第五十八章 戦のあとに残るもの
第五十八章 戦のあとに残るもの
武田の旗が、山の向こうへ消えていった。
それを見届けても、織田の兵たちは動かなかった。
勝鬨もない。
追撃の喚声もない。
ただ、風に揺れる旗と、遠くで鳴る馬の蹄だけが残っていた。
戦場には、まだ武田の兵がいる。
負傷して動けなくなった者。
倒れた馬。
折れた槍。
泥に埋まった旗指物。
そして、敵味方の区別さえつかなくなった死体。
戦が終わったからといって、それらが消えるわけではない。
「……終わった、のか」
丹羽長秀が、低く呟いた。
隣にいた滝川一益が、武田が消えた山道を見つめる。
「今日の戦は、な」
「そういうことだ」
長秀は短く答えた。
勝った。
それは間違いない。
武田は退いた。
しかも、ただ逃げたのではない。
山県昌景が前を固め、馬場信春が西側を押さえ、内藤昌豊が中央後方をまとめ、穴山信君が東側の兵を整理し、高坂昌信が退路と伝令を繋いだ。
その退却は、見事だった。
織田軍が追えば、逆に牙を剥かれる。
だからこそ、宗一郎は追わなかった。
「勝った……」
滝川がもう一度呟く。
だが、その声には喜びよりも、警戒が混じっていた。
「それでも、あれだけの軍が残っている」
長秀が答える。
「武田は、まだ武田だ」
二人は、それ以上言わなかった。
◆
「追わないのか!」
柴田勝家が、宗一郎のところまで戻ってきた。
鎧には泥が付き、肩には浅い傷が走っている。
それでも、その目はまだ戦場を睨んでいた。
「追いません」
「……分かっている。分かっているがな」
勝家は苛立たしげに息を吐いた。
「目の前まで来ているんだぞ」
「だからです」
宗一郎は地図から目を上げた。
「山を越えれば、こちらからは敵の動きが見えなくなります」
「それがどうした」
「武田の後衛には、誰がいると思います?」
「山県、馬場、内藤……」
勝家の言葉が止まった。
宗一郎は頷く。
「その三人を相手に、こちらが疲れた兵を突っ込ませる必要はありません」
「……高坂もいる」
「はい」
滝川が続けた。
「退路の整理は高坂昌信でしょうな。あれだけ伝令が切れずに動いていた」
「つまり、武田は逃げながら戦える」
宗一郎は地図を畳んだ。
「なら、追撃で勝つ必要はない」
勝家は黙った。
しばらくして、ふっと鼻から息を吐く。
「……面白くない勝ち方だ」
「戦場で面白さを求めたら、兵が死にます」
「違いない」
勝家は苦笑した。
「だがな、宗一郎」
「はい」
「次に会った時は、今日のように簡単にはいかんぞ」
宗一郎は、その言葉に笑わなかった。
「俺も、そう思っています」
◆
戦場の後方では、別の戦いが始まっていた。
「弾薬を確認!」
「第一砲、破損箇所を確認しろ!」
「負傷者は北側へ!」
「まだ動ける者は武器を拾うな! まず負傷者を運べ!」
高槻の兵たちが走り回っている。
戦が終わった直後こそ、最も混乱する。
興奮した兵が勝手に動けば、負傷者の搬送が滞る。
敵の死体を漁る者が出れば、次の命令が届かなくなる。
武器を拾い集めようとすれば、足元の負傷兵を踏みかねない。
だから宗一郎は、戦闘終了の命令と同時に、後始末の手順を決めていた。
「負傷者を最優先」
それが第一だった。
「敵兵であっても、動ける者は拘束。重傷者は治療」
第二。
「武器と旗、文書は別に集める」
第三。
「弾薬は最後まで数える」
第四。
戦場では、勝った側が何でも手に入れられるわけではない。
むしろ、勝った直後こそ、自軍の損失を正確に知る必要がある。
「宗一郎様!」
与吉が走ってきた。
顔には煤が付いている。
髪にも泥が入り込んでいた。
だが、何より気になったのは、その右腕だった。
包帯が巻かれている。
「腕、どうした?」
「砲の近くで飛んできた土が当たっただけです」
「本当にそれだけか?」
「はい」
与吉は答えたあと、少しだけ視線を逸らした。
「……少し、耳が痛いですが」
「それは少しじゃないだろ」
宗一郎はため息をついた。
「医者に見せろ」
「でも、大砲の――」
「見せろ」
「……はい」
与吉は渋々頷いた。
そして、少し間を置いてから言った。
「砲そのものは、使えました」
「どうだった?」
「狙った場所には当たりました。ただ……」
「ただ?」
「一発撃つたびに、周りの兵が驚きます」
宗一郎は苦笑した。
「そこか」
「それだけじゃありません」
与吉の顔が真剣になる。
「砲身が熱くなります。装填にも時間がかかる。移動させるにも人手がいる。土塁を壊すには強い。でも、人を狙う武器として使うには……効率が悪いです」
宗一郎は頷いた。
「それでいい」
「……いい?」
「最初から万能兵器なんて作れるわけがない」
宗一郎は砲を振り返った。
そこには、土と煙にまみれた大筒が残っている。
「今日の砲は、武田の兵を大量に殺すために使ったんじゃない」
「……はい」
「武田に『そこへ行くな』と思わせるために使った」
与吉が目を見開いた。
「戦場では、敵を殺すより、敵の選択肢を減らす方が大事な場合がある」
宗一郎は砲を見つめた。
「だから、今日の砲は成功だ」
与吉は黙っていた。
しばらくして、頭を下げる。
「……次は、もっと良いものを作ります」
「いや」
宗一郎は首を振った。
「まず今日の失敗を書け」
「失敗を?」
「全部だ」
砲身の熱。
装填時間。
移動の難しさ。
射撃時の混乱。
負傷者。
故障。
弾薬。
何が良くて、何が悪かったのか。
「成功した部分だけ残したら、次も同じ失敗をする」
与吉は静かに頷いた。
「……分かりました」
◆
少し離れたところで、羽柴秀吉がそれを見ていた。
「変わったお方だな」
隣の半兵衛が答える。
「何がです?」
「勝ったのに、勝った話をせん」
秀吉は戦場を見渡した。
「普通なら、今ごろ酒でも欲しがるところだ」
半兵衛は小さく笑った。
「宗一郎殿にとっては、戦そのものが目的ではありませんから」
「目的じゃない?」
「ええ」
半兵衛は答えた。
「戦を終わらせるために、戦をしている」
秀吉はしばらく黙っていた。
「……難儀な考え方だ」
「そうでしょうな」
「だが」
秀吉は武田の消えた方向を見る。
「今日のところは、それで勝った」
半兵衛も答えなかった。
ただ、その目には別の思いがあった。
今日の勝利は、宗一郎一人の策ではない。
弾薬を運ぶ者。
負傷者を運ぶ者。
伝令を繋ぐ者。
旗を見て動く兵。
射撃を交代する兵。
敵の動きを見て報告する者。
その全てが、繋がっていた。
宗一郎がいなくても動く軍。
それを作ろうとしている。
半兵衛は、それが宗一郎の本当の狙いなのだと改めて理解した。
◆
夕暮れ。
織田本陣。
信長は地図の前に座っていた。
森蘭丸が、その横に立っている。
「信長様」
「何だ」
「勝ったのに、どうして誰も喜ばないのでしょうか」
信長は蘭丸を見る。
「喜んでいる」
「そうは見えません」
「兵は疲れている」
信長は答えた。
「戦で人が死ぬということは、自分の側でも人が死んだということだ」
蘭丸は黙った。
「勝ったからといって、死んだ者が戻るわけではない」
「……はい」
「それに」
信長は地図に目を落とした。
「武田が消えたわけでもない」
蘭丸は少し驚いた顔をした。
「でも、武田は逃げました」
「退いたのだ」
「逃げるのと違うのですか?」
「違う」
信長は地図の上を指でなぞった。
「見ろ」
そこには武田の撤退路が記されている。
「旗が乱れていない」
「……」
「後方が崩れていない」
「……はい」
「負傷者を置き去りにしている数も少ない」
蘭丸は目を凝らした。
「では……武田は、負けていない?」
信長は少しだけ笑った。
「いや」
その声は静かだった。
「負けた」
「え?」
「戦には負けた。だが、軍そのものは残した」
信長は顔を上げた。
「だから、次がある」
◆
「信長様」
宗一郎が本陣へ入ってきた。
泥だらけだった。
鎧にも血が付いている。
その血が自分のものか、敵のものか、もう本人にも分からない。
「ご苦労だった」
「ありがとうございます」
「どう見る?」
宗一郎は一瞬考えた。
「勝ちました」
「それだけか?」
「いえ」
宗一郎は地図の前に立った。
「武田軍は、今日の戦場では負けました。でも、武田そのものは負けていません」
信長は頷く。
「続けろ」
「今日、武田に見せたのは、銃や大砲だけじゃない」
宗一郎は指を置いた。
「兵站です」
次に別の場所。
「伝令です」
そして別の場所。
「射撃の交代です」
さらに別の場所。
「負傷者の搬送です」
「そして?」
「指揮官が一人欠けても、部隊が止まらなかったことです」
信長の目が細くなる。
「……なるほど」
「武田は、俺たちが何を持っているかを見た」
宗一郎は静かに言った。
「でも、本当に警戒すべきなのは、何を持っているかじゃない」
「何をするか、か」
「はい」
信長は笑った。
「お前らしい」
だが宗一郎は笑わなかった。
「信長様」
「何だ」
「武田は、次から変えてきます」
「だろうな」
「大砲を警戒するでしょう。銃も警戒する。なら、その次は――」
宗一郎は地図の上を指した。
「俺たちが戦う前に、戦場を変えようとする」
信長の表情から笑みが消えた。
「兵站を狙う」
「はい」
「伝令を切る」
「はい」
「偽情報を流す」
「その可能性があります」
「高槻の施設も狙われるか」
「……狙われるでしょう」
しばらく沈黙が続いた。
信長はやがて言った。
「面白くなってきたな」
「俺は、面白くないです」
「何故だ」
「戦場で会うなら、まだ分かりやすい」
宗一郎は苦笑した。
「見えない敵は、兵より厄介です」
信長はその言葉を聞き、少しだけ考えた。
「ならば」
信長が言う。
「見えるようにすればよい」
「……簡単に言いますね」
「簡単ではない」
信長は地図を叩いた。
「だから、お前に任せる」
宗一郎はため息をついた。
「やっぱり、そうなりますよね」
◆
一方。
武田本陣。
誰も口を開かなかった。
戦場から戻った兵たちは、疲れ切っていた。
馬を降りることすらできない者もいる。
負傷者は後方へ運ばれていく。
だが、将たちは休めなかった。
山県昌景。
内藤昌豊。
馬場信春。
穴山信君。
高坂昌信。
そして、総大将――武田信玄。
信玄は天幕の中で座っていた。
顔色は悪い。
額には汗が浮かんでいる。
だが、その目だけは鋭かった。
「報告を」
内藤が口を開く。
「原昌胤、戦死」
信玄は目を閉じた。
「土屋昌続も戦死」
沈黙。
「その他、死傷者多数。ただし、主力は維持」
「山県」
「はい」
「どうだ」
山県昌景は腕を組んだ。
「織田は、以前とは違います」
誰も異論を唱えなかった。
「銃の数だけではありません」
山県は続ける。
「撃ち方が揃っている」
「……」
「弾薬の補給が止まらない。前線の兵が撃ち続けられる」
内藤が続けた。
「しかも、前の兵が疲れれば後ろが出る。負傷兵が道を塞がない」
馬場が低く言った。
「つまり、兵が一人一人強くなったのではない」
「軍全体が変わった」
高坂昌信が答えた。
「そういうことです」
信玄は目を細めた。
「高槻か」
「はい」
その名が出た瞬間、天幕の空気が変わった。
「高槻宗一郎一人を討てば終わる」
穴山信君が言った。
だが、山県は首を振った。
「本当にそうでしょうか」
「何?」
「今日、高槻殿が倒れていたとしても、織田軍は止まらなかったでしょう」
山県は冷静だった。
「伝令がいる。旗がある。各隊に判断できる将がいる。兵站がある」
「……」
「高槻が作ったものは、もう高槻だけのものではありません」
信玄は黙って聞いていた。
やがて、小さく笑った。
「なるほど」
その声には、敗北の悔しさだけではないものがあった。
「一人の才ではないか」
「はい」
「ならば、厄介だな」
◆
その時だった。
「御屋形様」
高坂が近づいた。
「何だ」
「先ほどから、咳が」
「構わん」
「しかし――」
「構わんと言った」
信玄は立ち上がろうとした。
だが。
一歩。
二歩。
三歩。
そこで足が止まった。
胸の奥に、鋭い痛みが走った。
「……っ」
信玄の手が胸元を掴む。
「御屋形様!」
高坂が支えた。
「触るな」
「ですが」
「大丈夫だ」
信玄はそう言った。
だが、その直後。
「ごほっ……」
咳が出た。
一度。
二度。
三度。
そして、手布に赤いものが付いた。
天幕の中が凍りつく。
信玄はそれを見た。
しばらく黙っている。
「……見なかったことにせよ」
誰も答えられない。
「昌景」
「はい」
「軍を休ませろ」
「御屋形様自身も休まれるべきです」
「私は後だ」
「しかし――」
「武田の軍が戻っている」
信玄は言った。
「まず、それを整えろ」
山県は反論しなかった。
ただ、信玄を見つめた。
今日の戦で、武田軍は敗れた。
だが。
この男が戦場から消えれば。
武田そのものの形まで変わる可能性がある。
それを、この場にいる全員が感じていた。
◆
夜。
織田軍の陣では、ようやく火が落ち着き始めていた。
兵たちは眠る。
負傷者は治療を受ける。
死者の名が書き留められる。
戦場の喧騒が消えると、不思議なほど静かだった。
宗一郎は一人、天幕の外に立っていた。
空を見上げる。
星が出ている。
「……史実と違う」
誰にも聞こえない声で呟く。
知っている未来では。
武田は、もっと別の道を進む。
だが、この世界では違う。
朝倉は滅びた。
浅井長政は生きている。
徳川は孤立している。
そして今。
武田信玄が、戦場から退いた。
歴史はもう、とっくに元の道を外れている。
「俺が知っている未来は……」
宗一郎は目を閉じる。
「答えじゃない」
風が吹く。
「警告だ」
その言葉を、誰かが聞いていた。
少し離れた暗がり。
兵ではない。
武将でもない。
ただの旅装束の男が、織田陣を遠くから見ていた。
男はしばらく陣を見つめると、静かに踵を返した。
手には何もない。
武器もない。
ただ、見たことを覚えている。
何時に火が減ったか。
どこに兵が集まっているか。
どこから負傷者が運ばれたか。
そして――
誰が夜になっても眠らず、天幕の外に立っていたか。
男は闇の中へ消えた。
まだ誰も、その存在には気づいていなかった。
戦場が終わった夜。
別の戦いが、静かに始まっていた。




