第六十章 敗走の軍旗
第六十章 敗走の軍旗
夕暮れが近づいていた。
山間を抜ける風が、戦場に残った煙をゆっくりと押し流している。
その風に乗って、鉄と血と土の匂いが混じっていた。
武田軍は、退いていた。
敗走。
そう呼ぶしかない。
だが――。
無秩序な潰走ではなかった。
武田の兵たちは、疲れ切った身体を引きずりながらも、旗を捨ててはいなかった。
槍を失った者は刀を握り。
馬を失った騎馬武者は徒歩となり。
負傷した者は、仲間に肩を貸されながら進んでいる。
誰もが泥にまみれていた。
誰もが疲弊していた。
それでも。
武田の軍旗だけは、倒れなかった。
「前を開けろ!」
高坂昌信の声が飛ぶ。
「負傷兵を中央へ! 騎馬は左右を固めろ!」
兵たちが動く。
乱れた列を組み直す。
後方では、土屋昌続の隊が何度も振り返っていた。
「織田は追ってこないのか?」
若い武者が尋ねる。
「今はな」
土屋は答えた。
「だが、油断するな」
その言葉通り。
遠くには織田軍の旗が見えていた。
しかし、追撃してくる様子はない。
それがかえって不気味だった。
「……追わぬ?」
土屋が呟く。
普通ならば。
敗走する敵を追う。
それが戦だった。
だが織田軍は、一定の距離を保ったまま武田軍を見ている。
まるで。
逃げる武田軍そのものではなく。
その後ろに何かがあるかのように。
「高槻宗一郎……」
土屋はその名を口にした。
その頃。
武田本陣。
「御屋形様!」
馬を駆けさせてきた兵が、馬上から飛び降りた。
「申し上げます!」
「言え」
答えたのは勝頼だった。
父・信玄の前に立ち、伝令を受ける。
「織田軍、追撃の動きは今のところありません」
「徳川は?」
「こちらも大きく動いておりません」
「……そうか」
勝頼は地図を見る。
武田軍は、戦場から離れつつある。
山県昌景。
馬場信春。
内藤昌豊。
高坂昌信。
それぞれが隊をまとめている。
軍そのものは崩壊していない。
だが。
失ったものは大きかった。
兵。
馬。
武器。
そして。
名のある武将たち。
勝頼は拳を握った。
「……父上」
返事がない。
「父上?」
もう一度呼ぶ。
信玄は馬上で黙っていた。
兜の陰から、その顔は見えない。
「御屋形様!」
今度は近くにいた武者が叫んだ。
信玄の身体が、わずかに揺れていた。
「父上!」
勝頼が馬を寄せる。
「大丈夫だ」
信玄が答えた。
声は低かった。
だが。
いつもの力がない。
「まだ戦は終わっておりませぬ」
「分かっている」
「ならば――」
「勝頼」
信玄が遮った。
「今は兵を救え」
勝頼は口を閉じた。
「武田が敗れたことは、誰もが知っている」
信玄は前方を見る。
「だが、武田軍そのものが死んだわけではない」
「……はい」
「ならば、兵を甲斐へ帰せ」
「御屋形様は?」
「儂も帰る」
その言葉の直後。
信玄が咳き込んだ。
「父上!」
勝頼が馬を寄せる。
信玄は片手を上げた。
「触るな」
「しかし!」
「大事ない」
そう言った信玄の口元に。
赤いものが滲んだ。
ほんの僅かだった。
だが。
勝頼には見えた。
「……血?」
「何でもない」
「父上!」
「勝頼」
信玄が振り返った。
「戦場で騒ぐな」
その目には、いつもの鋭さが戻っていた。
「兵に見せるな」
勝頼は唇を噛んだ。
「……承知しました」
「それでよい」
信玄は前を向いた。
だが。
その手は、わずかに震えていた。
◆
しばらくして。
武田軍の中央を内藤昌豊が通りかかった。
「御屋形様」
「内藤か」
「兵の整理は進んでおります」
「損害は?」
「まだ正確には出ておりませぬ」
内藤は一瞬だけ言葉を選んだ。
「ただし、想定以上です」
「そうか」
「原昌胤を失いました」
信玄の目が伏せられる。
「土屋も負傷しております」
「……そうか」
「山県殿は、なお健在」
「馬場は?」
「隊をまとめております」
「高坂は?」
「退路を確保しております」
信玄は頷いた。
「ならば、まだ戦える」
内藤は黙った。
それが強がりなのか。
本心なのか。
判断できなかった。
「御屋形様」
「何だ」
「追撃がありません」
「分かっている」
「妙ではありませんか」
信玄はしばらく考えた。
「高槻だ」
「……高槻?」
「奴は、勝てる時ほど追わぬ」
信玄の目が細くなる。
「追撃して兵を失うより、勝った状態を維持することを選ぶ」
「では、我らを逃がすつもりだと?」
「違う」
信玄は答えた。
「逃がしているのではない」
「……」
「見ているのだ」
内藤の表情が変わった。
「我らが、どこへ行くのかを」
「はい」
「どこへ兵を集めるのか」
「はい」
「そして、次に何をするのか」
信玄は静かに言った。
「奴は戦場の外まで戦場にする」
内藤はそれ以上何も言わなかった。
◆
夜。
武田軍は山間の一角に仮陣を敷いた。
焚き火は少ない。
敵に位置を知られぬためだ。
負傷者の呻き声。
馬の嘶き。
鎧の擦れる音。
敗軍の夜だった。
勝頼は天幕の外に立っていた。
そこへ山県昌景が歩いてくる。
「若殿」
「山県殿」
「御屋形様は?」
「中です」
勝頼は答えた。
「少し休まれています」
山県はしばらく天幕を見た。
「……お疲れなのだろう」
「はい」
「今日の戦だけではない」
勝頼が振り返る。
「どういう意味です?」
「御屋形様は、以前から身体を悪くされている」
勝頼は黙った。
「知っていたのか」
「武田家中で、知らぬ者の方が少ない」
「父上は隠している」
「だから我らも口にせぬ」
山県は静かに言った。
「だが、今日の戦で悪化した可能性はある」
勝頼の顔が強張る。
「……父上は死なぬ」
「誰も死ぬと言っておらぬ」
「しかし」
「若殿」
山県は勝頼を見る。
「武田家は、御屋形様一人のものではない」
勝頼は何も言わなかった。
「だからこそ」
山県が続ける。
「今日の敗北を、御屋形様だけの敗北にしてはならぬ」
勝頼は拳を握った。
「……分かっている」
「ならば」
山県は一礼した。
「今夜は兵を休ませましょう」
山県が去る。
勝頼は天幕を見つめた。
中には父がいる。
武田信玄。
甲斐の虎。
幾度もの戦を勝ち抜いてきた男。
その男が。
今。
病と戦っている。
勝頼は初めて。
父親を「戦国最強の武将」ではなく。
一人の病人として見た気がした。
◆
天幕の中。
信玄は一人だった。
誰もいないことを確認すると。
ゆっくりと胸元を押さえる。
「……っ」
痛み。
鋭い痛みが胸を走った。
信玄は目を閉じた。
息を整える。
だが。
咳が出た。
一度。
二度。
そして。
手のひらに赤いものが落ちた。
信玄はそれを見つめる。
しばらく何も言わなかった。
「……まだだ」
小さく呟く。
「まだ、終われぬ」
甲斐へ戻らねばならない。
軍を立て直さねばならない。
徳川をどうするか。
織田をどうするか。
高槻宗一郎をどうするか。
考えなければならない。
だが。
その瞬間。
信玄の脳裏に、戦場の光景が浮かんだ。
高槻の軍。
織田の武将たち。
柴田。
羽柴。
明智。
丹羽。
滝川。
そして。
後方に控えていた織田信長。
「……織田信長」
信玄は呟いた。
「そして、高槻宗一郎」
今日の敗北は。
兵力だけの問題ではない。
武田が今まで戦ってきた相手とは、何かが違う。
兵器。
情報。
補給。
部隊運用。
そして。
戦場そのものを一つの仕組みとして見る男。
「厄介な男よ」
信玄は笑った。
だが、その笑みはすぐに消えた。
また胸が痛んだ。
信玄は目を閉じた。
「……帰るぞ」
誰に言うでもなく。
「甲斐へ」
◆
翌朝。
武田軍は再び動き始めた。
先頭には高坂昌信。
左右に山県昌景と馬場信春。
中央には内藤昌豊。
後方を穴山信君らが固める。
その中央。
武田の旗が揺れていた。
信玄は馬上にいた。
勝頼がその横に並ぶ。
「父上」
「何だ」
「次は、どうされますか」
信玄はしばらく答えなかった。
「まず甲斐へ戻る」
「はい」
「その後だ」
信玄は東を見た。
「徳川をどうするか決める」
勝頼は頷く。
「織田ではなく?」
「織田は強い」
信玄は言った。
「だが、織田を直接攻める必要はない」
「では?」
「徳川を動かす」
勝頼の目が細くなる。
「徳川を?」
「徳川を圧迫すれば、織田は動かざるを得なくなる」
信玄は淡々と続ける。
「敵の強いところを殴る必要はない」
「弱いところを?」
「違う」
信玄は答えた。
「敵が守らざるを得ないところを攻める」
勝頼は、その言葉を胸に刻んだ。
だが。
父が最後まで戦場に立ち続けられるのか。
その不安だけは消えなかった。
武田軍は進む。
敗軍の旗を掲げながら。
それでも。
武田はまだ死んでいない。
そのことを織田も知っている。
宗一郎も知っている。
そして。
信玄自身が、誰よりも理解していた。
ただし。
誰もまだ知らない。
この敗北が。
武田信玄という男の身体に残された時間を。
確実に削っていたことを。
甲斐へ向かう山道の先。
武田の旗は、朝霧の中へ消えていった。




