞬間だった。
乾いた音が響いた。
――パンッ!
一発。
先頭の旗持ちが倒れた。
「敵襲!」
続けて二発。
三発。
木立の中から火縄銃が放たれる。
朝倉側の兵が混乱した。
「どこだ!」
「木の中だ!」
「撃ち返せ!」
しかし、敵の姿が見えない。
さらに一発。
今度は槍を持った男が倒れる。
「前へ出るな!」
指揮役が叫ぶ。
「林へ入るな!」
その判断は正しかった。
林へ入れば、伏兵の数が分からない。
だが、立ち止まれば街道上で狙い撃ちされる。
「右へ回れ!」
「右は崖です!」
「なら左だ!」
兵が左へ動く。
その瞬間。
左手の斜面から矢が降ってきた。
「うわっ!」
「伏兵だ!」
隊列が崩れる。
だが。
完全には崩れなかった。
「盾を前へ!」
朝倉側の武士が叫ぶ。
「旗を守れ!」
倒れた旗持ちから旗を拾い上げ、別の男が立つ。
それを見た兵たちが踏みとどまった。
「朝倉の旗を倒すな!」
「進め!」
今度は逆に、朝倉側が前へ出た。
槍を構え、林へ向かう。
火縄銃の音が続く。
しかし、織田側の兵は深追いしない。
撃っては下がる。
下がっては撃つ。
敵を誘い込んでいる。
「……おかしい」
朝倉側の武士が気づいた。
「これは足止めだ」
その言葉が終わるより早く。
街道の後方から、騎馬の音が響いた。
蹄の音。
土を蹴る音。
そして。
織田の旗。
「後ろにもいるぞ!」
朝倉側に動揺が走った。
前には伏兵。
後ろには織田。
しかし、完全な包囲ではない。
左は山。
右は川。
「川へ抜けろ!」
指揮役が叫んだ。
「川沿いに逃げる!」
兵たちは一斉に右へ向かった。
そこへ。
待っていたように、織田の鉄砲隊が姿を現した。
「撃て!」
轟音。
煙が川面へ流れる。
先頭の兵が倒れた。
後ろの兵が足を止める。
そこへ槍隊が突っ込んだ。
槍と槍がぶつかる。
木製の柄が軋む。
男たちの怒号が重なる。
「押せ!」
「退くな!」
「旗を守れ!」
朝倉側も必死だった。
武士たちは前へ出て、門徒を逃がそうとする。
一人の武士が織田兵の槍を払い、その懐へ入り込む。
刀が閃く。
織田兵が倒れる。
しかし、その横から別の槍が突き出された。
武士は身を捻ってかわす。
肩を浅く裂かれる。
「まだだ!」
男は叫んだ。
「まだ終わっておらぬ!」
その声に、周囲の兵が応じる。
戦は一方的ではなかった。
数では織田が上。
装備も上。
だが。
追い詰められた朝倉側には、失うものがない。
だから強い。
「押し返せ!」
朝倉側が一度、織田の槍列を押し返した。
織田兵が二歩下がる。
そこへ門徒が殺到する。
槍。
刀。
竹槍。
農具を改造したような武器まで混じっている。
「来るぞ!」
織田側の隊長が叫ぶ。
「隊列を崩すな!」
しかし。
その時だった。
川上から、大きな音が響いた。
――ドンッ!
朝倉側も織田側も、一瞬動きを止めた。
煙の向こうから、大筒が姿を現した。
高槻の軍だった。
「……大筒?」
朝倉側の男が呟く。
次の瞬間。
砲弾が川岸へ叩き込まれた。
土と石が跳ね上がる。
人が吹き飛ぶ。
馬が暴れる。
兵たちが一斉に伏せた。
大砲そのものが人を大量に殺したわけではない。
だが。
音と衝撃が、隊列を完全に乱した。
それこそが宗一郎の狙いだった。
「今だ!」
織田兵が一斉に前へ出る。
朝倉側は耐えきれず、後退を始めた。
「退け!」
「山へ!」
「旗を持っていけ!」
朝倉の旗が再び動き始める。
だが、今度は前へではない。
山へ向かっている。
◆
少し離れた高台。
宗一郎は戦場を見ていた。
隣には半兵衛。
そして、数名の高槻軍指揮官。
「深追いするな」
宗一郎が言った。
「はい」
「逃げ道を一つ残せ」
「逃がすのですか?」
若い指揮官が尋ねる。
「逃がす」
宗一郎は即答した。
「今の目的は殲滅じゃない」
宗一郎は逃げていく朝倉兵を見る。
「どこへ戻るかを見る」
「寺へ?」
「そう」
半兵衛が続ける。
「寺へ戻れば、そこが拠点だと分かります」
「違う」
宗一郎は首を振った。
「寺だけを見るんじゃない」
山道の先。
さらにその先。
「誰が彼らを迎えるのかを見る」
半兵衛が黙る。
「朝倉旧臣だけなら、今の戦い方になる」
「一向宗なら?」
「もっと大きな動きがある」
「そして――」
宗一郎は遠くに見える朝倉の旗を見た。
「両方が一緒なら、次は今日の十倍になる」
◆
山中。
敗走する兵たちが息を切らしていた。
「止まるな!」
「寺まで行け!」
「負傷者を置いていくな!」
その中に、朝倉の旗がある。
旗持ちは血まみれだった。
それでも倒れない。
やがて。
山道の先に寺が見えた。
「門徒がいる!」
「助かった!」
兵たちが寺へ駆け込む。
だが。
寺の門前で待っていた僧は、彼らを見るなり顔を曇らせた。
「何人だ?」
「百ほど……」
「二百いたはずだ」
答えられる者はいない。
僧は黙って旗を見る。
「織田は?」
「追ってきている」
「どれほどだ?」
「分からない」
僧の顔が険しくなる。
「……高槻か」
その名を聞いた瞬間。
朝倉側の武士が顔を上げた。
「高槻宗一郎?」
「ああ」
「奴が来たのか」
「正確には違う」
僧は寺の奥を見る。
「奴は来ていない」
「では?」
「来なくても、我らを見ている」
沈黙。
その意味を理解した者は少なかった。
だが、一人だけ。
朝倉旧臣の男が呟いた。
「……あの男は、戦う前から戦をしているのか」
◆
同じ頃。
尾張。
信長のもとへ戦況が届いた。
「朝倉の一隊と交戦」
「規模は?」
「二百弱」
「こちらは?」
「五百ほど」
「損害は?」
「軽微です」
信長は報告書を読む。
「高槻は?」
「戦場には出ておりません」
蘭丸が少し意外そうな顔をする。
「出ていない?」
「はい。高台から指揮を」
信長は笑った。
「それでいい」
「よろしいのですか?」
「宗一郎は、前へ出る必要がない」
信長は地図を見る。
「奴の仕事は、敵を討つことだけではない」
指で越前をなぞる。
「敵がどこへ逃げるか」
さらに寺の位置へ。
「誰がそれを助けるか」
そして山地へ。
「次にどこから出てくるか」
信長の目が鋭くなる。
「そこまで見て初めて、戦に勝ったと言える」
蘭丸は深く頭を下げた。
「では、次は……」
「儂は待つ」
「待つ?」
「宗一郎が、敵の正体を掴むまでな」
信長は一度、目を閉じた。
森可成を失った戦。
宇佐山。
朝倉。
あの時の記憶が蘇る。
「ただし」
目を開く。
「朝倉の旗が、もう一度儂の前に現れたなら」
声が低くなる。
「今度こそ、終わらせる」
◆
その夜。
寺の奥深く。
朝倉の旗を前に、僧たちが集まっていた。
「今日の戦で分かった」
一人が言う。
「高槻は、我らを侮っていない」
「当然だ」
別の男が答える。
「だからこそ、こちらも数を増やす」
「門徒を?」
「門徒だけではない」
地図が広げられた。
越前。
加賀。
若狭。
近江。
「人を集める」
「武器も必要だ」
「兵糧もだ」
そして。
朝倉の旗が、その中央に置かれた。
「この旗を見せれば、朝倉の旧臣は集まる」
別の者が言った。
「門徒には、織田から寺を守る戦だと伝える」
「そして武士には、越前を取り戻す戦だと伝える」
誰かが笑った。
「それぞれに違う理由を与えるわけか」
「人を動かすには、それで十分だ」
その時。
寺の外で鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
だが、今度の鐘は戦の合図ではなかった。
遠くの村から返事のように、別の鐘が鳴る。
さらにその向こう。
また一つ。
また一つ。
越前の夜に、鐘の音が連なっていく。
宗一郎は、その音を聞いていた。
「……半兵衛」
「はい」
「今夜から、越前は変わる」
「はい」
「もう、朝倉の残党を追うだけの戦じゃない」
宗一郎は暗闇の向こうを見た。
「相手は、戦える人間を集め始めた」
そして。
「次は、こちらも本気で備える」
越前の夜。
鐘が鳴り続ける。
朝倉の旗。
一向宗の旗。
その二つが、まだ完全には一つになっていない。
だが。
同じ敵を見ている。
それだけで十分だった。
そして宗一郎は、まだ知らない。
この戦がやがて――
越前だけではなく、加賀、近江、若狭、そして織田の本国まで揺さぶる戦へ変わっていくことを。
戦国の新たな火種は。
すでに、燃え始めていた。




