第六十一章 虎の帰還
第六十一章 虎の帰還
武田軍は、東へ向かっていた。
敗走という言葉が、兵たちの胸に重く沈んでいる。
誰も口にはしない。
だが、誰も忘れてはいなかった。
戦場に残してきた者たちのことを。
原昌胤。
そして、多くの兵。
さらに土屋昌続も深い傷を負った。
それでも武田の列は崩れていない。
高坂昌信が先頭で道を選び、山県昌景が側面を固め、馬場信春が後方を見ている。
内藤昌豊は中央の兵をまとめていた。
敗軍とは思えぬほど、整然としていた。
だが――。
その整然さこそが、武田という軍の恐ろしさだった。
◆
「止まれ!」
先頭から声が飛んだ。
兵が足を止める。
高坂昌信が馬を降り、道の先を見る。
細い山道。
その先には橋がある。
「橋を調べろ」
兵が数人走っていく。
しばらくして戻ってきた。
「異常ありません!」
「よし」
高坂は頷いた。
その時だった。
「高坂殿」
後ろから声がした。
山県昌景だった。
「どうした?」
「追撃は?」
「ない」
「本当に?」
「今のところはな」
山県は振り返った。
遠くの山々。
その向こうには織田軍がいる。
「高槻宗一郎」
山県が呟いた。
「奴は、我らを追わぬのか」
「追う必要がない、と考えているのだろう」
「……勝ったからか」
「それだけではない」
高坂が答えた。
「我らを追えば、織田も兵を消耗する」
「ならば、なぜ?」
「我らを甲斐へ返すことで、次の動きを見ようとしている」
山県は黙った。
やがて、小さく笑う。
「嫌な男だ」
「同感だ」
二人は同時に武田軍を見る。
旗はまだ立っている。
兵も残っている。
武田は滅びていない。
だが。
織田も、それを分かっている。
だからこそ。
追わない。
追わずに、武田の帰る先を見る。
「……次の戦を考えているな」
山県が言った。
「間違いない」
高坂は答えた。
◆
隊列の中央。
勝頼は父の隣を進んでいた。
しばらく何も話さなかった。
やがて。
「父上」
「何だ」
「土屋の容体が思わしくありません」
「そうか」
「医師は、甲斐まで運ぶのは危険だと」
信玄はしばらく黙っていた。
「ならば途中で休ませろ」
「ですが」
「土屋を死なせるために連れて帰るのではない」
声は静かだった。
「生きて帰すために運ぶのだ」
「……はい」
勝頼は頭を下げた。
その横顔を、信玄は見た。
以前よりも。
息子の顔つきが変わっている。
戦場で敗れた。
家臣を失った。
自分自身も病に苦しんでいる。
その現実を、勝頼は初めて真正面から見ていた。
「勝頼」
「はい」
「今日の戦で、何を見た」
突然の問いだった。
勝頼は答えを探した。
「織田の強さです」
「それだけか」
「……高槻宗一郎の強さです」
「違う」
信玄は前を見たまま言った。
「もっと広く見ろ」
「もっと?」
「敵の兵器を見るな」
勝頼は黙って聞く。
「敵の兵を見るな」
信玄は続けた。
「敵が、なぜ勝ったのかを見ろ」
「……」
「我らは兵が弱かったわけではない」
信玄の声は淡々としていた。
「山県も、馬場も、内藤も、高坂も戦った」
「はい」
「それでも崩された」
「……はい」
「なぜだ」
勝頼は考えた。
答えはすぐには出なかった。
「鉄砲……」
「違う」
「大筒……」
「それだけでもない」
「では……」
信玄が初めて勝頼を見る。
「敵は、戦場全体を見ていた」
勝頼は息を呑んだ。
「一隊が押されれば別の隊が支える。前が進めば後ろが補う。兵糧が動き、弾薬が動き、負傷者まで後方へ流れていく」
信玄は言った。
「高槻は、兵を一人の武者として見ていない」
「……軍そのものを?」
「そうだ」
信玄の目が細くなる。
「一つの生き物として見ている」
勝頼は黙った。
「ならば」
信玄は続けた。
「我らも変わらねばならぬ」
◆
その言葉の直後。
信玄の身体が揺れた。
「父上?」
「……」
信玄は返事をしない。
馬の手綱を握る手に力が入る。
胸の奥が焼けるように痛んだ。
呼吸が浅くなる。
だが。
兵が見ている。
信玄は顔を上げた。
「止まるな」
「しかし!」
「進め」
勝頼は父の顔を見た。
青白い。
明らかにおかしい。
だが、信玄はそれ以上何も言わなかった。
しばらくして。
人目が少なくなったところで、信玄が咳き込んだ。
「父上!」
勝頼が馬を寄せる。
「来るな」
「ですが!」
「……少し休めばよい」
信玄は袖で口元を拭った。
そこには、また赤い跡があった。
勝頼の顔から血の気が引く。
「医師を呼びます」
「必要ない」
「必要です!」
思わず声が強くなった。
信玄が勝頼を見る。
親子の目がぶつかる。
やがて。
「……呼べ」
信玄が折れた。
勝頼は驚いた。
父が、自分の言葉を受け入れた。
それだけのことが。
今は妙に重かった。
◆
夜。
武田軍は小さな山間の寺を借りて休息した。
信玄は奥の一室に入った。
医師が診察する。
脈を取り。
胸の音を聞き。
顔色を見る。
「御屋形様」
「何だ」
「無理をなされております」
「戦をしていたのだ」
「それだけではありません」
医師は言葉を選んだ。
「以前より、お身体が弱っております」
信玄は黙っていた。
「しばらく静養を」
「できぬ」
「しかし」
「できぬと言っている」
医師は頭を下げた。
「……承知しました」
医師が出ていく。
入れ替わるように勝頼が入ってきた。
「父上」
「聞いていたか」
「はい」
「ならば何も言うな」
「言います」
勝頼は父の前に座った。
「父上は、戦を続けられる身体ではない」
信玄は目を細めた。
「誰にそんなことを言われた」
「自分で見ました」
「そうか」
「今日だけではありません」
勝頼の声が震える。
「以前から、父上は苦しんでいた」
「……」
「それでも何も言わなかった」
「言えば兵が不安になる」
「だから、私にも?」
「お前にもだ」
しばらく沈黙が続いた。
やがて信玄が言う。
「勝頼」
「はい」
「武田を守れ」
勝頼は顔を上げた。
「私はまだ死なん」
「……はい」
「だが、人はいつか死ぬ」
信玄の言葉は静かだった。
「それは儂も同じだ」
「父上……」
「だから今のうちに見ておけ」
信玄は勝頼を見つめた。
「武田家を守るというのは、戦に勝つことだけではない」
「……」
「兵を食わせること」
「はい」
「国を荒らさぬこと」
「はい」
「家臣をまとめること」
「はい」
「そして」
少し間を置く。
「負けた時に、立ち上がることだ」
勝頼は深く頭を下げた。
「覚えておきます」
◆
同じ頃。
織田軍陣地。
高槻宗一郎は、武田軍が遠ざかっていく方向を地図で追っていた。
「追撃は?」
柴田勝家が尋ねる。
「しません」
「逃がすのか」
「逃げている敵を追うより、次に何をするかを見る方が重要です」
勝家は腕を組む。
「武田が戻ってくれば、また戦になるぞ」
「ええ」
「ならば今のうちに叩けばいい」
「柴田殿」
宗一郎は顔を上げた。
「武田をここで潰せるなら、俺もそうします」
「……」
「でも、今は無理です」
宗一郎は地図を指した。
「敵はまだまとまっている。山県、馬場、内藤、高坂が生きている」
「厄介な連中だ」
「だからこそ、追わない」
勝家はしばらく宗一郎を見る。
「次に来る時には、もっと厄介になるかもしれんぞ」
「その前に、こちらも準備します」
宗一郎は別の紙を取り出した。
そこには高槻研究所から届いた報告が並んでいた。
鋼材。
大筒。
火薬。
砲身。
弾丸。
新しい製造法。
「武田との戦で、実戦投入できるところまで来た」
勝家が紙を見る。
「また何か作ったのか」
「まだ試作品です」
「それで武田と戦ったのか」
「だからこそ、次はもっと確実にする」
宗一郎は報告書を閉じた。
「戦は、戦場に着いてから始めるものじゃない」
その言葉を聞いて。
勝家は小さく笑った。
「貴様は、本当に戦そのものを変えるつもりだな」
「変えたいんじゃない」
宗一郎は答えた。
「終わらせたいんです」
勝家は黙った。
その言葉が本心であることは、分かっていた。
だが。
戦を終わらせようとすればするほど。
より強い力が必要になる。
それが、この時代の皮肉だった。
◆
その夜。
半兵衛が入ってきた。
「宗一郎様」
「何か?」
「越前からです」
一枚の報告書。
宗一郎が受け取る。
「朝倉の旧臣が、寺へ集まり始めています」
「一向宗の寺か」
「はい」
「人数は?」
「まだ少ない」
「武器は?」
「槍、弓、鉄砲」
宗一郎の表情が変わった。
「そして」
半兵衛が続ける。
「朝倉の旗が、寺の中に持ち込まれたとのことです」
宗一郎はしばらく黙った。
東では武田が敗れた。
だが。
越前では別の火種が膨らんでいる。
「……武田が帰った」
宗一郎が呟く。
「はい」
「だから、次は越前か」
「その可能性があります」
宗一郎は地図を見た。
東。
武田。
北。
越前。
そして中央。
織田。
戦国の盤面は、また動き始めている。
「半兵衛」
「はい」
「越前の情報を増やす」
「甲賀を?」
「必要なところだけ」
「承知しました」
「ただし」
宗一郎は報告書を見る。
「まだ寺を敵とは決めない」
「……朝倉の旗があるのに?」
「旗だけでは戦とは言えない」
宗一郎は筆を取った。
「だが、次に武器が動き、人が動き、兵糧が動けば話は変わる」
紙の上に三つの言葉を書く。
武器。
兵。
兵糧。
「この三つが揃ったら」
宗一郎は顔を上げた。
「戦だ」
東では。
武田信玄が病を抱えながら甲斐へ戻ろうとしている。
西では。
織田がその次の動きを待っている。
そして北では。
滅びたはずの朝倉の旗が。
寺の中で、再び風を受けようとしていた。
戦は終わらない。
ただ。
戦う場所が変わるだけだった。




