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第五十九章 見えない戦場

第五十九章 見えない戦場


 夜が明けた。


 昨日まで兵たちの怒号が響いていた野原には、低い朝靄が漂っている。


 風が吹く。


 草が揺れる。


 だが、それ以外の音は少なかった。


 戦場の朝は、いつも静かだった。


 高槻宗一郎は、その静けさの中を歩いていた。


「こちらです」


 案内する兵の声も低い。


 宗一郎は返事をせず、足元を見た。


 折れた槍。


 泥に埋まった鉄砲。


 焼け焦げた火縄。


 砕けた車輪。


 そして、昨夜のうちに運び出された遺体。


 織田。


 徳川。


 武田。


 敵味方を分けて並べられている。


 だが、死者の顔を見れば、その違いは分からない。


「この者は?」


「織田家中、丹羽隊の足軽です」


「名は?」


「三郎兵衛」


「家族は?」


「まだ分かりません」


「調べてくれ」


「はっ」


 兵が頭を下げた。


 宗一郎は、その場を離れる。


 少し先では、負傷した兵が横たえられていた。


「こちらは生きています!」


 医師が叫ぶ。


 宗一郎が近づく。


 そこにいたのは、武田兵だった。


 腹部に深い傷。


 顔は青ざめ、息も荒い。


「医者を増やせ」


「しかし、武田の兵です」


 若い兵が戸惑った。


 宗一郎はその兵を見る。


「だから?」


「……」


「生きているなら治す」


「ですが――」


「敵だから死なせるのか?」


 兵が言葉を失う。


 宗一郎は負傷兵へ視線を戻した。


「捕虜として扱う。治療が済めば監視をつけろ」


「はっ!」


 兵たちが動き始める。


 宗一郎はその背中を見送った。


 戦に勝つことだけを軍の目的にしたくはなかった。


 戦えば、人が死ぬ。


 それは避けられない。


 だからこそ。


 生き残った者をどう扱うかまで含めて、軍を作らなければならない。


「戦の後までが、戦だな……」


 宗一郎は小さく呟いた。


     ◆


「宗一郎殿」


 呼ばれて振り返る。


 丹羽長秀が立っていた。


 手には帳面。


「第一報がまとまりました」


「見せてください」


 帳面を受け取る。


 戦死。


 負傷。


 行方不明。


 馬の損失。


 鉄砲の破損。


 火薬の消費。


 大筒の使用回数。


 宗一郎は一つ一つ目を通していく。


「……大筒は?」


「二門とも無事です」


「鋼製砲身の方は?」


「こちらも破損はなあ」


「なら良かった」


 長秀が少し考えてから言った。


「ただし、問題がある」


「何です?」


「重量だ」


 宗一郎は顔を上げた。


「やはり?」


「運ぶには重い。陣地を移すたびに時間がかかる」


「射撃そのものは?」


「威力は十分だか」


 長秀は少し間を置いた。


「むしろ十分すぎるほどだ」


 宗一郎は苦笑した。


「なら、次は軽量化ですね」


「すぐに出来るのか?」


「研究所にやらせます」


 宗一郎は帳面を閉じた。


「今回の戦で分かったことは、全部研究所に戻してください」


「全部?」


「失敗も含めて」


 長秀が頷く。


「承知」


 宗一郎は戦場の向こうを見る。


 昨日。


 武田の騎馬隊が迫った。


 そこで大筒が火を噴いた。


 轟音。


 土煙。


 騎馬の列が乱れた。


 従来の火縄銃とは違う。


 その一撃は、敵の隊列そのものを揺らした。


 だが。


 撃てば勝てるわけではない。


 大筒を運ぶ。


 設置する。


 照準を合わせる。


 火薬を用意する。


 撃った後に再装填する。


 その間、敵は待ってくれない。


「兵器は、強ければいいわけじゃない」


 宗一郎が呟く。


「使いやすくて、運べて、壊れなくて、補給できる」


 それら全部が揃って初めて兵器になる。


 高槻研究所に求めているのは、そこだった。


 今回の武田戦は、その現実をはっきりと示した。


     ◆


「宗一郎様」


 今度は竹中半兵衛だった。


「武田の撤退について、報告があります」


「聞かせてください」


 半兵衛が紙を広げる。


「山県昌景の隊は北へ」


「うん」


「馬場信春は西寄りの部隊をまとめてから撤退」


「内藤昌豊は?」


「中央の混乱を抑えながら後退」


「高坂昌信は?」


「後方の整理です」


 宗一郎は頷いた。


 武田は敗れた。


 だが。


 壊れてはいない。


 山県も。


 馬場も。


 内藤も。


 高坂も生きている。


 そして何より。


「信玄は?」


 宗一郎が尋ねた。


 半兵衛が一瞬だけ黙る。


「……詳しい情報は、まだ」


「本陣の様子も?」


「混乱したという報告はあります」


「それだけ?」


「はい」


 宗一郎は黙った。


 昨日の戦場。


 一瞬だけ見えた武田本陣。


 騒ぎ。


 動きの遅れ。


 そして――。


 信玄が胸を押さえたように見えた。


 だが、それを病状と断定するには情報が足りない。


「信玄が負傷したという話は?」


「ありません」


「なら、まだ判断しない」


「はい」


 宗一郎は頷いた。


「事実と推測を分ける」


「いつもの原則ですな」


「そう」


 宗一郎は紙の端に筆を走らせる。


 ――武田軍、敗退。


 ――山県昌景、生存。


 ――馬場信春、生存。


 ――内藤昌豊、生存。


 ――高坂昌信、生存。


 ――信玄の安否、未確認。


 筆が止まる。


 最後に。


 ――病状、不明。


 と記した。


     ◆


 その頃。


 織田本陣。


 信長は遠くの戦場を眺めていた。


 戦は終わりつつある。


 だが、信長は勝鬨を上げさせなかった。


 まだ終わっていない。


 武田の本隊は逃げた。


 しかし。


 武田そのものが消えたわけではない。


 傍らには森蘭丸が控えている。


 まだ若い。


 それでも、信長の側で戦場を見続けていた。


「殿」


「何だ」


「高槻殿が、追撃を控えています」


「知っている」


「武田を追えば、さらに討てるのでは?」


 信長はしばらく黙っていた。


「追えばな」


 そして戦場を指す。


「だが、武田には山県がいる」


 蘭丸が黙る。


「馬場もいる」


 さらに。


「内藤も、高坂もいる」


「……はい」


「敗軍になった武田ほど怖いものはない」


 信長は言った。


「逃げるために、命を捨てる覚悟を持つからだ」


 そして。


「宗一郎は、それを分かっている」


 信長の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。


「だから追わぬ」


「殿は、どうお考えですか?」


「儂なら?」


 信長は戦場を見る。


「儂も追わぬ」


 蘭丸が意外そうな顔をした。


「武田を倒すことと、武田を滅ぼすことは違う」


「では、今は?」


「勝った」


 信長は短く答えた。


「それで十分だ」


     ◆


 信長はふと、別のことを思い出した。


「恒興には伝わっているか」


「はい」


 蘭丸が答える。


「尾張と美濃の守りを固めるよう、すでに」


「そうか」


 池田恒興。


 信長が戦場へ出ている間。


 尾張、美濃。


 そして織田家の内側を守る者。


 信長にとって、それもまた戦だった。


 前線で敵を倒す者だけが重要なのではない。


 留守を守る者。


 兵糧を守る者。


 道を守る者。


 情報を守る者。


 それらすべてが戦を支えている。


「戦は、戦場だけで起きるものではない」


 信長が呟く。


 蘭丸はその言葉を聞き逃さなかった。


     ◆


 夕刻。


 高槻陣。


 新たな報告が届いた。


「殿」


「何だ?」


「武田の撤退路についてです」


 半兵衛が紙を差し出した。


「三つの村から、別々に情報が入っています」


「内容は?」


「武田の移動方向です」


 宗一郎が読む。


 一つ目。


 山県隊は北へ。


 二つ目。


 馬場隊は西へ。


 三つ目。


 高坂隊は東寄り。


 宗一郎は眉を寄せる。


「情報が早すぎる」


「私もそう思います」


「甲賀か?」


「一部は」


 半兵衛が答える。


「しかし、全てではありません」


「なぜ?」


「報告の仕方が違う」


 宗一郎は紙を見る。


「つまり」


「我らとは別に、武田の動きを追っている者がいる」


 宗一郎は黙った。


 戦場で武田と戦っていた時には気づかなかった。


 だが。


 戦が終わった今。


 別の戦場が見え始めている。


「誰だ?」


「まだ分かりません」


「敵か?」


「それも」


 半兵衛が答える。


「まだ分かりません」


 宗一郎は頷いた。


「それでいい」


「よいのですか?」


「分からないものを、分かったことにするよりはいい」


 宗一郎は紙を三つに分けた。


「確認済み」


 右。


「推測」


 中央。


「未確認」


 左。


「情報は、空白を埋めるためにあるんじゃない」


 半兵衛が見る。


「判断を間違えないためにある」


 宗一郎は未確認の欄へ、その情報を置いた。


     ◆


 その夜。


 武田軍は甲斐へ向かっていた。


 高坂昌信は馬上から後方を見る。


 敗軍。


 だが。


 旗はまだある。


 兵もいる。


 そして、武田家の将たちも残っている。


「高坂殿」


 伝令が来た。


「何だ」


「織田軍が追っているという話があります」


「どこから聞いた?」


「村人からです」


「別の村では?」


「追っていないという話も」


 高坂は目を細めた。


「他には?」


「織田の一隊が北へ向かったという話も」


「……三つか」


 高坂はしばらく考えた。


「全部記録しておけ」


「全部?」


「ああ」


 高坂は前を向く。


「戦場で怖いのは、間違った情報そのものではない」


「では?」


「間違った情報を、本当だと思い込むことだ」


 その言葉は。


 奇しくも宗一郎と同じだった。


 誰も知らない。


 敵同士でありながら。


 二人の考え方が、少しずつ似始めていることを。


     ◆


 そして。


 甲斐へ向かう武田軍の中央。


 信玄の輿は、固く閉じられていた。


 中から声はしない。


 周囲には側近だけ。


 誰も、余計なことを口にしない。


 やがて。


 輿の中から、かすかな声がした。


「……止めるな」


 側近が顔を上げる。


「御屋形様?」


「進め」


 短い言葉。


 その直後。


 輿の中で、信玄は胸を押さえた。


 激しい痛み。


 息が詰まる。


 そして。


 口元を押さえた手に、赤いものが滲んだ。


「……」


 信玄は、それを見た。


 誰にも見せない。


 紙で拭う。


 握り潰す。


 そして。


「誰にも言うな」


 側近は震える声で答えた。


「……はっ」


 信玄は目を閉じた。


 戦には負けた。


 だが。


 武田家はまだ終わっていない。


 ならば。


 自分もまだ倒れるわけにはいかない。


 信玄はそう思った。


 しかし。


 自らの身体が。


 自分の思うようには動かなくなりつつあることを。


 この時すでに、信玄自身が理解していた。


     ◆


 翌朝。


 高槻陣。


 宗一郎は一枚の報告書を受け取った。


『武田軍、甲斐方面へ撤退』


 その下に。


 小さく書かれている。


『信玄の動静、不明』


 宗一郎はしばらく、その文字を見つめていた。


 そして。


 地図の東側へ目を移す。


 武田。


 徳川。


 織田。


 そして。


 越前。


 戦場は一つではない。


 武田との戦が終わったことで、むしろ見えてきた。


 誰かが戦を利用している。


 誰かが情報を流している。


 そして。


 誰かが次の戦場を準備している。


 宗一郎は静かに呟いた。


「武田は、これで終わらない」


 半兵衛が答える。


「はい」


「徳川も」


「はい」


 宗一郎は越前の方角を見る。


「……そして、越前も」


 その時。


 別の伝令が駆け込んできた。


「殿!」


「どうした?」


「越前からです!」


 宗一郎が振り返る。


「朝倉の旧臣と思われる者たちが、一向宗の寺に集まり始めています」


 宗一郎の目が細くなった。


「数は?」


「まだ不明です」


「旗は?」


「確認できていません」


 宗一郎は一瞬だけ黙った。


 そして。


「調べろ」


「はっ」


「ただし、寺を敵と決めつけるな」


 半兵衛が頷く。


「いつものように」


「事実と推測を分ける」


 宗一郎は地図を見た。


 東では武田。


 南では徳川。


 そして北では越前。


 戦場は、確かに見えないところへ広がっている。


 宗一郎は筆を置いた。


「武田との戦は終わった」


 そして。


「だが、戦国そのものは一歩も終わっていない」


 朝靄の向こう。


 越前の山々が、静かに霞んでいた。


 その山のどこかで。


 朝倉の旗を再び掲げようとする者たちがいる。


 そして、その旗の下には。


 すでに別の旗を持つ者たちが集まり始めていた。


 宗一郎は、まだ知らない。


 次の敵が。


 武田とはまったく違う形で姿を現そうとしていることを。

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