第六十四章 鐘の音、槍の音
第六十四章 鐘の音、槍の音
夜が明ける前。
越前の山間に、細い霧が降りていた。
川沿いの道を、高槻の荷駄隊が進んでいる。
米。
塩。
矢。
火薬。
鉄砲の弾薬。
そして、負傷兵を運ぶための薬や布。
一乗谷を押さえた高槻軍にとって、これらは戦そのものと同じほど重要だった。
「橋を渡れば、あと半刻ほどです」
荷駄隊を率いる武士が言った。
「その先に本隊があります」
前方には、小さな木橋が見える。
川幅はそれほど広くない。
だが、昨夜の雨で水量が増していた。
橋の両側は低い田地。
その先には杉林。
さらに奥が山になる。
一見すれば、何の変哲もない道だった。
だが――。
「止まれ」
先頭の男が手を上げた。
荷駄が止まる。
「どうしました?」
「鳥がいない」
周囲を見渡す。
霧。
川。
杉林。
静かすぎた。
「……戻るか?」
その言葉が出た瞬間だった。
杉林から鐘の音が響いた。
――ゴォン。
低い音だった。
一度。
二度。
三度。
「敵襲!」
叫び声と同時に、田地の向こうから矢が飛んできた。
「伏せろ!」
矢が荷駄に突き刺さる。
馬が暴れた。
「火を消せ!」
「荷を守れ!」
兵たちが一斉に動く。
だが、敵は姿を見せない。
霧の向こう。
杉林の中。
そして――。
川下。
「来るぞ!」
川岸から武士たちが飛び出した。
朝倉の旗。
その後ろに数多くの門徒。
「朝倉だ!」
「高槻の荷を奪え!」
槍を掲げた男たちが突進してくる。
荷駄隊は百にも満たない。
対して、敵は二百を超えていた。
しかも、この場所は荷駄隊が戦うには悪すぎる。
橋。
狭い道。
両側の田地。
逃げるにも馬車が邪魔になる。
「荷を捨てるな!」
隊長が叫んだ。
「橋を渡らせるな!」
槍隊が橋の手前に集まった。
敵の先頭が橋へ入る。
「押し返せ!」
槍と槍がぶつかった。
橋の上では横に広がれない。
前の一人が倒れれば、その後ろが詰まる。
朝倉側は数で押し込もうとする。
だが、高槻側は橋の幅そのものを壁として使った。
「一人ずつでいい!」
「前を倒せ!」
「左右を見るな!」
鉄砲が火を噴いた。
――パンッ!
橋の上の男が倒れる。
後ろから別の男が踏み越えてくる。
――パンッ!
二人目。
それでも止まらない。
「進め!」
「仏敵を恐れるな!」
門徒たちの声が重なった。
槍が高槻兵の肩をかすめる。
別の槍が胸当てを叩く。
鉄砲だけでは止められない。
「槍隊、前へ!」
高槻側の兵が押し返す。
橋の中央で、両軍の槍が絡み合った。
兵が一人、川へ落ちる。
水飛沫が上がる。
別の兵が足を滑らせる。
そこへ槍が迫る。
「危ない!」
横から仲間が槍を払い落とした。
「立て!」
「まだ戦える!」
泥と水と血が混じる。
橋の上は、数歩進むだけで命を奪い合う場所になった。
◆
その頃。
高台。
宗一郎は戦場を見下ろしていた。
隣には半兵衛。
「敵は橋を狙っています」
「違う」
宗一郎は首を振った。
「荷を狙っている」
「同じでは?」
「違う」
宗一郎は田地を見る。
敵兵の配置。
杉林。
川。
橋。
「橋を奪うのが目的なら、もっと兵を前へ出す」
半兵衛が目を細めた。
「荷駄を分断するため?」
「そうだ」
宗一郎は指を動かした。
「橋を押さえて、荷駄をこちら側に残す。そして川下から回り込む」
「……つまり」
「本命は橋じゃない」
宗一郎の視線が川下へ向く。
「荷駄そのものだ」
その瞬間。
川下から、別の一団が姿を現した。
「来ましたな」
半兵衛が呟いた。
「やっぱりだ」
敵は二手に分かれていた。
正面から橋を攻める部隊。
そして川下から荷駄の後方を狙う部隊。
もし最初の攻撃だけを見て橋へ兵を集めていれば、荷は奪われていた。
「伝令」
「はっ!」
「第二隊を川下へ」
「何人ほど?」
「五十」
半兵衛が尋ねる。
「少なくありませんか?」
「十分だ」
宗一郎は川を見た。
「川下は泥が深い。あそこでは数が多い方が不利になる」
「なるほど」
「それより橋を守る兵を減らすな」
「承知しました」
伝令が走る。
宗一郎はさらに命じた。
「大筒は?」
「後方です」
「一門だけ持ってこい」
「ここへ?」
「橋ではない」
宗一郎は杉林を指した。
「敵が集まっているところへ」
◆
川下。
朝倉・門徒の一隊が泥地を進んでいた。
「荷駄はすぐそこだ!」
「逃がすな!」
彼らには勝算があった。
橋に敵が集中している。
こちらは無傷。
このまま回り込めば、高槻の荷は奪える。
ところが。
泥地の向こうから槍が並んだ。
「敵!」
高槻兵五十。
数は少ない。
だが、横一列には並んでいない。
前後に分かれている。
最前列が槍を構える。
後ろに鉄砲。
「撃て!」
火縄銃が鳴る。
朝倉側の先頭が崩れた。
「怯むな!」
門徒が槍を構えて突っ込む。
高槻兵も前へ出る。
泥の中では、騎馬は使えない。
刀も振りにくい。
だから槍が強い。
槍の穂先が泥を跳ね上げながら交差する。
一人が倒れる。
別の男がその横を抜けようとする。
「行かせるな!」
高槻兵が槍の柄で肩を打つ。
男が倒れた。
そこへ別の門徒が斬り込む。
高槻兵が受け止める。
刀と刀がぶつかる。
「退け!」
「退かん!」
両者が泥の中で組み合う。
その時だった。
――ドンッ!
杉林から大筒の轟音が響いた。
砲弾は川下の部隊を直接狙ったものではない。
その少し後方。
杉林の手前へ着弾した。
土が吹き上がる。
木の枝が折れる。
朝倉側の兵たちが反射的に振り返った。
「何だ!」
「後ろからも攻められるぞ!」
混乱が生まれる。
それだけで十分だった。
「押せ!」
高槻兵が一斉に前へ出る。
朝倉側が後退する。
泥に足を取られ、何人も転ぶ。
高槻兵は追いすぎない。
一定のところで止まる。
敵を殲滅するためではない。
荷を守るためだ。
◆
橋の上でも、戦況が変わった。
川下の部隊が押し返されたことで、朝倉側の勢いが落ちた。
それを見逃さなかったのは、橋を守っていた高槻隊だった。
「押し返せ!」
槍隊が一歩前へ出る。
二歩。
三歩。
橋の上の朝倉兵が後退する。
「退くな!」
朝倉側の武士が叫ぶ。
「ここを取れば荷が――」
そこへ高槻の槍が突き込まれた。
武士は刀で受けた。
だが、横から別の槍。
避けきれない。
肩を貫かれた。
「ぐっ……!」
それでも倒れない。
槍を掴む。
「……これしき!」
男は槍を引き寄せ、相手を橋の欄干へ叩きつけた。
高槻兵が倒れる。
男は息を荒くする。
だが。
その背後には、すでに次の槍があった。
――ズッ。
男の動きが止まる。
ゆっくりと膝をついた。
朝倉の旗が、一歩後ろへ下がった。
そして。
「退け!」
誰かが叫んだ。
今度は命令ではない。
恐怖から出た声だった。
朝倉側の兵が一斉に橋を離れる。
高槻兵は追わない。
橋を確保したところで止まった。
◆
夕刻。
戦場の整理が始まった。
敵は逃げた。
だが、荷駄は守られた。
米も。
火薬も。
鉄砲も。
薬も。
ほとんど失っていない。
宗一郎は橋の上に立っていた。
川面が赤く染まっている。
「勝ちましたな」
半兵衛が言った。
「戦術的には」
宗一郎は答えた。
「だが、向こうも目的の一部は達成している」
「兵站を狙うことを確認した?」
「そう」
宗一郎は倒れた朝倉兵を見る。
その懐から、紙片が出てきた。
半兵衛が拾う。
「何か書いてあります」
宗一郎が受け取った。
短い。
粗末な文字だった。
――鐘、三つ。
――橋、攻める。
――荷、奪う。
宗一郎はしばらく見つめた。
「……鐘」
「寺からの合図ですな」
「たぶん」
「ならば、次は」
「もっと大きな鐘が鳴る」
宗一郎は越前の山々を見た。
今日の戦は小さい。
だが。
敵は高槻軍の弱点を見つけようとしている。
兵站。
情報。
街道。
そして、寺と寺を繋ぐ鐘。
「半兵衛さん」
「はい」
「明日から、街道を守るだけじゃ足りない」
「では?」
「鐘を止める」
半兵衛の顔が険しくなる。
「寺を攻めるのですか?」
「まだだ」
宗一郎は首を振った。
「鐘を鳴らしている寺が、どこへ情報を送っているのかを見る」
そして。
「それが分かった時に、一気に動く」
遠くで、また鐘が鳴った。
――ゴォン。
一度。
宗一郎はその音を聞いた。
今度は数えた。
――二度。
――三度。
そして。
山の向こうから、別の鐘が返ってくる。
宗一郎の目が細くなった。
「……始まった」
「何が?」
「越前全体が、繋がり始めた」
橋の上に立つ宗一郎の背後で、兵たちが負傷者を運んでいく。
勝った。
だが、戦場は広がった。
朝倉の旗だけではない。
一向宗の鐘が、人と情報を動かしている。
そしてその先には――。
まだ姿を見せていない、より大きな門徒勢力がいる。
宗一郎は山の向こうを見た。
「次は、向こうから来る」
その予感は。
翌朝、現実となる。
越前北部から届いた報告。
その一行を見た瞬間、宗一郎は立ち上がった。
『門徒、集結』
続く二行目。
『朝倉旧臣、多数合流』
そして最後の一行。
『朝倉の旗、三本』
宗一郎は報告書を握りしめた。
小さな戦は終わった。
だが――。
本当の戦いが、始まろうとしていた。




